歴史の旅・真実とロマンをもとめて

富山の人は、金箔を使い放題の金沢が大嫌い

 山岳歴史小説の中で、加賀前田藩の参勤交代を取り扱う。その取材で6月14日、金沢に立ち寄った。
 余談だが、金沢駅のコインロッカー不足にはうんざりした。探しあぐねた末に、いずこも空きがゼロだった。駅員による手荷物預かり所の表示があるが、地図がなく、矢印だけである。それも地下だから解りにくい。挙句の果てには、延々と行列である。
「こんなところに立ち寄るのではなかった」
 そんな思いだった。

 江戸時代の加賀藩は100万石とも、120万石ともいわれる。その城下町の雰囲気は、金沢の町なかに面影を残す。

 江戸幕府はなぜ加賀前田家に約3000人の大名行列を課したのか。豊臣方の巨大な大名だから、德川家に武力で楯突けないように、経済的な疲弊をさせた。
「金がなければ、戦争などできない」
 単純明確な論理である。
 金沢とは別に、富山藩は10万石、大聖寺藩は8万石がある。これら藩すらも別々に江戸への参勤交代を行ってきた。

 大名行列がいかに藩財政の負担になったか。現代で計算してみると、わかり易い。1泊3食を1万円としても、3000万円/1日の経費となる。道中の途中で、川止めなどがあり、3日も行列が進めないとなると、それだけで、9000万円が吹き飛ぶ。まさに無駄な、途轍もない財政圧迫である。

 幕府は、金沢から江戸への最短距離となる、德川直轄領の飛騨国を通させていない。加賀藩の参勤交代はおもに北陸道と東海道の2つのコースがあった。幕府が決めるのだから、前田家はすなおに応じるしかない。
 北陸は親不知など岩壁沿いの細い道がつづく。風雪に遭えば、3000人が足止めになる。東海道の場合でも、よく知られた大井川の川止めなどに遇うと、これまた無駄な経費だ。
 その上、1年は国元、2年は江戸である。江戸屋敷で、生産性のない藩士を生活させるのだから、この経済負担は大きい。質素に1日3000円/1人当たりとしても、1年間32億8500万円である。参勤交代は膨大な出費となった。

 金沢の取材目的は参勤交代だから、学芸員を訪ねる必要もない。金沢城の無料ガイドから話を聞いた。
 金沢城から一度に3000人が出かける、と考えていた私の認識はちがっていた。

 金沢城の河北門から北国街道へと、最初は大名行列の「前触れ」が出立する。そして、殿様の駕籠の本隊が出ていく。藩内の道々で、藩士や郷士が行列に加わってくる。やがて、後触れが追って出ていく。宿場町で支払いなどする役だ。

 加賀藩は德川家に従順な姿勢を常に取りつづけた。大名庭園の兼六園も、藩財政を浪費させる見せかけの造園だった。
 大名行列と言い、武士は稼がないから、すべて農商の年貢で賄われる。 

 金沢といえば、豪華な金箔細工など贅沢三昧だ。武士も町人も金使いの荒い土地柄だ。

 富山の人は金沢を嫌う。理由はかんたんである。富山平野は米が豊富な処であるにもかかわらず、富山藩は10万石(現在の富山市周辺)に押しとどめられた。大部分は金沢藩が支配していた。
「富山の米を奪って、金沢は湯水のごとく金を使っている。貴重な金箔を酒や食べ物に入れて愉しんでいる」
 富山人が怒るのはわかる気がする。
 

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天保時代の槍ケ岳には、地理学者・津田正生が登頂(下)=愛知県


 津田正生の『天保鑓ケ嶽日記』には、津島神社に近い高根村から妻籠宿まで、その道のりの草稿が現存している。津田は地理学者だけに、しっかりした内容だ。
「3日間の資料で、100キロ、毎日30キロ以上歩いているし、津田は健脚だったと証明できます」
 若山さんはみずから、そのルートを歩いてみたから、よくわかると語った。つまり、58歳でも、槍ヶ岳に登れる脚力があったのだ。
 
 『天保鑓ケ嶽日記』は、妻籠宿から先が欠落している。(未発見)。津田は槍ケ岳山頂までどのように登ったのか。ルートや日数は推量しかない。ある意味で、小説の世界だ。

 当時の上高地は、松本藩の林業が盛んだった。杣(そま・木こり)たちが上部へ、上部へと材木を伐り出し、森林限界まで小屋をつくっている。森林はいちど伐採すれば、数十年経たなければ、樹が生育しない。
 現在では想像できないほど、上高地から槍ケ岳は、材木の伐り出しで「はげ山」だったと推量できる。だから、播隆にしろ、津田にしろ、わりに楽に登ったと考えられる。つまり、晴れた日には下から見上げれば、方向もわかるし、ひたすら急斜面を登って行けば、山頂下の肩に辿りつくはずだ。

