歴史の旅・真実とロマンをもとめて

明治時代の広島⑥ 明治新政府を震撼させた「武一騒動」はなぜ発生したのか(下)

 慶応4年(明治元年)に戊辰戦争が終結した。と同時に、薩長による明治新政府が立ち上がったと、誤解している人がじつに多い。

 会津攻めは、薩土の二つの軍隊が「官軍」と称して約3000人で攻めた。このときの指揮官が板垣退助、伊地知正治である。
 会津藩は早々と籠城(ろうじょう)作戦をとった。


 1か月ほど包囲しているうちに、全国の緒隊が新政府「官軍」が有利とばかりに会津に集まってきた。その兵の数は3万人にも及んだ。

 会津が白旗を上げると、「官軍」はその場で解散してしまった。薩摩、土佐、長州の藩兵など、全軍はさっさと帰藩していったのだ。
 西郷隆盛もそのひとりだった。

 新政府は兵を養う財源がないし、「官軍」の解散を止めようにも止められなかったのだ。諸藩の藩兵は、国許から扶持(給料)が出てくるから、当然といえば、当然である。

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 これでは戊辰戦争が終っても、幕藩体制とおなじ図式だった。幕末史のなかで、この認識がとても重要である。
 くり返すが、戊辰戦争、箱館戦争が終わっても、薩長閥の明治政府ではなかった。
 
           *                

 すると、明治新政府はだれが政権を運営していたのか。

 新政府の頂点は公卿と強力な大名である。しかし、かれらには実務力がない。そこで、全国諸藩から優秀な藩士を引きぬいて、明治政府(東京)に出仕させたのだ。
 大隈重信、大久保利通、木戸孝允など、かれらは名高い徴士(述べ123人)であるが、給料は自藩からもらっていた。まさに、「宮仕え」の身だった。だから、藩の代表者的な対立も数多くあった。
 かれらは曲がりなりにも租税、貨幣、外国との交渉などに携わっていた。

 大蔵、外務、兵部などの大臣は公卿や大名である。これは飾り物に等しかった。徴士は実務最高ポストである次官や局長クラスに座った。
 現在でいう財務省の主計局長は、薩長土肥から選ばれた徴士である。財政・金融の実権を握った。
 かれらの部下となると、課長以下は実務に精通した旧幕臣時代のエリート官吏たちだった。旧幕臣たちは家族を養うために、新政府に雇われたのである。
 これが各省庁の配置図だった。つまり、公卿(大名)、徴士、旧幕臣で、明治の御一新政治を行っていたのである。
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 新政府は当初から財源確保に苦しんだ。
 大蔵省の徴士と出仕した由利公正(ゆりきみまさ)(福井藩)が、やみくもに紙幣の「太政官札」を増刷するから、物価高騰である。
 御一新政治になっても、庶民は生活はひとつも豊かにならなかった。新政府への不満は拡大し、農民一揆まで起きはじめていた。(徴士は明治2年6月27日の「達」で、表向きは廃止。かれらは高官として政治に関与した。ここでは、以降も徴士として表現します)

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「このさいだ、新政府の財源確保のために、家康の再来といわれた慶喜がやったことと同じことを、すべての藩にやらせよう。大政奉還とおなじ版籍奉還をやろう。名案だろう。まずは毛利家(長州)、島津家(長州)、山内家(土佐)の3藩が率先してやる」
 これは木戸孝允の発案だろう。
「このさいだ、鍋島家(肥前)も入れてみよう」
 新政府は天下の知恵者ぞろいだ。薩摩藩の寺島宗則、大久保利通、長州藩の木戸孝允、土佐藩の板垣退助、肥前藩の大隈重信、副島種臣たちである。


「全国の土地と人民は天皇のものです」
 薩長土肥の徴士(ちょうし)が率先して、自藩の殿さまを説得してまわった。
「いったん返上された土地や人民は、新政府から再交付される予定です」
 と、予定とは嘘も方便、大名たちに期待もしくは誤解させたのだ。
 そして、版(土地)と籍(人民)を天皇に返させたのである。
 『王政復古の大号令』という大義名分を利用して、こうして口先ひとつで、律令時代のように天皇を使い、日本中の土地財産を手に入れたのだ。            

 302藩の藩主は、知藩事という地方行政官になった。お殿さま時代の世襲制が禁じられた。この版籍奉還の成功で、藩主たちの権力が一気に薄められてしまったのだ。
 
 徴士(ちょうし)たちは全国からあつめられた知恵者ぞろいだ。もう次の手を考えている。


 
「日本を一つにした統一国家をつくろう。これは生きるか、死ぬか、どちらかひとつだ」
 木戸孝允の邸宅で、緊迫した密議がはじまった。
「この際、藩をやめて県を置こう。廃藩置県だ。中央管下の府県を一本化する」
「天皇を利用しよう」
「それが良い。勅書で応じなければ、一万人の軍隊をもって大名の首を刎(は)ねよう」
 西郷隆盛は、戦争とならば、勇み立つ。

「武士階級は日本の全人口の5%だ。しかし、扶持(給与)を計算してみると、国家財政の4割近くをうけとっている。これが問題だ。このさいだ、武力解除、つまり武士階級をなくそう」
 これも木戸孝允の案だった。
「武士がいなくなって、国を守る軍隊はどうする?」
「国民をつかえば無料だ。必要なときに徴兵すればよい。武士のように固定すると、高いものにつく。全国の武士をいちどすべて解雇する」
 その上で、20歳以上の成年男子を徴兵検査する。合格したものを招集すれば、安くつく。三度の飯と制服を貸与すれば、それでよいのだから。

 知恵者はなおも考える。
「いっそう、武士階級と同様に、元大名もクビにしてしまう。知藩事には甘い餌(えさ)を与えれば、ぱくりと食らいつく」
 徴士は半分、無責任だ。他人事である。失敗すれば、辞表を出し、出仕を止めて国許に帰ればよいのだから。
 歴史には登場しない、辞表を出した徴士は数限りなくいる。

          *

 知藩事たちは、いずこも戊辰戦争の出費で疲弊していた。その上、一昨年の大凶作で、藩財政は大きな赤字だった。破綻も同然だ。
「ここは好機到来だ。甘い条件をやたら並べよう。飛びつくように」
 成功したから歴史学者たちに称賛されているが、一般には「悪知恵」といわれる類のものだった。

① 藩知事は藩士への家禄支給の義務がなくてもよい。

② 藩財政の大赤字は明治新政府が代行する。

③ 藩収入の1割を永年で支給する。

④ 藩知事は東京に移住する。

⑤ 藩札は、当日の相場で、新政府の紙幣と交換する。

⑥ 天皇の詔書で、すべての知藩事は失職する。
         
            *

 抵抗する知藩事、藩にたいしては、薩長土三藩出身の強大な親兵をもって鎮圧する。

 実行する徴士たちは、この段階まで、まだ薩長土肥の下級武士の身分だった。これに成功すれば、下剋上で、クーデターの成功になり、明治政府の頂点に立てる。
 全国統一の為政者になれるのだ。緊張感に満ちているが、まさに一か八だった。

聖徳記念絵画館壁画 「廃藩置県」 小堀鞆音画

 明治4(1871)年7月14日年8月29日14時、在東京の知藩事を皇居にあつめて、明治天皇が詔書を読み上げる。廃藩置県を命じるものだった。 楯(たて)突く知藩事はいなかった。

 むしろ、知藩事は(元大名)は、藩の借金苦から解放されたうえ、特別に優遇されたことから、無抵抗で廃藩置県に応じたのである。そこにはしわ寄せが民に及ぶという、在民思想など微塵(みじん)もなかった。

 中央政府から県令(現在の県知事)が、302県すべてに派遣された。ここにおいて下級藩士(徴士)たちのクーデターが成功したのである。
 1000余年つづいてきた武士統治が、完全に消えた。
 封建制度の崩壊の速さは、全世界をおどろかせたのだ。

            * 
 
 明治4年7月14日の廃藩置県で、広島藩から広島県に変わった。知藩事の浅野長勲は罷免されて、東京移住となった。すでに東京にいた。
 広島県知事(大参事)に内定していたのは、土佐出身の河野敏鎌(こおの とがま)であった。

 同年8月4日、浅野家の長訓一行が広島から海路で東京に向かう予定だった。

「お殿さま、お止め申す…お止め申す」
 群衆が大声で口々に叫んだ。

 広島領内の「武一騒動」は、明治4年 10 月の鎮静(ちんせい)化した。逮捕者は 573 名に達した。
 首謀者(しゅぼうしゃ)として、北広島町(旧千代田町)有田村の山縣武一(寺子屋を開き石門心学を教えていた)が、一揆の責任者として逮捕された。そして、48 歳の若きで、梟首(きゅうしゅ)にされた。武一のほか 8 名が死刑となった。

 かれが首謀者にされた理由として、武一が同年 8 月 11 日に提出した「御藩内十六郡百姓共」の名による嘆願(たんがん)書の起草者だったという。

           *

 この「武一騒動」は中国地方・四国地方にまで「一揆」として影響を及ぼした。
 
 明治新政府のトップに立てた薩長土肥の徴士たちはクーデターが成功した、と思った直後に起きた民衆の「武一騒動」だった。
 優秀な徴士たちは、これは一過性の騒動でなく、反政府運動として震撼したのだ。

