『抱腹絶倒』 歴史資料を読む楽しさ=文久二年の幕府のヨーロッパ使節団
歴史小説を書くためには、関連資料を読み込む必要がある。小難しく、難易度のたかい内容ばかりではない。ときには、おもわず吹き出してしまう。そんな内容に遭遇する。
文久2年(1862年)に、幕府の竹内使節団がヨーロッパに出向く。かれらの持ち物を吟味すると、まさに抱腹絶倒(ほうふくぜっとう)である。このまま利用しないのは、もったいないと思う。ならば、このHPで紹介し、読者におもいきり笑ってもらおう。
皆さんが今、江戸時代の正装・武士の格好の袴羽(はかま・はおり)姿で二刀をさして、二十一世紀のバリ、ベルリン、ロンドンの市内を闊歩(かっぽ)しなさいといわれたならば、どういたしますか。それも、一年間の長期にわたってである。
「やってみよう」
珍妙な風袋(ふうたい)で闊歩なんてできない。よほどの奇人・変人でも躊躇(ちゅうちょ)するだろう、きっと。
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この年は生麦(なまむぎ)事件が起きた。神奈川の生麦村で、薩摩(さつま)藩の大名行列のまえをイギリス商人たち男女四人が、馬上で立ちどまった。薩摩藩士らが闖入(ちんにゅう)者あつかいから、日本刀(刺身包丁よりも長い刃物)で、かれらを惨殺(ざんさつ)した。
当時の欧米先進国は民主革命が成功し、自由・平等・人権が尊ばれている。ヨーロッパの国内には長距離の蒸気機関車が走り、街なかにはガス灯が明々と灯り、高級ホテルが建ち並んでいる。河川には遊覧船が行き交う。
港に近い紡績工場群には高い煙突から煙がでる光景がある。さらに巨大な機械工場、製鉄所が豊かな近代化にまい進している。
街なかのフランス料理、ドイツ料理などレストランでは、盛装した親子連れがフォークとナイフを持ってマナーよろしく食事をしている。
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このころ、竹内使節団の35人のヨーロッパ渡航準備がはじまった。
滞在費は三十万ドルである。横浜からスエズまで往路の蒸気船の船賃はイギリスが負担する。帰路はフランスと決められた。
出発前から、英仏の公使は、「携帯品はなるべく少なく」と注意していた。
「ヨーロッパ人の言うことは、うかつに信じてはならぬ。日本国の御恥になる」といい、夏物、冬物の紋付き袴をそろえる。
「西洋の靴を履(は)いては、神州(神の国・日本)の大恥になる」
軍用ワラジを持参することになり、1000足そろえた。
「現地で、靴を履いたものは、国風を乱した罪で、その段階で日本に帰す」とお達しを出しながらも、無駄なワラジだとわかり、海洋に捨ててしまう。
使節団の正使・副使の三人は、手槍、(馬につける)鞍、鐙(あぶみ)をそれぞれに用意する。戦争でもする気なのか。認識が違いすぎる。
江戸城内や武家屋敷の廊下をともす金行灯(鉄網を巻いたもの)、提灯(ちょうちん)、手燭、雪洞(ぼんぼり)、蝋燭などを箱詰めにした。ヨーロッパのホテルはガス灯だ。まったく無用だった。
冬場用の火鉢も50個ほど持参する。往復の蒸気船は、艦長の指示で、「火気厳禁」であり、火鉢はいちども使われなかった。、
白米は世界一の味という認識から、(蔵前から)数百俵を積み込んだ。むろん、ご飯を炊く、調理する鍋や釜やおひつ、シャモジ、膨大な数の皿などもそろえる。
ヨーロッパのホテルでは自炊はなく、随行員の口は洋食に慣れてしまい、結果として炊飯道具や皿はホテルの下人に、無料で、珍しいものだといい、あげてしまう。
調味料の味噌・醤油も用意した。赤道直下でも腐りにくい万年味噌だといい、「甲州・武田信玄以来の軍用の味噌」をあつらえた。ところが、途中の香港を出たあと、イギリス兵から「臭い、臭い」と苦情が出て、すべて海に投げ捨てた。
1862年とは、いまから150年まえである。幕府が開港・開国し、世界の「近代化」の潮流に乗ろうとた矢先だった。攘夷騒ぎで、薩摩藩士が馬上のイギリス人を一刀で斬り、落馬すると、「介錯だ」といい、とどめを刺した。二人重傷で、ひとり女性は逃げ切った。