 播隆上人が槍ケ岳登頂した事実は、松本市の玄向寺に自筆「三昧発得記」(さんまいほっとくき)で遺されている。安曇平の庄屋・務台景邦の記録から、槍ケ岳登山は疑いようもない。
 現代の播隆研究者は、明治26年に発行された棚橋智仙著『開山暁播隆大和上行状略記』(一般に行状記とよばれている)をもとに、播隆の行動を組み立てている。この書を見ると、やたら大げさな表現が多く、猿や熊たちが播隆に平伏する記述があるなど、私にはそのまま受け入れられない。

 庄屋・務台景邦は、「善の綱」の藁(わら)の提供者で、播隆の案内で、天保6年に槍ケ岳に登っている。克明な記録があるが、さほど難儀していない。安曇野から3日間程度で、さらっと槍ケ岳に登って帰宅している。

 現代の槍ケ岳登山とあまり変わらない。ところが、新田次郎著「槍ケ岳開山」は行状記をベースにして難行苦行の物語に仕上げている。本当かな、と疑ってしまう。

 務台景邦の庄屋日記からも、素人でも登れる山だったと知った。高所登山は晴れた真夏に、登るのがふつうだ。なにも悪天候を突いて登る必要がない。まして、はげ山なのだから、見通しのきくルートを選べば、40代の務台景邦のように楽に槍ケ岳に登れたはずだ。現に、播隆は真夏に登っている。

 私はなんども槍ヶ岳に登っている。積雪期にも登った。決して悪天候は突かない。冬山・富士山観測所の勤務関係者だった新田さんは、それを承知しているはずだ。だから、売れる小説のために、播隆神話をつくった、と私は思っている。

 天保4年7月に、津田が本当に槍ケ岳登頂したのか。ここを疑ってみると、津田正生著『天保鑓ケ嶽日記』は、津島(高根村)から妻籠宿までだから、登頂の証明はできない。
 
 愛知県まで訪ねた甲斐があった。登頂を証明できる、津田の短冊があったのだ。

『尾張路を立て日々を重ねて信州鑓ケ嶽とほ登りしに一番に有らず二番と代りしも口惜候也、(略)』

 これだ、と私は思わずつぶやいた。津田は地理学者だから、多々著作は克明に描いている。信ぴょう性は絶大なるものがある。

 津田正生は、一番乗り、と思いきや播隆上人が先に登頂していた(文政11年・1828)。それを知り、悔しがっているのだ。

「津田がなぜ槍ケ岳に登ったのが、二番手だと知ったのか」
 上高地の唯一の湯屋(旅籠)で聞き及んだのか。山頂で、播隆が安置した仏像を見たのか。後者の可能性が高い。
 播隆を描く行状記では、同天保4年に播隆も登っている。津田と播隆が出会った。小説とはいえ、こんなドラマは創りたくない。なぜならば、行状記以外には天保4年の播隆登頂の史料がないからである。
 
 いずれにしても、津田が槍ケ岳に登ったという物証の短冊に出会えた、おおいなる収穫があった、愛知県の取材だった。

 帰路、若山さんの案内で、戦国時代の三英傑の1人、織田信長の生誕地を訪ねた。愛知県・愛西市の勝幡(しょばた)城だった。

 私には広大な濃尾平野の地理勘がないので、ここで生まれたのか、と石碑をしげしげと眺め入った。最近は歴史ブームで、観光のカップルが、信長「生誕の地」を訪ねてきた。若山さんに、あれこれ質問していた。

 私は、「一番に有らず二番と代りしも口惜候也」にこだわっていた。播隆の次の2番目だと捉えず、二番煎じ、と解釈したい。
 津田は、先人には槍ヶ岳登山者はもっと大勢いた、と知りえた。それが記録として残されていない。そんな位置づけで考える自分を発見していた。

 今後研究が盛んになれば、もっと古代から登っていた史料が見つかる可能性はある。難易度の高い剣岳が平安時代に登られていた。「よし、次はあの三角錐の山を登ってやろう」と考えても、不思議ではない。

 山岳歴史小説としては、いまある播隆と津田正生の史料から書くしかない。

天保時代の槍ケ岳には、地理学者・津田正生が登頂(上)=愛知県

 文政・天保時代の「槍ケ岳の登頂」の取材を続けてきた。郷土史家たちが、念仏行者の播隆上の功績をたたえる。と同時に、仏教面で、とてつもなく高僧として持ち上げている。行者が高僧? こんな疑問があった。
 私は内心は、歴史山岳小説に、あまり宗教色を強く出したくなかった。悶々としていた。

 昭和57年8月の中日新聞に、私の目がおどろきで止まった。
「天保4年7月下旬『尾張地名考』を著した、津田正生という地理学者が、58歳の高齢で槍ケ岳に登っている。残念ながら、津田の残した『槍ケ岳日記』は目下幻の書で、読む機会がないために、詳細はわからない」
 という記事を見つけた。