 かれらは廃藩置県で武士階級をなくし、国民徴兵制を導入する。「戸長制度」の充実で徴兵検査・徴兵出征がスムーズに行くとストーリーを描いていたのだ。
 
 大名クラスはまんまと排除できた。ところが、武士階級にも及ばない農民階級が、反政府運動に及んだ。政権トップに立った徴士には、民衆というとてつもない敵ができたのだ。

 徴兵制度が発表されると、大規模な血税一揆となった。
「人間の血が奪われる」。これはまさに武一騒動の流言と同じだった。

 この民衆運動に、「武士を解雇して、百姓に鉄砲をもたせる。とんでもない新政府だ」と、徴兵制を反対する職を失った元武士の士族階級が結びついたのだ。そして、大規模な士族の乱に及んだ。
 萩の乱、佐賀の乱、西南戦争へと、徴士たちの自国のひざ元で大きな反乱が起きてしまった。武力鎮圧に労した。

「武一騒動」は民が戦う、という全国規模の自由民権運動に発展していくのである。
 
 廃藩置県をもって幕藩体制が終結したけれど、同時に起きた「武一騒動によって、わが国の民衆運動の発端になったのである。
 これは歴史的事実である。
                       【了】

 

【歴史から学ぶ】 明治新政府を震撼させた「武一騒動」はなぜ発生したのか(中)

「殿さまが東京に行くぞ。お引留めせねばならぬ」
 広島城の、竹の丸館から浅野長訓(ながみち)一行が大名カゴで出てきた。
「お止め申す……。お止め申す……」
 庶民の行動が、なぜ巨大な騒動になったのか。

 大きな要因の一つには、倒幕志士たちが徳川政権下で、攘夷思想を煽(あお)り、それが庶民の末端まで浸透していたことにある。

「キリスト教は邪教(じゃきょう)である」
 それが日本人の一般的な考えで、外国人と交わらないというスタンスだった。

           *  

 徳川幕府の下、安政5(1858)年、米艦隊のミシシッピー号の複数の船員が、コレラ患者だった。長崎に上陸した。またたくまに長崎市内の住民に感染し、勢い拡大した。そして、九州地方、中国地方、近畿、京都、さらに江戸城下へと拡大していった。
 「ころっとすぐに死ぬ・ころり(虎列剌)だ」と庶民は恐れ慄いた。

           *

 すさまじい死者を出した江戸の町では、毎日、蔵前通りだけでも250人くらいの葬式の列が通る。火葬場は棺桶があふれた。
江戸と京都を結ぶ東海道だが、上り下りとも人通りが途絶えた。江戸の町、宿場町など、諸国の商いが極端に冷え込んだ。まさに、前代未聞の大惨事であった。


 写真 : 『安政箇労痢流行記』(国立公文書館所蔵)の口絵「荼毘室(やきば)混雑の図」  

 文久2(1862)年にも、ふたたびコロリが大流行したのだ。
「異人が井戸に毒を投げ込んだ」といううわさがひろがった。正確な統計はないが、安政5年、文久2年のコロリの死者は合わせると、江戸だけでも約10万人~30万人、それ以上の記録が残っている。

 日本人は、この病魔を持ち込んだ外国人に恐怖心をもったのだ。

           *

 かたや、開国して以来、物価が高騰し、農民の副収入だった綿糸が輸入品にとって代わり、農民たちの生活がいっそう圧迫されてしまった。
「聖地の日本を犯した異人を排斥すべきだ」
 攘夷派の主張はつよい説得力を持った。
 日本人のほとんどが攘夷運動に賛成だった、と言っても過言ではなかった。と同時に、外国人排他の思想がふかく根を張ってしまったのだ。
            
 まさに、外国人は凶兆(きょうちょう)であり、庶民に災いをおよぼす存在だった。

            *

 幕府が瓦解したあと、明治新政府になっても、一般庶民の攘夷思想が消えておらず、コロリの恐怖も冷めやらず、明治新政府の開化策にたいして、疑問と反発があった。
「おいおい。薩長は攘夷じゃなかったんか。なぜ、開化政策なんじゃ」
 その不信感がつよかった。

 新政府は近代化を急ぐあまり、各省庁で、「お雇い外国人」を数多く雇った。かれら外国人の指導の下、言われるまま、日本の政治が動いているようにみえたのだ。
「太政官は、異人が政事をする取扱い処である」
 この流言は、庶民たちのただの空想ではなかった。

 わが国の政治家たちは、西洋の文化と技術を持ち込んだ「お雇い外国人」に、すべて牛耳(ぎゅうじって)られて、言われるままの下僕に映ったのだ。
「こんど来る県知事は、攘夷とうそを言った奴らだ。国を売った奴らだ。異人の手下だ。ろくなことを考えおらんぞ」

           *
 
 群衆は口々に叫んだ。
「わしら領民はだれが守ってくれるのだ。新政府の県知事か。ちがうだろう。怖い異人から守ってもらえるのは、お殿さまだ、藩主さまだ」
 農民は260年余にわたり、年貢を出す代わりに、身の安全と村の平和を守ってもらっていた。その意味で、武士はありがたい存在だったのだ。

「殿様が、東京に強制的に奪われてしまう。残された、わしら庶民はどうやって自分を守るんだ。領民は、だれが守ってくれるのだ。武士しかいないではないか」 
 各地とも、武士社会をなくす廃藩置県へのつよい反発と抵抗になったのである。
「殿さまは、下々を見捨てた」
 そう叫ぶ者もいた。

                

 「大元師陛下御還幸日比谷原凱旋門図」 楊洲延保/画 江戸東京博物館蔵

 ここで見落としてはならないのが、一か月前の明治4年5月23日に制定された『戸籍法』である。明治新政府が、国民の成人男子を「懲役」にとるために、戸籍を整備した。
 徳川時代は、お寺の人別帳であった。これでは徴兵検査ができないからと、法改正したものだ。

 徳川時代から、年貢は村ごと単位で決められていた。庄屋(名主)がすべてにその責任を持っていた。
 ところが、この法律で名主・庄屋が廃止されたのだ。農民たちは戸惑った。年貢の納め方のかたちが見えなくなってしまったのだ。

 新政府は、新たに村々の庄屋たち6-8人を一つにした戸長(こちょう)・副戸長がおかれた。そして、県庁指導で、大庄屋などから戸長が選ばれていた。
(現在でいえば、集落(郷)単位でなく、大枠の町長や市長の制度がうまれた)
 戸長はあらたな村の支配層となった。

「こやつら戸長は、政府の指示で、娘と牛を徴収して、外国人に引き渡す役だ。まちがいない」
「そうだ。こんどできた戸長は、政府のまわし者だ。わしらの敵じゃ」
 かれらは白い目でみた。
「県の役人と戸長はつるんで、2万円(現在・400万円)がもらえるらしい、東京の政府から」 
 騒動のなかで、戸長制度への不信感が増幅していく。

 8月4日からの騒動が3日、4日とつづくほどに、群衆のなかには竹やり、鉄砲、鎌、鉈(なた)などを凶器をもつ者もいた。
 群集心理が昂じると、暴徒化してしまう。「娘と牛を渡す役だ」とうわさになった戸長たちが狙われたのだ。激昂し暴徒化したかれらは、新政府への手先だと決めつけた戸長宅で、住居や蔵に連続放火した。
 各村々に説諭書を持ってきた県庁の関係者らに、激怒した群衆は竹やりで突き刺し、殺傷した。ついに、各県庁の役人は、新政府に軍隊の出動を要請した。各鎮台(ちんだい・国内の軍事拠点)からやってきた制服軍人が、城下の数万の群衆にたいして解散を叫び、発砲した。
「なんだ、空鉄砲じゃないか。腰抜け軍隊じゃ」
 竹やりや鎌、猟銃をもった群衆が、そのようにあなどった。
「実弾で、殺してもよい」
 戊辰戦争で実戦なれした軍人だから、こちらも気が荒かった。
「武一騒動」はとうとう血で洗う武力闘争に変化していったのだ。広島県から、さらに備中福山県、姫路県、他にも4、5か所でも、軍隊による発砲がおこなわれた。

 徳川時代には『農民は国の宝だ』という認識から、農民一揆に銃の鎮圧は原則・厳禁だった。この武一騒動の明治4年から、県庁側はすぐに鎮台に軍隊出動を要請するかたちが生まれたのである。
 現代の香港問題もそうだが、軍隊の民衆鎮圧は、世界史からみても、決して望ましいものではない。
 武一騒動という幅広い反政府活動が、銃血に染まった惨事になっていくのだ。
                                           【つづく】

    

【歴史から学ぶ】 明治新政府を震撼させた「武一騒動」はなぜ発生したのか(上)

「お殿さま、お止め申す…お止め申す」
 群衆が大声で口々に叫んだ。
 それは広島藩の前藩主・浅野長訓(ながみち)の一行が、東京に向かう日のできごとだった。
「お殿さま、広島を見捨てないでくださいませ」
  かれらは広島城の城門から出てきた長訓の駕籠をとりかこんだ。
 その数は増えるばかり。すぐさま数千人、さらに数万人規模まで膨らんできた。長訓一行が進むにすすめない状態に陥ったのである。

 予定では、広島城の長訓が住んでいた「竹之丸」から、南御門を出て西国街道を西にすすみ、水主町の船着き場から御座船に乗る。そして、宇品沖で停泊する本船に乗り込む。兵庫湊(神戸港)では大型蒸気船を乗り換えて、横浜にむかうものだった。