ちなみに、現代社会においても、「尊王攘夷」が日本のあるべき姿だったと美化するひとがいる。この手の竹内使節団の捧腹絶倒のはなしから、それがいかに時代錯誤(さくご)の歴史認識かとわかる。
明治政府がねつ造した「文久の鎖国をもめる思想は正しい」というプロパガンダに染められたまま、現代におよぶからである。
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あえてつけ加えるならば、竹内使節団が出発まえに、幕府はもしもヨーロッパで金詰りになった場合を想定し、横浜に駐在するフランス公使から(パリの)銀行信用状(日本政府が全額支払うと明記する)を発行してもらっている。
こうした国際為替の連絡網がすでに開国の日本・横浜まで伸びてできあがっていたのだ。
島津久光や小松帯刀らは「文久の改革」だと美化されているけれど、幕府には横浜からヨーロッパ諸国に送金できるシステムができているなど近代化への歩みの認識などなかった。
鹿児島は遠方だから無知蒙昧(もうまい)であったにしろ、白昼、罪もない民間のイギリス人を斬り殺す。古今東西、太古から、人殺しは罪深い行為である。歴史の上でも、決して許される事件ではない。
江戸っ子たちはかれらを薩摩の田舎侍、いも侍だと嘲笑した。こうした民間の声は歴史から消されてしまうものだ。
イギリスのフリゲート艦・オーデイン号には、使節団員たちの大量の荷物だけでなく、訪問国六か国の国王や首相らへの贈り物の漆器・甲冑などが持ち込まれた。膨大な厄介な荷物である。
とうとうイギリスは別途に、喜望峰(ケープタウン)周りの運搬専用船を一艘あつらえることになった。(使節団はスエズから蒸気機関車で地中海に出る)
そればかりか、日本人はすべからく畳敷きの部屋を望むし、部屋と部屋の仕切りは襖(ふすま)をもとめた。応じるイギリスは軍艦の内部の改装に日数を要した。
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1862年1月22日、フリゲート艦は芝三田(東京・港区)から出航した。艦長の指示で、消灯は夜の九時、艦内では許可なく飲酒は禁止である。当時の日本人はタバコが大好きである。強雨でも、決められた甲板の一か所しかない。
かれら武士は軍艦の厳しい規則など無視する。艦長が注意すれば、「些細なことで、やかましい」と不平を鳴らす。
貯水槽は鉄製だから、しぜんに錆が発生する。赤茶色の水で白米を炊く。茶色のごはんで、喉(のど)を通らない。日に三食、無理に食べる。そればかりか、荒天でおおきな波浪が甲板を洗う。激しい横揺れで、船酔いが続出する。
長崎に寄港したあと、英領香港、英領シンガポール、英領セイロン、アデン保護領(en:Aden Protectorate)を経て航行するも、赤道直下では荒れた海、それに猛烈な暑さには耐え難い。
同年2月22日、紅海のスエズに着くまで、かれらには難儀な船旅である。幕命とはいえ、気の毒ともいえる面もある。「船中は将来忘れがたい苦しみを味わった」という記録もある。
エジプト・スエズに上陸したかれらは、鉄道でカイロからアレクサンドリアに出る。船で地中海を渡り英領マルタを経て、マルセイユに入った。
やがて到達した近代化された西洋の都市・パリが光り輝いていた。「これが日本のめざす近い将来の姿だ」とかれらは目を見張った。
この先進国フランスでナポレオン三世に拝謁し、次なるイギリスにおいてかれらは「第2回ロンドン万国博覧会」になんども会場を訪ねて熱心に見物し、とくに機械類に興味をしめしたようだ。
さらにはオランダ、プロシア、ロシア、ポルトガルの合計6か国を訪問した。武士装束の一行はいずこでも奇異な目でみられた。その一方で、礼儀正しい態度とふるまいには感心されたという。
【引用文献】 宮永隆著「文久二年のヨーロッパ報告」(新潮選書)