 これだと思った。幻の書を見つけよう。愛知県を訪ねようと決めた。 

 私はことし(2015)その新聞を目にするまで、津田正生(つだまさなり)の存在はまったく知らなかった。
 津田は、愛知県内では有名な人物だった。かれが執筆した「尾張地名考」は、愛知県の地名のルーツを克明に調べた書物で、現代でも行政関係者や学者らが利用している。
 

 津田正生の研究者を探した。
 愛知県・愛西市に郷土史家で登山家の若山聡さんがいた。岐阜大学・大学院出である。そこで、4月16日に訪ねたいとアポイントを取った。

 
 名古屋に前泊し、愛西市に入った。若山さんは同市の学芸員・石田泰弘さんを紹介してくれた。両氏の史料説明から、津田正生がより克明に解った。
 
 津田は1776年に、尾張国・根高村の酒造りの家に生まれ育っている。尾張でも指折りの富豪である。
 幼少から学問を好み、成人してからも、昼間は家業、夜は勉学にいそしんでいる。一方で、高所登山や、大川を跋歩したり、名神社や古刹を訪ね歩いた。知的な行動人間だったらしい。


 かれの自宅は、津島詣で有名な「津島神社」へ街道に面していた。諸国から参拝者がやってくる。津島街道沿いに茶席(六合庵)を建て、無料で、旅人に茶を振る舞った。その目的は、地理に関する情報を仕入れていたのだ。旅人から第一報の情報をもとに、その裏付けで現地を歩いている。

 かれの代表的な『尾張地名考』は、こうして書かれた著作である。津田は知的好奇心が強く、多くの著作を世に残している。地理学の制度の高さを知った。

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飛騨林業の実態は学者もつかめず=徳川幕府の機密主義(下)

 徳川幕府の直轄領は全国に分散している。江戸表の勘定奉行所が、それぞれ郡代・代官を送りこみ、領主として支配していた。かれらは徳川家の台所を支えていた。

 江戸時代は「幕藩体制」といわれる。幕府領と藩領とはさして違いはない。表裏一体のものだと考えられがちだ。飛騨の国を調べているうち、大きな違いが認識できた。
 徳川幕府の支配体質は、まさに現在の霞が関の高級官僚による政治体質と類似している。むしろ、徳川がつくり268年間の政治体質が現在に及んでいる、とすら思える。


 
 徳川時代は米の収穫高で、藩の規模が決まった。1万石以上が大名だ。老中など譜代大名は10万石くらいだ。徳川幕府は『軍役規定』で、100石に対して3人の武士(兵員)を持つことが義務付けていた。1万石で300人を抱える。10万石は3000人の武士を抱えているから、戦いがない世においても、遊ばせる兵=武士の数はおおきな負担になっていた。

 飛騨国は幕府直轄領で11万石だった。旗本が郡代として現地に赴き、支配していた。藩領ならば、国家老、江戸家老、各奉行、足軽まで3300人の武士を抱え込む規模だ。
 飛騨国を支配していた飛騨高山陣屋は、郡代、元締、手代、手付の総計はわずか21人である。江戸詰が9人でほぼ半数だ。江戸表勘定奉行所から派遣されて現地に赴く旗本は、飛騨高山(郡代+4人)、越前本保(5人)、美濃下川辺(2人)である。(天保10年)

 21人で、山岳地帯の広大な飛騨を支配していたのだ。
 現在の岐阜県庁は、おおかた数百人の職員がいるだろう。市役所を含めると、きっと1000人はゆうに超えているはずだ。

 高山陣屋に江戸から派遣される高級官吏(現代の霞が関の高級官僚)がわずか5人で、地役人が30人ほど雇われていた。この人数で、飛騨11万石を支配していたのだ。彼らの統治能力には驚かされる。
 飛騨国は軍隊を持っていない。すべて行政支配だ。その仕組みは現代でもなぞだ。主力産業の「飛騨林業」すら解らない。有名な木曽ヒノキをどの山岳でどのくらい伐採し、どのように運び出し、どの川から流し、江戸に運んだのか。飛騨の川は日本海側と伊勢湾川と分水嶺だから、どちらに流したのか。明確な史料はない。幕府の秘密主義が深遠なるものを感じさせる。

 わかったことは、江戸幕府が268年間続いた根幹が、勘定奉行所になる行政支配だったことだ。これは吉宗将軍が作ったシステムだ。家柄にとらわれず、少数精鋭主義で、有能な旗本ならば、あるいは足軽でも、引き抜かれて勘定奉行所に入った。
 かれらは切磋琢磨し、競争社会で、登りつめていく。現代流に言うと、大蔵省(財務・金融)の事務次官級になると、郡代、代官として、幕府直轄領に出むく。
 そして、行政・金融支配を中心とした、広大な領地を少人数で支配したのだ。それも数百年も。吉宗とそのブレーンの偉大さが現代の大蔵省へとつながった。「日銀券発行」の日銀総裁は大蔵省からの出向だ。こう考えてくると解りやすい。
 
