備中松山城に行ってみた。(現存する山城では一番標高が高い)。幕末の藩主は、板倉勝静(いたくらかつきよ)である。穏健派の老中首座だった。
孝明天皇が攘夷(じょうい)思想で、高飛車に、次々と幕府に難題を吹きかけてきた。幕府と立場が逆転し、朝廷が優位に立ち、「長州を征伐(せいばつ)せよ」といわれる。
争いが嫌いで理知的な板倉は、内心は戦争など嫌だったはずだ。強引な天皇に逆らえないほど、幕府には権威と権力はなかったし、苦悶していたことだろう、と推察できた。
備中松山藩は、山田方谷(やまだ ほうこく)という幕末でも超一級の素晴らしい人材をもっていた。方谷は民と藩士の両面の生活を想いながら、藩の赤字を立てなおす。双方から感謝され、いまだに備中聖人とされている。
板倉は、方谷の理財改革の理論、熱意、努力、バランス感覚の良さを知っていた。藩の内政に専念させた。
方谷を片腕においた板倉は、ひとを見る目は確かだ。幕末の慶応に入ると飢饉などで、諸藩が赤字財政に苦しんでいる。板倉は、長州と戦っても、諸藩は疲弊するだけで、得るものがない。どの藩も財政がくるしい。
武士は経済的な理由(お金がない)が言いにくい。第二次長州征討に大儀がない、と出兵を辞退しても、けっして処罰の対象にしなかった。それが板倉の人間性だろう。
歴史家は、幕府に非戦をいう大久保利通をヒーロー扱いしているが、板倉勝静の姿勢が立派だったのだ。認識ちがいもいいところだ。
ちなみに、板倉勝静は松平定信の実孫(母方)である。白河藩主だった定信は天明・天保の大飢饉のとき、ひとりも餓死者を出さなかった名君である。
長州戦争とは何か。『長州・毛利家と孝明天皇軍の戦い』である。
禁門の変が起きて、長州・毛利家が朝敵になった。いつの世も、朝廷は軍隊を持っていない。孝明天皇が、江戸から家茂将軍を京都に呼び寄せ、征夷大将軍として長州を討て、征伐せよ、と勅命したものだ。
それを受けた家茂将軍は、天皇の軍隊として出動した。
第一次長州征伐は、15万人を動員し、長州を取り囲んだ。「血は流したくない」と和睦の道を選んだ。
もう一つの理由は、戦争は金がかかるし、徳川家は金山・銀山も掘りつくし、財政が悪化していた。過激派攘夷が外国人を殺すたびに、膨大な損害賠償が要求された。それらを支払ってきた。
たとえば、薩英戦争でも、イギリスに膨大な賠償金を払った。長州が起こした下関戦争でも、膨大な要求がなされた。
徳川家の金庫はもはや底をついていた。戦争は金がかかる。だから、戦わずして解決した。
第二次長州征伐を視野に入れる孝明天皇は、ふたたび家茂将軍を京都に呼びだした。家茂は京都に来て、江戸にも帰させてもらえず、皇軍の大本営になる大阪城にくぎ付けにされてしまったのだ。江戸の幕閣などは、将軍が天皇の人質になったと怒っていた。
このころ兵庫問題とか、横浜閉港問題とかで、天皇から家茂将軍は強烈なバッシングをうけていた。天皇は幕閣の人事まで首を突っ込んだ。
兵庫開港問題では、天皇や公卿は複数の老中をクビにしたうえ、それら譜代大名にたいして切腹までも命じてくる。(謹慎処分に済ませた)。権限をはるかに越えている。
徳川家茂将軍は思うにまかせず、天皇の強引さから、(大名に切腹など言えない)と泣きだす。果たして、こんな朝廷など相手にするのが嫌になり、尾張徳川家の殿様を呼び寄せ、将軍の辞表を天皇に出してくれ、と言い、大坂から江戸に帰りはじめた。
京都にいた一ツ橋慶喜が驚いて、あわてて馬で駆けつけ、そして帰路の家茂将軍の駕籠(かご)を引きとめたのだ。
家茂にすれば、和宮には会えず、永久の別れをさせられてしまった。
徳川家茂将軍に辞表を出されて困ったのは、孝明天皇も同じだった。
当時はもはや幕府よりも、朝廷の立場が有利になっていた。といえども、長州征伐を命じた征夷大将軍から辞表まで出されると、立つ瀬がない。孝明天皇は、安政の通商条約(日米通商条約など5か国)の勅許は認める、とみずから折れたのだ。
幕府は慶応2(1866)年、幕府は、戦争を回避し、毛利家を10万石に減俸して東北に転封する案で収拾を図った。
そして、広島藩などを通じて長州にそれを言いわたす。
しかし、長州藩のトップは病気を理由に、大坂城に出てこない。片や、孝明天皇は長州征伐について再度、勅許を出した。どこまでも、長州はゼッタイに許さない態度だった。
老中首座・板倉勝静(いたくらかつきよ)は、大儀がないと出兵を渋る薩摩や芸州や宇和島など次ぎつぎと非戦願いが提出されても、無理を押し通さなかった。なにしろ徳川家の戦争ではない。天皇の名代という皇軍の長州征伐だ、という認識だった。まして、家茂将軍自体がやりたくない戦争だから。