                 *

 この広島城下の群衆が、明治政府を震撼させる大事件になるとは、この段階で、おそらくだれも想像していなかっただろう。
 県内16郡の庶民にとって、長訓は11代藩主時代に幕末の政治に関与し、頼りになる存在だった。と同時に、民衆想いで好かれていた。
 山県郡、高田郡、佐伯郡を筆頭に、大勢の農民があつまった。当初、純朴に、お世話になった殿さまに、ご餞別を渡したい、という人々が多かった。そうした史料が多い。

 数万人千規模の群衆が、広島の1か所(長勲のカゴ)へと、われ先に、と競うと、異様な雰囲気に陥ってくる。
「いま、ここで群衆を割って、無理して押し進むこともないだろう。出発の日を改めよ」
 人柄のよい長訓は、つきそう供に延期を命じた。

 県庁の役人にすれば、東京の新政府に長訓公の出発日を伝えているから、予定変更は落ち度になると思い、群衆らに帰村を叫びはじめた。
「散れ、散れ。むらに帰れ」
 多勢に無勢である。
「おどれら、役人がなに抜かす。政府のまわしものじゃないか」
 群集は役人の態度に反発して、解散も、帰村も応じなかった。

  後世の歴史学者、歴史研究者たちは、この事件のあとづけで、騒動の首謀者とされて悲運な処刑をされた人の名をとって、「武一騒動」という。
 
                 *      

「おらは聞いたぞ。新政府の太政官(政治家)は、異人の政治を取り扱うところだって。西洋人は女の血を絞りだして、それを毎日飲み、牛肉を食べているそうだ」
 群衆のなかで、誰がそう叫んだのか、いまでは判明できない。

「なんでも、新政府は異人の言われるままらしい。こんど藩主さまに変わってくる県知事が、戸長(こちょう)に、女子15歳から20歳まで3人、牛を1頭つけて差し出せ、と命令したようだ」と尾びれがつく。
 この流言飛語はとんでもない惨事をまねくのだ。

 悪いうわさが広島県内を皮切りに、4日後には瀬戸内をわたり、四国に上陸する。流言飛語が中国地方・四国地方にあっという間に拡散し、新政府に反発して暴徒化した。

 「武一騒動」を超えた、『旧藩主引留め一揆』となったのである。


 8月8日 伊代・大洲  (現・愛媛県)で、藩主(加藤泰秋)の引留め、租税軽減要求、蘭方医の襲撃がおきた。

8月9日 筑前  (現・福岡県)で、藩主(黒田長知)の留任要求、年貢の減額要求

8月12日 美作・津山   (現・岡山)で、権大参事の暗殺

8月15日 伊代・松山   (現・愛媛県)で、藩主(久松定昭)の引留め、大庄屋・庄屋襲撃、帳簿類の焼却

8月16日 美作・真嶋   (現・岡山)で、藩主(三浦顕次)の留任要求、砂鉄稼小屋の焼払い


 さらに、伊代・小松
      伊代・今治
      出雲・母里
  と、8月中に「旧藩主引留め一揆」が伝播していった。

 9月8日には讃岐・高松(香川県)の藩主(松平頼聰)の出船の阻止、豪農・豪商の焼き討ち
         長門・豊浦(山口県)
         但馬・久美浜(兵庫県・京都府)
         備後・福山(広島県)
         備中・倉敷(岡山県)

  9月中には、本州側の各地に拡大した。新政府に反発し、焼き打ち、打ち壊しなどがおこなわれていく。

「10石当たり、女子15歳から20歳まで3人、牛を1頭つけろ、と言われている」
 各地でその数がちがっても、西洋人(異人)は、血を吸って生きている、とまことしやかに流言が拡散していた。

 10月6日に入ると、石見・浜田(島根県)は一向宗の擁護、邪宗(キリスト教)反対、増税反対と拡大した。宗教とからめた外国人の排斥運動である。

         因幡・鳥取(鳥取県)
         播磨・姫路(兵庫県)
         但馬・生野(兵庫県)
         播磨・山崎(兵庫県)
         長門・清末(山口県)

 このなかには県官殺傷、大庄屋宅焼き打ち、高札破却など、まさに暴動そのものがあった。

  11月2日には伊予・宇和島(愛媛県)
           備前・岡山(岡山県)
  12月に入ると、土佐・高知(高知県)、美作・豊岡(兵庫県)と、年内に、ここまで発展したのだ。もはや、全体を「武一騒動」とくくれない、大規模な一揆、反政府活動になったのだ。

                 * 

  明治4年7 月 14 日の「廃藩置県」の詔書とはなにか。全国の302藩を廃して、府県を置いたことである。
 これにより、源平の平安時代から1000余年つづいた武士支配が、完全に終結した。そして、中央集権的な統一国家が確立されたのである。

 ヨーロッパでは、貴族社会の崩壊まで100年余りかかっている。しかし、日本では倒幕のあと、わずか4年間で封建制度の身分が崩壊した。
 欧米の各新聞は、日本発として、その奇跡的なスピードの速さに驚愕(きょうがく)して報じていた。

 しかし、廃藩置県の直後、民衆はなぜ封建の武士社会の継続を望んだのだろうか。

                          【つづく】

明治時代~昭和中期の広島⑤ 天下に先立つ洋紙製造・浅野長勲(下)

 明治5年2年の「銀座大火」のときウォートルスから提案された、製紙工場が稼働する明治7年8月まで、約2年半の歳月を要していた。

 英国人のジョン・ローゼルスの指導は親切だが、言葉が通じない。叱咤激励(ししったげきれい)する。だんだんと手馴れてきた。ところが、洋紙の需要はさしてない。注文は来ない。倉庫には洋紙が滞留するばかり。

 かたや、職工は元武士でロスが多く、効率の意識がない。さらに新たな問題が起きた。真っ白い洋紙ができないのだ。大金1000円かけて井戸を掘ってみたが、赤く濁った水だった。結局、600坪の貯水池を作り、近くの隅田川?(掘割かもしれない)から水を引きいれたのだ。そして、無漂白の紙ができた。


             【神戸大学経済研究所・新聞記事文庫の資料より】

 新聞の枠組み : 報知新聞 1933.4.10 (昭和8)

『我国における製紙事業発達のあとを見るに、その初めて洋紙製造の計画を立てたのは実に明治五、六年の頃である、
そして明治五年二月、旧広島藩主浅野侯が大蔵省(土木)雇イギリス人技師ウォーター氏の意見に基づき、英国から機械を輸入し、東京日本橋区蠣殻町に工場を設け社名を有恒社と称したのが、我国が洋紙製造の濫觴(らんしょう 大河の源流)とされている』

                *

 襤褸(ぼろ・繊維)を使った破れにくい洋紙がやっとできた。ここからスタート。ところが、教師(指導者)ジョン・ローゼルスとの雇用契約の1年が経ってしまったのだ。
 浅野長勲(ながこと)は6カ月の雇用延長を申し入れた。そして、1/4の給料を増していた(月250ドル)。ひとをつかうのが実に上手だ。

 元武士の職工たちが技術を覚え、手が慣れるほどに、ほとんど売れず、倉庫は在庫が溜まる一方だった。
「どんどん積んでおきなさい。周辺は空地だらけだ。倉庫は幾らでも造れる」
 長勲はあせらなかった。
 耐忍不抜(けんにんふばつ)の精神だ。それは意志がきわめて強く、どんなことがあっても心を動かさず、じっと我慢して堪え忍ぶ人をいう。

 幕末には大政奉還、新政府樹立という修羅場をくくってきた大物はちがう。先見の眼があるというか、時代の先読みができるのか。
 苦労の末に、幸運を引き込むのだ。


 イギリス人製紙技師のジョン・ローゼルスは、紙の需要がないし、月給は水増ししてもらったし、特殊技術「透かし」技法を有恒社の職工たちにおしえたのだ。現代でも使える紙幣の透かし技法である。かれにすれば、おおかた遊び心だろう。

 紙に浅野家の家紋(写真)を透かして、大量生産のロール紙で巻き取ることができたのだ。いろいろな透かしデザインで楽しんでいた節がある。


 一流の建築設計者・トーマス・ウォートルスが世話してくれただけに、ジョン・ローゼルスは、とてつもなく優秀な製紙技師だったらしい。
 それはドイツの透かし技術を超えるほどだった。 

             *

 明治9年から有恒社に光明が差した。大蔵省紙幣寮(印刷局)から、証券印紙の原紙の委託がきたのだ。
 これは長勲のみならず、元武士の職工、浅野家の関係者まで、最大の喜びと、感動だろう。万歳をしたかもしれない。なにしろ、国家の税収に関わる「証券印紙」の洋紙が、上海ものから国産に変わったのだ。近代化へすすむ日本人の、最大の誇りのひとつとなったのだから。

 有恒社の製紙技術の優秀性は、見るひとはしっかり見ていたのだ。


 明治10年に西南戦争が勃発した。

 新聞、雑誌の戦記ものは飛ぶように売れる。新聞の購読数がうなぎのぼり。雑誌は増刷つづき。西南戦争が活版印刷が大ブームを起こしたのだ。紙幣すらも、増刷つづきだった。
 紙市場は好況を呈し、メーカも問屋在庫も底払いしてしまった。

