歴史の旅・真実とロマンをもとめて

講演会「開国の真実」・葛飾区立水元図書館で講演 9月28日(土曜) 

 拙著の「安政維新」(阿部正弘の生涯)が、10月15日に、全国書店・ネットで一斉に発売されます。それに先駆けて、いくつかの講演会が予定されています。
 9月28日(土曜)午後2時から28日に、東京・葛飾区立水元図書館で、題目『開国の真実』の講演を行います。
 会場 : 同図書館内の「葛飾区水元集い交流館2階会議室」
 住所 : 葛飾区東水元1-7-3
 JRまたは京成の金町駅からバス。金町駅北口・(金62)葛飾総合高校下車

 対象 : 中学生以上
 定員 : 50名(当日・先着順)
    入場料無料です。

【講演の要旨】

 最近は歴史の見直しがはじまっています。従来「開国」は黒船のペリー提督の砲艦外交に蹂躙(じゅうりん)されて、日本は無理やり開国させられた、と歴史書には記載されていました。日本史の教科書も同様です。

 歴史の見直しがはじまっています。
 従来は、ペリー提督の黒船が突然やってきたのではない。日本は恐怖に陥れたとは、ウソの記述だ。アヘン戦争が清国で起きた天保時代から、通商をもとめる外国船(おもに軍艦)が次々に日本にやってきた。その都度、江戸城の老中から現地対応の司令を出していた。

 ある意味で、経験則が高まっていたのです。封建制度・鎖国のままでは、アヘン戦争と同様に戦争になる、たいへん危険だと幕閣は考え始めました。「打払令」を止めて、水野忠邦は「薪水給与令」に変えて、外国船が難破すれば、日本国の港に、避難すれば、薪、水、食料をわたす、と法令を変える努力もしています。

              ☆   

 阿部正弘が満25歳で老中首座(内閣総理大臣)になってから、浦賀にきた外国船はペリー提督で5番目であり、幕閣も、浦賀奉行・与力も落ち着き払って対処しています。
 
 ペリー提督との外交交渉(横浜)は、日本が決して弱腰でなかった。その克明な交渉記録が現存しており、その現代語訳も、数年前に世に出てきました。

 かたや、天保・天明の大飢饉から、日本が疲弊してしまった。国が豊かになるために、阿部正弘が戦争せず開国し、世界の潮流となった資本主義に仲間入りを図った、という歴史認識に変わってきました。
 当時のアジア諸国をみると、英仏露は危険だから、最もリスクが少ないアメリカを選んだ。阿部正弘が、ペリー提督の来航を一年前に知り、ここで開国条約を結び、植民地化の危機を切り抜けた。

 みずから開国した阿部正弘は、安政の改革を実行し、富国強兵策、海陸軍の創設、日の丸の国旗制定、大日本(おおやまと)帝国(みかどのくに)、挙国一致、近代化政策へと進みはじめます。
 若くして亡くなった阿部正弘の、その遺志を継いだ小栗上野介たちは、安政時代に渡米し、アメリカ大統領・国務大臣にも面談し、西洋の民主主義を知り、さらに世界一周してきます。このときの77人の随行員が、近代化の力になってきます。

 随行船だった咸臨丸の日本人乗組員らも、サンフランシスコの地を踏んでおり、この段階だけでも、百数十人がアメリカ文化に触れて帰国しています。 

 薩長史観では、薩摩藩の15人の留学生、長州・ファイブと、もてはやされて強調されていますが、為政者の徳川家の海外使節、留学生の規模とではまったく比べ物になりません。

 明治政権は、それら阿部正弘の安政施策と近代化路線のパクリとなっています。

 国内変革の維新は、明治維新からでなく、阿部正弘から始まった。歴史の正確な認識として、安政維新が正しく、明治は徳川政権の瓦解による「御一新」だった。(昭和時代初期2.26事件で青年将校が昭和維新と叫び、そのあとに明治維新と一般にいわれるようになった)。

 歴史の見直し、歴史の塗り替えのなかで、早晩、鎖国から開国へと「安政維新」がはじまり、徳川瓦解による「明治の御一新」という正確な表記に変わってくるでしょう。

 その予兆はすでに出てきています。「薩長史観による開国史はあやしい」、明治以降の薩長閥の政治家による「陰謀史観」ではなかったのか、と。ネット、書籍のみならず、テレビ、新聞なども取り上げ始めました。
 講演は、こうした内容を語る予定です。

