歴史の旅・真実とロマンをもとめて

新聞連載小説「妻女たちの幕末」、一年間の完結。文化部長より、「成功でした」とコメント

 新聞連載小説「妻女たちの幕末」が昨年8月1日に、作家・宮部みゆきさんから引き継いで連載を開始しました。この7月31日で完結しました。日曜日をのぞく毎日で合計298回でした。
 かえりみれば、コロナ禍のなかで歴史講演などが止まり、その分の約2年間は「妻女たちの幕末」の関連資料の読み込みに集中できました。むろん、京都や新宮や都内の各所に必要不可欠な取材には出むいています。

二人の天皇.jpg 幕末史と言えば、明治政府の薩長閥の政治家に迎合した御用学者たちが、事実を歪曲し、ねつ造した。「薩長史観」で腕力・武力に勝れたものが勇者だとした。明治から、それを教育で使った。義務教育から軍国少年がつくられた。かれらは兵学校・士官学校を目指し、やがて首相や海軍・陸軍大臣になった。当然ながら、軍人が政治に関与する軍事国家になった。
明治・大正から太平洋戦争終結まで、政治家も、軍人も、国民も、「薩長史観」の英雄崇拝の歴史を信じたことで、国民一致の戦争に突入した。


 現在も少なからず、薩長史観が信じ込まれています。私たちはいかにねつ造の歴史から抜け出せるか。これが連載小説の目的でした。

                          *

 そこで私は、外国関連の文献・当時の古新聞など可能なかぎり追いもとめました。通説の英雄史観にある事象から「人間って、独りで、こんなことはできないな」という私の純文学の頭脳で、まず疑問を抽出し、外国から傍証(ぼうしょう)する作業に費やしたのです。

 AI時代です。関連文献や新聞が見つかれば、即座に日本語に変換できる。ありがたかったです。これは過去の著名な歴史学者・歴史小説家(海音寺潮五郎氏、吉川英治氏、司馬遼太郎氏など)にはできなかったことです。

「妻女たちの幕末」の冒頭において、、
『江戸城が無血開城した。それなのに、なぜ上野戦争(彰義隊&新政府軍)が起きたのか。その答えは海外にもとめることができる』
と記しています。

 これこそ、まさにIT時代が幕末史の通説を変える典型的な傍証でした。......明治政府がひた隠しにしたもの、日本に二人の帝(天皇)が誕生したという記事であった。瞬間的にしろ、南北朝時代の到来である。当時のニューヨークタイムスの記事で、それを知ることができたのです。(イラスト:中川有子さん)

 なぜ、現在でも教えたくないのか、私たち国民が考えることです。
 
                          ☆  

 私は国内関係は極力一次史料にまで手を伸ばし、丹念に読み込みました。すると、徳川将軍家の史料に軍配が挙がるのです。
 幕府の昌平黌(しょうへいこう)出身や教授らなど超エリートたちが外国奉行になった。来航する外国人よりも、ディベート力(論理と頭の回転の速さ)ははるかに勝っていた。どの条約も日本側の希望がほぼ通っている。安政の通商五カ国条約など、それぞれ五か国とも言語がちがう条約締結を3カ月でやってしまう。
 現代の外務省や各省庁など、徳川政権の頭脳と交渉力は足元にも及ばない。

 一例として、フランスは主要輸出品目・ワインに35%も輸入関税をかけられた。中国・インドはわずか5%なのに。日本には屈辱の不平等条約をむすばされてしまった。と、現代のフランスは、当時の歴史をそう捉えている。(シラク仏大統領)。

                    *

 掲載してくださった新聞社の社会部長から、7月末日に、「特に後半は、新たな幕末史観を興味深く読めたといった感想も多く聞かれ、小説の狙いは成功だったと感じます」とコメントが寄せられた。新聞社はおおむね辛口ですから、「成功」という言葉は、このさき幕末史が大きく転換する契機になるかな、と思います。

                    *

「穂高健一ワールド」は、その新聞小説が後半に入り初めころから、意識して停止しました。
 なぜならば、複数の方が、私のアーカイブを使い(パクリ)で、書籍出版されています。平気でパクる心無い歴史家に、「妻女たちの幕末」の新しい歴史観がかれらの自説を付加し汚されないためのものでした。

 たとえば、老中・若年寄が7-8人では、幕府による諸藩の統率「武家諸法度」および順守など、少人数の幕閣で力を発揮できるはずがない。登城した勤務時間は約5時間くらいで、なおかつ老中の月番担当制だ。となると、だれが行ったのか。

