歴史の旅・真実とロマンをもとめて

穂高健一講演会「渋沢栄一と一橋家」日程変更・案内=葛飾区立図書館 

 穂高健一 講演会「渋沢栄一と一橋家」が、7月25日(日)に予定されていましたが、緊急事態宣言のため10月24日(日)に延期となります。


 立石図書館より、下記の案内です。
『こちらの講演会は定員に達したため、申込受付は終了しています。なお新規のお申し込みはありません。事前申し込みされた方のみご参加いただけます


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開催日 令和3年10月24日(日曜日)

時間 午後2時 から 午後4時 まで(開場午後1時30分から)

会場  葛飾区立・立石図書館2階研修室

対象 区内在住中学生以上

定員 35人(事前申し込み・先着順)

講師 穂高 健一氏(作家)

申込方法 終了

費用 無料

特記事項 感染症対策にご協力お願いします

私はなぜ歴史小説を書くのか=あくどい人間をいつまでも英雄にしておかない

 十年一昔のことわざ通り。この『穂高健一ワールド』の掲載数は約10年間の累積が2730の掲載に及んでいる。(HPは10年目のメンテナンスで、ここ1か月間ほど掲載が止まっていました)。

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 私の記事のみならず、多くの寄稿作品から成り立っている。読者が、『穂高健一ワールド』を利用してもらう場合には、トップ画面の「サイト内検索」で、キー・ワードを入れてもらえば、数分以内で呼びだせる。
 寄稿者ならば、自分の名前を入れると、過去の掲載作品が一瞬にして表示される。

 歴史に興味ある方だと、事件名、人物名、地域名、あるいは歴史用語などを「サイト内検索」に入れて左クリックすれば、その関連の記事が列記される。

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 「歴史」とは過去の事象を描くもの。しかし、裏を返せば、新発見とか、新しい切り口とかで、従来の史観がちがってくる。

「歴史」は時代とともに進歩しているといえる。その面でいえば歴史は、科学や医学の進歩とおなじかもしれない。

 このHPに掲載した歴史関係は、この10年間の流れのなかで、多少なりとも内容が違ってきている面もある。それは新たな取材の裏付け、思いもかけない新発見の史料による歴史の進化があったともいえる。
 ただ、私のテーマは変わっていない。「あくどい人間をいつまでも英雄にしておかない」という信念と信条は変わっていない。

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 約10年ほど前のある日、山口県内の著名な博物館を訪ねた。坂本龍馬の取材で、歴史学者に話を聞いていた。1時間ほど経った。
「長州は、倒幕に役立つ藩でなかったんですよ。萩と長府の分裂で、長州藩内は殺戮の内乱の連続だったんですよ。明治なるまで、藩論統一はできなかった」
 私はえっとおどろかされた。

 その後、調べてみると、長州が幕府に勝ったという第二次長州戦争のあとも、毛利家は朝敵のままだった。これでは倒幕など足も、手も出ない。調べてみると、毛利藩主・世子や長州藩士らは隣の芸州広島藩にすら足を運べなかった。
 木戸孝允ら長州の幹部が広島藩との打合せにいくことすら、幕府の厳しい目があるために容易ではなかった。広島藩世子・浅野長勲(最後の大名)が船に乗り宮島詣でカムフラージュし、新岩国港まで迎えに行かざるを得なかった。
 慶応3年12月9日の小御所会議まで、約一年間、毛利家の家中が京都に足を踏み入れば、新選組、見回り組に斬り捨てられる状況だった。

「長州藩は倒幕に役立つ藩でなかった」
 それは歴史的事実だった。なぜ「薩長倒幕」という用語になったのか。後世の歴史学者のねつ造か。

 それを深く掘りさげると、芸州広島藩浅野家の「芸藩志」(げいはんし)に出会った。実態は薩摩と芸州広島による「薩芸倒幕」と行きついた。そして、「広島藩の志士」(二十歳の炎・改訂版)を出版した。

 ここから、私は幕末史の通説を信用しなくなった。
     
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 有名な黒船来航においても、通説では、徳川政権の交渉団は弱腰であり、ペリー提督に蹂躙(じゅうりん)された。それによって、わが国は鎖国を放棄し、いやいや開国されたというものだ。
 この定説が教科書にまで採用されて、明治、大正、昭和、平成、令和の現在まで、大手を振ってまかり通っていた。俗にいう、薩長史観である。

 その根拠は「ペリー提督日本遠征記」である。外国に遠征した軍人たちは、不都合なところは隠し、わい曲した自慢話ばかりである。
 明治の御用学者は、薩長閥の政治家たちをヒーローにし、一方で、西洋コンプレックスからアメリカ側の史料をう呑みにしている。黒船の 乗組員の日記・覚書を中心にした「ペリー提督日本遠征記」が我が国の学説の根拠にしている。かたや、幕府側の史料は完全に無視だった。

 当時の徳川家の狩野派などは、世界に通用する繊細な肖像画技術を持っていた。しかし、おもしろ可笑しく人の気を引く「かわら版」のペリー提督の鬼のような似顔絵を教科書に採用されている。

 1853年の「黒船来航」から約160年経った現在、日本側の外交交渉団の『墨夷応接録』(ぼくい おうせつろく)が世に出てきた。
 幕府の交渉団は、アメリカ大統領の国書の扱い、アメリカ側の通商要求などつよく拒否するなど、結果からみた歴史的な事実とぴたり符合できる。

「幕府は弱腰ではなかった。かれらはペリー提督の要求を論理的に、ことごとく打ち砕いていた」
 私たちの想像をはるかに越える幕府の外交は知的な集団だった。

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 ペリー来航以前においても外国船の来航が数多くあった。イギリス、フランス、オランダ、アメリカ、ベルギーなどの来航が、当時の外交政策におおきな影響を与えている、と私は知った。

 徳川幕府の重要な史料『墨夷応接録』から、私は阿部正弘を追ってみた。日本側の歴史書は信用ならないと、さらに外国側から資料をあさりはじめた。
 オランダの「別段風説書」などすべて目を通した。冒険家マンドナルド(長崎で、通事に英語を教えた)も、貴重な資料を残している。
 さらにジャワやアジアで発行されている英字新聞なども漁った。グーグルの翻訳サイトを使えば、無料で膨大な英字新聞すら数秒で日本語になる。
 「てにをは」はあやしげだが、私は作家であるし、文意は難なく読み取れる。
 発刊した『安政維新』(阿部正弘の生涯)は、これら外国資料と『墨夷応接録』で組み立てている。

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 私は、薩長史観が幕末英雄を鼓舞した軍事思想になったと、嫌悪に似た感情を持っている。薩長閥の政治家は、教育で軍国少年を作り、「お国のために戦う」と命を投げ捨てる兵士を作り上げた。日本の近代化という名の下に、大陸侵略へと手を伸ばしていった。

 日清戦争、日露戦争、満州侵略、日中戦争、太平洋戦争へと悲惨な結果へとつながった。太平洋戦争だけでも、320万人の戦死者を出した。近隣諸国を含めると、千数百万人の犠牲となった。
 元を正せば、御用学者が作った薩長史観が、悲惨な戦争への道になった。

 令和3年の今、太平洋戦争から77年が経つ。明治新政府の軍事教育から150年が経った。
「150年前の罪だから、忘れてしまったともよい、ということにはならない」
 私たちは人間としてやってはならない倫理、道徳の面で、過去の英雄を裁判にかける必要がある。
『あくどい人間を、いつまでも英雄にしておかない』
 その執筆精神は大切にしておきたい。来年8月から、私は新聞連載のしごとが入っている。無抵抗な市民を殺戮し、政権の座を得た人物は英雄の座から引き下ろしたい。 