 写真:坂町郷土史会の提供 2019年4月20日「隠された幕末史 芸州広島藩と神機隊」より

『開国の真実』ポスター

悪人と呼ばれた鳥居燿蔵、丸亀城(香川県)を訪ねる 裏と表と

 丸亀城は美しい。大学生の頃から、だれとなく聞いた。その後、今治から高松、金比羅(こんぴら)にはなんども行った。
 ただ、丸亀にはふしぎに一度も足を踏み入れていなかった。


 
 最近は、広島には月に一、二度行く機会がある。ほとんど東京にストレートに帰ってくる。

 阿部正弘を執筆中から、鳥居燿蔵(とりいようぞう)が気になっていた。あまり悪人として描きたくなかった。理由は作家の勘だろうか、悪党には思えなかったのだ。

 鳥居は、水野政権の全盛期に忠実な側近だった。「天保の改革」の強烈な推進者である。それが目立ち、苛酷(かこく)過ぎたから、後世では悪人そのものとして取り扱われたのだ。

 このたび、私は広島帰りに、本州から四国にわたり、丸亀に立ち寄ってみた。現地では期待した史料に巡り合えなかったが、城内を歩くうちに、執筆中の内容が次つぎとよみがえってきた。

「鳥居燿蔵(とりいようぞう)」と聞くだけでも、歴史好きには、悪人のひびきがあるだろう。「蛮社の獄」(ばんしゃのごく)の思想弾圧。天保の改革では、庶民に「奢侈(しゃし)禁止令」を苛烈(かれつ)に実行する。

 矢部定謙(さだのり)町奉行を陥れた。そして、みずからその町奉行の座についたうえ、さらに勘定奉行までも兼務する。


 儒学の教養に満ちた鳥居だが、性格はかたよっており、蘭学(らんがく)の砲術家の高島秋帆(たかしましゅうはん)を敵視し、スパイと詐術を使って陥れる。

 そのうえで、長崎奉行に高島秋帆を捕縛(ほばく)させて、江戸送りにさせた。冤罪(えんざい)だから、取調べは長引いた。鳥居は死罪を言い渡したが、高島は幸運にも、水野の失脚で刑の執行が猶予された。のちに、水野忠邦の再失脚で、軽微な罪のみとなった。
 

 老中首座の水野忠邦の側近でありながら、江戸・大坂上知令の反発が強まり、水野政権が危うくなると、裏切って、老中の土井利位(としつら)につく。水野がそれで失脚する。

 ところが、家慶(いえよし)将軍が水野忠邦を再登場させたのだ。となると、鳥居燿蔵は立場がなくなる。当然ながら、水野忠邦から報復をうけて失脚する。

 
 町奉行を罷免(ひめん)されて、江戸城・清水口の門番担当になった。一気に格下げである。私が鳥居で感心するところは、常務・専務の役職から守衛になっても、腐らず、律儀にしごとをしている点にある。

 この人物は真からの悪人ではないな、と思った。水野忠邦の命令というか「天保の改革」を実現する、という職務に忠実すぎたのだ。不正や悪をあばくために、大勢のスパイを使った。それが鳥居の命取りになったのだ。

 人生は転落のサイクルに入ると、悪循環になるようだ。『水野三羽烏』の鳥居燿蔵、渋川敬直(ひろなお)、後藤三右衛門)が、罪に問われた。それは水野忠邦をまき込んだ貨幣鋳造の悪巧みの発覚だった。鳥居燿蔵は連座を問われたのだ。
 

 阿部正弘政権の下で、老中次席の牧野忠雅(まきのただまさ)に裁かれる。判決として、鳥居燿蔵は丸亀藩(京極藩)に「押し込み」(軟禁)になった。

 どんな罪だったのか。
 鳥居が使っていたスパイたちが、陰険な手段を使って犯罪をでっち上げていた。結果として、罪なき人までも陥れた。そのひとりが高島秋帆だった。

 鳥居燿蔵をあえて弁護するとすれば、賄賂とか、不正とか、私欲に満ちた悪人ではなかった。むしろ、そうした幕府内の悪人たちに挑み、スパイをつかってまでも、徹底した身辺捜査をしていたのだ。
 
 鳥居燿蔵の断罪は、「町奉行が、幕府の要職にある人々の身辺捜査などやるべきでない」という罪である。現在ならば、越権行為である。

 鳥居燿蔵は政治的な行為だったと認めたのだ。 
 

 もう一度考える。鳥居燿蔵は悪人か、悪党か。
 
 鳥居燿蔵は幕府の儒官・大学頭・林述斎(じゅっさい)の四男として生まれた。そして、旗本の鳥居一学の養子に入った。


 頭脳抜群の鳥居燿蔵は、水野忠邦(ただくに)政権の下で、精一杯の努力したのだろう。『君がため尽くす誠は古も今も変わらぬ武士(もののふ)の道』と詠う。まさか、当人は後世で、これほどまでに悪人・悪党扱いされると思っていなかったと思う。