 一例として御三家・御三卿・300藩の大名家のすべて婚姻は幕府の許可がいる。旗本・御家人の婚姻もある。さらに、大名家が朝廷から冠位をもらう幕府側の申請手続きもあるし、多々、輻輳(ふくそう)している。
 これらの処理は老中(男の政事)に持ち込まれても、対応できるはずがない。それならば、だれがやるのか。大勢の女性が処す集団的組織が向いている。それが千数百人を抱えた大奥(奥の政事)の機能だった。論理的にも、そこには矛盾なかった。当初は推量から入り、(刑事が見込み捜査をする手法)、多面的に傍証(証拠)をあつめて構築しました。
 裏付けが次々にとれました。幕府内人事や大名昇格権(官位)の窓口・対応など、歴代将軍が大奥に付与してきた。だから、大奥には老中を左遷させるほどの実権があった。

 ついては、心無い作家たちに、新吉原か、大奥か、将軍ハーレムのごとき通説の作り話で歴史が汚されたくない、と「穂高健一ワールド」を半年間ほど休止いたしました。

                        *  

 なお、「妻女たちの幕末」は南々社から、10月か11月には単行本で出版する予定で作業に入っています。「安政維新・阿部正弘の生涯」とおなじ出版社です。

 連載の7月末の「エピローグ」で、最後の数行のなかで、
『あらためて徳川幕府が二百六十余年も政権を維持できた背景を問う。表の政事(男)、奥の政事(女)の両立が寄与した寄与した側面がある』
 と記しています。

 上臈御年寄・姉小路の女の視点「妻女たちの幕末」、阿部正弘の男の視点「安政維新・阿部正弘の生涯」と二つを併用して読むと、いっそう克明に幕末がとらえられるからです。

                                              「了」
 
 
 、

 

新聞連載「妻女たちの幕末」= 論説委員がコラムで、歴史の新たな視点と評価 

 「歴史の謎を解く」その精神で「妻女たちの幕末」に取り組んでいる。
① なぜ、そのような事件が起きたのか。
② どうして、そんな結末になったのか。

 新聞の連載のさなかか、動機と結末に、多くの疑問をもち、双方を記すようにつとめている。
 年表だけで書かない。通説に、私は支配されない、影響されないという考え方である。
 公明新聞の一面のコラムで、論説委員の方が、執筆精神を評価してくれている。

DSC_0002 妻女たちの幕末 コラム.jpg

「穂高健一氏の小説『妻女たちの幕末』は、歴史を見るうえで、新たな視点を提供してくれる。一つは近世の封建社会で、男性の陰に追いやられていたと思われがちな女性が、たくましい活躍をしていたという一面だ。小説に描かれる幕末の女性たちは、したたかなほど躍動している。また、黒船来航をきっかけに、明治政府によって進められたとする日本の国際化、近代化が徳川時代にすでに大きな胎動になっていることも挙げられる。
  《中略》
 歴史、学問の通説をくつがえす発見や研究は耳目を引く。一方で、私たちは、自分が関わった時代の真実が何であったかを見極め、正しく次世代に伝える責任があることも強く感じる。

 論説委員の方が、作品の役割までも、評価してくれたことはありがたい。

          * 

 原稿の入稿は、ひと月分くらいまとめて前の月に入稿している。ちょうど、ペリー提督の初来航を執筆中である。

「歴史の謎を解く」
 ペリー提督が1852年11月にアメリカ合衆国のニューヨークから、大西洋、喜望峰(ケープタウン)、インド洋、ジャワ、上海、沖縄を経由し、東京湾に7カ月もかけてやってきた。かれらは太平洋横断の航海技術を持っていなかったから。

 それなのに、上陸できたのが大統領国書を手渡せた久里浜の数時間である。そのうえ、わずか9日間でさっさと立ち去っている。

「おい、おい、鳥類、魚介類、植物学の権威の学者たちは、遠路やってきて日本に上陸もできなければ、研究の役目が果たせないじゃないか」

 欧米の軍人は実業家、議会の議員、学者よりも身分が低く扱われている。ペリー提督は、ハーバード大学の著名な博士などに頭が上がるはずがない。
 なぜ、合衆国東海岸から膨大な経費と数千人の乗組員を要して浦賀にやってきて、かれらは逃げるように立ち去ったのか。

 私は、ここに明治政府のプロパガンダ(歴史のねつ造)を見出した。

 