藝州広島藩の神機隊を探訪する = 大政奉還論を推し進めた広島藩 ①

 第二次長州戦争から戊辰戦争まで、歴史には謎が多い。謎というよりも、資料が薄く、推測でしか、筋立てが追えない面が多い。
 第一長州征伐が起こる。幕府側の総督・尾張慶勝(元尾張藩主)と、参謀の西郷隆盛(薩摩藩)が、35藩15万人で進攻しながら、曖昧な長州処罰で引き揚げてしまった。ここに徳川幕府が倒れる大きな起因があった。

 歴史学者や歴史作家は、ヒーロー西郷隆盛を悪く言いたくのだろう、倒幕の根源が第一次長州征討の未処理のいい加減さにある、書きたがらない。
 一橋家の徳川慶喜がそれを知って「芋(薩摩)にやられたのだ」と尾張の慶勝に激怒した事実がある。
 明治時代になっても、德川慶喜が『長州・毛利は許せても、薩摩・島津は許せない』と語っている。ここらが本質をよく物語っている。


 孝明天皇は曖昧な長州処罰に不満だった。さいど朝敵の長州・毛利家を討て、と命じた。もはや、と14代将軍の家茂がみずから大阪城まで、出陣するより方法はなかった。ただ、和宮の夫だけに、孝明天皇からすれば、家茂は義弟になる。
 強引な長州征討はもとめず、やや緩やかなものになった。

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 1866年6月に第二次長州戦争が勃発するのだが、その前年から、幕府は第二次長州征伐へと進む。15万の幕府軍と500人の長州藩軍の戦いだった。だが、幕府は一つに結束できなかった。

 まず、広島藩は2回目の長州戦争に大義がないと征討に反対した。老中・小笠原長行が幕府軍の指揮を執るために広島にやってきた。広島藩の野村帯刀、辻将曹(つじしょうそう)ら執政(家老級)は、繰り返し戦争回避の建白をする。
 ところが、小笠原老中は、出兵に反対する広島藩の執政(家老)二人も楯突くと言い、謹慎処分にした。これでは藩政府は回っていかない。
 老中の横暴に対して、学問所関係者の若手55人が反発し、『戦争を推し進める老中を打ち取るべし』と小笠原の暗殺を謀る。そのなかに、高間省三がいた。あわや幕府と広島藩の戦争になりかけた。藩主の浅野長訓、世子の長勲が小笠原老中を広島から退去を言い、かつ広島藩の参戦拒否で収めた。

越後高田藩の出兵風景 絵=最後の浮世絵師・揚州周延(橋本直義)、かれも参戦している。
 

 越後高田藩の部隊などをみれば、慶応元年5月に越後から大阪に向けて出発していた。12月に海田(広島県)に到着しました。兵士らは厭戦(いやけ)の気分だった。部隊は延々と海田で待機していた。
 諸藩をみれば、2度にわたる戦費はすべて自前だし、苦境に陥っていた。いつ戦闘が怪死するのか、見通しも、情報もなく、戦う気迫は削がれていた。

 薩摩藩となると、小栗上野助など江戸の幕閣が「長州を討った後、その勢いで薩摩を討て」と主張している。なにしろ、第一次長州征討の毛利家処分なしの総引き揚げは、幕府を嫌う西郷の罠だと思っている。
 
 にらまれた薩摩藩は、もはや幕府の先鋒となって朝敵の長州藩と戦争などしていられない。むしろ、薩長同盟を結んで、ともに耐え忍ぼうとする策にでた。

 それでも長州戦争が勃発する。藝州口では、厭戦気分との彦根藩と高田藩が、広島が抜けた先鋒隊となった。武器は旧式だし劣勢になった。敗走する。しかし、フランス式の軍隊の紀州藩が出てきて、長州を追い返する。藝州口の戦いは互角だった。

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 幕府側からみれば、最悪は小倉城だった。肥後熊本藩の大将と老中・小笠原が大喧嘩してしまったのだ。肥後熊本藩は総引き揚げする。他の九州の諸藩も引き揚げてしまった。
 となると、小倉藩だけが長州藩と戦う。沖合の幕府側の戦艦は、射撃の砲弾も高価だと言い、艦砲射撃もしない。戦う気力もなく、傍観していた。

 小倉城は、藩士ら手で自焼した。しかし、ゲリラ戦で、長州藩兵と長く戦っていた。

 14代将軍の家茂が大阪城で死去した。一橋慶喜の命令で勝海舟が広島に休戦協定でやってきた。広島藩の執政・辻将曹(つじしょうそう)が、長州藩にかけあい、宮島で長州藩と幕府との間で、休戦協定がむすばれた。

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 江戸の幕閣あたりから、3度目の長州征伐を言い出す。
 広島藩としは藝州口で、甚大な被害をこおむっている。また、戦争をる気か、民が塗炭(とたん)の苦しみに追いいるだけだ。
「こんな徳川幕府はもう政権を朝廷に返上した方がいい」
 広島藩が藩論一致で、倒幕に動き出した。まず薩摩を巻きこんだ。土佐藩は山内容堂の許可が取れなかった。代わりに、朝敵の長州を加えて、薩長芸軍事同盟を結んだ。軍事圧力で幕府に迫るというものだった。

 勘の良い徳川慶喜は、土佐藩と広島藩が出した大政奉還を受けた。慶喜は、ここは一度幕府を解体し、新たな政府をつくる。アメリカ大統領のような頂点を据えた。議会制度をつくる狙いがあった。
 大政奉還は朝廷が認めた。ここで、公家が秘かに動いた。「王政復古」という平安時代のような、武士階級でなく、朝廷を動かす公家による政治を行う。
 主力は岩倉具視で、薩摩の大久保利通と西郷隆盛がそれに乗った。

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 慶応3年12月9日に、王政復古新政府ができた。幕府は武力でつぶしておかないと薩摩にしろ、長州にしろ、わが身が危ないと、鳥羽伏見の戦いが起きた。
 広島藩の執政・辻将曹が、「これは薩摩と会津の怨念の戦いだ。広島藩はこれに乗るな」
 伏見に出ていた軍隊には、戦わさせなかった。


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 朝廷から、広島藩には備中・備後に出動せよ、と命が出る。藩兵が出動したが、神機隊が300人も出陣した。尾道から笠岡に上陸し、備中の陣屋を占領し、民衆を鎮撫し、一応の役目を果たしてきた。


「伏見の戦いで、辻将曹の実弟・岸総督が失態を犯した。日和見の広島藩が闘いから逃げてしまい、京都の有志から、腰抜けだと嘲笑されている」
 船越陽之介が、その情報を持ち帰ってきた。
「広島藩が笑いものにだと」
 若き神機隊の隊員が激怒した。このうえは、神機隊の全体が一致して、激戦地に出動し、命をかけて戦おう。広島藩の名誉挽回だ。ただちに関東出兵を決めた。

 神機隊の出動は、財政難の広島藩から認められなかった。
「みずから、軍費を負担して出兵する以外に方策はない」
 と家中や豪商・豪農に。軍費調達に走れ、と出兵の準備を着々と整えた。

「神機隊が自費で、戦場に行くなど、広島藩の恥さらしだ」
 藩政府は、請願の裁許を出さない。
「ならば、精鋭として選んだ320人はみな脱藩しよう」
「300余人がいちどに脱藩など、前代未聞だ。広島藩の無策ぶりをみせるようなものだ」
 藩政府は議論百出だった。