 先般、ネットの歴史もので、ある歴史学者が太平洋戦争を論じていた。真珠湾攻撃に携わった参謀はバカだ、こんな見通しもできず、ミッドウェーの戦術はあまりにもお粗末だ、無能に等しいと語っていた。

 歴史上の人物をバカ呼ばわりする。歴史学会を批判する。どんな偉い歴史学者かと思って調べてみると、私が卒業した中央大学で、史学科出身だった。
 私とは学部は違うけれど、およその能力は察しがついた。
 
「戦時に生まれていたら、おおかた海軍兵学校(江田島)など入学できる能力ではないし、大戦争に突入させた参謀本部の在籍におよばず。徴兵制の出征で、どこぞ上等兵あたりで駆けまわっている人物だろう。横柄な口はたたけない下っ端の兵隊にちがいない」
 歴史は後ろからみれば、何とでもいえる。

 約80年前の歴史上となった人物をバカ呼ばわりする。見苦しいな。この手の歴史学者にかかれば、鳥居燿蔵などはきっと悪人の頂点に据えるだろう、と思った。

 偉そうぶった歴史学者をなぜか思い起こしながら、私は丸亀城を歩いていた。
 
 ちなみに、中央大学・学生歌《惜別の歌》が、小林旭が歌っている。そのDVDをみると、小林がこの丸亀城が背景だった。私は大学との縁を感じていた。

 丸亀城「三の丸」の石垣は、曲線美で、見事な石工たちの技である。「見返り坂」からそそり立つ姿はみあきない。
 
 堅固に組まれた石垣の高さは、約22メートルである。日本の城はほとんど同じだが、上端は垂直で、敵兵が城壁に登れない構造である。

 丸太や竹で、やぐらを組んで、不安定な足元にも負けず、巨大な石をつり上げて、設置していく。当時の職人たちの汗と努力は、歴史上に名を残すわけでもない。しかし、精一杯の努力をしたのだろう。
 
 名を残すのは、築城の大名だけだ。
 
 ぼう大な築城資金はだれが出すのか。苛政から搾取される農民の年貢である。どこの領地のお城でも、資金の殆んどが農民である。
 しかしながら、いずこも大名の名まえだけが残っている。ときには名君として。


 
 鳥居燿蔵(50歳)の軟禁生活は、23年におよぶ。幕末の動乱期で、老中などは幾人も入れ替わる。「鳥居を放免(ほうめん)するか」という声が一度もあがらないまま、明治時代に突入した。

 鳥居燿蔵は、「自分は罪あって幕府よりここに預けられた身である。だから、徳川将軍から直接きた文書でなければ、寸歩も進退を自分勝手にできない」といって泰然(たいぜん)として動かなかっという。


 燿蔵の実家は林家であり、鳥居に養子に入っていた。京極藩(丸亀藩)は幕府がなくなり、早くに出て行ってもらいたいと明治新政府に訴えた。
 すると、京都の鳥居家が本家だから、73歳の燿蔵を引き取れ、と命じた。260余年前の本家と分家だから、燿蔵は鳥居本家などまったく知らず、拒否した。

 戊辰戦争が北の方では解決がつかず、乱世である。老人の厄介な話など、明治新政府はいちいちかまっていられない。決定は決定だ、丸亀から出ていき、自由にしろ、と命じた。

 明治元年10月16日に、鳥居は讃岐・多度津?から海路で兵庫港に渡り、大阪で形式的に鳥居家のひとに会う。あとは自由だ。駿府まで歩き、実家の林家の親戚筋と会う。
 さらに東京の品川に着く。渋谷に行って、長男・成文と会っている。ここから長男家族と生活をともにする。

              ☆

 晩年の鳥居燿蔵は、人恋しさで、数々の人たちに会っているという。鳥居燿蔵の日記はみていないが、関連資料によると、土岐頼旨(とき よりむね)、浅野長祚(ながよし)とたびたび懇談していると記されているらしい。

 拙著「安政維新」(阿部正弘の生涯)・10月15日出版予定のなかで、土岐丹波守頼旨、浅野長祚が浦賀奉行として登場してくる。
 かれらが現役のときは、浦賀に外国の大形軍艦が来航するなど、開国の足音が近づいていた。両者は阿部正弘の鎖国の放棄と開国への判断に、少なからず影響を与えた人物である。つまり、開国派である。