新聞連載「妻女たちの幕末」= 歴史は国民の財産。曲げられた歴史を糺す

 歴史から先人の知恵を学ぶ。だから、『歴史は人間の財産だ』といわれる。ただ、その歴史が曲げられていると、どうなるのか。
 空恐ろしてことである。
 
 明治後期から手がけられた「官営・維新史」が刊行されたのが、昭和14年である。太平洋戦争の2年前である。これがいまの歴史教科書の幕末のベースになっている。ねじ曲げられたところが随所に散見できる。

           *

 明治時代に入ると、薩長閥の政治家たちが幕末史の編纂に号令をかけた。下級藩士から成りあがった自分たちを、徳川幕府を見下し、自分たちを大きく見せるための手段でもあった。

「妻女たちの幕末」はより多くの史料・資料から、真実に迫ろう、という執筆精神でのぞんでいる。
 事実をあからさまにわい曲すれば、嘘だとばれやすい。だから、教えない、伝えない、隠すことで、歴史的事実が消えてしまう。

 連載小説では、隠された事実をほりおこす、という信条でのぞんでいる。

 DSC_0003 妻女たちの幕末 投書2.jpg

 読者の投稿欄に、

 堺市の木村功さんは、「連載小説を楽しみにしている」と前置きしてから、そのきっかけを書いてくださっている。

「天保の改革を断行した幕府の老中首座・水野忠邦が、黒船来航よりも10年早く、蒸気機関車と蒸気船の導入計画をし、長崎のオランダ商館に働きかけていたという衝撃の事実が、この小説で明かされたことであった。
 明治5年に新橋~横浜間の鉄道が開通したことが引き合いに出されるが、そのむ29年も前に検討が始まっていたのである」

 このように、ペリー以前を伏せる、教えないことで、近代化は明治政府からだと、薩長閥の政治家たちは義務教育のはじまった少年・少女たちにすり込んだのだ。

 私たちの世代が教科書で習った有名な狂歌がある、
『泰平の眠りをさます上喜撰たった四盃で夜も寝られず』は明治10年に町人がつくられた創作であり、当時の史実とはちがうと、いまでは教科書から削除されています。

「妻女たちの幕末」の作品のなかでも、私はあえてそれを指摘している。

 手元にある「新しい社会 歴史」(東京書籍・令和4年2月10日発行)がある。広島県・志和中学校で講演するために、入手した『日本人がえがいたペリー』(神奈川県立歴史博物館蔵)が掲載されている。誰もが知る鬼の顔をした鼻が高いペリーである。

 同館の学芸員にだれが描いた絵ですか、と問合せすれば、「作者は不明です。ただ、アメリカ人の嫌悪・憎悪を書き立てるもので攘夷派の可能性が高いですし、それを利用したのは明治政府以降のプロパガンダですよ。まだ教科書に載っているんでか」と応えてくれた。

 このように歴史は時の政権に都合よく利用される、という側面がある。太平洋戦争の軍国主義のときにできた「官営・維新史」から、私たちは解放されるときにきた。

 私は「妻女たちの幕末」で、こうしたプロパガンダはできるかぎり指摘し、後々に『歴史は人間の財産だ』と役立つようにしたい、という信条を持っている。

 
 

新聞連載「妻女たちの幕末」= 為政者だけでなく、庶民の目も加える

 タイトル「妻女たちの幕末」と銘打っているが、江戸城大奥の女どうしの葛藤という通俗小説の側面はほとんどない。
 
 この作品は一つ出来事、事件、政治変革にたいして男の視点、女の視点、さらには庶民の目も入れており、複眼的に筆をすすめている。
 つまり、立体的にみないと、歴史の本筋がみえないからである。

 歴史は後ろからみて「なぜ、そんなことがわからないのだ」という歴史上の人物を批判する人が、あんがい多い。
 歴史の渦中にいる人たちは、明日がわからない。

 政治の変革は運命的なもの、必然的なものではない。その時代に生きている人たちが、大名も、農民も、町人たちも、手探りで歴史の流れを作っている。

DSC_0001妻女たちの幕末 投書1.jpg

 投書欄に、

「連載を楽しみにしています。天保の改革といえば、水野忠邦という知識はありました。しかし、倹約令の詳細については知るよしもありませんでした。連載小説では、江戸幕府の大奥の動きや江戸庶民の生活を通して、詳細に表現されており、まるで映画のスクリーンの光景を見るように読み進むことができます」(中津市・田尻一男さん)

 庶民を描くことで、水野忠邦が先鋭的・斬新な改革をおしすすめながら、理念はよかったが、庶民の大反発をかってしまい、老中首座を下ろされてしまった。
 取締っていた鳥居耀蔵(とりい ようぞう)も同様に失脚した。