 幕府直轄領の統治システムで、具体的にどんなことが行われたのか。まだ、飛騨林業だ。ここから解明していく。それには私の林業知識は乏しい。

 塩澤南海治・元教授には、伊奈の農林業から教えてもらったことから始めた。伊那谷は棚田が多い。塩澤さんに米作も教えてもらった。天竜川は河岸台地だ。飛騨も山岳地帯で、きっと棚田で米を作っていたのだろう。

 
 塩沢さんが自営する山林に案内していただいた。そこで、森林について基礎知識を学んだ。植林から、間伐、育成、切り出し、川流し。
 瀬戸内の島で育った私は、登山は経験あるが、山村の生活は全く知らない。ひたすら聞き入り、書き取るだけだった。
「樹木にツルが巻きつくと、縛り付けられて、木を傷めるんです」
「なるほど」
 と納得する。
 用語も、ほとんどわからない。

 江戸時代には、高遠藩が天竜川を使って材木を伊勢湾に流していた。大久保番所(駒ヶ根市)で、材木改めを行っていた。

 川奉行だった中村家に案内された。歴代、中村新六を襲名していた。
 の大きな門構えの豪華な家で、巨木を使った柱や梁の太さには圧倒された。私が過去にみた民家では、最大級だった。
 かつて『尾州藩公任天流川見附番所』の看板がかかっていたと聞かされた。川奉行の力の強さを知った。中村女史から、古文書を見せてもらった。天流川の上流の運材史を知ることができた。

 木曽川の川を理解しながら、飛騨林業へと次なる取材を考えた。
 
 
 大蔵官僚が領主のトップになり、5-10年毎に入れ替わる。
 私たちは歴史を武士の視点から見ている。だが、飛騨を調べるほどに、それだけでは理解できない、と解ってきた。徳川家にまったく楯突けない強い背景がある。
 なぜ徳川家がロングランで支配できたか。各版藩にはこの徳川の財務・金融支配に盾突けない巨大な力があったのだ。ここをを解明すれば、本質が解るだろう。
 
 

飛騨林業の実態は学者もつかめず=徳川幕府の機密主義(上)

 徳川幕府直轄の飛騨は神秘的だ。文献を調べても、徳川家がいかに飛騨国を支配していたのか、具体的なものが見えてこない。
 飛騨の産業は林業(木曽ヒノキ)、鉱山(神岡鉱山)、農業だ。18世紀に、主力産業の林業のもめ事から、日本最大級の大原騒動(農民一揆)が起こり、悲惨な状況が18年間も続いた。この実態も、あまり知られていない。

 杣(そま)たちが、「元切休山」に反対して、そこから飛騨高山陣屋のトップ大原郡代の圧政がからんだことが原因だという。用語一つひとつが解らない。
 杣とはきこりか。「元切?」「休山?」とはなにか。

 飛騨林業に取り組んでいる私が苦労している。それをこのHPで知った大和田幸男さん(岩手・陸前高田)から、学生時代の林業学の恩師が紹介された。
 大和田さんは3.11東日本大震災で、陸前高田の海辺の製材所が流された被災者だ。「鉛筆一本持ちだせなかった」という。小説「海は憎まず」に取材協力してくださった。現在は知識を生かして材木販売業を営まれている。林業・製材・建築材などプロであり、木曽ヒノキなどは詳しい。

 大和田さんが紹介してくれた恩師は、東京都内の大学で林業学を教えていた塩澤南海治・元教授だ。リタイアした後、故郷の長野県・伊那に帰られている。塩澤さんと連絡を取り、4月17日に訪ねることが決まった。

 前泊なら、伊那の望岳荘(ぼうがくそう)が良いですよ、と勧められた。同宿泊所は天竜川の河岸段丘の上部にあった。
 小学校が廃校になり、モダンな民宿に生まれ変わっていた。校庭の桜は、児童たちが見ただろう、ソメイヨシノの花弁の大半が散る。そして、濃い紅色の八重桜に代わっていた。

 同宿には、『ハチ博物館』があった。世界一の「ハチの巣」が展示されている、と聞いていた。さして期待していなかったが、いつもの好奇心で、「とりあえず見学しておくか」と軽い気持ちで覗いてみた。

 
 世界最巨のハチの巣にはおどろかされた。同館の資料によると、直径2m25㎝、高さ2m70cm、胴回り6m60cmだった。
「 自然界では、女王蜂同士がいっしょに一つの巣を作らない。ハチ研究家・富永朝和さんの長年の研究成果から、2年間で女王蜂114匹と50万匹の通い蜂による、共同作業で完成したもの」
 と明記されていた。