 阿部正弘が死んで、牧野忠雅が老中を辞したとき、鳥居燿蔵は大喜びしたという記録が残されている。アンチ阿部正弘である。


 儒学思想の鳥居燿蔵は徹底した攘夷(じょうい)思想であり、徳川幕府が瓦解(がかい)すると、「自分のいう通り攘夷をつらぬかず、開国したから、徳川家が倒れる結果になった」と批判したという。

 鳥居燿蔵の実父・林述斎との関係からみれば、幕末の外国奉行となった堀利煕(ほり としひろ)と岩瀬忠震(いわせ ただなり)は甥(おい)である。
 阿部正弘が抜擢した聡明な人物で、安政の五カ国の通商条約をおしすすめた。まさに、歴史を作った秀才たちだった。

 歴史の評価は裏と表である。

 日米通商条約を結んだ岩瀬は、「天皇の勅許を得るまでまて」という井伊大老の指図に反したことから、にらまれて蟄居を命じられた。江戸向島の岐雲園の幽閉の身で、2年後に失意から病死した。
 堀は老中首座の安藤信正と口論になり、その日のうちに割腹した。

 鳥居燿蔵とは気性の強さにおいて、3人には血筋を感じさせる。ただ、鳥居の頑迷に23年の幽閉の孤独に耐えた「生きる」という精神力は、想像を絶する。


 丸亀城を歩きながら、人間の生き方の評価は死後にならないとわからないものだと思う。
 
 気になるのは、開明派だった土岐頼旨、浅野長祚と昵懇(じっこん)になったという。数奇な巡り合せだと思う。いったい、どんな話題が出ていたのだろうか。
 そこは想像するしかない。

 私たちは令和元年の生きている。30年後、50年後に、どのように評価されるのだろうか。1世紀後から、現在をみれば、価値観が変わり、私たちは歴史上のうえで、とんでもない社会悪を維持している国民かもしれない。

 後世の人たちから、「なんで、こんなことも予測できなかったのか。警告できなかったのか」と為政者、文学者、技術者などが、激しい個人攻撃を受けるかもしれない。

 明日は見えないものだが、歴史は後からならば、何とでもいえる。しかし、歴史から学ばなければ、将来は予測できない。だから、過去の事象はあなどれない。
 丸亀城で、「歴史の重要な位置づけ」をつよく抱いた。

長編歴史小説「阿部正弘」の執筆を終えて。いよいよ近代史革命へ(4)

 ペリー提督が浦賀に来航する、一年前に、長崎のオランダ商館長から、その旨の通報があった。それがいまや一般的に知られはじめてきた。

 老中首座の阿部正弘は、それなのに一年間は無策でなにもしなかった、重大な事だと受け止めていなかった、という論評が多い。
 阿部正弘をどうしても貶(けな)したいのだろう。歴史家や歴史家きどりのブログには、その批判がやたら多い。


 ほんとうに、阿部正弘は何もしなかったのか。
 まず、国家の重要な機密はベラベラしゃべるわけがないだろう、と思う。ここらを充分に調べもしないで、あるいは調べる能力の欠如を棚に上げて、歴史上の人物をやたら貶してしまう。それをもって当人は、優越感に浸っている、あるいは自己陶酔しているのだろう。

 
 私は長編歴史小説で「阿部正弘」を執筆するにあたり、「合わせ鏡」方式を取り入れた。それは日本側だけでなく、海外側からの情報と照合することだった。つまり、鏡で両面からつきあわせて検証する方法である。

 そのおおきな理由は、明治以降の政治家の姿勢にあった。焚書(ふんしょ)して史料を焼いた事実がある。阿部正弘の日記も、焼かれて現存していない。


 明治の政治家は、御用学者を使って、徳川幕府を貶(けな)すことで、国民にたいして自分たちを高く大きく見せる、歴史のねつ造をやっているのだ。
 有能で天才的な阿部正弘は、どうしても、こき下ろさなければ、阿部正弘政権の業績のほうが勝ってしまう。

           *

 阿部正弘は満25歳で老中首座になってから、享年39歳(満27歳8か月)の間に、かれを超えられる政治家がいなかった。
 かの強健な井伊直助(彦根藩主)すらも、あるいっときトップに推されたが、国難の時だけに、とてもやれないと逃げまわった。
 政治ライバルが、まったく出なかったのだ。

 老中首座の阿部正弘は大改革を次々におこなう優れた政治家だった。阿部に任せるより、国を救う方法がほかになかったのだ。
 一言でいえば、だれも足元に及ばない優れた政治家なので、立候補者が出てこなかったのだ。