 蠣殻町の有恒社の工場前には、早朝から、紙を買いもとめる業者がならぶほど盛況となった。サイズとか、品質とか、まったく問わず、洋紙ならば、ともかく買いたいのだ。


 有恒社が初期のころ、赤茶けた洋紙が倉庫に滞留していたが、深川の日本一の燐寸(マッチ)製造所が、こん包用に、と全部まとめて買い求めていった。

                *

  大蔵省印刷局・抄紙部(しょうしぶ)は、紙幣の偽造防止から高度な「透かし」製紙が必要で、アメリカ、ドイツに製造を委託していた。それらの紙幣に耐久性がないという欠点があった。

 明治12年から国産「透かし」に取り組んだ。
 印刷局は上質な水が豊富な王子(東京都・北区)に独自の工場を建てた(現・王子製紙の一角)。極秘の「透かし」技術の開発に、白羽の矢が有恒社にあたり、技術提供をもとめてきたのだ。

「これで、念願の国家に寄与できる。紙幣は国の宝だ」
 浅野長勲は、明治新政府を樹立し、国家の源である紙幣づくりに寄与したのである。

 私費を投じてから、7年間かかっている。

 紙幣は機密性が高いことから、長勲の称賛はさして語り継がれていない。

 それよりも、洋紙業の発祥の地は大阪だの、王子だの、京都だの、神戸だの、と全国各地に史跡表示板が目立つ。長勲は「国家に尽くす」という一念で、激動の時代を生きてきた。かれのおう揚さからか、そんなことはどうでもよいのだろう。


《トピック》

 浅野長勲は昭和12年(1937年)2月1日、94歳の長寿をもって死去した。広島の人たちは、芸州広島の最後の良いお殿さまだったのう、と涙したという。
 広島の練兵場には、葬儀に3万人が参列した(当時の中國新聞)。

 ちなみに国葬だった山形有朋は、一万人のテントを用意していたが、わずかに千人だったと伝えられている。
 王子製紙を興した渋沢栄一の会葬者は、3万人を越え、その死を惜しんだといいます。(大正時代の童謡「赤い靴」、「青い目の人形」は、日米親善につくした渋沢の功績として光り輝いています)
 浅野長勲や渋沢栄一は、私欲をすてて近代国家づくりにまい進し、なおかつ庶民に親しまれている。
 それが双方の会葬者が3万人の数に表れているのでしょう。
 

《有恒社のその後》

 同社は成長産業だったが、蠣殻町が東京府の道路拡張工事で、製紙工場は立ち退きを求められた。浅野長勲はここで製紙業から手を引いた。
「それは実にもったいない」

 有志が浅野家から社名をもらい、東京・亀戸に新会社「株式会社有恒社」を設立した。製紙機械はそちらに移った。
 当然ながら、紙幣の「透かし」技術は国家の重要機密だから、継承されなかった。

 紙業は年々消費が上昇する産業だったが、大正関東大震災の翌年、同社は王子製紙と合併している。


 私たちが使う紙幣には、偽札防止の透かし、という特殊技術がなされている。世界最高水準の紙幣である。
 それは有恒社の技術が源流である。
 国家繁栄をおもう浅野長勲が、私費を投じて洋紙工場を造った。この功績は永くたたえていきたい。

明治時代~昭和中期の広島④ 天下に先立つ洋紙製造・浅野長勲(中)

 明治近代化の象徴のひとつ「銀座煉瓦街」、「銀座ガス灯」がある。その設計者がトーマス・ジェームズ・ウォートルス(Thomas James Waters,で、とても著名である。
 ウォートルスが、長勲の私邸に訪ねてきた。


「製紙工場を建てる。建築のお知恵ならば、お貸しします。私は、製紙について知識がありません」
「製紙工場のどんな知識でも結構です。おしえてください」
「洋紙の原材料は、木材パルプ、藁パルプ、これらに紙屑、マニラ麻,木綿、麻襤褸(ぼろ)などを混ぜて、紙すき機械で梳(す)いてつくります」
「質問ですが、ボロというと、着物の切れですか」
 古綿やぼろ布から、純白の洋紙ができる。それはおどろきでしかなかった。
「そうです。とても、重要な役目の材料です。紙の材質は、植物性の繊維(せんい)です。ただ、私はイギリスの学生時代に、机上で習っただけの知識です。経験や体験はありません」
「1枚の紙がえらく複雑ですね」
 長勲は、室内の障子(しょうじ)を透かして、じっとみた。

 陽光が透き通ってくる。この和紙よりも、一枚の洋紙のなかが複雑なのか。一方で、製紙業の重要性を認識していた。


* 写真「トーマス・ジェームズ・ウォートルス」は、ネットより

「輸入した製紙機械を据え付ける、そのくらいならば、私の実弟をイギリスから呼び寄せられます。機械は水平に据えつけないと、故障やトラブルのもとになりますから。最初が肝心です」
「それはありがたい。お願いします。渡航費用は、この浅野家から出させてもらいます」
 長勲は、一歩も、二歩も前進だと思えた。

          *

 家令の中野が、横浜などで工場建設費など、見聞してきたところ、10万円くらいだろう、と概算の費用がつかめた。
 (明治6年の国家予算は4、659万円)
 銀座竹川町の紙商人の杉田が、横浜の貿易商を介し、正式に見積もりを取った。

 イギリス製の抄紙機(しょうしき)は、60インチ長網多筒式(乾燥筒は0.91mφ12筒)で、購入代金は4万2000円は、前払い条件だった。
(ほんとうに新品か。中古ではなかろうか。黄色人種のアジア人をあなどってないだろうか)
 長勲は不安だった。機械を据えて紙を梳(す)くまで、担保できないだろうか、と思案していた。

 それをウォートルスに相談してみた。すると、英国領事館(当時・築地居留地)が紹介されたのだ。

「浅野さんが、製紙機械を据え付け、紙を梳(す)くるまで、私どもで預かりましょう」
 公使がイギリス・機械メーカーに担保してくれたのだ。
「安心です」
「お金を預かるのですから、利子をつけます」
 保管料を覚悟した長勲は、運用利息までもらえる、という資本主義の金融システムにもおどろかされたのだ。

 機械の据え付けには、イギリスから来日した実弟のトーマス・ウォートルスが当たってくれた。その助手として、国内で多少は機械知識のある岡田楽三郎を月給30円で雇った。
 
 製紙機械工場の建設ができても、運転・生産・在庫管理・販売というソフト(技術)には、日本人のだれもが経験ない。
 たちまち、機械はうまく動かせない。木綿や麻のぼろ布の比率も皆目見当がつかないのだ。
「イギリスから技術者一人を雇う必要がある」
 それにはいくつもの省庁の許可が必要だった。

 長勲や家令は、その嘆願で、外務省や各省庁をまわってみた。

「お雇い外国人は官吏のみです。民間では前例がありません。かれらは高額な給与です。貿易収支が赤字のいま、民間に対応できません」
 そんな対応は現在もおなじ。

 技術者がいなければ、有恒社の製紙機械は運転できない。
「ここであきらめられない。困ったときは、あのひとだ。土木技師のウォートルスさんだ」
 銀座煉瓦街づくりの設計・監理で、ウォートルスはとても忙しいはずだ。

 ウォートルスは、長勲の熱意に応じて、浅野家に足を運んでくれた。

「製紙の製造に精通した外国人を、ひとり雇いたいのですが。うまい手はありませんか」
 長勲は機械をあつかえない現況を説明した。

「そうですね。私がイギリスの知人に声掛けして、製紙技術者を探してもらいましょう」
「ぜひ、お願いします」
「適任がみつかれば、表向きは土木技師の助手として、日本に呼びましょう。それならば、日本政府からクレームは来ないでしょう」
「重ねがさね。ありがたい。もちろん、イギリスからの渡航費、毎月の給料、一流の築地ホテルの滞在費、いっさいはこの浅野家が出させてもらいます」
 成功すれば、高額な費用でも、生きたお金だ。
 ウォートルスは快諾してくれた。

           *

 イギリス人の製紙技師ジョン・ローゼルス(John Rogers)でが来日した。かれはおもてむき技術者でなく、「教師」の雇い入れとして契約書を作った。
 のちに、渋沢栄一も王子製紙においても、おなじ方法をまねて外人技師を雇い入れた。

①  雇用期間は明治7(1874)年の3月~12か月間
②  毎月の給料は200円(あるいは200ドル:当時は1円金貨=1ドルで、同一の金含有量である)
③  教師として雇っている間は、浅野家が賃貸する

 浅野長勲の名義で、東京府知事・大久保一翁(おおくぼ いちおう、写真・右)に許可書を提出した。大久保はかつて幕臣で、阿部正弘に抜擢された有能な人物である。


 鳥羽伏見の戦いのあと、謹慎する慶喜将軍から、大久保はトップの会計総裁に任命された。勝海舟よりも実力があり、江戸城無血開城の実質の立役者といわれている。

「浅野さん、製紙工場は大賛成です。安政のころ、阿部正弘公が蕃書調所(ばんしょしらべしょ・後の東京大学)を創設された。そこでは西洋文明の書籍を翻訳し、イギリスから購入した活版印刷機も導入しました」
 大久保はくわしい。さらに、こう言った。

「輸入洋紙は高価で、日本中に文化を広めるには難でした。浅野さんが有恒社を起ち上げ、製紙技術者を招聘(しょうへい)してくださった。近代化には洋紙と印刷がとても大切です」
「ご理解、ありがたい」
「あとは府知事の私が、大蔵省、外務省、文部省の許可を取ります。私の役目とさせてください」
 大久保がいっさいの許認可を引き受けてくれたのだ。
            