                      【つづく】
『予告』

 ◎2回目
 ・広島藩・神機隊の高間省三(二十歳にして広島護国神社の筆頭祭神)、一橋家の興譲館の館長の阪谷朗盧(開明派の学者)、NHK大河ドラマの主人公・渋沢栄一(近代日本経済の父)、かれらの知られざる接点。
 ・パリ万博に行く渋沢栄一の「見立養子」となった渋沢平九郎は、上野の彰義隊から分裂した振武軍の副隊長となった。戊辰戦争の飯能戦争(埼玉県)において、平九郎は秩父の山中で神機隊斥候と遭遇し、戦った末に自刃する。割腹した名刀の小刀が神機隊の河合三十郎の手で永く保管され、明治26年に広島で渋沢栄一に渡された。
 拙著「広島藩の志士」には、現地取材で詳しく取り上げられています。
 ・大河ドラマ「青天を衝け」で、この渋沢平九郎が悲劇のヒーローとしてクローズアップされてくるでしょう。

 
◎3回目

 ・自費出兵の神機隊は約21歳の若者たちで、従軍日記にもローマ字で署名するなど、高度の知識と教育訓練を受けた精鋭部隊たちだった。
 ・広島藩主の藩命でないからと言い、総督を置かず、義勇同志とした。武士と農兵との間には身分の上下をつくらなかった。関東征討、奥州の激戦地で戦う若者は、軍律厳しく、侵攻者特有の暴虐は許さず、現地の民に気配りする美談の数々を残す。
 ・令和のいまも、墓前に花が飾られている。

再掲載・【歴史から学ぶ】 日本の経済・文化が変わる = 渋沢栄一からヒントを得る(下)

  渋沢栄一は、ヨーロッパ帰りで、静岡で商法会所を起ち上げて、資本主義の原点である商工業と銀行業をスタートさせた。
ところが約半年後に、大蔵省の租税正に任命されたのだ。渋沢はかたちのうえで出仕してから、大隈重信に直接面会して、辞意を述べた。

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「たとえ足下(渋沢)が、充分なる学問がないにせよ、すでに駿河で一商会を組み立てている。それを日本全国に普及させて、日本に実業界を作ってくれ。それにはまず大蔵省で仕組み(法)をつくる。そのためにも、有為な人物が必要なんだ」
 肥前藩出身の大隈重信は、頭が切れるし、強引だった。
「私は静岡で自分流の事業を行いたいのです。官吏にはなりたくない」
 渋沢は新政府の要職は御免だとばかりに、あれこれ申し立てた。

「慶喜公にたいする義理は一応もっともである。だが、慶喜公のみを思うて、天子(明治天皇)にたいする奉公の念はなくても良いのか。大蔵省で財政・金融の仕組みを作ってから、足下(渋沢)が思う存分に実業すればよいことだ」
 薩長土肥の政治家は、資本主義の経済そのものが理解できておらず、日本が今後どの方向に進んでいくべきか、まったくわからないのだ、と大隈はくり返す。


「奉職は引き受けかねます」
「なにを苦しんでおる。足下(渋沢)の考えはちがう。静岡と、日本の将来という大小を比べてみたまえ。わが国は欧米諸国の先進国の谷間で、封建主義の古い体質から変わらないと沈没してしまう。解るだろう」
「私は一橋家に仕えた身です」
「大蔵省は新政府をつくるというよりも、日本の資本主義を作るのだ」
  弁の立つ大隈重信に、渋沢栄一はとうとう口説き落とされてしまった。

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 ここから4年余り、渋沢は財政・金融の総合プランナーになって、貨幣制度を「両」から「円」に切りかえた。銀行条例を作った。会社組織の条例も次つぎにつくった。

 この間、明治4年には廃藩置県があり、全国から大名支配が消えた。これにともなう数々の新制度を作った。

 租税もお米から紙幣に改正した。鉄道を作るために、外債を発行する。新紙幣は信用をつけるために、ヨーロッパと同様に兌換紙幣にした。新政府の国庫には金・銀の手持ちがない状況下で、実にハイ・リスクである。

 失敗を恐れていたならば、日本経済は死ぬか止まってしまう。渋沢は突っ走った。新事業として、官営冨岡製糸場をつくる。

 写真=冨岡製糸場のHPより

 武士階級が消える。士族には公債証書(有価証券・売買はできる)を発行し、年4分の利息を付けて、6年間は元武士の生活保障をした。


 話を割り込むが、新型コロナウイルスの現在、政府が収入のない中小・小規模企業のみならず、国民に一律の支給する。さらに5年間は無利息・無担保という。
 国民の生活保障をして支えようとしてる。失業した武士を支える。収入がない人にたいする政策努力において似ている面がある。

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「君は生まれつきの経済の天才だ。そのうえ、良く勉強もするし。物事は学問だけではできぬ。経済から近代化を推し進めてくれ」
 激賞する井上馨がとくに後押した。

 大蔵卿の大久保利通が岩倉使節団と海外に行って不在だったから、渋沢の企画がスムーズに採用されていた。貨幣制度、公債発行の方法、銀行の仕組みが整った。

 当時は、外国から招聘(しょうへい)した行政官、教育者(北大・クラーク博士など有名)、産業指導など多分野で指導をあおいだ。しかし、大蔵省だけは、渋沢栄一がいるので、1人も外国人を入れず、財政・金融システムを創りあげた。


 渋沢栄一は、日本が植民地にならなかった最大の貢献者である


 戊辰戦争の勝利者だった薩長土肥の政治家だけでは、渋沢栄一のように資本主義の骨格形成などは、とても迅速にできなかっただろう。疑いもなく、歴史的にもそう言い切れる。

 渋沢栄一は大蔵省を辞してからも、第一国立銀行を創立した。そして、日本の基幹産業の会社づくりに猛進した。印刷業の発展からも、製紙業は和紙から洋紙にするためには必要不可欠な企業だった。「王子製紙株式会社」を設立した。

 物品の海上輸送と荷為替の両立するためには、保険が必要である。「東京海上保険会社」を作る。株券・社債・証券の売買には「株式取引所」を作り、古巣の大蔵省の認可を得た。

 外国から綿糸を輸入していると、外貨がながれでていく。そのためには紡績業の発展が必要だと言い、「大阪紡績株式会社」を設立し、成功させる。

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 明治42年まで、渋沢栄一は約500社の株式会社の設立にかかわった。
 新規の産業となると、リスクもあり、失敗する事業がある。他人から批判されることもあった。それでも、彼はみずから率先し、先進国並みの企業を創立した。

 諸外国で産業革命から200年余りかかったことを、20-30年でやり遂げようとしていた。
 現代にまでつづく大企業が多かった。日本郵船、清水建設、東京電力、東京ガス、IHI、帝国ホテル、東京製鉄、サッポロビール、川崎重工など、書きつくせないほどある。

「私が一人で作ったのでなく、たくさんの企業家、資本家と深い関係をもちながら、創業にかかわったのです」
 渋沢は信頼が財産という考えだった。


 渋沢のすごさは財閥を作らなかったことだ。三井財閥、住友財閥、安田財閥とまわりは巨大化していく。

 日清戦争・日露戦争のあと、渋沢は企業活動から手を引いた。そして、慈善活動、教育活動へとシフトした。数々の大学の設立にかかわった。
 欧米、アジアとの民間外交に専念する。
「外国との協調なくしては、日本の繁栄がない」
 渋沢栄一は、昭和6(1931)年、91で永眠するまで、世界の激しい変化のなかで、民間外交に尽くした。
 2度もノーベル平和賞にノミネートされながら、日本が大正・昭和初期の戦争という路線で、受賞から外されている。