 日米和親条約が締結したあと、正弘はあまりにも攘夷(じょうい)的な批判が多いので、老中首座の辞表を出したことがある。
 では、だれにするのか。このとき京都御所が大火災になる、その復興という重大な責務が、国難のうえに積み重なる。資金計画だけでも、財務能力がなければできない。

 武士は金銭感覚に弱い。正弘はことのほか数字に強い。

 内憂外患の国難、御所の復興を同時に進められるのは、阿部正弘しかいなかった。それなのに辞表を出されてしまい、まわりは混乱してしまう。
 推された者は、病気を理由に逃げの一手だ。あげくの果てには、家定将軍の「思し召し」という方法で、安倍正弘の辞表撤回となった。

 
 余談だが、京都御所の紫宸殿など見学される機会があれば、平安朝の素晴らしい建造物をみられるとよい。安政の復元で、阿部正弘がぼう大な資金を投入して再建させたものだ。

 孝明天皇はその阿部に厚く感謝し、日米和親条約についても、最大の謝意と勅許(ちょっきょ)を下しているのだ。歴史学者たちはここらをひた隠しにして、孝明天皇は外国嫌いだと虚像を作り上げている。
            *

 さかのぼれば、アメリカ大統領の親書を開示した時、ほぼ総反対で、大名は黒田斉溥(福岡藩)、旗本は勝海舟が開国派だった。

 朝廷の関白である鷹司政通は、「合衆国の書簡は、慇懃(いんぎん)にして誠意がある。拒否すべきではない。寛永(1624年~1645年)以前は各国と通商し、わが国に利するところが少なくなかった。通商を許すも、国体を損じるものではない。取締りの法を設けさえすれば許可してよい」と積極的な開国派だったのだ。

 200年前まで海外交易を盛んにしていたのは、歴史的事実である。

 だから、孝明天皇は日米和親条約に喜んで勅許を与えた。
 安政通商条約も、まわりが攘夷で反対している以上、自分(孝明天皇)が勅許を出して、後々、悪く言われるくらいならば、譲位(天皇を辞める・平成天皇のように)させてほしいと、くり返し、辞意を述べている。ここらも、歴史学者は隠している。

 孝明天皇や鷹司政通は、海外通商には賛成だったのに、後世の者が、孝明天皇は外国が大嫌いだったとねつ造しているのだ。

 薩長史観の歴史学者たちには、とかく嘘とねつ造が多い。信用できない私は「阿部正弘」を執筆するにあたって、これを見破る必要があった。傍証、状況証拠の積み重ねが必要で、時間もかなり要した。8年間、かかった。

 もうひとつ近代史の学者にたいする不信感は、世界史の視点から、ほとんど論じられない点にあった。きっと不都合なことがあるのだろうな。
 そこを見破るために、私は多くの労力を割いてきた。

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 IT時代だから、19世紀の海外情報の資料が検索で、引っ張ってこれる。それらを読み込んだ。この19世紀は、ジャカルタ、広東、香港などで英字新聞が発達している。日本関連の記事もある。その翻訳文も、探しにさがして読みこんだ。

 オランダ別段風説書(別段=特別、風説=情報)などはぼう大だったが、実に貴重な資料だった。
 1843年のオランダ国王のウィルレム二世が「日本に開国勧告」を幕府に送ってきた。……蒸気船の発達が、西洋のアジア進出を加速させている、西洋諸国が日本へ圧力をかけはじめる。このまま鎖国を続けると、アヘン戦争の二の舞になる、と開国を促している。
 ペリー提督が来るちょうど10年前で、このときから日本は実に豊富な海外情報をもっていたのだと読者には明瞭にわかる。

 この内容は日本人が正しく知るべきだと、私は『阿部正弘の生涯』(9月30日発売予定)のなかに、その全文を現代文としており込んだ。同時に、阿部正弘の返書も全文を掲載した。
 
               * 

 1852年、オランダがペリー来航のアメリカ情報を早くに察知し、「日本がそろそろ通商条約を結びそうだ」と考えて、有能な外交官・クルチウスをオランダ商館長として長崎に送り込んできた。日本に好意的なオランダ国王のウィルレム三世の考えだろう。(従来の商館長は貿易商人)。

 クルチウスはバタヴィア高等法院の評定官、高等軍事法院議官であった。高度な軍人情報と世界知識をもっていた。
 クルチウスは長崎に着任すると、長崎奉行を介して阿部正弘政権の外交アドバイザーになった。