  庶民が歴史をつくる。その認識は不可欠である。

 私たちは今のいま、政治家をみれば、かれらは支持率を気にし、国民に沿うような施策をおこなっている。頭から、「殊勝だぞ。いうことを聞け」という自己本位な考えで庶民を無視すれば、バッシングされて短期政権になる。
 
 いつの時代も同じで、政治のトップ(水野忠邦)だけを描いても、ほんとうの歴史にはならない。
 このたびの新聞連載では、折々に庶民を登場させている。

 
 

歴史小説・新聞連載「妻女たちの幕末」=  140回を進行中

 歴史小説「妻女たちの幕末」が、公明新聞で2022年8月1日から連載がはじまった。日曜日をのぞく毎日、読者に読んでいただいている。
 令和4年の年を越し、いまは約半分ほど進行中である。
 
 連載は大づかみに、ペリー提督の黒船の前を半分とし、それ以降は多くの幕末ファンが知るところだし、半分としている。

 とかく私たちは、教科書、歴史書、小説をはじめとして、ペリー提督の蒸気船・黒船がきてから、幕府はおどろきアタフタとして日米和親条約が締結されたと刷り込まれている。

 それ以前にも、アメリカ海軍や捕鯨船、さらにイギリスの測量船など外国艦船が江戸湾に来航し、幕府がしっかり対応している。そこらは、多くのひとが知り得ていない。むしろ、隠されている。

 DSC_0004 妻女たちの幕末 ビットル.jpg

ペリー提督以前をただしく知らないと、薩長史観のねつ造された歴史観になる。端的にいえば、明治政府のプロパガンダに染まってしまう。

 徳川幕府が倒れたのは、わずかな英雄たちの倒幕活動のよるものではない。戦国時代の群雄割拠のまま、徳川政権がつづいた封建制度が、欧米の近代化という資本主義にそぐわず、政治システムがつぶれたのである。

 それゆえに、徳川幕府の内部崩壊である。そこらの認識のもとに、政治・経済・文化の面からも、新聞連載で丹念に展開している。

 ただしい日本の歴史を知ろう、という信念で、丁寧に描いている。


 
 

~志和の歴史に学ぶ~ 講師穂高健一「志和と幕末」 志和中学

令和4年11月10日
志和中学校保護者の皆様
地域の皆様
東広島市立志和中学校
PTA会長 堀 光都子
校  長  脇坂 治海

志和中学校PTA教育講演会開催について(ご案内)
~志和の歴史に学ぶ~


秋涼の候 保護者・地域の皆様には益々ご健勝のこととお喜び申しあげます。また,平素より本校教育並びにPTA活動の推進に,格別のご理解とご協力をいただき,心から深く感謝しております。

さて,本年度の志和中学校PTA教育講演会は,作家・ジャーナリスト 穂高 健一 氏をお招きし,「志和と幕末」と題し講演会を次のとおり開催いたします。

今回は,新型コロナウイルス感染症拡大防止の観点から,会場の人数を考慮し,同じ内容で2回講演をいただきます。保護者及び地域の方はどちらか都合のよい方にご参加いただけます。

ご多用の折とは存じますが,是非ご参加いただきますようご案内申しあげます。

1 日 時  令和4年11月30日(水)  午前の部 10:30~11:30
                      午後の部 13:30~14:30       
2 場 所  東広島市立志和小中学校 体育館

3 講 師  作家・ジャーナリスト 穂高 健一 氏

4 演 題  『志和と幕末』
       
5 日程及び参加対象者         
日程等 参加対象者
☆ 午前の部 志和小6年生、志和中1年生
       保護者・地域の方
   受 付 10:15~
   講演会 10:30~11:30

☆ 午後の部 志和中2・3年生

 受 付 13:15~
 講演会 13:30~14:30
   
※ 午前でも午後でもどちらでも参加いただけます。
    
6 その他  駐車場は,志和小学校グラウンド及び中学校グラウンドをご利用くだ
さい。

高間省三の墓参  20歳で死す。福島県・浜通りの戦い 

DSC_0567.JPG 3.11東日本大震災から11年経っている。高間省三の参拝で、双葉町の自性院の墓地に入った。周囲の墓石の多くは、いまだ積み木崩しのようだ。目ざす高間省三の墓は自然石でどっしり座っている。

 かえりみれば、フクシマ原発事故から三年目で厳しい立入禁止。特別許可で、防護服で身をつつみ取材・お参りして以来だ。
「このお墓です」
 墓石の文字は風化して読めない。墓前のワンカップの水をかけてみる。『高間省三之墓』と浮かび上がった。歴史の幕が開いたような感慨をおぼえた。
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 同行してくれた楢葉町・町議員の宇佐美さんが、線香を立ててくれる。