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 渋沢栄一が推し進めた資本主義は基幹産業として企業を作ってきた。それが現代日本の根幹だった。
 新型コロナウイルス禍で、新しく日本が生まれ変わろうとしている。これからはテレビ会議、オンライン、ネット文化のなかで、いかなる社会になるのか。
 個々人が独立した起業家になっていく様相を呈している。
「新しい事業には、一直線で無難な進行などないのです。躓(つまず)き、種々の悩みを経て、辛苦(しんく)をなめて、はじめて成功をみるものである」
 新しい分野への道は、いつの時代もまったく同じだろう。

 農民の出で学問はありません、と言いながらも、苦労に苦労を重ねて、率先して「日本を資本主義の大国に導いた」渋沢栄一の一つひとつの言葉は、含蓄(がんちく)があり、「座右のことば」にしたくなるものがたくさんあります。
 そこから読み解いていくと、私たちの将来へのヒントが生まれるでしょう。
 
【了】

再掲載・【歴史から学ぶ】 日本の経済・文化が変わる = 渋沢栄一からヒントを得る(中)

 渋沢栄一は面白い経歴だった。ここらからひも解いてみよう。

 生れが天保11(1840)年で、武蔵国洗島村(埼玉県・深谷市)の農家(名主)だった。幼少の7歳で、頼山陽の「日本外史」を読んでから尊王思想に魅せられたという。

 武蔵国の豪農の子どもらは剣術をならう。近藤勇、土方歳三などのように。渋沢栄一も武芸として神道無念流を学んだ。
 渋沢は19歳で結婚してから、江戸に出て、北辰一刀流の千葉道場に入門する。そこでも、尊王攘夷の思想に染まり、23歳にして、大胆なことを考える。
 農民はどんなに才知があっても、勤勉しても、政事はつけない。逆の道をいこう。それには、尾高惇忠、後に彰義隊頭取になる渋沢成一郎などとともに、「高崎城を乗っ取り」、その勢いを借りて、外国人の多い横浜の横浜を焼打ちにする。国家が混乱すれば、英雄が出てきて、国政をとるだろう。
 
「暴挙だ、一揆とみなされて、斬首が落ちだ」
 と従弟に反対される。

 高崎城乗っ取りを断念した渋沢栄一は、京都に出て、尊王攘夷の志士活動をしようと決めた。八月十八日の変のあとで、期待した過激派の長州は京の都を追われていた。勤王派は凋落していたのだ。
「持ち金がなくなった。腹がすくし」
 江戸で顔見知りだった一橋家の重臣・平岡円四郎が京都にいる。そこを訪ねた。
「うちにきて、中間でもやれ」
 と手を差し伸べてくれたのだ。ここから人生は尊王攘夷とは真逆になった。
 一橋家の最も下っ端で、足軽以下で、雑魚寝(ざこね)である。すこし昇格して御徒士(おかち)になった。
「一度でよいから、殿さまの慶喜公にお目通しさせてほしい」
 と御用人に頼んでおいた。大胆な希望だった。ところが、そのチャンスを作ってくれたのだ。
「一橋家には軍隊がありません。殿さま(慶喜公)は京都守衛総督でいながら、身辺警備の100人ばかり。京に戦いが起きたら、守衛でいながら役にもたちません。一橋家の御領内から1000人の農民をあつめて、歩兵を組み立てられたらいかがでしょうか」
 と注進した。慶喜はただ無言で訊いていた。

 数日後、歩兵取立御用掛を言いつけられた。つまり、兵士の募集係だ。

 一橋家は飛び地として摂州、泉州、播州、備中、それに関東にもある。御徒士の低い身分の渋沢栄一が出むいても、どこの代官所も協力しない。予想外の難問だった。一軒ずつの農民を口説いても、翌日には断ってくる。1人も集まらない。
 別の領地に出むいて、そこの代官に直接頼んでも、下っ端か、とあなどられてしまう。
 備中井原村(現・岡山県)は一橋領で、興譲館(こうじょかん)があり、阪谷朗廬(ろうろう)という著名な学者がいた。学者から代官に頼んでもらおう。思惑とおり、阪谷は協力してくれた。ここから切り口ができて、総体として450人ほどあつめられた。
 
 この興譲館には、広島・神機隊砲隊長となる高間省三が、学問所の助教のとき遊学していた。もしかすれば、渋沢栄一と顔を合わせていたかもしれない。
 神機隊と渋沢栄一とは戊辰戦争の時、思わぬ関わりが生じるのだ。

           *
 
 渋沢栄一は、小規模ながら、一橋家の軍隊を起こした。さらに、産業奨励にも積極的で、勘定組頭になった。みずから提案した藩札も発行し、金融の実践である。それぞれが成功した。経済が好きな人物になった。
 これが近い将来のヨーロッパ留学で、おおいに役立つのだ。

           *

 厄介なことに、慶喜が15代将軍になったことで、組織は巨大になってしまった。渋沢は望まずして家臣から幕臣になった。とはいっても、幕府内の超下っ端だから、とても産業・金融の仕事などありつけない。
 むろん、将軍・慶喜にも拝謁できない。また、浪人にもどろうか、と渋沢は考えていた。 

 慶応3(1867)年に、パリ万博が開催される。德川将軍の名代として、水戸藩の昭武(あきたけ・最後の水戸藩主)が出むくことになった。慶喜は、年少の昭武には5-6年は留学させる予定だった。
 かたや、水戸藩は頑迷な攘夷派集団だから、外国人嫌いだ。お供の人選に難航していたらしい。かろうじて7人と決まった。一橋家からは、金銭感覚の良い渋沢栄一が加わったのだ。
「経済が学べるぞ」
 夢が一杯だった。貪欲に学びたい渋沢は、まず船中でフランス語を勉強していた。
「なにがなんでも、ヨーロッパの好いところを学びたい」

 一行はパリ万博のほかにスイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスと巡回旅行した。
 渋沢は学ぶポイントを絞り込んだ。将来は政事・政策など無縁だし関係ない。ひたすら経済学を修めて金融、運輸、商工業を会得することだと燃えていた。
 
 最大の関心事は、紙幣の流通だった。紙幣が金・銀に替えられる。それも量目も純分も同じある。日本の場合は石高の表示であり、金に換えられない。

 次の興味は銀行だった。他人の金を預かったり、貸したりもする。為替の取り扱いもする。ここらは日本にないシステムだった。
 ヨーロッパの鉄道会社は新規投資に、借用書(社債)を出す。日本では借金を隠すのが一般的だが、ところが、なんと借用証文(公債証書)が公然と売買されているのだ。

 商工業の組織は不特定が株券を買う、株式会社である。つまり、大勢が出資した商工の会社である。
「なるほど、国家の富強は、かくのごとき物事が進歩しなければならないのか」
 と資本主義の骨幹を知った。

 日本は武士が威張っている。だけれど、ヨーロッパの軍人は商工者(実業家)の地位を尊敬している。まるで、日本と逆だ。
「すべてのひとが平等でなければ、たがいに投資して、共同で事業の進歩を成すことができない」
 渋沢は領事官を介して、銀行家、郵船会社の重役に会って話すこともできた。経営者からの視点も得られた。

 こうして学んでいるとき、徳川幕府が倒れてしまった。帰国命令が出たので、一行は明治元年11月に日本に帰ってきた。

 德川慶喜公は謹慎で、駿河の宝台院という寺の汚い一室に、押し込め隠居のような有様だった。出発時には将軍であったひとが、惨めな生活を強いられている、と渋沢は心を痛めた。

 かれには養子に剣術の達人・渋沢平九郎(写真)がいた。戊辰戦争の飯能戦争で、振武軍の副将だった。
 平九郎は敗戦で、秩父の山道を逃げているさなか、広島・神機隊の斥候たちと遭遇した。4人をあいてにして追い払ったが、銃弾を一発足に受けていた。平九郎は観念して自刃した。