 ハチをつかった芸術品が数々ある。ハチの巣で長野冬季オリンピック「聖火ランナー」を等身大で作らせている。人間の英知がここまで及ぶか、と見あきなかった。


 塩澤さんが伊那の望岳荘まで迎えに来てくれた。「実は、飛騨の林業はよく解らないですよ。いらっしゃる前に、信州大学の林業学の元教授にも訊いてみました。かれも江戸時代の飛騨林業はまったく解らない、というんです」
 林業学者が解らない。徳川幕府の施策はシークレット(機密主義)で、現代でも解明できないのか。

 前16日、愛知県・愛西市の近代史の石田学芸員さんを訪ねた折り、
「岐阜県史の編纂を手伝ったことがあるんですが、幕府領になってからの飛騨は資料がないですね。高山陣屋関係の古文書が出れば、文化財ものだと言われています」
 と難しい取材だと教えてくれた。

 塩澤さんの話とからめて、天竜川の向こうは飛騨国なのに、現代でも徳川支配が解明できないのか、途轍(とてつ)もないところに首を突っ込んでいるな、と思った。
                             【つづく】      

阿部正弘が飢餓列島を救った。孝明天皇は日米和親条約を勅許(下)

 天明・天保~幕末史を語らないと、日本の正しい歴史は解かりません。3月22日、広島県・府中市立図書館で、「第3回歴史講座・郷土の歴史をさぐる」で、講師の私はそれを強調した。

 天明・天保は大飢饉の連続で、東北など数十万人が餓死していました。大坂のど真ん中では毎日、140-200人が路上で死んでいます。これは記録された歴史的事実です。だから、大塩平八郎の乱まで起きたのです。

 日本は過剰人口だった。一方で、金銀の算出は世界でも有数でした。つまり、外貨準備高は抜群だった。
「阿部は開国して、食料確保の道を計った。つまり飢餓列島の日本人の生命を救うためにとった処置だったのです」
 阿部の開国への英断は、日本史最大の決断の一つでした。阿部は尊王開国派だったから、天皇に条約書を叡覧に供したのです。

 それを受けて孝明天皇は『露西亜、英吉利、亜米利加の条約書を叡覧に供したるに、(中略)、老中の苦心、主職の尽力、深く宸察あらせらる』と勅旨を正式に幕府に出したのです。

  孝明天皇は開国に満足しているのです。ひどい外国嫌いだったと、なぜ嘘を教えるのでしょうか。


 阿部の開国がどんなに日本を救けたことか。
 その実例があります。たとえば、幕府直轄領の飛騨国(約10万石支配)に例をとれば、天保7年、いまは有名な白川郷・小白川村で村民120人中、飢え死は104人、生存者16人というとてつもない飢饉が生じました。

 水野忠邦の天保改革の失敗で、日本列島の窮民は増大し、さらに悪化していく。27歳のエリート・阿部正弘にバトンタッチされたのです。

 世界的な視野を持った阿部によって、やがて鎖国から開国への道が開けた。この前後に、水戸斉昭は攘夷論(外国を武力排除する思想)で、御三家を盾にして、なんども妨害工作を計りました。これは国民の生命の軽視ともいえるものでした。

 各国との通商条約後、飛騨国は養蚕業の振興で生糸の輸出が急伸し、約10年後(慶応)には、25万両の貿易額に達し、米(こめ)に換算すれば20万石に値するものです。
 欧米各国と結んだ通商条約が、飢餓列島に陥った日本を救ったのです。これをもってどれだけ多くの人の命が救われたことでしょう。


  攘夷派の言うとおり、鎖国のままだと、日本列島は死臭の山だったでしょう。決して日本の幸せだといえません。

 阿部正弘は人材登用の達人でした。勝海舟、川路聖謨、ジョン万次郎、岩瀬忠震、井上清直など、日本の開国を実務で推し進めた人物たちです。

 ハリスが、日露修好通商条約の15回に及ぶ交渉を通して、『日本側には岩瀬と井上という優れた人物がいた。私はたびたび閉口させられたり、常に妥協させられたりした。全権のふたりがいて、日本は幸せだった』と言わさしめたのです。
 関税比率にしても日本が有利であり、明治政府がいう「不平等条約」ではありません。


 第13条で、1872年(明治5年)には同条約が改正できる条項が設けられていた。しかし、薩長土肥の下級藩士がつくった明治政府には、それを外交処理できる有能な人材がおらず、27年間も棚上げで、ひたすら不平等な条約だ、と教科書で教えるだけだったのです。

 明治政府は各藩の下級藩士(現在・市役所の主任、係長クラス)だったことから、国政の視野で財政・金融・外交を判断できる優れた人材(現・高級官僚)がおらず、そこは後回しにし、警察権・軍事力の強化を計ったのです。
 そして、西南戦争以降、10年に一度は海外で戦争し、「日本には神風が吹くのだ」と言い、国民に対する政府への求心力を強めていったのです。戦争するほどに、海外領地は増えても、とてつもない軍事費の膨張から、軍事財閥は儲かるが、一般国民がふたたび疲弊する道となったのです。


