カモが泳ぐ、カモメが飛来する不忍池の周辺を歩いてみる。大勢の死傷者がでた戊辰戦争・彰義隊の影など、みじんもない。この光景だけをみると、平和そのものである。
戊辰戦争という内戦は、必要だったのだろうか。いつも考える。日本人どうしが血を流しあう。敵と味方と別れて、官軍だ、賊軍だと言い、銃の引き金をひく。
私はこんな無意味な戦争はない、と思う。これらの戦いを通して、日本人が得たものはなんだったのか。
慶応4年5月15日の「上野の彰義隊」の戦いは、史料も読み取る人によって異なる。西の官軍(新政府軍)からの見方と、徳川家など関東勢(佐幕)からと、2通りある。どちらから見ても、血の歴史である。
さかのぼること、慶応3年12月の小御所会議で、王政復興の大号令で新政府が誕生した。徳川慶喜から将軍職を取り上げる、領地も没収(返納)する。それが辞官納地(じかんのうち)だった。
大勢の旗本や関八州の武士たちは徳川800万石の扶持米で生活する。それが無職になり、路頭に迷う。再就職の受け皿などなかなかない。士農工商だから、武士が商人にはなれない。
人間は食べていかなければならず、強奪・掠奪が起きる。
江戸城を無血開城したものの、西郷隆盛や勝海舟は、これら失業武士の対策も取れず、これぞ、という妙案はなかったのだ。
結局は、江戸の治安維持に失敗した。
『旗本脱走の輩は、上野の山、その他に頓集する官軍の兵士に、しばしば暗殺し、無辜の民の財産を掠奪し、暴虐を呈し、官軍に抗衡している』
それを取り締まるために、明治元年(慶応四年)五月12日、大総督府は江戸府判事をおいた。船越洋之助(広島藩士)、木村三郎(久留米藩士)、河田佐久馬(因州藩士)、土方大一郎(土佐藩)、清岡岱作(土佐藩)などである。
江戸府判事とはいまでいう、副知事クラスである。
『彰義隊約3000人が群れ集まり、恣(ほしいまま)に狂暴化している。官軍に抵抗し、無辜の民の略奪を至極暴れまわっている。民はひどい苦しみに落とし入れている。今般、その害を取り除くために、誅伐する。天下泰平のために、多くの民を安堵するためにも、彰義隊を討つ』
これらの判事による、お触書である。
新政府・官軍が江戸市中の佐幕武士を挑発し、上野の山に集結させた可能性もある。そこで、一網打尽に討つ戦略があったかもしれない。
『官軍の兵士を暗殺し、官軍と偽って民の財を略奪している。暴徒以外に何物でもない。実に、国家の治安を乱している。見つけ次第に即刻、討ち取る。秘かに補助したものも同罪だ。あるいは隠したものも、賊徒として同罪だ」
追い込まれた佐幕派の武士は、刻々と死期が近づいていた。
軍務官判事の大村益次郎が、「1日で戦争を終結して見せます」と言い切る。
「東叡山寛永寺の徳川家祖廟の位牌や宝物を、他に移すように忠告する」
これは宣戦布告だった。
上野の彰義隊はアームストロング砲の大砲を次つぎ撃ちこまれた。そのうち、薩摩、長州、肥後、土佐、備前、築後、伊州、因州藩などが上野の山・黒門から、搦手へと突入する。武力衝突に及ぶ。彰義隊は死力をつくす。しかし、同日夜9時過ぎには、放火して退散する。
翌日から、残党狩りがはじまる。これが悲惨だった。
捕まった元旗本たちは、ことごとく斬首(ざんしゅ)だった。斬首とは、後ろ手に縛られる。「止めてくれ。助けてくれ」という命乞いしても、容赦なく、一刀で首を斬り落とす。
首が飛んで、転がった血だらけの頭があちらこちらにある。首のない胴体も転がっている。
悲壮な斬首は史料のなかに、折々に、絵図で描かれている。見ていて、気味が悪い。武士道というきれいごとではない。歯をむき出し、目を吊り上げた顔だけの頭部。身震いしてしまう。もうこれ以上は見たくない。それが悲惨な斬首の光景だ。
こうした死はどう受け止めるべきか。私たちは歴史となると、とかく西郷だの、勝海舟だの、慶喜だの、容保だの、という立場になり切ってしまう。作家はその立場で書いてしまう。
しかし、庶民は一般に、首を集め、胴体を収集する、土葬する、こうした立場なのだ。私は敗残兵の資料を頭に浮かべながら、不忍池の周りを歩いた。
ここには数千体の血が地面にしみているのだ。そう思うと、日本人同士が血で血を洗う、やってはいけなかった戊辰戦争だった、と庶民レベルで思う。
大政奉還で治めるべきだったのだ。