 渋沢栄一は慶喜の境遇、平九郎の死という失望感から、田舎に帰り農業するか、駿河でヨーロッパで学んだ産業の実践経営をするか、と迷っていた。

 ちなみに静岡市内の有力者たちに、合同出資を持ちだしてみた。

 ヨーロッパ帰りということで賛同者が得られたので、官民合同の「静岡商法会所」(株式会社)を設立した。渋沢栄一は事務総裁の頭取と名づけて、そこに座った。
 事業は米穀、肥料など商品の売買、そして銀行業務として貸付、預金もひきうける。いわゆる万屋(よろずや)商法であった。

           * 

 明治2年11月、箱館戦争が終結するまえだった。突然、大蔵省に出仕せよ、と藩庁を介して渋沢栄一に厳達がきたのだ。
 かれは拒否した。
「それはならぬ、静岡藩が新政府に楯突(たてつ)くことになる、有為な人材を隠していることにもなる」
 と藩庁は受け付けない。藩主や慶喜公にも迷惑になることだという。

 この当時、大蔵卿(大臣)が伊達宗城、大蔵大輔(実質のトップ)が早稲田の大隈重信だった。その下に伊藤博文、さらに井上馨と続いていた。


 渋沢栄一は静岡藩庁の顔を立てて、ひとまず大蔵省に出仕してから、すぐに大隈重信に辞表をだした。
「これからの日本の経済界を進めていくには、渋沢栄一が必要だ」
(御免こうむりたい)
 渋沢は慶喜公の惨めな姿からしても、新政府に役立つ人間になろうとは思わなかった。
大隈の説諭は執拗だった。

                     【つづく】

再掲載・【歴史から学ぶ】 日本の経済・文化が変わる = 渋沢栄一からヒントを得る(上)

《再掲載の理由》
 2020年5月9日にRCC(中国放送)ラジオで、穂高健一の「幕末・明治・大正の荒波から学べ」で放送されたものです。
 このたび、葛飾区立図書館から今年7月に『渋沢栄一と一ツ橋家』(2時間)の講演依頼が寄せられました。館長がこのHP 『日本の経済・文化が変わる=渋沢栄一からヒントを得る』を読まれたそうです。
 現在、NHK大河ドラマ「青天を衝く」で、渋沢沢栄一が放映されています。視聴者にも、参考になるかと思い、再掲載しました。


【本文】

 新型コロナウイルスの感染拡大で、日本中の経済・文化・学術活動が思いもかけず急ブレーキがかかった。ここ2~3か月間は外国への往来の航空機も、物流の船舶も止まった。経済活動があらゆるところで停止した。
 経済が動かなければ、世のなかは沈んだ状態になる。多くのひとは「お金(紙幣)」の重要性が身に染みている。
 全国民に1人当たり10万円の支給と言い、一万円札が10枚並んで大写しになる。その肖像画はいま福沢諭吉である。2024年から渋沢栄一に変わる。
 福川諭吉といえば多くが知る思想家であり、慶應義塾大学の創設者、「学問のすすめ」と矢つぎばやに答が出てくる。
 しかし、渋沢栄一となると、「日本の資本主義の父」という概念くらいで、かれの具体的な業績はあまり知られていない。
 封建主義から資本主義に変えたうえ、日本を産業革命に導いた。そして、世界列強という大国にまで伸し上げさせた。それが渋沢栄一である。
 日本人の慈善家として、2度もノーベル平和賞の候補にもなった。


 紙幣は厳密にいえば「日本銀行券」である。渋沢はその中央銀行の発足にも最大限にかかわってきた。真っ先に、紙幣の肖像画に採用されても良かった。
 過去からなんども肖像画の候補になりながら、顔に顎(あご)髭がない理由から採用されなかった。伊藤博文のように、繊細な頭髪や顎髭は、贋金(にせがね)防止のために必要とされてきたからである。

 いま流通する福沢諭吉の紙幣は、顎髭がなく、精巧で贋金防止ができた。ならば、大本命の「渋沢栄一」で行こう。当然の成り行きだ。

            *
 
 私たちはウイルス禍を機に、今後の社会は変化する、と感じている。なにが、どのように変わるのか。いまの段階で、誰も、これだと見通せない。
 かえりみれば、現代社会は企業の力を強くすることで国の富を増してきた。
 私の想像だが、企業や組織よりも、個人の力を底上げすることで、国が豊かになる時代の到来かもしれない。
 これまでは企業とか、チームとか、国とかの枠や後ろ盾(バックボーン)が重要視されてきた。しかし、これからの世のなかでは、多くの人が個々に技量を磨き、プロフェショナルという職業人になってくる、と思われる。
 本人の自由意思で働く、「フリーランス時代」というべきだろうか。営業マンにしろ、介護士にしろ、店員にしろ、プロとして自立して、ネットを通して自分を売る時代だ。ある意味で、お呼びがかかる、全国、世界に渡りあるく時代になりそうだ。
               
            *

 私の憶測とか、推測よりも、歴史を読み解いてみたい。そのなかに将来へのヒントがあり、教訓とか、学ぶこととかがあるだろう。
 それには150年前、新しい経済の偉人・渋沢栄一に向かいあってみよう。そこから英知をもらおう。

           *
  
 令和2年は新型コロナ禍で、社会が一律に元気を失い、消沈している。これとよく似た歴史が、幕末から明治時代に突入したときである。
 戊辰戦争で国中が疲弊し、社会全体が活気を失い、経済が停滞していた。幕藩体制の崩壊で、武士は給料(扶持・ふち)をもらう相手がいない。どのように生きたらよいか、まったく見通せない環境におかれていた。
 西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允は、「明治の三傑」かれらは地方の下級藩士で、全国統一の政権運用の経験がない。そのうえ、「武士はそろばん勘定ができない」の類で、西洋の資本主義の実務がまったくわからなかった。
 
            *
 「明治の三傑」たちは尊王攘夷論者で、鎖国にもどれと叫んでいたから、新政権となって、いきなり近代化路線をとった。といっても、外貨、外債、利回りとか、資本主義の経済用語そのものが理解できない。
 ひとまず王政復古で、奈良・平安時代に使われた「大蔵省」を名づけた。ただ、1000年も昔の仕組みなど、19世紀にはなんの役にも立たない。

 薩長土肥の新政府の要職たちは、中央集権の経験がない。とはいっても、外国人と対面する必要がある。
「拙者は100石取りである」
「イギリス・ポンドに換算にすれば、いくらになりますか」
「外国紙幣なんて、見たこともない。紙幣そのものを使ったことがない」
 かれらは資本主義の仕組みすらわからない。
 ならば、
「外国人を雇い入れると、良いのだ。しかし、資本主義の仕組みの金融・財政で、外国人を招聘(しょうへい)すれば、アジア各国はみな都合よく半植民地にさせられている」
 この二の舞は避けたい。
「だれかいないのか」
 長州ファイブといえ、1、2年留学したくらいで財政・金融の理論と実務までわからない。現代でいえば、大学の経済学部の2-3年生が大蔵省や日本銀行の実務などできないのと同じである。
「だれか適任者はいないか」
「農民出身ですが、渋沢栄一がいます」
「農民の出か。どこにいる」
「静岡の一橋家です」
「德川慶喜の下にいるのか」
 慶喜といえば、15代德川将軍で、大政奉還、鳥羽伏見の戦い、さらには追討令まで出している。そして、駿府(静岡)の70万石に閉じ込めた。新政府とすれば、最大の敵としてきた人物である。
 渋沢栄一はその静岡県で、ヨーロッパ仕込みの会社を起こしていた。とても、巧く行っているようだ。しかし、いまさら慶喜に頭を下げたくない。
「静岡県令に命じて、渋沢栄一を大蔵省に出させよ」
 予想通り、渋沢は断ってきた。