           * 

 明治初期は、蠣殻町のまわりの大名屋敷は、すべて取り壊されて茶・桑畑である。製紙工場の騒音は問題にはならなかった。

 長勲は人材登用の能力は抜群だ。執政・辻将曹とか、神機隊とか、浅野学校(現・修道中高)の創設とか、下級にあっても人材を育てることに喜びを感じる人物だ。

 有恒社は、元広島藩士の失業士族を大勢雇い入れた。全員が機械など触ったことがない。手先の器用な江戸職人をつかえば、物覚えがはやく、軌道にのるだろう。長勲は不器用なかれらが育つまで、じっと待ち続けていた。
 なにしろ、指導者の技術用語はすべて生の英語だ、理解すらたいへんである。

 記録によると、売れる製品ができるまで、竣工から1年以上かかっている。
                          
                【つづく】 
            
《トピック》
 孟子の「恒産あれば、恒心あり」(一定の職業や財産を持たなければ、しっかりとした道義心や良識を持つことはできない)、ここから社名を有恒社(ゆうこうしゃ)となづけた。

 長勲は明治に入り、失業した広島藩士の困窮に胸を痛めていた。製紙業を興し、脱落士族に救いの手を差し伸べた。人間は、単なる施しや寄付では心がいじけます。しっかりした仕事を与えてあげる、と考えたのでしょう。    

明治時代~昭和中期の広島③ 天下に先立つ洋紙製造・浅野長勲(上) 

 広島藩の浅野長勲(あさの ながこと)といえば、倒幕に活躍した人物である。

 薩長芸軍事同盟、大政奉還、小御所会議での明治新政府の樹立というグランド・デザイン(倒幕・企画)を作り、辻将曹(つじしょうそう)とともに、それを成した人物である。


 小御所会議のエピソードは有名だ。
「この場に、なぜ慶喜将軍を呼ばない」と土佐藩の山内容堂(ようどう)は激怒する。「幼帝とはなにごとだ」と公卿の岩倉具視(ともみ)が反論する。大激論で、ひとまず休憩をとった。

 すると、薩摩藩の西郷隆盛が、「短刀一丁で片付く」と岩倉に暗殺を助言する。「天皇臨席の御所が血で汚れる。新政府の樹立どころでなくなる」

 もし実行されていたら、日本史は変わっていただろう。
 参列していた浅野長勲が、執政・辻をつかって岩倉と山内を仲介した。

 落としどころは、山内容堂に沈黙させる、そして慶喜に事後報告する、ここは新政府の樹立を最優先にするという妥協だった。
 その休憩のあと、山内は寡黙(かもく)を通した。ここに王政復古の大号令で、明治新政府ができたのである。

                *

 戊辰戦争、さらに箱館戦争、それらが明治2年に終わると、新政府は近代化をめざしはじめた。

「農村(石高)から工業(貨幣)の社会に変えていく。日本をはやく欧米のような資本主義にしよう」
 めざすことばとは裏腹に、全国の武士190万人は封建制の瓦解(がかい)から、失業していた。妻子をふくめて、どう生きていくか。明日の自分の姿が見えなかった。農村では一揆はすさまじく多発する。

 参勤交代の消えた東京となると、大名屋敷がことごとく無人になった。それら建物を取り壊して、輸出できるお茶と桑を植えた。閑散とした風景になってしまった。

                *
 
 明治政府は、それでも近代化のために電信、郵便、鉄道などインフラ整備と、官営の富岡製糸場、横須賀製鉄所などを推し進めた。

 しかし、民間による産業革命は起きなかった。民間の最初の近代化といえば、人力車からである。武士はかつて朝な夕なに剣術に励んだ。没落士族の体力が生かされる人力車だったのだ。
 明治3年3月22日に営業許可がでた。1年後には東京だけでも、2万5000台を越えた。


 新政府の樹立につくした広島藩・最後の大名となった浅野長勲(ながこと)は、廃藩置県で府県知事から退いたけれど、国家発展への強い意志をもっていた。

 かれは私財を投じて、近代化への素地となる日本初の洋紙製造会社をつくったのである。ちょうど30歳である。場所は東京茅場町で、『有恒社』(ゆうこうしゃ)と名乗った。現代も名をなす王子製紙、三菱製紙などよりも1年早やかった。

                 *     

 長勲の先見性と設立・稼働の苦労をたどってみよう。

「火事と喧嘩は江戸の華」
 明治5(1872)年2月に、皇居・和田倉門の旧会津藩邸から出火し、丸の内、銀座の33町の22町が焼失し、さらに築地一帯を焼く惨事だった。銀座大火と呼ばれている。

 銀座近くには、近代化の花形となる蒸気鉄道が、同年10月14日に開業する予定だ。となり町に、新橋ステーションがある。
 明治新政府は、銀座の焼け跡に民・官を問わず、いっさい建築物をつくらせなかった。私有地の利用は、お上の命令で、全面的に制限されたのだ。

 新政府はなにを考えたか。


               完成した銀座の煉瓦街

 政府は、諸外国にも好いところを見せようと、焼け野原の銀座にレンガ造りで統一した不燃化の町をめざしたのだ。
 大蔵省が設計者としてお雇い外国人のトーマス・ウォートルス(Thomas James Waters)に、その企画を依頼したのである。

 かれは前の年に大阪の造幣寮(現・造幣局)の応接所の設計をおこなっている。その建物は外周にトスカナ式の花崗岩の円柱を立て、内装は美しく、天井も高く、シャンデリアが設置されている。
 明治天皇が3度も行幸したほどだ。

           * 

 長勲は、この著名な設計者のトーマス・ウォートルスと出会い、日本初の洋紙製造工場の設立へと動きはじめるのである。

「日本が西洋文明を導入するには、新聞、雑誌、書籍、辞書が不可欠です。政治、経済、科学、文化、文学がひろく国民につたわることです。一国の発展は、文運の進歩に依存します」
 ウォートルスが近代化を長勲に語った。

 德川幕府の時代から、日本には活版印刷の技術が入ってきていた。(幕府がオランダから長崎に、イギリスからは江戸に機械を購入していた)。蘭学者、洋学者らがその機械で印刷していた。
 そこで使われる洋紙は、すべて輸入に頼っていた。
 明治時代になっても、切手、ハガキ、汽車の切符も輸入紙である。

           *  

 和紙は活版印刷のインクがにじみ出て使えない。まして辞書などの両面印刷に、和紙は無理である。ただ、洋紙を輸入に頼ってばかりいると、日本が活字文化になるほど、貿易収支は赤字になっていく。
 トーマス・ウォートルスと長勲のふたりは、ここらの認識が一致した。

「日本人は器用です。洋紙製造工場をつくられたら如何ですか」
 ウォートルスがアドバイスをしてくれた。
「国の財政は大赤字です。しかし、資金難を理由にしていると、近代化が遅れる。私が出資し、製紙工場をつくる場合、助言してもらいたい」
「協力したいところですが、私は政府との雇用契約です。ルール違反になります」
「なにか、妙案はありませんか」
「浅野さんが直接、政府に申し出れば拒否されるでしょう。築地居留地のイギリス公使館に出むいて、公使から日本政府に要望すれば、可能かと思います」
「西洋人には弱い。成功しそうだ」
 ウォートルスの助言が、ずばり当たった。

 長勲は、家令の中野静衛を製紙工場づくりの担当にさせた。

           *  

  当時、銀座大通りの竹川町は大火災からまぬがれていた。

 銀座建築技師のウォートルスは、設計図の洋紙(トレースなど)を母国・イギリスから取り寄せていた。その購入の取次窓口は銀座・竹川町の紙店であった。
 ウォートルスの紹介と長勲の指図で中野静衛が、西洋紙の紙商人の杉井茂三郎を訪ねた。なんと芸州・三次出身だった。
 杉井は壮年のころに、江戸に出てきて、安政時代に横浜が開港すると貿易の鉄砲商人になっていた。大倉喜八郎の手足になって働いたともいう。
 いまは銀座の紙商人だった。
 中野が聞けば、紙の御用で広島藩にも出入りしていたという。

「手前は紙は売っていますが、製紙する機械がどんなものか、見たことはありません。しかし、機械の輸入は可能です」
 杉井茂三郎から聞いた一連の話しを長勲に報告した。

           *

「さようか。日本人で、製紙機械はまだ誰も見たことがないのか。なおさら、それを日本に入れて洋紙の製紙工場をつくる必要性を感じた。よし、やろう」
 長勲が決断した。
「広島藩の失業した武士の雇用にも、一役買うだろう」
「イギリスの現地では、工場見学すら難しいようです。秘密主義で。ここからどのようにすすめていくのか。難問です」
「建築技師のウォートルスさんに、知恵を借りよう」

                               【つづく】
                         
《トピック》
 徳川幕府から、明治の「御一新」に変わった。農民から政治家まで、だれもが時代の端境期に翻弄(ほんろう)された。

 天下取りをした薩長土肥の下級武士たちは、さも自分を輝かしい人物と錯覚したのか、政治権力を悪用し、威張り、癒着し、「官営産業の払戻し」を利用して儲かるという汚いことを平気でやった。歴史の恥部(ちぶ)である。