 講演後のアンケートを見させていただくと、
「歴史の見方が変ったようだ、真実は何か? とてもおもしろかった」
「とにかくオモシロい講演で、全く予想しない目からウロコの歴史話で、日本史の見方を変える視点を得た感を持った」
「福山藩主・阿部正弘を見直した。明治政府の歴史教育の教えは間違っていると思う」
 こうした穂高健一史観への評価も多かった。
 
                                   【了】

阿部正弘が飢餓列島を救った。孝明天皇は日米和親条約を勅許(上)

 広島県・府中市は、芸州広島藩、福山藩、そして幕府領・上下代官所の3つが重なった、全国でもめずらしい立地である。
 3月22日、広島県・府中市立図書館で、「第3回歴史講座・郷土の歴史をさぐる」の講師に招かれた。聴講者は57人で、1時間半の講演だった。

 昨年、私が執筆した中国新聞・文化面「緑地帯」のコラム『広島藩から見た幕末史』が、同館の佐竹館長が、目にとまり、講演を依頼してくれたものだ。と同時に、拙著「二十歳の炎」も読まれたうえで、御手洗(呉市)にも出むかれていた。

 講演は広島藩よりも、福山藩の安倍正弘を主に語ろう、と決めた。その話しの流れを紹介したい。


 阿部正弘は、27歳にして老中首座(現・内閣総理大臣)になって開国に導いた。かれの業績が明治政府によって故意に歪められている。
 幕末史はペリー来航からスタートすると矛盾だらけだ。明治政府が作った教科書は嘘が多い。それを現在も引きずっている。

 
「ペリー提督が初来航(1853年)した翌年3月には、日米和親条約が結ばれました。日本語、オランダ、英語です。だれが難しい英文の外交文書を理解して、条約締結したと思いますか?」
 この単純な質問すら、日本史の教師は答えられない。だから、高校で日本史は選択科目であり、必修にはならないのです。

「ジョン万次郎は漁師で身分が低いから、同席させていません。となると、誰ですか」

 ペリー提督が来航する、7年前には、米国・東インド艦隊の司令官のジェームズ・ビッドル提督が、浦賀にアメリカ大統領の国書をもって来航した。ペリー提督の船団とほぼ同規模。老中首座・阿部正弘は、国書は受け取らなかった。
 しかし、薪や、水、生鮮食品を目いっぱい与えて引き取ってもらった。
「これも教科書で教えてくれていませんよね」
 大半の人は、初めて聞く顔だった。


「阿部正弘は老中首座になった年から、長崎に入るオランダ商船には、上海・香港で発行される英字新聞を日本語に翻訳させて持参することを義務付けました。だから、阿部は産業革命も、クリミア戦争も、知っていました。そして、阿部は長崎の数多くの通詞に英語を学ばせたのです」

 鎖国とはなにか。海外情報にブラインドする(盲目)ことではなく、敏感になることです。それが国を守ることです。北朝鮮を見れば、アメリカの動きに敏感です。これとまったく同じです。


「ビットル提督も、ペリー提督も、ともに1年前にオランダ経由で日本に、提督名、入港する船名、予定する時期などを知らせてきました。アメリカ大統領とすれば、国書を持参させる礼節だったのです。それ故に、日本の最高責任者の阿部正弘は、長崎から浦賀に英語のできる通訳を呼び寄せて待機させていました。ペリー提督は通達予定よりも、2か月遅れでやってきました」

 なぜ、日本の教科書は唐突にペリー提督が来航したように教えるのでしょうか。アメリカ大統領を侮辱しているし、失礼だと思わないのでしょうか。

「ペリー提督が来た1853年には、将軍が亡くなった年ですから、開国の条約については1年後に来てほしいと引き取ってもらいました。その任を受けて浦賀に出むいたのが、関籐藤蔭など福山藩士2名です。国書を受け取らせると、ペリー提督はすぐに出航しました」
 

 この時、阿部は2週間後、長崎奉行に軍艦4隻をオランダに発注させたのです。その一隻が咸臨丸でする。阿部が欧米の産業革命とか、黒船の性能とか、それら海外情報に精通していないと、高価な蒸気軍艦をわずか2週間後に発注などできません。

『泰平の眠りをさます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず - 狂歌.』を教科書に載せて、日本史を教えた明治政府の意図はなんだろう。むろん、国民の眼を欺くためのものだった。

 黒船を発注した数日後、阿部はおもむろにアメリカ大統領の国書を諸大名に公表したのです。それは開国へのコンセンサスづくりだったのです。
 5か月後にまとめた阿部は、賛否の意見を玉虫色で曖昧にさせています。それはペリー提督が半年後にやってきた時に、老中首座に全権を委任する内容だったのです。

                               【つづく】

97歳の記憶は健全=元・庄屋宅でおどろきばかり。長刀で蓮華草刈り

 山岳歴史小説として、天保・天明の時代を背景に執筆している。取材と並行だ。単なる登山小説でなく、山と人間生活とのかかわりである。毎月1-2回は信州か、飛騨に出むいている。