                  *

『わがオランダ海軍情報部隊の資料によりますと、アメリカ旗艦の「サスケハナ」はアメリカ蒸気船で最大です。1850(嘉永3)年にフィラデルフィアで建造・進水されています。木造外車フリゲート艦で、3824トンです。船体は木造で、船の外板と肋骨は、鉄の傾材を一部使っています。ビットル提督が乗ってきたコロンバス号(排水量2440トン)よりも、ひと廻り大きい。

 北アメリカの造船技術は欧州より大きく遅れをとっている。理由は波穏やかなハドソン川など、河船の蒸気船として発達してきたからです。外輪は一分間に12回とゆっくり回り、遠洋をのそのそ航海する感じで、船速はとても遅い。

 わがオランダ、イギリス、ロシアなどの戦艦は、北海の厳しい荒海、氷山、氷の海の航行が強いられます。いまや、スクリュー・プロペラ船の開発がすすみ、氷結した海すらも航行できます。
 アメリカ外輪船は海面の氷があれば、かき回せず、フリゲート艦でありながら、冬季の活動が弱い。洋上に大波があれば、外輪の片方が空回りし、航行が難しい。時代遅れの軍艦です』

『遠洋航海の蒸気軍艦に、石炭を搭載するほど、食品や水の削減となります。それでは飢えた海兵で、病人の続出になります。アメリカ艦隊は長期間にわたって戦争できるほど、大量の石炭を積んで来られません』

 クルチウスは日本の幕府に蒸気軍艦・スクリュー船の建造を勧めるのだ。日本列島を守るには、海軍力の強化が必然です、槍と刀では、艦砲射撃に対応できません、と。
 オランダは造船立国である。幕府が軍艦を購入すれば、海軍士官が必要になる。その海軍士官学校の創設を進める(長崎海軍伝習所・のちの海軍兵学校)。そして、オランダ海軍の教官を日本に差し向ける計画案を出してきた。
 さすが、国王の推薦する外交官だから、クルチウスは世界的な視野から、いま日本がなにをするべきか、と的確に言い当てている。
 阿部正弘はそれを受け入れた。ペリー来航の予告から、わずか1年間で日本帝国海軍を創設の骨格を作ったのだ。
 
 嘉永6(1853)年6月に、ペリー提督が江戸湾から立ち去ると、一週間後には、阿部正弘は蒸気軍艦など、7、8隻の仮発注を長崎奉行にさせるのだ。(咸臨丸など)。同年9月には祖法の大型船建造禁止令をやめて、長崎奉行に正式発注させた。

 この時の長崎奉行の水野忠徳(ただのり)が、破天荒な大物だった。時代小説の読者が好きな「火付盗賊改め」の長官から、浦賀奉行、長崎奉行になる。

 私は小説を書いていて、この水野がとても好きになった人物だ。出世したり、左遷させられたり、型破りの人物だ。
 クルチウスに、「咸臨丸などが届くまで、海軍は練習できない。大量発注するから、軍艦一隻を寄付しろ」と平然という。
「あなたは高飛車すぎる」
 クルチウスとは妙に噛みあったり、行き違ったり、面白い。あげくの果てには、一隻がオランダ国王の裁断で、日本に寄付されるのだ。それが観光丸で、日本で初めての軍艦になる。

 阿部正弘はこの一年半で、日本帝国海軍を創設したのだ。
 海防掛(外交・防衛)の目付システムの下で、長崎海軍伝習所(のちの海軍兵学校・内閣総理大臣を数多く輩出したエリート士官学校)の初代長官には、永井尚志が赴任する。正弘が抜擢した、抜群の能力の持ち主である。
 かれは作家の三島由紀夫の曽祖父である。

 現代で言えば、ジェット戦闘機の発注、パイロット養成所、その教官依頼まで、秘かに1年半で成し遂げたのだ。まさに、神業的である。
 
 ペリー来航を1年前に知りながら、阿部正弘はなにもしない無策だった、と論評する。いかに、歴史的な無知なのだろうか。
 日本の学者や娯楽歴史小説のみを鵜呑(うの)みにしていると、こんな頓珍漢(とんちんかん)な歴史認識になる。

長編歴史小説「阿部正弘」の執筆を終えて。いよいよ近代史革命へ(3)

 日本のペリー提督が来て、徳川幕府は無能で、対処も満足にできなかった。本当だろうか。蹂躙(じゅうりん)されて、わが国は開国した。
『太平の 眠りを覚ます 上喜撰 たった四杯で 夜も眠れず』と教科書で教えられてきた。