決して、幕府と長州の戦争ではなかったのだ。
この長州征伐で、最大の被害者は庶民である。大坂と京都に軍隊の人口が急増し、物不足から、物価が暴騰した。打ちこわしとか、ええじゃないか運動が広範囲に広がった。庶民はどん底まで塗炭(疲弊)の苦しみを味わったのだ。
この段階で、毛利の世子か、支藩の藩主か、岩国の吉川などが病気(仮病)を理由にせず、だれか一人でも大坂城にきて、幕府を介し、最終処分を京都の孝明天皇にあおげば、戦争回避はできたのだ。
長州第2奇兵隊が同年4月に倉敷代官所を襲った。先制攻撃を受けたことから、江戸の幕閣が怒り、長州を包囲する皇軍が戦争に突入した。
大坂城の家茂将軍が心労で急死した。一か月は発表を伏せていた。
慶喜が勝海舟に、征夷大将軍が不在だ、これ以上は天皇軍として戦えない、「長州と休戦協定を結んで来い」と指図した。
勝は宮島(広島県)の大願寺で、長州の幹部と休戦を取り決めてきた。
慶喜は、徳川本家の相続だけを受けた。
しかし、征夷大将軍は受けなかった。そして、孝明天皇に、「征夷大将軍がいないし、長州征伐はできません」と申請したのだ。
この段階でも、孝明天皇が、「長州征伐の休戦はまかりならぬ」と勅許の履行を迫った。これは歴史的事実である。
それほどまでに天皇は、長州・毛利家への征伐に執念を燃やしていたのだ。しかし、慶喜は拒否を貫いた。
当事者の毛利家は、天皇の恨みが解(と)けていないと認知していた。だから、宮島の休戦協定の後から、皇軍(官軍)を敵にまわした反撃などできない。現状の凍結で軍事活動はやらなかった。
同年12月に、孝明天皇がご崩御され、明治天皇が引き継いだ。このときも、長州は天皇の敵のままだった。いつか第三次征伐をやらねばならぬ。この長州問題は最後の最後まで、尾をひいてしまったのだ。
慶応3年の小御所会議の王政復古で、明治新政府ができて、朝敵が解除された。
明治時代になり、薩長閥が幕末史の編纂(へんさん)に取り組んできた。明治天皇のもとで、『長州が皇軍(官軍)に打ち勝った』では不都合だから、長州戦争はあえて幕府軍だとすり替えている。
2年後の戊辰戦争では、天皇軍(官軍)の表記をとっている。ここが学者や歴史作家たちの問題点だ。
井上馨や山縣有朋などは、はやく幕末史を作れ、とはっぱをかけまくっていた。
かれらは生きているうちに、自分の目で確認したかったのである。『防長回天史』などは編纂(へんさん)委員長を取り換えても、都合よく、早く、世に出させたかったのだ。同時に、文部省『幕末史』(完成は昭和初期)もできあがってきた。
その後は、教科書のみならず、各町村史、県史などの幕末編に、それらが織り込まれた。
最近の歴史関係書は、長州征伐から、長州征討、四境戦争、とよりあいまいに表現を変えてきている。その実、学者は本質を解っているのだ。第一次も、第二次も、とりもなおさず孝明天皇の討伐勅許が出されたもの、幕府はその名代だった、と。
歴史には公平感がとても重要である。
戊辰戦争では、錦の御旗(官軍)と賊軍の会津との戦いとする。ならば、当然ながら、長州戦争では『賊軍長州と官軍幕府』として取り扱わなれければ、辻褄(つじつま)が合わない。
同時代だけに、歴史的な公平感が欠けている。
戊辰戦争のスタートで偽の勅許・偽の錦の旗の下、新政府軍を官軍とし、慶喜・会津を賊軍として位置づけた。その後において、明治新政府は正式に勅許を取ったと、ありのままに明記するべきだろう。
150年も経てば、井上馨や山縣有朋、大久保利通や西郷隆盛たちに、もはや薩長に遠慮することはなかろう。虚偽の歴史表現から真実の姿にもどそう。
第二次長州戦争で、勝ち負けを言うならば、『賊軍の長州が、皇軍の幕府軍に打ち勝った』とするのが公平である。
実際は、決着など何一つついていないけれども。薩長閥の政治家の顔色を見て、明治の御用学者たちが、薩長を英雄的に扱い、歴史的事実を折り曲げただけである。それがいまだに踏襲されているのだ。
備中松山城に行き、元藩主の板倉勝静(いたくらかつきよ)、山田 方谷(やまだ ほうこく)の資料に接し、信条・信念を想像するほどに、かれらは長州戦争を望んでいなかったと、より明確に思えた。
方谷は戊辰戦争で新政府軍が攻めてきたとき、老中首座の備中松山城を無血開城させた。それは江戸城よりも早い開城だった。
ちなみに、山田方谷は理財論、経済論および実行力が優れている。.上場会社の社長たちの人気度第1位である。