 一例では尾去沢鉱山事件(井上馨)、山城屋和助憤死事件(山縣有朋)、開拓使官有物・払下げ事件(黒田清隆、五代友厚)、台湾出兵(岩崎弥太郎)など……。近代化の裏は政治家、政商が儲かる、という汚(よご)れた実像がある。
 もしや、この体質は現在の政財界に続いているのかもしれない。

 だれのために政治をしているのか。なんのための御一新だったのか。浅野長勲がどんな想いだったかと想像しながら、次回へと進んでください。

明治時代~昭和中期、広島の近現代史をひも解く ②

 広島のひとは近現代史に疎(うと)い。それが私の実感である。広島は原爆投下(昭和20年)以前の日本史にさして興味をもたない風土がある。教える人もかぎりなく少ない。
 つまり、毛利元就から原爆まで、空洞だともいえる。。

           * 

 私が広島で、幕末史を語ると戊辰戦争まで、あるいは贋金づくり、武一騒動までに止めている。
 そのさき廃藩置県、地租改正、廃仏毀釈、自由民権運動、明治憲法へと話題をすすめても、おおかた興味も・関心も持たないだろう、と私は自分を制していた。

 私はときに、幕末、明治、大正、昭和初期におよぶ執筆もする。時代は令和になったし、近現代の広島にふれてみようかな、とも思う。これも出身地への想いかもしれない。

 裏を返せば、他府県の人ならば、言いにくいことも、
「広島の歴史は、原爆だけではない。戦後だけじゃない。江戸時代の藩主が毛利だと思っている県民が半数以上だ。なにを教育しているんだ。原爆で資料がなくなったと恣意的、うそをついている」 
 とズケズケいえる立場にある。
「ならば、古代~封建制度は抜きにしてでも、明治時代からは身近な問題だから、教えるべきだ」
 わたしはときに遠吠えにも、むなしくも感じる。でも、あきらめてはいけないのかな。広島は手付かずの歴史の宝庫だ。

             *

 明治初期の製紙工場は、渋沢栄一と王子製紙が先駆者(せんくしゃ)だというのが、一般認識である。近代製紙業発祥の地は大阪だともいう。
 その実、日本の洋紙産業は、浅野長勲(ながこと 広島藩最後の大名)が最初にスタートを切ったのである。ここらの歴史も、広島は他府県に良いとこどりされていな、と思う。

 日本が近代化を推し進めるには、製紙、紡績、鉄鋼が重要な基幹産業だった。長勲はその認識に立って、洋紙製造工場をつくったのである。
 浅野藩を藩論一致の下で倒幕を推し進めたことと言い、とても時代の先読みができる人物だった。

 具体的には、長勲は明治5年(1872年)、有恒社(ゆうこうしゃ)を立ち上げて、日本最初の洋紙製造工場を(東京・蛎殻町)つくった。明治7年(1874年)に稼動する。
 
 長勲はこのさき新聞、雑誌・書籍、庶民生活で洋紙が中心になると、製紙業を手掛けたのである。そこで、まずイギリス人建築技師を招いて工場建設に着手した。と同時に、抄紙機(しょうしき)をイギリスから輸入した。それは製紙工場において、紙を連続的に抄く機械である。
 旧広島藩の者が多く雇用された。薩長土肥の主導の廃藩置県で、武士階級がなくなったから、長勲はかつての家臣たちを失業させず、工員として働ける場の提供も兼ねたのである。
 こうした大名(藩主)は、全国にどの程度いただろうか。
 長勲は昭和12年(1937年)に死去するまで、広島人にとても好かれていたという資料が多い。しかし、いまでは、原爆で資料がなくなったと平然と言う。
 
 ただ、当時の日本は、筆と和紙の世界だった。新聞などの需要が進んでおらず、洋紙をさして必要としていなかった。
 赤字続きであった。しかし、長勲は日本の近代化が進めば、かならず洋紙の需要が増えるとし、大正時代の終わりまで、経営をつづけた。

 明治時代の最も大きな事件といえば、日清戦争と日露戦争である。
 1894年(明治27年)に勃発した日清戦争では、大本営(ほんえい)が東京・宮中から広島に移された。
 大日本帝国軍の最高統帥である明治天皇が、広島に移られた。日清講和条約(下関条約)調印後の1895年(明治28年)5月30日までの227日間にわたって指揮を執った。
 この間に、国会が開かれている。つまり、首都がいっとき広島に移ったのである。

 こうした経緯もあったのだろうか、太平洋戦争では東京が第一軍都、鈴鹿山脈から西は広島が第二軍都になった。むろん、アメリカには両軍都の位置づけが筒抜けである。
 
 昭和20年3月10日未明の東京大空襲は、焼夷弾による無差別殺人である。米軍のカーチス・ルメイは、日本がそれでも降伏しなかったので、第二軍都の広島に原爆を投下した。

 歴史的見地から見れば、日清戦争の大本営が原爆の投下の起因の一つであった。広島人がここから眼を逸らすことなく、明治時代から直視する必要がある。

           *
   
 カーチス・ルメイには、勲一等旭日章が授与された。佐藤栄作総理大臣が認めた。推薦者は、防衛庁長官は小泉純也(小泉純一郎の父親)である。
 勲一等の授与は、天皇が直接手渡す「親授」が通例であるが、昭和天皇は、無差別殺人を行ったルメイを嫌い、みずからの手で親授しなかった。
 広島の行政人は、この昭和天皇の心を想い、ルメイの子孫に勲一等旭日章の返還を求めても良いのではないだろうか。
   
 明治、大正、昭和、平成、そしていまは令和の時代になった。昭和は現代史でなく、近代史の領域に入ってきた。史実もあれば、推論も出てくる。

 源田実(広島県出身)が、「日本も原爆を持っていたら使用しただろう、日本本土にも米(軍)の核持ち込みを認めるべき」と発言している。この発言は事実である。
 参議院議員となった源田の一連の発言から、ルメイの叙勲の提案者ではないか、と当初から疑われている。ここらあたりも、後世の歴史家に任せられている。

 広島人よ、もっと自分たちの近現代史を学ぼうよ。
 

明治時代~昭和中期、広島の近現代史をひも解く ①

 ことし(2020年)の秋をめどに、明治・大正時代を背景にした歴史小説の執筆依頼があった。主人公は実業家である。となとる、直接、広島に関わる内容ではない。倒幕におおきく関わった広島藩も、戊辰戦争で、その主要な役割を終えたという認識が私にはあった。

 ただ、資料を読みあさっていると、浅野家とか、明治の広島とか、折々に出てくる。「広島の人は、きっと知らないだろうな」。
 広島に関係するところを列記しながら、広島の近現代史のいったんをひも解いてみたい。

            *

 鈴木商店、伊藤忠、日比谷商店と聞いて、なにを連想するでしょうか。ピンときましたか。

 鈴木よね(女性)、伊藤 忠兵衛 (いとう ちゅうべえ)、日比谷平左衛門(ひびや へいざえもん)に共通するのは、行商あるいは丁稚小僧から、やがて明治、大正時代に総合商社の源流をつくった人たちである。
 いっとき三井、三菱の取扱いを上回っている。

 鈴木商店は神戸が本社である。日商岩井、神戸製鋼、帝人、サッポロビール、IHI、昭和シェル石油など、これら企業の源流は鈴木商店にたどり着ていく。
 伊藤忠は大阪の商人です。やが伊藤忠商事、丸紅へと進化していく。
 日比谷商店は東京だったことから、大正12年の関東大震災で大打撃を受けて衰退する。


 この三つの商店に共通する点は、徳川幕府が結んだ「安政の5か国通商条約」で、世界へむけた輸出入で一気に拡張したことである。つまり、通商条約の良さと価値をくみ取り、尊王攘夷派には命を狙われながらも、その時流に乗ったことたった。

 日本史のなかで、安政通商条約は不平等だと頭から、薩長史観で洗脳されている。しかし、ほんとうに攘夷が正しくて、貿易が悪だったのか。
 鈴木商店、伊藤忠、日比谷商店の傘下の企業、あるいは三井・三菱などもさかのぼれば、横浜の開国にたどり着く。この安政の5か国通商条約がもしなければ、日本はこうした総合商社を生み出さないばかりか。インド、清国のように植民地になっていた可能性は高いだろう。
 日本の発展にとても重要な位置づけにある。
 
 そこで幕末・明治初期の横浜を庶民の目で、調べていると、「富貴楼」(ふうきろう)という料理茶屋の関係資料に目が留まった。女将のお倉はもと遊女である。芸妓から、明治の政治家たちが、横浜・富貴楼に集まった。現代でいえば、赤坂料亭で、政治家が密談するようなものだ。なぜ、富貴楼か。

 理由は三つある。

① 女将のお倉が魅力的だった。
② 江戸城が皇城となり、大名の上屋敷、中屋敷などが容赦なく取り壊された。(練兵場になった・現在の皇居前、日比谷公園などは老中など役宅だった)。壊しすぎてて、密会場所がなくなってしまった。
③ 横浜港には英仏などの商人、軍人が洋館建てなど、西洋文化を持ち込んだ。白人崇拝から、洋風なハイカラな人間気取りになれた。