 3月16日~17日はたっぷり雪が残っているかな、と思ってブーツを履いていくと、信州にはまるで積雪はゼロ。実に陽気な日和だった。青空の下で、白峰の常念岳が形のよい稜線を浮かべていた。
 田圃(たんぼ)はまだ枯れた状態だった。
 小説の1シーンで、旧暦3月29日から4月10日までの展開がある。春の花がなにかしら咲いていないか、と見渡すが、梅はまだだった。華やかな色はなかった。

 現代の農家は機械化されている。200年前だから、機械化以前の、戦前の農業を知る必要がある。そうでないと、リアルな小説は書けない。


 村の長老に聞くのが一番だ。長野県・安曇野市の元庄屋宅に訪ねた。高年齢者「おじいちゃん」から取材させてもらった。97歳。耳が遠いだけで、頭脳は明晰だ。こまかく教えていただいた。親せき筋の亥さんも加わってくれた。

 
 私は、広島県の島・造船の町に生まれ育った。高校1年で初めて田植えをみた。その程度だから、長野の農業、岐阜の林業は取材を積み重ねるほどに、奥行きの深さを感じてしまう。つまり、解らないことだらけだ。むしろ、知るほどに、おどろきの連続でもある。
 農業を知り尽くしている人から見れば、陳腐な驚きだろうな、と思う。

 玄関内に馬小屋があるのには驚いた。人馬という言葉があるが、まさに家族の一員なんだ。

「馬小屋の土間(床)は掘られて一段低く、柵があって、馬の顔と人間の顔の高さが同じくらいです」
 低いところに堆肥がたまって、それをかき出し、田畑の肥料にしてきたという。まずはメモをとる。
「馬小屋の二階では、作男2-3人が寝泊りしていた」
「作男って、なんですか」
 住み込みの働き手で、将来は土地を分けてもらい独立する。むかしの小作人の多くは貧しいから、長男以外、次男、三男などは豪農の家に働きにでていたらしい。

 一つひとつが解ってない。
 
 家屋の構造も興味深いものがあった。玄関には大戸があって、普段は締まっており、そのなかには潜り戸がある。それが通用口になる。
 真横には格子戸があり、誰がきたのか、そこからのぞき見て確かめる。合理的だ。

 庄屋だから帳場があった。金銭の出納とか、農作物の出来高など、こまかく計算していたのだろう。名字帯刀がある家だから、刀、槍、長刀があったという。
「刀をふだんからピカピカに磨いておいたら、泥棒が入って盗まれた。錆びたままにしておけばよかった」
 とじいちゃんは苦笑する。

 盗まれる前、日本刀で、稲刈りしたと話す。長刀ではレンゲ草を刈った。これには驚かされた。小説で組み込んだら、ひんしゅくものかな。
 ドサ回りの芝居役者が、村に巡業してくると、長刀を借りにきた。現地取材しないと、こんなことは解らない。それにしても、役者は本ものを使って怪我しないのだろうか。

 中庭には巨大な鉄鍋に窯(かま)があった。
「味噌を作る。近所の人が寄りあつまって」
 私にはみそづくりの工程は解らないが、土蔵のみそ部屋で、大きな木樽に詰め、熟成させていたようだ。
「信州みそって、有名だったな」
 
 建物の屋根は檜(ひのき)か「さわら」を細長く切って葺いたという。板造りは冬場の仕事だった。檜の屋根などぜいたくだな。
 庭の一角には水場が引き込まれて、水車小屋があった。
「米を搗(つ)いて、玄米とか、白米を作っていた」
 子供のころ社会科で習ったかな、と思い浮かべる。

「イロリバイ、はここに保管していた。火事にならないように」
 なんだろうな、と聞き返す。囲炉裏から出た灰は、まだ火の気があるから、外の小屋一か所に集めて、そばにはつねに水桶を置いていたと教えてくれた。
 天保・天明のころは火事が多かった。火の用心はこんな風にしてやるのか、とわかった。


 藁(わら)で縄をなう。木槌で打ちながら柔らかくしていく。口に水を含んで、ぷーと吹きかける。この加減がむずかしいらしい。いちど見てみたいが、おじいちゃんには頼めない。

 藁を2-3センチに切って、馬に餌として与える。これは知らなかったな。大根、ニンジン、菜っ葉、なんでも、馬の飼葉になったらしい。
 

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日米通商条約は不平等条約に非ず(下)=明治政府の歴史ねつ造

 日米修好通商条約の正しい歴史認識とは何か。

「この条約で、幕末からの日本はアメリカに守られ、列強の植民地支配に陥る危険性はなくなった』
 日中戦争(昭和)で、アメリカ側から一方的に破棄されるまで、この条約の精神は生きていた。