 慶応4(1868)年7月、広島藩の第一神機隊は平潟に上陸したあと、相馬・仙台・旧幕府軍の連合を敵とし、磐城、広野、楢葉、大熊、浪江と浜街道を北上していく。激戦続きだった。
高瀬川を渡り、大激戦の浪江で、高間省三は命を落した。
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「ご遺体は、ここに眠っているのですか」
宇佐美さんが訊く。
「そうです。浪江の戦いで、頭部に銃弾を受けて即死でしたから。遺体はここに埋葬されて、遺品はすべて広島に持ち帰っています」
 二百数十点が護国神社に奉納されている。

 当時、超エリートの死を悼み、浅野藩主の長訓、世子・長勲が神社をつくった。それがいまの広島護国神社で筆頭祭神は高間省三である。
「二十歳で筆頭祭神とはすごいですね」
 宇佐美さんがおどろいていた。

「大村益次郎が創った靖国神社よりも、1年早い。つまり創建が一年早いのです」
「高間省三の遺品は閲覧できるのですか」
「いいえ。広島市は、「軍」、「軍人」となると、展示品の閲覧も、銅像も歓迎しないようです。
 そんな語らいをした。

歴史の裏側から、真相が如実に見えてくる =  幕末ストーリーは明治時代につくられた

 新聞連載「妻女たちの幕末」が公明新聞で、8月1日から、スタートして、3カ月半が経過してきた。
 家斉の大御所時代、そして水野忠邦の「天保の改革」へと進んできた。この時代から、天明天保の飢饉という内憂、アヘン戦争のような外国からの脅威という外患、つまり「内憂外患」の時代になった。
 剛腕な水野忠邦を失脚させて、満25歳の阿部正弘を老中首座(現・内閣総理大臣)にさせたのが、大奥・上臈奥女中の姉小路である。彼女は彼女は公家の娘で、悧巧で頭脳明晰で、洞察力に優れていた。
 将軍家慶は重要な問題にたいして大奥・上臈奥女中の姉小路に判断を仰いでいる。つまり、彼女は将軍・家慶の政事代行であった。同時に、幕閣の人事、諸大名の養子・婚姻縁組なども、彼女が采配をふるう。たとえば、諸藩が次の藩主を決める際、姉小路の判断が与されていたのだ。

 阿部正弘の時代~ペリー来航・家慶死去まで、約10年間は『姉小路の時代』といえる。

 姉小路はバランス感覚が良い。彼女の独裁政権ともいえず、老中首座阿部正弘をうまく盛りあげている。二人三脚と称した方が正確かもしれない。
 
 

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 私が新聞連載「妻女たちの幕末」で、いまは主人公・姉小路の目で書いている。それだけに、幕末史のねつ造がよく見えてくる。下級藩士だった薩長の武士たちが、明治時代に入り、自分たちに都合よく幕末ストーリーを作ったか、それがよくわかる。

 上臈奥女中の姉小路の時代は、薩長閥の政治家にとって不都合なものが多い。むしろ、彼女の時代は教えてはならないものだ。
 
 その一つが徳川幕府がもっている海外情報量の膨大さだ。長崎出島の商館長(カピタン)が毎年、往復約90日間の道のりで、江戸にくる。そして「ヨーロッパおよびアジア情報」を報告する。情報提供がオランダがヨーロッパで唯一貿易を独占できる条件だった。幕府はそれら情報を期待している。
「鎖国とは盲目になることではない。より情報の密度を高めることだ」
 その江戸参府はなんと166回に及ぶ。
 オランダはキリスト教徒の国だ。商館長らオランダ人は長崎奉行所の官吏らの警護で、長崎を出発し門司へ、瀬戸内海は船便、大坂に上陸し、京都で所司代に会い、東海道、箱根を超えて江戸にでむく。どの宿場町も白人がくると、どこも大騒ぎだ。
  幕府はカピタンから詳細を聴き取りするので、かれらの滞在は約1カ月間である。日本橋・本石町の長崎屋に宿泊している。まいにち、江戸っ子が白人をみにくるのである。
 
 日本人の画家は写実主義で、美人画などもきれいに描く。北斎をはじめとして、多くの画家がオランダ人を描いている。実にリアルだ。

カピタン 長崎屋.jpg

 これらをなぜ教科書に載せて教えないのだろうか。
 いまだに中・高校生の歴史教科書には、幼稚園児が想像で描いたような、ペリー鬼顔を載せている。印象操作(プロパガンダ)もはなはだしい。

