明治時代の広島⑥ 明治新政府を震撼させた「武一騒動」はなぜ発生したのか(下)
慶応4年(明治元年)に戊辰戦争が終結した。と同時に、薩長による明治新政府が立ち上がったと、誤解している人がじつに多い。
会津攻めは、薩土の二つの軍隊が「官軍」と称して約3000人で攻めた。このときの指揮官が板垣退助、伊地知正治である。
会津藩は早々と籠城(ろうじょう)作戦をとった。
1か月ほど包囲しているうちに、全国の緒隊が新政府「官軍」が有利とばかりに会津に集まってきた。その兵の数は3万人にも及んだ。
会津が白旗を上げると、「官軍」はその場で解散してしまった。薩摩、土佐、長州の藩兵など、全軍はさっさと帰藩していったのだ。
西郷隆盛もそのひとりだった。
新政府は兵を養う財源がないし、「官軍」の解散を止めようにも止められなかったのだ。諸藩の藩兵は、国許から扶持(給料)が出てくるから、当然といえば、当然である。
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これでは戊辰戦争が終っても、幕藩体制とおなじ図式だった。幕末史のなかで、この認識がとても重要である。
くり返すが、戊辰戦争、箱館戦争が終わっても、薩長閥の明治政府ではなかった。
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すると、明治新政府はだれが政権を運営していたのか。
新政府の頂点は公卿と強力な大名である。しかし、かれらには実務力がない。そこで、全国諸藩から優秀な藩士を引きぬいて、明治政府(東京)に出仕させたのだ。
大隈重信、大久保利通、木戸孝允など、かれらは名高い徴士(述べ123人)であるが、給料は自藩からもらっていた。まさに、「宮仕え」の身だった。だから、藩の代表者的な対立も数多くあった。
かれらは曲がりなりにも租税、貨幣、外国との交渉などに携わっていた。
大蔵、外務、兵部などの大臣は公卿や大名である。これは飾り物に等しかった。徴士は実務最高ポストである次官や局長クラスに座った。
現在でいう財務省の主計局長は、薩長土肥から選ばれた徴士である。財政・金融の実権を握った。
かれらの部下となると、課長以下は実務に精通した旧幕臣時代のエリート官吏たちだった。旧幕臣たちは家族を養うために、新政府に雇われたのである。
これが各省庁の配置図だった。つまり、公卿(大名)、徴士、旧幕臣で、明治の御一新政治を行っていたのである。
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新政府は当初から財源確保に苦しんだ。
大蔵省の徴士と出仕した由利公正(ゆりきみまさ)(福井藩)が、やみくもに紙幣の「太政官札」を増刷するから、物価高騰である。
御一新政治になっても、庶民は生活はひとつも豊かにならなかった。新政府への不満は拡大し、農民一揆まで起きはじめていた。(徴士は明治2年6月27日の「達」で、表向きは廃止。かれらは高官として政治に関与した。ここでは、以降も徴士として表現します)
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「このさいだ、新政府の財源確保のために、家康の再来といわれた慶喜がやったことと同じことを、すべての藩にやらせよう。大政奉還とおなじ版籍奉還をやろう。名案だろう。まずは毛利家(長州)、島津家(長州)、山内家(土佐)の3藩が率先してやる」
これは木戸孝允の発案だろう。
「このさいだ、鍋島家(肥前)も入れてみよう」
新政府は天下の知恵者ぞろいだ。薩摩藩の寺島宗則、大久保利通、長州藩の木戸孝允、土佐藩の板垣退助、肥前藩の大隈重信、副島種臣たちである。
「全国の土地と人民は天皇のものです」
薩長土肥の徴士(ちょうし)が率先して、自藩の殿さまを説得してまわった。
「いったん返上された土地や人民は、新政府から再交付される予定です」
と、予定とは嘘も方便、大名たちに期待もしくは誤解させたのだ。
そして、版(土地)と籍(人民)を天皇に返させたのである。
『王政復古の大号令』という大義名分を利用して、こうして口先ひとつで、律令時代のように天皇を使い、日本中の土地財産を手に入れたのだ。
302藩の藩主は、知藩事という地方行政官になった。お殿さま時代の世襲制が禁じられた。この版籍奉還の成功で、藩主たちの権力が一気に薄められてしまったのだ。
徴士(ちょうし)たちは全国からあつめられた知恵者ぞろいだ。もう次の手を考えている。
「日本を一つにした統一国家をつくろう。これは生きるか、死ぬか、どちらかひとつだ」
木戸孝允の邸宅で、緊迫した密議がはじまった。
「この際、藩をやめて県を置こう。廃藩置県だ。中央管下の府県を一本化する」
「天皇を利用しよう」
「それが良い。勅書で応じなければ、一万人の軍隊をもって大名の首を刎(は)ねよう」
西郷隆盛は、戦争とならば、勇み立つ。
「武士階級は日本の全人口の5%だ。しかし、扶持(給与)を計算してみると、国家財政の4割近くをうけとっている。これが問題だ。このさいだ、武力解除、つまり武士階級をなくそう」
これも木戸孝允の案だった。
「武士がいなくなって、国を守る軍隊はどうする?」
