【近代史革命】 第二次長州征討は、奇兵隊の暴走で引き起こされた。(下)
司馬史観において、なぜか、長州藩の第二奇兵隊による倉敷代官所襲撃はほとんど取り上げていない。それは「薩長同盟」を強調するストーリーに不都合だからか。
木戸孝允と西郷隆盛による談論が、「薩長同盟」となり、さらには「薩長による倒幕」へと昇華させていく。
はたしてそうだろうか。
木戸孝允には開明的な思想があった。西欧に肩を並べるには、封建制の強い徳川幕府ではダメだ。西欧型の政治にする必要がある。それには、頂点に天皇をおく中央集権政治であった。
後醍醐天皇が成した「建武の中興」とおなじように、天皇のための『皇軍』が必要になる。片や、親政が実現しても、長州藩がいつまでも『朝敵』だと、自分たちは政治活動などできない。毛利敬親の指図で、これまでは敵視していた薩摩と和合し、『朝敵外し』の尽力を頼みに京都・小松邸にやってきたのだ。
この段階で、木戸孝允自身は『武備恭順』の施策を取りながらも、幕府と単独で戦う気などなかった。
木戸孝允は早くから水面下で、芸州広島、備中岡山、鳥取、徳島、対馬ら六藩同盟・盟約へと働きかけていた。朝廷の権威を高めるには、これら諸侯(大名)の協力が不可欠だと考えていたからだ。京都の留守居役として、六藩が一つ意思にまとまりかけていたところ、自藩の暴発による「禁門の変」でぶち壊されてしまったのだ。
それから2年後、こんどは倉敷代官所の襲撃だ。幕府のみならず、親しい他藩(五藩)からも、長州からの開戦疑惑がむけられた。
『なにかと暴走してしまう長州藩は、すでに正当性を失っている』
長州藩江戸詰が長かった木戸孝允は、誰を最も怒らせてしまったか、とわかっていた。ここはせめても開戦疑惑を晴らすためにも、第二奇兵隊の参戦の隊士ら全員を切り捨てる手段にでた。幕府対策として、脱退の暴徒だ、大罪だと決めつけ、斬首など厳罰で臨んだのだ。
それらを書簡にして幕府側に提示し、懸命に戦争回避に尽くしていた。
しかしながら、幕府には通用せず、大軍が長州に襲いかかってきた。
ところが思ったよりも、長州軍は善戦していた。この段階になって、はじめて『この勝敗が朝廷の盛衰にかかわる戦争だ』と木戸には位置づけできたのだ。兵士らを鼓舞し、火の粉を懸命に払っているうちに、家茂将軍が亡くなった。これが長州に幸いした。
芸州広島藩の辻将曹が仲立ちし、勝海舟と長州藩が宮島で和平協定を結んだ。
木戸孝允は、この辻将曹と広島藩世子の浅野勲訓(ながこと)と強いつながりがある。薩長芸軍事同盟ができた。それに土佐藩を加えて、徳川幕府に軍事圧力をかけた。結果として、「薩長土芸」が明治新政府を樹立させる。(肥前は動いていなかった)
そして、木戸孝允が新政府の政策ブレーンの頂点に招かれた。かれの頭脳はフル回転をはじめた。……五箇条のご誓文、版籍奉還、四民平等、外国公使と天皇の面談など、斬新な政策が怒涛のごとく打ち出されていく。勝海舟と西郷隆盛による江戸城開城がなされる前からだった。
むろん、木戸孝允は鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争の戦場にはいちども出ていかず、財政・金融の面からも、新政府の新たな経済面の構築にむかった。
第二奇兵隊の総督は山内梅三郎、軍監は白井小助と世良修蔵が就いていた。しかし、世良は謹慎中の身だったことから、倉敷代官所襲撃には参戦していない。
学生論議のように、歴史に、もしもはないけれど、世良修蔵が謹慎ちゅうでなければ、会津戦争は起きなかったかもしれない。軍監の世良も倉敷襲撃に参戦し、暴走責任者として斬首されていただろうから。
世良は、仙台藩士に福島の旅籠で斬首された。仙台がわの立場からすれば、世良の人格、性格に問題があったとする。この斬首が会津戦争のおおきな引き金になった。
新政府になった明治2年に、長州藩内で奇兵隊が反乱を起こした。
木戸孝允は長州意識よりも、朝廷の臣民の意識が強く、みずから反乱兵の鎮圧に乗りだした。徹底した処罰で臨んだ。そこには高杉晋作がつくった奇兵隊だ、という親近感などなかった。まるで逆だった。
理性的な木戸からすれば、藩主・毛利敬親の「そうせい公」の態度を甘くみて、長州藩士がまたしても好き勝手に暴走・暴挙したか、という腹立たしさ。それ以上に、倉敷代官所襲撃の暴走が長州から開戦した、という汚名を歴史に残した口惜しさが強かったのだろう。
現代の史学では、慶応2年4月9日の第二奇兵隊による、倉敷代官所の襲撃は歴史の片隅に置かれている。しかし、第二次長州征討の開戦という、実に大きなターニングポイントであることは事実だ。わずか100人と言えども、これを見落としてはならない。
石見銀山から大坂に運ぶルートを守る重要な役所だった。幕閣で最も権威あるのは、徳川幕府500万石をぎゅうじる真の実力者は勘定奉行だ。金山・銀山も極秘に支配下にある。全国の津々浦々に隠密網を張り巡らせている。老中、ときに将軍すらもお金のために頭を下げる。
その勘定奉行所の人体に、田舎侍の奇兵隊が知ってか知らずしてか、細長い刀を刺し込んだ。直属部下である有能な官吏が殺されたと言い、江戸勘定奉行を強烈に怒らせてしまったのだ。
ちなみに、幕末の最大の実力者である小栗上野介 忠順( ただまさ)が勘定奉行であった。木戸孝允は事の重大さを知っていた。
【了】