 狩野派の画家たちも任務で浦賀に行ってペリー提督を実写しているはずだ。それを教科書に載せる。徳川幕府の政権下で、オランダ人166回も江戸にきたとなると、日本人が黒船来航ではじめて白人を見て怖がった。おびえて、ペリー提督に蹂躙された、というストーリー建てのつじつまが合わなくなる。

                   ☆

 島津斉彬は藩主としてわずか6年間である。斉彬が領民にどんな良い政治ができたのか。明治以降に西郷・大久保が持ちあげに持ち上げて斉彬を名君に仕立てている。はなはだ疑問だ。西洋に通じていたとするが、幕府が持っている海外情報の質と比べると、足元にも及ばない。
 老中阿部正弘が斉彬の西洋知識を当てにしたという創作までしている。阿部正弘を小説にした取材経験からすれば、老中の阿部正弘にしろ、牧野忠雅にしろ、外様大名に海外知識を乞うなど、そんな事実などない。
 
さらに一橋派(慶喜を将軍跡継ぎ)のストーリーを作った。それが通説となり、安政時代には南紀派と一橋派が将軍継嗣で争う、という筋書きになる。しょせんは無意味な創作である。

 徳川将軍は誰にするか。歴代において権力をもった大奥の影響力がおおきかった。絶大なる権力をもっていた姉小路の時代に十四代将軍は慶福(のちの家茂)と決まっていた。
 かれは家慶の甥っ子で、家定のいとこ、嘉永2年(1849年)にわずか4歳で御三家の紀州藩主になった。

 嘉永5(1852)年に将軍家慶が、三河島の鷹狩に、一橋家の慶喜を連れて行こうとした(継嗣を決める行事)。ところが、姉小路と阿部正弘が、慶喜の鷹狩同行を断らせた。ここで慶喜の将軍継嗣はなくなった。慶福が6歳のときである。

 かえりみれば第7代将軍・徳川家継はわずか4歳で将軍になっている。それは新井白石の力によるものだ。姉小路は新井白石よりも影響力をもっていたと認識すれば、嘉永5年に慶福6歳で決着がついていた。7代将軍・徳川家継の事例から、別段、不思議ではなかったのだ。南紀派は余裕綽々だ。

 安政5年(1858年)安政大老・井伊直弼(彦根藩主)によって、抗争の末に継嗣問題が決着つけられてというのは、明治時代の創作(歴史捏造のプロパガンダ)は、島津斉彬をより大きくみせるための作為である。

 一橋家とは将軍の家門である。一橋家の家主として慶喜は自覚があり、嘉永5年の鷹狩に将軍に不同行で決着付いていると知っている。大奥に嫌われている親父が出てきて将軍家の相続で騒いでほしくなかったのだ。
 慶喜はまわりが騒がしいので、江戸城の井伊直弼に確認に行ったくらいだ。
「家茂と決まっている」
 と井伊に言われて
「そうだろう(将軍家慶がすでに決めている)」
 慶喜は納得して帰ってきているのだ。
 
 strong>なぜ紀州派とか、彦根派とかいわず、「南紀派」というのか。
 そこに回答がある。

 南紀の大物が嘉永時代にすでに大奥の姉小路、将軍家慶、老中首座・阿部正弘から、14代徳川将軍は幼い紀州藩主・慶福(よしとみ・のちに家茂)と取り付けていたからである。
 

新聞連載小説「妻女たちの幕末」 = 8月1日より開始

 今年度(2022年)8月1日より歴史小説「妻女たちの幕末」公明新聞で連載されます。
 現在は宮部みゆきさんの小説「三島屋変調百物語青瓜」が7月30日で終了し、そのあと穂高健一「妻女たちの幕末」がはじまります。むこう一年間(日祭日を除く)です。


③公明新聞・予告2.07.261024_1.jpg

 これまで、私を含めて男性側の視点から歴史小説が書かれています。大別すれば、薩長史観&徳川史観という対立構造です。
  
 この世には男性と女性が半々いるし、対立もする。歴史は男だけで動かない。思い切って女性の視点から幕末史にチャレンジします。むろん、随所には男性の活躍も加わります。

「歴史は庶民がつくる』
 現在でも国会議員だけが歴史をつくっているなど、誰も考えていないでしょう。それなのに、歴史となると学術書も、小説も、為政者に偏っています。

 できごと、事件のとき組織の頂点にいだけでしょう。先頭に立つて采配をふるったとか、先見の目があったとか、英雄が創作された。おおむね単なる飾り物か、後世の美化でしょう。