「国民をつかえば無料だ。必要なときに徴兵すればよい。武士のように固定すると、高いものにつく。全国の武士をいちどすべて解雇する」
その上で、20歳以上の成年男子を徴兵検査する。合格したものを招集すれば、安くつく。三度の飯と制服を貸与すれば、それでよいのだから。
知恵者はなおも考える。
「いっそう、武士階級と同様に、元大名もクビにしてしまう。知藩事には甘い餌(えさ)を与えれば、ぱくりと食らいつく」
徴士は半分、無責任だ。他人事である。失敗すれば、辞表を出し、出仕を止めて国許に帰ればよいのだから。
歴史には登場しない、辞表を出した徴士は数限りなくいる。
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知藩事たちは、いずこも戊辰戦争の出費で疲弊していた。その上、一昨年の大凶作で、藩財政は大きな赤字だった。破綻も同然だ。
「ここは好機到来だ。甘い条件をやたら並べよう。飛びつくように」
成功したから歴史学者たちに称賛されているが、一般には「悪知恵」といわれる類のものだった。
① 藩知事は藩士への家禄支給の義務がなくてもよい。
② 藩財政の大赤字は明治新政府が代行する。
③ 藩収入の1割を永年で支給する。
④ 藩知事は東京に移住する。
⑤ 藩札は、当日の相場で、新政府の紙幣と交換する。
⑥ 天皇の詔書で、すべての知藩事は失職する。
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抵抗する知藩事、藩にたいしては、薩長土三藩出身の強大な親兵をもって鎮圧する。
実行する徴士たちは、この段階まで、まだ薩長土肥の下級武士の身分だった。これに成功すれば、下剋上で、クーデターの成功になり、明治政府の頂点に立てる。
全国統一の為政者になれるのだ。緊張感に満ちているが、まさに一か八だった。
明治4(1871)年7月14日年8月29日14時、在東京の知藩事を皇居にあつめて、明治天皇が詔書を読み上げる。廃藩置県を命じるものだった。 楯(たて)突く知藩事はいなかった。
むしろ、知藩事は(元大名)は、藩の借金苦から解放されたうえ、特別に優遇されたことから、無抵抗で廃藩置県に応じたのである。そこにはしわ寄せが民に及ぶという、在民思想など微塵(みじん)もなかった。
中央政府から県令(現在の県知事)が、302県すべてに派遣された。ここにおいて下級藩士(徴士)たちのクーデターが成功したのである。
1000余年つづいてきた武士統治が、完全に消えた。
封建制度の崩壊の速さは、全世界をおどろかせたのだ。
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明治4年7月14日の廃藩置県で、広島藩から広島県に変わった。知藩事の浅野長勲は罷免されて、東京移住となった。すでに東京にいた。
広島県知事(大参事)に内定していたのは、土佐出身の河野敏鎌(こおの とがま)であった。
同年8月4日、浅野家の長訓一行が広島から海路で東京に向かう予定だった。
「お殿さま、お止め申す…お止め申す」
群衆が大声で口々に叫んだ。
広島領内の「武一騒動」は、明治4年 10 月の鎮静(ちんせい)化した。逮捕者は 573 名に達した。
首謀者(しゅぼうしゃ)として、北広島町(旧千代田町)有田村の山縣武一(寺子屋を開き石門心学を教えていた)が、一揆の責任者として逮捕された。そして、48 歳の若きで、梟首(きゅうしゅ)にされた。武一のほか 8 名が死刑となった。
かれが首謀者にされた理由として、武一が同年 8 月 11 日に提出した「御藩内十六郡百姓共」の名による嘆願(たんがん)書の起草者だったという。
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この「武一騒動」は中国地方・四国地方にまで「一揆」として影響を及ぼした。
明治新政府のトップに立てた薩長土肥の徴士たちはクーデターが成功した、と思った直後に起きた民衆の「武一騒動」だった。
優秀な徴士たちは、これは一過性の騒動でなく、反政府運動として震撼したのだ。
かれらは廃藩置県で武士階級をなくし、国民徴兵制を導入する。「戸長制度」の充実で徴兵検査・徴兵出征がスムーズに行くとストーリーを描いていたのだ。
大名クラスはまんまと排除できた。ところが、武士階級にも及ばない農民階級が、反政府運動に及んだ。政権トップに立った徴士には、民衆というとてつもない敵ができたのだ。
徴兵制度が発表されると、大規模な血税一揆となった。
「人間の血が奪われる」。これはまさに武一騒動の流言と同じだった。
この民衆運動に、「武士を解雇して、百姓に鉄砲をもたせる。とんでもない新政府だ」と、徴兵制を反対する職を失った元武士の士族階級が結びついたのだ。そして、大規模な士族の乱に及んだ。
萩の乱、佐賀の乱、西南戦争へと、徴士たちの自国のひざ元で大きな反乱が起きてしまった。武力鎮圧に労した。
「武一騒動」は民が戦う、という全国規模の自由民権運動に発展していくのである。
廃藩置県をもって幕藩体制が終結したけれど、同時に起きた「武一騒動によって、わが国の民衆運動の発端になったのである。
これは歴史的事実である。
【了】