【つづく】

【徳川幕府瓦解への道を検証する】② 第二次長州戦争が大きな災いになる

 歴史小説家は、想像で書くことで、読者の高揚感を持ち上げて、一気に読んでもらう手法をとる。最も楽な方向は、英雄を立てて、ワクワク、ドキドキ、と読ませていくことだろう。
 ただ、怖いのは読者がそれを史実として認識してしまうことである。

 戦争は突き詰めれば、「お金の問題」、つまり「経済問題」である。慶応二年の第二次長州戦争は、「薩長同盟」で語られる。そうだろうか。薩摩が薩英戦争のあと、イギリスに賠償金を払う金がなかった。幕府から借りて支払うくらいだ。

 第一次長州戦争で、全権委任の総督・徳川慶勝と、参謀・西郷隆盛が、そのまま滞在し、京都の朝廷に奏聞(意向を図り)しておけば、孝明天皇の意向による処置で、解決できたはずである。
 尊攘派の慶勝・西郷が独断で、慶応元(1862)年正月四日、長州問題を未解決で、あいまいなまま総軍を撤収してしまった。それが幕府の再征討におよんだ。
 これが幕府にとっては、災いを大きくして命取りになってしまったのだ。

 第二次征討においても、薩摩藩の賛美や「薩長同盟」賞賛が目につくけれど、しょせん西郷隆盛が薩摩藩の小松帯刀家老に進言し、長州戦争に突入すれば、巨大な軍費がかかると言い、非戦を進言したから兵を出さなかったのである。
 薩摩は経済的な打算が理由であった。
 
 広島藩、薩摩藩、肥後藩(九州・小倉口では肥後藩が老中・小笠原と喧嘩になり、引き揚げ)が非戦の態度をとり、攻撃に大きな穴を開けた。これでは勝てるわけがなかった。
 ここから、幕府瓦解(かがい)が加速していくのだ。


【第二次長州戦争の検証】

①  幕府は、毛利敬親の父子と、八月十八日クーデターで都落ちした公家(長州に五卿がいた)を江戸に招集し、幕閣がみずから長州処分を解決しようとした。
 それがかえって諸藩や朝廷の反発を招いてしまった。

② 広島藩などに、「毛利敬親などを捕縛して、江戸に連れてくるように」と命じた。広島藩はとても実行不可能だと、固辞した。

③ 幕府は慶応元年五月十六日に、再征討をきめた。紀州藩など11藩に出陣を命じた。先の総引き揚げから約五か月後の出陣は反発が大きかった。
 京都にいる慶喜と江戸の幕閣とで、意見の不統一があり、諸藩に不評を買った。

④ 幕府と長州の仲介役の広島藩は、再征討の大義名分がないし、いったん戦端が開かれると、周辺諸国も戦場化し、人民が塗炭(とたん・苦しい境遇)になる、と反対した。

⑤ 大目付役・永井尚志や老中・小笠原長行が広島にきて、長州藩の使者を呼びだす。不調だった。仲介の広島藩は、藩主・長訓、世子・長勲、執政の野村帯刀や辻将曹らが、「第一次長州戦争で、幕府の全権委任が徳川慶勝が解決済みとした。長州への再征討は大義名分かぼなぃ」と戦争に強く反対した。

⑥ 広島藩内で、物価が高騰し、庶民生活が苦しくなった。学問所の55人が、広島藩執政を次々に謹慎処分したと言い、老中・小笠原を暗殺予告をする長勲が止める。
 かれらが後に神機隊創立の母体になる。

⑦ 薩摩藩は、西郷隆盛が家老の小松帯刀にたいして、薩英戦争後で戦費もイギリスに払えておらず、ここで長州の戦いをすれば無駄な戦費になると、戦争回避を進言した。
 大久保利通が老中首座の板倉勝清に、戦争不参加を申し渡す。
 長州への四境戦略のうち、萩への海上攻撃がなくなる。

⑧ 先陣の広島藩が出兵拒否をする。旧式武器の彦根藩と越後高田藩が先陣になる。

⑨ 幕府海軍は、寄せ集め隊で、軍艦からの砲撃は、弾の消費になると、攻撃を惜しんだ。

➉ 肥後藩の司令官が、小倉で、小笠原老中と大げんかし、九州の大半が引き揚げてしまった。小倉城は自焼する。

⑪ 慶応二年七月に、家茂将軍が亡くなる。

⑫ 慶喜は八月に自ら広島にでむく予定だったが、家茂将軍が亡くなり、小倉も不利と見て、出陣を止めてしまう。

⑬ 勝海舟が宮島にきて、休戦協定を結ぶ。

⑭ 広島藩は従軍しなかったが、長州藩と紀州藩とが芸州口で戦い、大竹から五日市など住民に死傷者をだし、田地を荒廃させてしまった。

 この後において、孝明天皇が12月に崩御し、翌年、広島藩は薩摩と手を結び、朝敵の長州を巻き込んで「薩長芸軍事同盟」をむすぶ。そして、大政奉還運動へと加速していくのだった。        

【徳川幕府瓦解への道を検証する】① 第一次長州戦争で、無責任な引き揚げ

 徳川長期政権が、ペリー来航から15年で、またたくまに瓦解した。この間、全国の260余藩において、いずれも開国・佐幕派と尊皇攘夷派とに分断した。そして、多くの藩で同じ藩内で血なまぐさい内乱に近い殺し合いがあった。

 徳川政権がわずか15年間で崩壊したのか。三大要因とすれば、

① 鎖国から開国へ = 阿部正弘による。水戸藩から尊皇攘夷思想が広がる。

② 安政の大獄と桜田門外の変 = 井伊大老の暗殺が起きて幕府の権威が低下した。

③ 薩長芸による大政奉還と王政復古=新政府の樹立

【第一次長州征討】

 八月十八日のクーデター後、長州藩が復権を目指し、約2000人の兵で上洛した。幕府と千さうになり、長州藩の兵士が京都御所に銃を放った。
 孝明天皇の怒り、毛利家が「朝敵」となった。そして、長州・毛利を征伐せよ、という勅書が幕府に出された。

             *

 尾張徳川家の徳川慶勝が長州征討の総督に選ばれたのだ。このは慶勝は小さな支藩の高須(たかす)松平家・3万石から、慶勝は尾張藩・61万953石に抜擢されてきた人物である。

 ただ、高須に入った父親・母親とも、水戸藩の人物であり、慶勝は尾張徳川家の血筋ではなかった。徳川斉昭の甥ッ子である。
 それゆえに、ガチガチの尊皇攘夷派であり、安政の大獄で、水戸斉昭と徳川慶勝はともに不登城の行動を起こし、謹慎処分(武士の犯罪者)を受けた。
 井伊大老の暗殺後、慶勝はわが子を尾張藩主にし、藩政を実質支配していた。
              
              *

 参謀の西郷隆盛は、薩摩藩にあって、公武合体派の島津久光からにらまれるほど、過激な尊皇攘夷派だった。寺田屋事件で久光は攘夷派の家臣を惨殺し、西郷隆盛を島流しにしたくらいだ。
              *   

 長州藩といえば、水戸藩の徳川斉昭・藤田東湖の尊皇攘夷思想を導入している。過激な尊王攘夷派が藩政を奪り、京都では全国の注目の的になっていた。孝明天皇の勅書を偽造し、八月十八日のクーデターで失脚したのだ。