 日本人は、そんなに愚かだろうか。愚劣な政権だったら、260年余も続くはずがない。『情報は最大の力である』徳川政権の情報収集力と解析力は、世界でも有数である。日本の長崎、浦賀にくる外国船は、徹底して臨検している。

 軍艦の入港目的、軍艦の長さ、幅、マストの高さ、大砲の数ず、火薬や弾丸の数、銃や小銃の数量を聴取するのだ。

 奉行所役人らは、臨検に入っても、あいてはすぐ軍事行動に出ない、いきなりの銃発射などないと、マニュアル化されているから、堂々と、速やかにやってしまう。、
「かれらの俊敏さには、おどろかされる」
 外国軍人の史料には随所に出てくる。

「慇懃(いんぎん)で、礼儀があり、品格があり、好印象を持ってしまう」
 役人の指示で、かれら(日本人)が勝手に戦艦に食品、薪(まき)を運び込む。悪いことではないし、やめろとは言えない。当時の軍艦は他国民を乗せるのが一般的だった。

 かれらはさらに「新鮮な水の貢物をどうぞ」と善意の態度で、大勢の人手をもって樽の水を船上に運び込む。その実、「命の水」をどのくらい残量しているのか、と役人は測っているのだ。
 むろん、公儀隠密も頬被りした人足として、あるいは与力として加わっている。

             *

 弘化3(1846)年閏5月に、アメリカインド艦隊司令長官のビッドル提督がコロンバス号とビンセンス号の2隻を率いて、浦賀にやってきた。捕鯨船・マンハッタン号を浦賀に入航せさせた翌年である。

 浦賀奉行所、三浦半島警備の川越藩、房総警備の忍藩の小舟が、周囲を3重にとりかこんだ。約400~500隻が、アメリカ人の上陸を拒んだ。

 ビッドル提督の地位は7年後のペリー提督おなじである。
 最初に乗込んだ浦賀奉行所は与力の中島三郎助、通詞の堀達之助たちだった。マニュアル通り、臨検をおこなう。
 ビッドルは、アメリカ大統領の親書を持参してきていた。来航目的は、和親条約と通商条約の締結である、と話す。それが浦賀奉行所から同江戸詰を介して老中にすぐに知らされる。

 当時は、アメリカは東海岸から、喜望峰を通ってインド洋、アジアに入ってくる。とてつもない時間と経費を要する。太平洋航路ができていなかった。
 ビッドルが空の水桶を叩いてみせたから、アメリカ軍艦の二隻はすでに飲料水が欠乏している、と幕閣への報告で記している。

                *

「日本人は、外国事情によく通じていた。オレゴン問題について、詳しい知識を持っていたので、ビッドルはおどろいた」
 そのようにアメリカ側に記録されている。

「オレゴン問題」、私たち現在の日本人はどのていど知っているだろうか。アメリカ西部オレゴン地方の領有をめぐる4か国の争いから、やがてイギリス,アメリカの紛争になった。1846年のオレゴン条約で北緯 49度線を国境として決着をみた。
 まさに、ビッドルがきたのは、この1846年である。 
 
 この海外情報の入手先は、オランダが中心である。記録に残っていないが、英仏露の軍艦も入港すれば、臨検とともに、海外の情報収集に努めていたとしても、おかしくない。

 老中の阿部正弘からピッドルに対して、浦賀奉行を介して、
「アメリカは広大かつ強い国である。なぜ、遠方からはるばる小さく価値もない日本にやってくるのか。日本としても、大きく豊かなアメリカを相手にして利益になるはずがない。早々に引き揚げるのが良い。水、薪、食品は無償で船に積んであげよう」
 アメリカ大統領の親書は通信(国交)の国になるから受理はしないが、人道的に最大限に補給してあげよう、という申し出をする。
 むろん、これも諜報(ちょうほう)活動の一環である。

 日本側の資料だと、薪は5000本、小麦2俵、梨3000個、茄子200個である。そして、水は2000石(3万6000リットル)である。

 ビッドルは穏和で、辛抱強く、交渉に臨んでいた。しかし、これ以上の交渉は両国の関係を悪くする、米国への不信感をあおる結果になると判断したようだ。
 浦賀10日間で打ち切った。そして出帆している。

