言論弾圧をうけた高野長英が教える、ねつ造された歴史教科書(下)
文化・文政の頃から、日本列島の周辺には数多く外国船(捕鯨船・商船)が航行する時代になった。鹿島灘の沿岸では、欧米の捕鯨船の乗組員が上陸し、漁民たちと物々交換していたのだ。それが発覚し300人余りの民が取り調べを受けた。
徳川御三家の水戸藩において、鎖国の禁が破られていたのだ。水戸斉昭は、自藩の取り締まり強化とともに、鹿島灘に近づく外国船を打払う法律が欲しかった。それゆえに、斉昭は攘夷思想をふりまわし、幕府に「異国船打払令」をつくらせた。
こうした斉昭の自分勝手な強引さが、日本外交の夜明けには反動的で、じつに目障りな存在となっていく。
1840年のアヘン戦争が勃発から、日本の歴史は大きくうごきだす。
高野長英が『夢物語』で見通した通り強いイギリスで、大国の清の惨敗だった。1842年に終結した。イギリス側は大砲を使い、死者は一人も出ていない圧勝だったともいう。
アヘン戦争の情報が日本に伝わると、老中首座の水野忠邦は、水戸斉昭の圧力で作った「異国船打払令」を廃止した。他方で、遭難した船にかぎり補給を認めるという「薪水給与令」を出した。それは1842年(天保13年)だった。アヘン戦争の終結と同じ年だ。
その後も、やみくもに「異国船打払令」にこだわって騒ぐのが水戸斉昭だ。かれはというと家慶将軍から、謹慎処分を受けた。謹慎とは室内に封印されて、外部との交流・手紙からも経たれる処分だ。
かれには秩序・ルールなど、救命嘆願の手紙を書きまくった。人柄のよい阿部などは集中して手紙攻撃を受けた。『新伊勢物語』として残るが、猫なで声の泣き言ばかりだ。
阿部正弘は27歳で老中首座になり、大勢の有能な人材を発掘し、それらの意見を聞き、洞察力・決断力、先見性で長期政権をつくってきた。
バランス感覚の良い人物で、動乱期の幕末なのに、正面からからの政敵はいなかった。あの井伊大老すらも、阿部にはとくに逆らった態度は取らなかった。
「戦争をしないで開国させる」
その信念の阿部正弘だが、かれの最大の失点は水戸斉昭の謹慎処分を解くことに力を貸して、実現させたことだろう。
それが斉昭をのさばらせたし、かえって重荷を背負ってしまう結果となった。ある意味で、太平洋戦争の終結まで、尾を引いてしまっているのだ。
徳川家慶の後を継いだ、家定将軍は知能障害だった? 水戸斉昭がここぞとばかりに徳川御三家の威光をふりまわす。(御三家は政務に口出しをしないのが、家康時代からの暗黙のルールだった)。ルールを守れない性格の斉昭には、阿部正弘はかなりごづっていた。
アメリカ政府からオランダ経由で、「アメリカ海軍のペリー提督が、大統領親書を持参する」と事前に德川幕府に連絡がきた。
阿部正弘はそれを一部幕閣に伝えた。
攘夷論の水戸斉昭が開国に大反対したのだ。阿部は斉昭の攻撃の矛先をかわしながら、ペリー提督と日米和親条約を結んだ。
それは「薪水給与令」を明文化した程度のものだった。
天保の飢饉以来、過剰人口の日本は食糧不足だった。徳川政権としては海外から食料がほしい。幕府は本気で、交易開始の通商条約締結へと思考をはじめたのだ。
欧米各国と和親条約を結んだ直後から、庶民は違和感なく外国人との接触をはじめた。国民感情も悪くない。交易の機が熟していた。
しかし、斉昭は通商の妨害工作に走った。なぜ、日本人が外国と貿易したらいけないのか。ここらは釈然としない現代人は多いだろう。
それは日本の歴史教科書が、明治政府の軍事政権のもとで作られたからだ。
阿部正弘の「戦争なき安政の開国」、徳川慶喜の「戦いなき大政奉還」という、戦争のない平和施策は目障りでじゃまで、不都合なのだ。
明治政府は日本史の教科書に、
『泰平のねむりをさます上喜撰たった四はいで夜も眠られず」
と面白半分の馬鹿げた庶民の狂歌を織り込んだのだ。
ペリー提督来航で阿部正弘はおたおた、もたもたしていた。力の外交には弱かったと、徳川政権をあなどってみせた。都合の良い狂歌だった。片や、明治政府は富国強兵で、力強い軍事政権だぞ、と教育で子どもたちを洗脳していったのだ。
太平戦争が終わった現代教育の場でも、旧態依然として、明治政府が悪用したばかげた狂歌
『泰平のねむりをさます上喜撰たった四はいで夜も眠られず』
をつかつている。
だから、現代人のほとんどが、その狂歌から德川政権は鎖国で海外情報なかったと信じ込んでいる。ペリー提督が来航時に、狼狽したと思い込んでいる。
天保の改革に失敗した、悪名高き水野忠邦でさえも、文化・文政の時代から「異国船打払令」を言いまくるテロリスト型の水戸斉昭を排除したのだ。
残念なことに、阿部正弘は水戸斉昭のがん細胞は断ち切れていなかった。「異国船打払令」を復活しろ、外国人を殺せ、と狂気のごとく一貫して騒いでいた斉昭は、癌(テロイズム)のごとく、他藩の下級藩士に転移していった。
国民が貿易拡大を望んでいることなど度外視し、無視し、日米修好通商条約じたいに反対する。そのうえ、桜田門外で、井伊直助を暗殺する。
犯人はほどんど水戸藩士たちだ。かたちの上で脱藩していたにしろ、水戸藩がつくったテロリスト集団だった。
19世紀にイギリスが到頭、アヘン戦争で清国を侵略した。
それは高野長英が危惧していたとおりの道だった。20世紀に入り、日本がまさか同じことをやるとは、高野長英は想像すらできなかっただろう。
尊王・勤王の精神でなく、天皇利用に変わった。人間・天皇は神様の天皇に仕立てられたのだ。薩長土肥の攘夷思想の政治家たちは、天皇を語れば、何でもできる社会を作り上げた。そして、大陸侵略へと侵攻した。
太平洋戦争の終了後に、天皇は人間宣言をした。あるべき姿の象徴に座られた。
言論弾圧事件となった高野長英「戊戌夢物語」の一節を、学校教育の場で教えてみたらどうだろうか。
徳川政権は外圧による開国でなく、高い海外情報収集力から、「戦争なくして開国できたのだ」と平和的な評価が高まるだろう。
反比例して、水戸斉昭と軍事狂歌の明治政府との歴史的評価が下がってくる。