 このように第一次長州戦争において、攻める幕府側のトップも、責められる側の毛利家も、ともに過激尊皇攘夷派だった。
 ここに幕府の重大な人選ミスがあったのだ。

 長州征討に広島にでむいてきた徳川慶勝、西郷隆盛は、ふたりして長州藩の尊皇攘夷派に心が通じるものがあったのだ。根っこから一つ尊攘夷派で、戦意などなかったのだ。

 広島藩の国泰寺において、禁門の変の責任者処罰として「3家老の切腹、4参謀の斬首」で終えてしまった。肝心な孝明天皇の命の「毛利家処分」には、まったく手をつけず、問題を先送りしたのである。
 長州藩を取り囲んだ約35藩15万の兵力を総引き揚げしてしまったのだ。

「毛利家を未処分のままでは、問題が大きくなります。なんのために、約35藩15万の兵力の出兵です。毛利家の処分を明確にされる方がよろしい。」
 広島藩主の浅野長訓、そして広島にきていた幕府・大目付役の永井尚志(作家・三島由紀夫の曽祖父)らは、総督の德川慶勝に留意をもとめた。しかし、德川慶勝と西郷隆盛は、総引き揚げをしてしまったのだ。

 水戸藩出身の一橋慶喜が、徳川慶勝を推薦しただけに、ここまで慶勝がひどいとは思わなかったといい、激怒した。長州問題が未処分では孝明天皇に示しがつかず、第14代家茂将軍がみずから陣頭指揮を執ってもらうことになった。
 そして、家茂は江戸から大坂にでむいてきた。
                            【つづく】

【歴史から学ぶ】解決を先送りすると、滅亡の悲運に至る = 「下」

 第一次長州戦争の幕府軍の総督は、徳川慶勝(よしかつ)は、第14代の尾張藩主だった。尾張藩は62万石である。ただ、慶勝の両親とも水戸藩の血筋だった。

写真=尾張藩・元藩主 德川慶勝  ネットより

 つまり、慶勝は徳川斉昭の甥であり、尊皇攘夷派に固まったていた。生前の老中・阿部正弘から、尾張藩の徳川慶勝、福井藩の松平春嶽のふたりは、呼び出されて、
「徳川御三家と徳川親藩の藩主でありながら、水戸藩の老公のように、攘夷論をふりまわりし、まわりを煽るな」
 と、きつく注意を受けたことがある。

 阿部正弘の目を気にしていた慶勝だったが、正弘は老中の現職で早死にした。

 安政5(1858)年に、安政の大獄が起きた。その起因は一橋家の慶喜を将軍に推したい水戸藩の斉昭らが、江戸城に不時登城して井伊大老に抗議している。このなかに、甥っ子で、尾張藩主の慶勝がいた。決められた日以外に、江戸城に登城するのは、重大な規律違反だった。井伊大老から、慶勝は尾張藩主から外れる謹慎処分をうけている。慶勝の子が藩主になった。

「桜田門外の変」で井伊大老が暗殺されると、慶勝は元藩主として藩政に返り咲いていた。

           *

 広島藩の浅野家は、尾張藩と深い縁があった。
 
『尾張名古屋は城で持つ』といわれるほど、築城の歴史は輝いている。
 この初代の尾張藩主は、德川義直(よしなお)で、藩祖として尊敬されている。義直は徳川家康の九男で、正室は紀伊和歌山藩・初代藩主の浅野幸長(ゆきなが)の娘・春姫である。(ふたりの仲は良好だったが、子どもがいなかった)。
 この婚姻を機に、浅野家は豊臣家から徳川家に鞍替えしている。徳川の親族として幕末まで存続してきた。その縁があった。
 ちなみに、浅野幸長が早くに病死したことから、浅野長政の次男の浅野長晟(ながあきら)が、紀伊和歌山藩2代藩主となった。そして、元和5年(1869)に、安芸国広島藩の初代藩主として42万石で転封してきた。

            * 

 広島藩の浅野長訓は、長州藩と幕府の周旋役をひきうけた。戦火なく、平和裏に事態を収拾したいと裏と表の両面の舞台で動いた。世子の浅野長勲(ながこと)、執政の辻将曹(つじしょうそう)、野村帯刀など、応接役の家臣の船越洋之助、藩主密使の池田徳太郎などが、活発に、目まぐるしく双方の仲介に動いた。
 岩国の吉川家とも密なる連絡をとっていた。

 幕府が総攻撃する日が、元治元(1864)年11月18日と決まった。総督の徳川慶勝は大坂を出て広島に向かっている。猶予の時間はない。
 広島藩の執政・辻将曹と、追討軍参謀の西郷隆盛は協調し、「事ここにいったては、禁門の変の責任を取り、出陣した三家老の切腹しか、収拾の道はない」と岩国藩の吉川経幹を通じ、萩にいる毛利敬親に伝えた。

           *

 山口から萩に引っ込んだ毛利敬親は、益田右衛門介、国司信濃、福原越後に自刃を命じた。萩の野山獄において、四参謀を斬罪にさせた。三家老の首級が広島に送られた。
 吉川経幹(つねまさ)も、弁明のために広島にやってきた。

 11月14日、広島城下の国泰寺で、三家老の首実検が行われた。このとき、慶勝はまだ広島に到着しておらず、尾張藩の付家老・成瀬隼人正(なるせはやとのしょう)が総督の名代になった。幕府の大目付・永井尚志(なおゆき)、目付は戸川鉡三郎(とがわはんざぶろう)だった。広島藩・辻将曹と薩摩藩の西郷隆盛は次室に控えていた。

 翌日、大目付の永井尚志による尋問がおこなわれた。岩国藩の吉川経幹にたいして藩主・毛利敬親と世子を面縛(後ろ手で罪人として引き渡す)ことと申しわたした。吉川は顔面蒼白となり、「この上はよんどころなく死守する」と答えた。つまり、防長の武士と人民は、そんな条件が付くならば、徹底抗戦すると回答したのだ。
 ここらが戦争寸前における特有のかけひきである。

           * 

 総督・德川慶勝がこの日に、広島に到着した。浅野家の筆頭家老・浅野右近の屋敷を宿所および本営とした。11月18日に、総督・慶勝があらためて三家老の首実検をおこなった。浅野長勲も立ち会った。
 
 この二度目の首実験が、長州人には耐えがたい屈辱であり、幕府への恨みにつながっている。

            *
 
 総督の慶勝は、30諸藩の重臣から、「長州藩処分」に関して意見を聴取した。防長二州を没収せよ、毛利家を改易させよ、十万石の封地をさせよ、多くはこうした処分案だった。

 参謀の西郷隆盛から、慶勝にこう進言があった。
「長州処分を実施するには、公儀の指揮を待つ必要があります。この間、数万の兵を広島に残す必要がある。むなしく日を過ごし、いたずらに疲弊するだけです。ここはすみやかに撤兵したほうがよろしいかと存じます」
「さようだな。幕閣に後事に委ねよう。重要な長州処分だ、江戸の幕閣がやるだろう」
 慶勝は西郷の意見を受け入れたのだ。
 型通り山口と萩の視察を行なわさせた。そして、毛利敬親(たかちか)の自筆の謝罪書をうけとると、慶勝は深追いもなく、討ち入る気もなかった。孝明天皇から命じられた長州問題にはまったく手をつけず、処分未決のまま、征討軍15万の兵を早ばやと総引き揚げをしてしまったのだ。
 大目付の知的な永井尚志などは、あきれ果てて、江戸への帰路に就いた。
 
           *

 この撤兵を知らない江戸の幕閣が、「長州藩の毛利敬親・親子を江戸で裁く。都落ちの公家も江戸に連行せよ」という指令を広島に派遣してきた。大目付永井尚志とおなじ考えだ。途中で、慶勝に出会った。もはや、征討軍の全軍が引き揚げたあとで、すべてが手遅れだった。