『人口過剰の日本が飢餓から救われた、重要な条約だった』


 明治政府は、日米修好通商条約は「不平等条約」だ、「関税自主権がないのは不平等だ」と一辺倒である。それはちがっている。当時の日本は、人口が極度に過剰で、食料危機の連続であった。それの解決に結びついていった。

 天明から天保へと浅間山の大爆発に始まり、大凶作、地震、雪害、害虫被害など、災害が庶民を叩きのめしてきた。鎖国で輸入品すらなく、改善する手立てはなかった。途轍もない大凶作に襲われると、餓死者が多く、農民一揆、逃散、自殺、打ち壊しなどが起こっている。民はつねに飢餓の線上にあった。


 井伊直弼の英断で、同条約が結ばれた。貿易が一気に拡大し、悲惨つづきの食糧不足に対して、輸入という、解決の途が導かれた。

 日本は金銀は産出できる国だ。養蚕業の拡大による絹製品の輸出ができる。輸出貿易から外貨が増える。
 それを背景に、食料品や生活物資が飛躍的に輸入品が入ってきた。大多数の国民を飢餓から救うことができたのだ。

 開国と貿易がもっと早くに行われていたならば、天明・天保の大飢饉で、途轍もない餓死者を出さずにすんだはずだ。

 日米修好通商条約の定められた輸入品の関税率は、漁具、建材、食料などは5%の低率関税であった。それ以外は20%であり、酒類は35%の高関税であった。

 関税は自由に変えられず固定していたが、これは決して不平等な貿易ではない。現代のTPPに比べたら雲泥の差だ。
 德川幕府は要人の叡智をもって、むしろスタート時には日本に有利な関税による貿易を開始したのだ。

 天皇の勅許を取らずして、日米修好通商条約が結ばれたといい、水戸藩士らの手で、井伊直弼の桜田門外の暗殺が起きた。
 明治に入ると、そのテロを正当化し、国民を飢餓から救った同条約を悪者にしたのだ。

 一般に『安政の大獄』というが、思想犯の死刑は8人だった。
 ところが明治時代に起きた、幸徳秋水らの大逆事件では、無実の者が11人も処刑されているのだ。
 明治政府の思想弾圧、昭和時代の治安維持法が暗黒国家をつくった。処刑は『安政の大獄』の比ではない。近代史、現代史では、そうした歴史的な事実はしっかり教科書に折り込むべきだ。

 皮肉なことに、自国の歴史を学ぶべき高校の日本史は選択科目だ。どうして選択なのか。その根拠は何か。日本の歴史教科書には虚実が多い。だから教えたくないのだろうか。せめて自国の歴史くらいは必修にしてほしい。

                                     【了】

日米通商条約は不平等条約に非ず(上)=明治政府の歴史ねつ造

 海軍大臣・元首相の子孫(男性)と、私の地元・立石で長時間にわたり飲んで語った。かれは40歳前後で、大手商社マンの課長だった。
(目線が高いな、上級軍人の立場で語っている)
 それがかれに対する印象だった。
 私は庶民の立場、二等兵、上等兵の立場だった。
 当然ながら、ふたりの意見は食い違ってくる。

「明治軍事政府は侵略思想の、とんでもない政権だった。それが第二次世界大戦まで悲惨な戦争につながった」
 私は従来の考え方を示した。
「認識が違います。明治時代は富国強兵で、帝国主義を取らなければ、日本は生き残れなかった。そうでなければ、日本は植民地になっていたんです。その証拠に、アジア諸国はみな植民地になったのだから」
 かれの主張は、ある意味で多くの日本人の共通認識だろう。
 
「アジアのど真ん中のタイは植民地にならなかった。それに、日本が開国した19世紀後半から20世紀は、ヨーロッパ各国はもう植民地政策の反省期に入っていた。日本だけが大陸への侵略国家になった。それに、中国や韓国が日本に対して、なんの悪いことをしたの?」
 かれの言葉は詰まっていた。

(明治政府がねつ造した歴史に毒されているな)
 その想いは私の脳裡からは消えない。


 私たちは学校で、安政5(1858)年の『日米修好通商条約』が不平等条約の代名詞のように教わってきた。しかし、実際にそうだろうか。日本人にメリットがなかったのか。否、実に大きな寄与があったのだ。

 学校教育では、同条約の最も重要な第2条はまず教えていない。多くの人は知らないだろう。

『日本国と欧羅巴中のある国との間にもし障り起る時は、日本政府の囑に応し、合衆國の大統領和親の媒となりて扱ふへし』
 日本が欧州から植民地的な圧力やもめ事を受けたならば、アメリカは抑止力になる、と明瞭に宣言しているのだ。
 この条文をもってして、日本はアメリカ軍事力の傘の下に入り、イギリス・フランス・オランダ・ロシアの植民地になる要素はなくなったのだ。


 富国強兵を取った明治政府は、『日本が大陸に侵略しなければ、逆に日本が植民地になる』と侵略戦争を正当化してきた。
 そのためには、日米修好通商条約第2条が目障りなのだ。

                        【つづく】

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