 開港当時、安政5(1859)年6月2日には、横浜の人口がわずか500人の農漁村です。明治3(1870)年は4万人を超えている。

 東京・大阪が戊辰戦争のあと景気が沈滞しており、全国で横浜の景気が一人勝ちだった。

 当時の神奈川県知事の井関盛良(いせきもりとめ)が、富貴楼のお倉の前で、
「横浜は、東北随一の仙台はもう抜ける。このさき浅野さまの御城下の広島、加賀100万石の金沢、尾張名古屋だって抜いてみせる」
 と酔うからなず話していたという。

 井関盛良県知事が口にする大きな広島は、昭和20年の原爆で廃墟になったから、現存しない。実感がわかない。
 明治といえば、薩長閥による政治だった。政治・経済・文化を支配した。薩摩(鹿児島県)や長州(山口県)が、西日本を凌駕している。多くのひとが信じて疑わないだろう。

 ところが、明治の芸妓の証言から、「浅野さまの御城下の広島」が広島が西日本随一の都市だったのだ。 

           *             

 昨年11月に、RCC(中国放送)ラジオの2時間生番組のなかで、原口泉さん(鹿児島大学名誉教授)が、「広島藩はおおきな藩だった。広島が倒幕に動かなければ、薩摩藩はなにも出来ませんでしたよ」とくりかえし、語っていた。

 それを聞きながら私は、内心、番組へのお世辞かな、と思っていた。薩摩藩は77万石だし(実質は35万石程度)、広島よりも表向き石高が多いし……。
 横浜の富貴楼のお倉の証言から、浅野家の絶大さから倒幕の主体になったのだ。原口さんが繰り返した、「広島藩は、おおきな藩でしたから」という言葉がより真実味を持ってきた。日本中が注目をもって、浅野家の動きを見ていたのだ。

【歴史エッセイ】③ オランダ風説書を知らずして、幕末歴史小説を書くべからず

 朝日カルチャーセンター千葉で、月に一度は「幕末・維新史」の講座をもっている。いまは、私の著作「安政維新」(阿部正弘の生涯)を教材にしている。むこう3か月にわたる連続講座の予定である。


 主として、歴史小説の作品を作るうえで、基礎になった資料とか、創意とか、創作(各章)の組み立て方とかを語り、同作品の認識をより深めてもらう趣旨である。

 一般に、私たちは書籍を読んでも、記憶の底に残るのが5-10%ていどくらいであり、全体が長々と残ることは、特殊な場合以外ほとんどない。
 その5%のなかみが、人物への感動、強いドラマ(出来事)、思想、ある印象深い場面、教示的なことばなどが、読後感の良さとともに残るのである。


 私の経験からいえば、著者から生の声で聞いた裏舞台は何年経っても、わりに残っているケースが多い。若いころでは、「小説はそんなふうにして創るのか」というものが断片的にしろ、長く記憶に残り、プロ作家になっても役立っている。

             *

 著作「安政維新」(阿部正弘の生涯)について、8年前から着想があり、取材をつづけていた。
 日本の歴史学者は信用ならず、ウソが多いと、直感的に思った。となると、海外の情報を駆使して書こうと考えた。

「一つずつ、歴史的なできごとは海外側から裏を取ろう、それは刑事が裏を取る捜査とおなじ手法」
 それはすべて事実かな、本当かな、と疑問を持つことだった。この意識で、とくに5-6年まえから海外資料の取り込みをはじめた。

 当初は語学の面とか、資料収集とかには難があった。手探りで、根気もいる。ただ、IT時代の進化があり、古い英字新聞でも、多言語(英・仏・オランダ・ロシア)の書籍でも、グーグルをつかえば、日本語への翻訳が瞬時にできる。これは便利だった。

 このコツをつかむと面白いほどすすむ。それがやりがいにもつながった。

「日本の歴史学者は、ここまで、よく平気で、ウソを教えられるな」
 そんなおどろきが年々高まってきた。日本側と欧米側と、認識が真反対だったりもした。
「ごまかされたり、隠されたりすると、人間は腹も立つ」
 そんな気持ちがしだいに強まった。


 明治政府以降は、薩長閥の御用学者の歴史ねつ造の塊で、不都合なことは国民に知らせていない。ときには事実の方が少ないのではないか、とすら思った。

             *

 今回は、德川幕府の首脳陣が、どれだけオランダ風説書から国際情勢を持っていたか。その実例を示した。主として「1852年・1853年の別段風説書」である。

「えっ、そこまで知っていたんですか。ぼくは知らないことだらけだ」
 朝日カルチャーの受講生は、一つひとつにおどろきの声をあげていた。

「当時の日本の国際情報の収集力はすごいよ」

 実際はぼう大な情報ですが、その一部をここに記してみます。 


浦賀港の渡船 (神奈川県)


『 別段風説書の抜粋 』


・ 最近の情報(1852年)では、アメリカ合衆国より軍艦を派遣し、交易をおこなうために、日本に渡来するということである。米国大統領親書を提出し、また漂流民を連れてくるようだ。
 この使節は、民間貿易のため日本の1-2の港の利用許可をもとめる。適当な石炭貯蔵の港を用意して、カルフォニアと中国の間を往来する蒸気船に役立つために、日本に願い出る。

・合衆国の軍監で、現在、中国附近に展開しているのは、次の通り。
 シュスケハンナ号(軍用蒸気船)、サラトガ号(コルベット)、フリモス号(コルベット)、プリモス号(コルベット)、バンダリア号(コルベット)を江戸に送れと命じられている。

・艦隊司令長官はオーリックであったが、ペリーという者に交代した由である。


・アメリカ東海岸より出港するのは次の通り。
 ミシシッピー号(蒸気外輪船・旗艦艦長・艦隊司令ペリーが乗船)プリストン号(蒸気船・指揮官はシドネイ・スミット中尉)、ペルリ号(輜重船・艦長ハイルハスキ)、サプライ号(輸送船・アルチュル中尉)である。

・ある情報では、陸軍、攻城武器も積んでいる。(現代の海兵隊か)。ただし、出帆は1852年4月、(嘉永5年3月)よりも、遅れるだろう。


「アメリカ艦隊が喜望峰を回ってアジアにやって来る。途中で、船舶機関故障が多々あり、浦賀にたどり着いたペリー艦隊は4隻です」
 私は補足説明をした。


・ オランダとイギリスは海底電設設備の計画が始まった。これはフランス・イギリスと開通したものとおなじ(英仏間の海底ケーブルはすでに別段風説書で日本に連絡済みである)


・ フランスはナポレオン三世が国政を掌握した。昨年定めた、国政改革は廃止した。これは国民大衆に助けられたものである。(民主革命)


・ トルコ国境で、オーストリア軍が介入してきた。全般的に治まっていたヨーロッパ諸国の平穏が破られようとしている。(クリミア戦争の予兆)


・ オーストリアに敵対してミラノ(イタリア)で市街戦があった。すぐに鎮圧された。


・ アメリカのエリクソンが蒸気機関に関した重要な発明をした。蒸気機関では、水を用いるが、水の代わりに空気を用いて、これを熱して運動力をえる工夫をした。通常の薪炭が五分の一になった。


「黒船が来て、蒸気船を初めて知ったと教える。こんな嘘が現代の日本の歴史教科書です。阿部正弘たち江戸の幕閣は、もはや蒸気機関の構造までも知っていたのです。なぜ、日本の学者は、日本人に真実を教えないのでしょう」
 私はこんな注釈も加えていた。

 ・アメリカで今年3月25日に、万博が開かれた。
「別段風説書には、万博の詳細が書かれています」


・ ドイツには多くの国郡があり、共和国にしたいという願望があるが、なかなか実行できない。ドイツ制をプロシアで新たに決定し、ドイツ国内で実施したところ、1-2カ国は異議なく認めた。この方式で、プロシアの国王がドイツ国王の任に当たる。

「プロイセンとの日普修好通商条約はやや遅れて結ばれます。(3年後の1861年)。この交渉過程で、外国奉行・堀利熙(としひろ)が、老中の安藤信正と言い争い、割腹自殺しています。堀利熙は阿部正弘に見いだされた有能な人材でした」


・ エジプトはアッバツ・パシャの支配するところであるが、まるでトルコの属地になったかのように見える。
「日本と関係ないようなエジプト、オーストラリアの巨大な金鉱発見、デンマーク海軍のこと、ハンガリーが戦争の危機など、別段風説書は他にも国別に細かく報じられています」


・ 南北アメリカをつないでいるパナマ地峡を切り崩す件で、関係国がロンドンで会議を開いた。この切通し(運河)は、大型船が通れるように、幅が広く、底深いものになる。


「徳川幕府は、こうしたパナマ運河をつかえば、西洋と日本が近くなる。もはや、世界自由貿易が、スエズ運河、パナマ運河で、地球規模になっていく、と認識していたのです。清国のようにアヘン戦争で負けてからでは、不利益な条約が結ばれてしまう。だから、開国と通商は、日本側から先手を取って、条約締結の交渉を持ちだしたのです」


「たとえば、フランスはワインの輸出国です。通商条約の交渉のテーブルに乗ると、日本側が酒類に輸入関税を35%かけてきた。清国は5%だ。日本の外国奉行はもし嫌だったら、日仏通商条約は結ばなくてもいい、という強気の態度です。フランスは約1か月間ほど粘ったけれど、とうとう妥協させられた。他の4カ国も、ことごとく輸入関税は20%にさせられた」

 外国の当時の資料を読み解くと、日本人はしたたかだ、欧米はことごとく不平等条約にさせられた、と怒りまくっています。
 それなのに、日本の歴史教科書では、日本側の不平等だと教えている。ここらの細部は「安政維新」(阿部正弘の生涯)に、くわしく描かれています、と補足した。