 極限られた少人数の英雄たちだけで、千年もつづいてきた封建制度、および武家政権が短期間に都合よく消えるわけがない。

 そこにはおおきな民衆の力と渦巻く流れがあった。かれら民衆が、やがて徳川幕府を瓦解させた。その本質を忘れ得ずして、市民の目線も加えて展開していきます。


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 ただし、私の連載小説は日曜日版の掲載がありません。

 

ウクライナ侵攻で、バレてしまった幕末史の大嘘= 明治のプロパガンダ (下)

 わが国の歴史書となると、嘉永6(1853)年といえば、世界最大のクリミア戦争を教えず、アメリカの黒船が来航した際の、鬼のような奇異なペリー提督のかわら版の顔を載せる。

 そのうえ狂歌『泰平(たいへい)の眠りを覚ます上喜撰(かみきせん)たった四はいで夜も寝られず』と記す。
 それは明治10年に創作された狂歌だと、いまや化けの皮がはがされている。

           *

 下級藩士による明治政府が、上級武士だった徳川政権を恣意的(しいてき)に見下すために、
『幕府は西洋を知らず、アメリカに蹂躙(じゅうりん)されて、砲弾(ほうだん)外交で開国されられた』
 と歴史をねつ造した。まさに明治政府のプロパガンダである。

 そもそもペリー提督が江戸湾にやってくる7年前には、アメリカ東インド艦隊のピッドル提督が浦賀に米国大統領親書をもって来航している。

 ほかにも民間の捕鯨船マンハッタン号が日本人遭難者22人を人道的に浦賀に連れてきてくれている(弘化2年・1845年)。イギリスの測量軍艦、意外なところでデンマーク軍艦も江戸湾の入りまで来航している。

            *   

 嘉永6(1853)年、ペリー提督が浦賀に初来航したとき、交渉に臨んだ香山与力が、{ところで、あなた方の国のパナマ運河にそった地峡横断鉄道はもう完成しましたか」と質問しており、アメリカ側は日本の世界情報収集力におどろいたと記録している。

 このように、アジア(広東・シンガポールで)で発行されていた英字新聞の内容が、幕臣たちにまでも伝わっていたのだ。

 1852年9月28日の記事から、ワシントンでは、日本遠征計画の準備が熱心に続けられていると報じられている。
 当然、日本の幕閣は読んでいる。

 オランダからの別段風説書で、ペリー提督の日本遠征内容の詳細が伝えられた。
『......、最近の情報によりますと、北アメリカ合衆国は艦隊をだして、日本と交易を取結ばんと、御国(日本)へ参上すると申しています。合衆国より日本帝(将軍)へ使節を差しだし、アメリカ天徳(米国大統領)の書簡を奉り、かつ日本の漂流民を連れて参るそうです。

 この使節は、北アメリカの民間交易のために、日本の一つ二つの港に出入りを許されんことを願っています。かつ、また相応の港をもって、石炭の置き場と為す許しを得うて、カルフォニアと中国との間を往復する、蒸気船の用意に備えん、と欲しているとのことです」

北アメリカの軍船が、いま中国周辺の海にいるのは、次のとおりです。
 サスケハナ号    軍用蒸気フレガット船 
 サラトガ号      コルヘット船
 プリモウト号     コルヘット船
 シント、マリス号   コルヘット船
 ハンダリア号     コルヘット船

 上記の船は、アメリカ使節を江戸へ送るように命じられたそうです。また、最近の情報では、艦隊司令長はオーリックでしたが、ペルリと申すものと交代となり、前文の5隻の軍艦のほかに、なお次の軍艦を増加致すそうです。

ミスシシッピ号  蒸気船  指揮官ペルリはこの船で参るそうです
プリンセトウン号 蒸気船 
ペルリ号 ブリッキ船 
シュプリ号 輜重船

 新たな情報が加わり、陸軍の攻城の諸道具も積んでいるそうです。ただし、四月下旬以前には出帆せず、多分もっと先になるだろう、と聴いています(1852年情報)』

 こうした大規模な派兵だ。アメリカ海軍は陸軍部隊を乗せて、地球の裏側から1年がかりで日本にやってくる。

 阿部正弘はこのオランダ情報に対して、幕閣と対策を考える。
DSC_0509 福山会.jpg 『阿部正弘の末裔・阿部さんと』

「世界情勢をみれば、アジアの国々への列強の侵略がはじまっており、いまや異国船撃攘(げきじょう)の令を出して必勝を期することはできない。もう勝てぬのならば、敵がやってきて、強攻に追い払って負けるならば、恥辱となるだけだ。日本の小さな舟では異国の軍艦に対抗できないのみならず、江戸湾の出入り口をふさがれて、江戸近海の通商が断たれて、食糧欠乏に陥るのみである」
 軍艦を製造できる能力を得るまで、外国との戦争は無謀だと、非戦を決めていた。