 一橋家の徳川慶喜が、徳川慶勝に激怒した。
「それでも全権委任の総督か。毛利家を改易するとか、10万石の削減するとか、なんら処分をするべきだろう」
 まさに幕府の権威を傷つけられたとおなじだと、慶喜は怒り心頭だった。
 ふたりは水戸藩の徳川斉昭の血筋で、従兄弟どうしであった。幕府内に不統一の傷が深まった。
 ふたたび長州征討という第二次長州戦争へとすすんでいく。それが幕府滅亡の悲運へと重大な結果を招いたのだ。

           *

 たてつづけに2度の長州戦争で、兵をだす諸藩の疲弊は藩の財政圧迫に苦しんだ。
 畿内は大勢の兵士が集まり、米穀の消費が増えて、米価格が狂乱した。民衆の打ち壊しが多発し、関東の秩父や深谷地区まで飛び火した。人心が幕府から一気に離れていく。まさに、幕府瓦解へと加速度を増していったのだ。

             *

 第一次征討軍の総督と参謀による撤兵は、徳川側からみれば、罪深いものがある。「追って公儀が協議するだろう」と、ふたりの無責任ともいえる、他人任せの軽率な判断が倒幕を早めさせたことは間違いない。

 德川慶勝と西郷隆盛は、このさき明治新政府の擁立者となった。戊辰戦争で新政府が勝利者になったがゆえに、問題視されていない。むしろ、平和解決だったと美化されている。
 それは歴史の事実を覆い隠していないだろうか。


 私たちは、第二次長州戦争の戦禍に眼がとらわれがちだが、第一次長州戦争にも目を向ける必要がある。そこには貴重な教訓がある。
 歴史はくりかえす。現代社会でも、戦争はいつ起きるかもわからない。歴史から学び、戦争回避する。それには全権委任者が自己の判断と読みと、わが身を挺(て)でも決断する、という精神が必要不可欠だ。
 みずから責任をもって解決の道筋をつける。その気構えと勇気がなければ、結果として戦火を呼ぶことになるだろう。
                       【了】
 

【歴史から学ぶ】解決を先送りすると、滅亡の悲運に至る = 「上」

 私たちは、難問に出会うと、とかく解決を先送りにする傾向がある。戦乱や動乱のなかでは、未解決のままにすると、政治的におおきな命取りになることがある。
「難題は逃げないで、しっかり解決しておく」
 それは、私たちの生き方の教示にもなるだろう。

 265年も長くつづいた德川幕府が、ペリー提督の来航からわずか15年間で、あっという間に瓦解(がかい)してしまう。
 幕府滅亡の原因のひとつが、第一次長州戦争にある。

絵画=第一次長州戦争  ネットより

 長州征討の総督が徳川慶勝(尾張元藩主)、参謀が西郷隆盛(薩摩藩)である。このふたりには「長州問題の断固決着」という気迫が乏しかった。無責任ともいえる、政治的な未解決、先送りがそれである。

 芸州広島藩主の浅野長訓(ながみち)は、文久3(1863)年に薩英戦争、下関戦争が起こると、すぐさま家臣を視察に出している。西洋の兵力のすさまじさから、わが国がいま幕府と長州で戦争をしていると、亡国か、殖民地になると危惧していた。
 長州戦争の総督府が広島になっただけに、長訓は戦争回避への信念をつよく持っていた。
 
             * 
            
 第一次長州戦争まで、簡略に歴史を追ってみよう。
 ペリー提督の浦賀来航のあと、幕府は鎖国から開国へと政策を変えた。やがて、安政5(1858)年に日米通商条約に勅許なしの締結、将軍継嗣の問題が重なった。井伊大老の弾圧から、「安政の大獄」が起きた。
 水戸藩が唱えた尊皇攘夷論が、全国の津々浦々まで吹き荒れた。そして、安政7(1860)年に桜田門外の変で、井伊直弼が暗殺されると、幕府の権威がいちじるしく失墜した。
 
 かたや、尊王論から天皇・公家による朝廷政治が台頭してきた。政治に素人だった公家らが、地位の改善を図り、処遇を良くしようと、尊皇派の武士の眼を京都にむけさせようと謀った。
 薩摩、長州、土佐らが朝廷政治の主導権争いをはじめた。幕府すらも、和宮降嫁による公武合体で、朝廷の力を借りようとした。

 京の都には、過激攘夷思想の脱藩藩士や草莽(そうもう)の志士たちがあつまり、「天誅」「斬奸(ざんかん)」「夷人切り」「義挙」という血なまぐさいテロ事件がおきた。

 朝廷政治の中核に座った長州藩は、過激攘夷派で、德川14代家茂(いえもち)将軍を上洛させたうえで、文久3年5月10日を「攘夷決行日」をきめさせた。
 その日から、長州藩は馬関(下関)海峡で、アメリカ、フランス、オランダの商船や軍艦につぎつぎ砲弾を撃ち込んだ。外国船が事実上、馬関海峡が航行できなくなった。
 攘夷決行を真に受けていたのは、長州藩だけである。他の藩はどこも従わなかったのだ。

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 孝明天皇は長州の過激行動を危険視した。このころ長州藩は、孝明天皇の詔書など無断で乱発していた。さらに、天皇親政による攘夷戦争を仕かける計画を企てていた。
 過激な長州藩を嫌う。孝明天皇はさすがに暴挙だと見なし、薩摩藩と会津藩に命じて、文久3年8月に、「八月十八日の政変」をおこす。京都から長州藩と尊攘派の公家を追い出す、クーデターであった。
 
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 水戸藩では、安政の大獄で永蟄居処分をうけた徳川斉昭の死去を境に、藩内で内部分裂がおきていた。攘夷派の「天狗党」と幕府寄りと、血なまぐさい殺戮の応酬であった。元治元(1864)年に、天狗党が筑波山で挙兵した。
 
 天狗党の乱に刺激された長州藩は、同年に、復権をはかる意図で、約2000人の軍隊を上洛させた。元治元(1864)年7月、京都御所の近くで幕府と武力衝突が起きた。この「禁門の変」で、長州藩は惨敗した。
 同年8月に、馬関海峡の攘夷・砲撃の報復から、四か国連合艦隊による「下関戦争」が起きた。これも惨敗だった。

 孝明天皇が、「禁門の変」で長州軍が御所に銃をむけたことから、「朝敵」となった。10月に、天皇が幕府に長州征討を命じた。この朝命で、幕府は21藩に出軍の準備を命じた。のちに30余藩になる。 
 そして、幕府軍は15万の兵で、広島城下に総督府をおいた。

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 長州藩は、京都の「禁門の変」と四か国連合艦隊の「下関戦争」、ふたつの戦いで大敗している。そのうえ、征討軍の約15万の兵に取り込まれる。深刻な存亡の危機にあった。

 幕府側は、負ける要素など何もなかった。まさに勝ち戦で優位にあった。強い軍事圧力の下で、長州藩に要求を突き付け、それをのませる立場にあった。

  戦争には仲介役が必要である。長州藩の毛利敬親は、長州藩の親戚筋の筑前藩、宇和島藩に依頼したけれど、両藩とも、幕府の怒りを買うことを怖れて、これを断っている。

 同年9月8日に、毛利敬親は、岩国藩の吉川経幹(きっかわつねまさ)を広島郊外の草津・海蔵寺に使わし、広島藩の浅野家に幕府との周旋を依頼してきたのだ。
 
 平和解決の態度を示す芸州広島藩には、幕府と長州の仲介役を引き受ける、理由が別にあったのである。
                  
                   【つづく】
                   
 

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