               *

「国力は人口構成がとても大切です。オランダ風説書は、それも伝えています」

・ アメリカ合衆国の人口(1850年現在)、白人1963万人、有色自由人42万8000人、奴隷320万4000人、総人数2326万2000人。

「広大なアメリカの人口は2326万です。日本の嘉永時代は3000万人を越えていました。日本がいかに過剰人口で、食糧難だったか。この数字からわかるでしょう」


 餓死ほど、人間につらいものはない。母親がわが子を亡くす、家族が餓死で全滅。路上には死骸の山。食糧不足から伝染病が流行する。これが当時の現実だった。

            *

【 ここから、穂高健一の説明です 】

 政治家・阿部正弘は、民の飢えに最も心痛めていた。それには食糧輸入で、飢餓列島から解放される、という施策を取った。
 水戸の徳川斉昭が過激な攘夷をふりまわしても、阿部正弘は日本人のいのちを救う、と一途に開国にすすんだ政治家だった。

 阿部正弘の信念は明確です。かれには私欲、自分の立場の損得などなく、備後福山藩のためでもなく、賄賂は一切もらわず、ともかく日本国民のために尽くす姿勢を貫いた。その面では稀有な天才的な政治家だった。
 だから、22歳で老中になり、享年39歳まで日本のいのちを任せることができた人物です。


「リンカーンにも、勝るとも、劣らない、政治家だった、と私は考えています」

 安政の5か国通商条約が結ばれたあと、幕末、明治時代、大正時代にはなんども天候不順の凶作が起きています。しかし、餓死者はいちども無かった。貿易で稼いだお金で、食品が購入できたからです。

「開国・通商から160年経った今も、横浜、神戸の国際貿易港が最大限に活用されて、日本を豊かにしています。植民地にならず、100年、200年先をみつめられる政治家がうまれたわが国は幸せです。私たち日本人の誇りです」


「鎖国にもどせ、という『尊王攘夷』が最高の素晴らしいイデオロギーだったと、ごまかされないでください。德川幕府を倒すには有効な戦略だったかもしれません。しかし、家族が飢えて死ぬ、死臭の世界にもどれ、という鎖国主義は、人間の命の尊厳さを欠いています」

 
 水戸藩がつくった尊王攘夷論が、長州藩によって過激攘夷論へと拡大しました。これは粗野な思想です。国民・庶民の安心できる平和な暮らしよりも、真反対の戦争の道へと進む道になったのです。
 いまの日本には戦争など必要はないのです。英雄なども必要としない。英雄史観で尊攘論を正論とすれば、危険思想に結びつきます。

 いまや、戦争を否定する、正しい歴史認識で教えてくれる学者が求められる時代になってきました。

 ペリー提督来航の前をさして知らずして、オランダ別段風説書の内容も知らず、尊王攘夷論で幕末歴史小説を書くような薄っぺらな作家は必要としない時代に入ってきたのです。
「それを自戒としています」
 私はそのように受講生に語った。

【歴史エッセイ】② 江戸城(徳川家)・皇居(天皇家)、いったいだれの財産なの?

 歴史作家の目で、とき折り、江戸城(皇居)の周辺に出むくことがある。

 安政時代の「江戸大地図」には、江戸城が『御城 西御丸』である。徳川幕府が倒れたあと、明治時代の「実測東京全図」では『皇城』である。そして、太平洋戦争が終結したあと、昭和の地図は、『皇居』と表示されている。

 わずか150年余年で、御城、皇城、皇居、と呼称がちがってきている。

            *  

 江戸城はもともと大田道灌(どうかん)が築城したが、上杉氏に暗殺された。上杉、北条氏の支配になった。さらに、豊臣秀吉の小田原城攻めのあと、德川家が駿府から江戸城に入ってきたものだ。そして、お城は段階的に拡大されて、周囲4キロの日本最大の面積の城郭となった。

 約265年間は徳川家の財産だった。

 戊辰戦争のさなか、徳川幕府が無血開城し、新政府軍に接収された。天皇が東京に移り住んだ。それを奠都(てんと)と言い、宮城(きゅうじょう)となった。
 この段階で、江戸城の所有権が徳川家から天皇家に移ったのだろうか。そこらは、どうなっているのか、とわたしは単純な疑問をもちつづけていた。

 こんな素朴な疑問が、歴史の楽しみ方のひとつでもある。


 わたしは50代、60代のころ、年2回はフルマラソン大会に出場していた。おおくは3時間40分台のタイムだった。登山で足腰が鍛えられた脚力があったのだろう。

 雨以外の毎日は、平均して20キロくらい走っていた。ときには自宅の葛飾から皇居まで走り、そのまま皇居一周約5キロをまわり、葛飾にもどってくる。約40キロで、フルマラソンの距離くらいである。
 道々、信号で止められるのは面倒だが、都心部の変化はけっこう楽しめたものだ。
 

 ただ、第2回東京マラソンに出場したあとは、抽選に当たらず、しだいにマラソンから遠ざかってしまった。いまは止めて、日々のウォーキングていどだ。
 それでも、ある種の親しみから、銀座、日比谷にでむく用があると、ぶらり江戸城周辺を散策することがある。

           *    

 お濠には四季折々の変化がある。かたや、そうした光景がかつての江戸城の大奥とか、江戸城の無血開城とか、なにかと私を歴史のなかに導いてくれるのだ。
 それが歴史作品の執筆上の関心事や着想にもつながったりする。

 江戸城の無血開城といえば、戊辰戦争のさなか、三田の薩摩屋敷における勝海舟と西郷隆盛の話合いでおこなわれた。その直前には、山岡鉄舟が駿河の国へ出むき、西郷との会談で、江戸城の開城の下地が作られていた。
 よって、江戸城は戦禍がなく、徳川家から新政府軍に引き渡された。これが通説である。

              *

 通説はとかく嘘やつくりものが多い。あるいは、ねつ造がまかり通っている。そういう目で、歴史を読み解(とく)くと、あらたな発見がうまれることがある。

 江戸城の無血開城は、その実、大奥の篤姫(あつひめ)や和宮(かずのみや)、このふたりを中心とした上臈たちの努力で、戦禍がまぬがれた、とわたしはおもっている。
 もし、大奥が戦場になれば、彼女たちの大切な豪華なきもの、家財、日常品がことごとく焼失してしまう。
 女性としてはゼッタイに許せない、というつよい心理がはたらく。

 徳川幕府のなかで、代々、大奥の正室はつよい権限をもっていた。正室の顔は、平伏する老中すら直視できなかったという。
 大奥の女性権力者は、たやくすく男・勝海舟や西郷たちの下級の者どもに従わなかっただろう。

           *    

 鳥羽伏見の戦いのあと、江戸にもどってきた慶喜が、家茂の正室だった和宮に、京都の朝廷への取り成しを頼んでいる。孝明天皇の妹だった和宮しか、江戸城を守れないと判断したのだろう。
 当然、島津家出身の篤姫は、家臣の西郷につよい圧力をかける。

 この段階において、徳川幕府はまだ無力でなかった。小栗上野介や榎本武揚などは戦意は高い。勝や西郷は、篤姫と和宮の了解が得られなければ、勝手に江戸城の開城など、男どうしで決められなかったはずだ。
 
 現代でもそうだが、居住や転居にたいする妻・女性のこだわりは、男性の非ではない。女性の意見で大半が決定される。つまり、お家主義の最大の権限は女性にあるのだ。
 女が影で男を動かす。時代が変わっても、歴史が転換しても、規模の大小も問わず、女の真底の強さは変わらないだろう。
 
           *
 
 江戸城(皇居)は、はたしてだれのものか、とわたしの思慮はもどってきた。大田道灌の子孫か。徳川家か。天皇家か。この素朴な疑問がなおもつづいている。ちょっと調べてみた。
  
 江戸城が無血開城した年、会津が陥落すると、明治天皇が京都から東京に行幸した。2度目の東幸(明治2年3月)で、住いを京都御所から東京城に移した。
 それは遷都(せんと)でなく、東京奠都(とうきょうてんと)だという。つまり、岩倉具視や大久保利通たちが、首都を東京としてしまった。
 政治家たちは、どの時代も、「天皇を利用した」とは一言もいわない。なし崩しに既成事実を作ってきたのだ。

 明治2年には「版籍奉還」(はんせき ほうかん)によって、全藩(日本中)の土地が天皇に返された。それは国有か、あるいは天皇の私有か、と意見が分かれるところだ。

 岩倉具視らは、国家の行政が干渉できない「皇室財産」をきめた。国家予算の決議が及ばないものが皇室財産となった。それによって、世界の王室のなかでも、最大級の資産となった。

 明治天皇は、ボロボロになった辞書ひとつ、国の財産だからと大切にし、買い替えるにも、自分の意志ではいかなかったという。
 皇室財産とは、天皇が直接管理でるものではなかったのだ。

 現在も、そうではなかろうか。
 
 時代はいっきに飛んで現在をみると、東京の皇居は115万0437㎡で皇室財産となっている。同様に、京都御所は20万1000㎡である。

 戦後の日本国憲法では、皇室の財産は国に属する、となっている。つまり、皇室財産は大規模に国の財産に転換されたのである。

 多少は納得できた。国有財産とは国民の財産だから。

                        (了)
  

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