 ところが後世学者たちの多く、一年前にオランダからペリー提督来航の情報がありながら、生かされていなかった無策の幕府だと批判する。
 批判のための批判だ。日米の武力の差は歴然としており、外交で勝敗を決する、と非戦を決めた阿部正弘に、学者はいった何をどうすれば、良かったというのだろうか。
 
 それは水戸藩の徳川斉昭の「攘夷論」を称賛し、攘夷論者がやが明治政府を樹立する立役者だったと展開する前ぶれのためだ。
これは七年前の斉昭の書簡にあったものだ。
「異国人と交渉すると見せかけ、白刃一閃(はくじんいっせん)、敵将の首を取り、乱入し、船も人も奪ってしまおうではないか。そうすれば、難問一挙に解決し、軍艦四隻も手に入る。一挙両得の名案だ。これでいこう」
 
 実際にペリー提督が来航すると、
「いまとなれば、(軍艦も作れない、大砲も鋳造できない)、打払いが良いとばかり言えない。衆議をつくして、ご決断せよ」
 これが徳川斉昭の生の声だった。

攘夷だ。外国人は徹底的にぶち殺せ」という過剰な攘夷論は、斉昭の名誉のために、あえて言及すれば、後世の学者のねつ造ではないだろうか。

              *
 
 1853年にクリミア戦争が勃発すると、戦争がアジアに拡大し、当事国の英仏露は軍艦や商船で、わが国の港にひんぱんに来航している。
 伊豆下田港では、なんとロシア海軍兵がフランス商船の掠奪を謀り、戦闘までしかけている。
 これには日本の下田奉行は厳重な抗議をした。

           *
 
 2022年のロシアのウクライナ侵攻戦争が新聞、テレビ、映像などで日々に報じられている。
 いつぞやロシア潜水艦が北方四島近くで、ロケットの発射演習していた。ヨーロッパの戦争がさして遠い話ではない。わたしたちは無関心でいられない。

 嘉永6年、7年(安政元年)の日本人の武士、町人、農民を問わずクリミア戦争が最大の関心事だったにちがいない。幕府の対応をじっくりみていたと思う。

 結果として幕府はよくやった。わが国はクリミア戦争のさなか、地の利を得て、植民地にならず巨大国家の欧米3カ国と、ほぼ同時的に和親条約(平和条約)を結んだのだから。

 この認識に立てたのは、2022年ロシアのウクライナ侵攻戦争で、「歴史は自国の都合で流れない」という原点にもどれたからだ。ウクライナ侵攻があったから実に幕末の対外政策がリアルに理解できたのだ。

 こんにち日本の首相がウクライナ支援とか、経済制裁とか、石炭の輸入禁止とか、石油や駅がガスはどうするか、と世界を飛びまわっている。
 老中首座の阿部正弘も、英米仏露の戦艦がわが国に来航するたびに、現場対応の奉行から早馬がやってきて、内容を吟味し、幕閣と逐一対応を協議する。そして、現地に指示をする。おそらく休む暇もなかっただろう。

                *
 
私たちが1853年の黒船来航からの「幕末史」の書籍を手にしたとき、当時の重要なクリミア戦争が欠落していれば、その学者・作者には世界史観がまったくないか、重大なクリミア戦争という前提がない粗悪商品だ。

 言い方を変えれば、きよう新聞を見て、世界の政治・経済・燃料・食料問題が絡むロシアのウクライナ侵攻が1行も載っていないようなものだ。学術書といえども、既成の攘夷思想が正しいと刷り込まれた、薩長史観に感化された作品に違いない。歴史の中心・コアが欠落した、内容の希薄な、架空、想像で書かれた不良品だろう。
 私たち日本人は、これまでそんな類の幕末史に染められてきたのだ。


 『明治のプロパガンダ』とはなにか。
 いまも薩長史観で、1868年の暴力革命を誰もが立派そうに「明治維新」といっている。
 明治以降の日本人を悪くした原因は、権謀に富み、事実を隠蔽し、嘘で歴史を作り上げた薩長人の天下を取り成したことをいう。
 国民は騙されて、戦争国家の兵員として利用された。

 平成・令和の世でも、政治家らが重大な事実を隠し、公文書を隠蔽し、賄賂と癒着政治をおしすすめていても、時間が経てば国民が忘れるという思想が底流にある。これらは明治プロパガンダが未だに清浄されていないからである。、

                      (了)

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