                  *

 ビッドル提督が浦賀を出港した、わずか21日後の弘化3(1846)年6月28日に、ビレ提督が率いるデンマーク軍艦のガラテア号が、相模湾の鎌倉沖に姿を現したのだ。

 目的は世界周遊の科学調査である。川越藩士や浦賀奉行の与力同心、通詞など計29人の日本人が同艦に乗り込み、来航理由などを聞き取った。


 浦賀奉行所は与力の中島三郎助、通詞の堀達之助は、ここ2年で3度目の外国船の対応だった。落ち着いて手慣れたものだ。

 浦賀奉行所から江戸表に、来航目的、デンマークの国旗、国王の肖像画スケッチ、軍艦の装備、乗組員約260人などが細かく報告された。

(ビレ提督も、日本人の特徴と印象を詳細に記している)

 臨検の間に、しだいに嵐となり、同艦は浦賀に入港せず、立ち去った。
 
                  *

 嘉永3(1850)年5月には、イギリス軍艦のマリナー号が浦賀に入港する。 浦賀奉行所は与力の中島三郎助、通詞の堀達之助のコンビは4度目である。

 マリナー号は、蒸気船の発達による「世界の海図」をつくるのが目的だった。下田港とか、伊豆大島とか、あちらこちら立ち寄っている。その都度、日本の臨検を受けている。マリナー号は別段、通商要求でもないし、浦賀奉行所との間で、武力衝突の気配すらなかった。
 のちに判明するが、日本人の音吉(愛知県)が中国人と名乗り、通訳として乗っていた。

                  *

 嘉永6(1853)年6月には、ペリー提督が浦賀にきた。またしても与力の中島三郎助、通詞の堀のコンビで、マンハッタン号から数えて、5度目の外国船の浦賀入航である。
 後世で言われるほど、かれらはオドオドしていない。与力の中島三郎助は艦上で身分を偽ったり、大砲の砲弾の種類とか、軍艦の装備とかをあつかましく質問している。

 その後、ペリー側が、大統領親書を受理しなければ、アメリカの陸上部隊を江戸にむけるぞ、戦争も辞さないと脅す。アメリカは10日間が飲料水、食品の限界だ、戦争などできるはずがない、と高をくくっていた。
 ビットル来航で臨検した「命の水」の保有量など、情報収集が生かされているのだ。

「かれらは蒸気汽缶が動くことにも、おどろきもせず、外輪をまわす仕掛けも知っていた」
 ベリー「遠征記」には記載されている。
 

 日本の歴史教科書が、外国船はマンハッタン号(1845年)の浦賀入港から、5度目であると表現すれば、『太平の 眠りを覚ます 上喜撰 たった四杯で 夜も眠れず』。こんな川柳は、当時、流行した黒船観光で興奮しているのだろう、と解釈できる。

            *

 世界の潮流の自由貿易主義には、もはや逆らえない。

『日本は交易で国家の利益を得よう。そのためには、まず開国しておく。そして、4-5年後に通商を結ぶ。日本から予告・通商を呼びかければ、西欧諸国はそのくらい武力を使わずに待つだろう』
 老中の阿部正弘は、この外圧を利用して思い切って舵を切ったのだ。

 進歩に対しては、かならず保守反動勢力が現れる。それが諸大名だった。

            *

 外国から資本主義が入れば「職業の選択の自由=人の移動」で、農民を領内に縛り付けられなくなる。とりもなおさず、封建主義の基本が崩れる。
 封建大名たちは、戦国時代の群雄割拠で得た利権だった。それが世襲で延々と続いてきたのだ。工業、商業など産業の発達で、領内から農民が消えていけば、石高が落ちる。自明の理である。

 大名はいずれも開国・通商につよく反対していく。資本主義を波打ち際で防御する、激烈なる攘夷(じょうい)論者たちであった。
 封建制の破壊で、お家がつぶれれば、家中(家臣)らも路頭に迷う。攘夷論が一気に武士階層にまで広がる。
 
 徳川家とすれば、領主の大名家とちがって、江戸には人があつまるし、封建制でなくとも、近代化と議院制度で、政権の維持はできると考えていたのだ。(のちの小栗上野介などは顕著だった)
 
 阿部正弘がアメリカ大統領の親書を開示し、広く意見をもとめた。広く公議を尽くす、第一歩だった。
 封建維持の大名のなかで、開国・交易に賛成したのはわずか福岡藩・黒田斉溥(ながひろ)だけである。(黒田家52万石は明治政府につぶされる)

 現在、開明派と謳(うた)われている大名など、後世につくられた英雄伝の創作ものだと見なしても間違いない。

                  *                
 
 英国はアヘン戦争で、鎖国主義の清国の市場を武力で解放した。南京条約、追加条約を締結して半植民地にした。
 すると、フランスも同様な不平等条約・黄埔条約(こうほじょうやく)を手に入れた。アメリカもおなじ厦条約(ぼうかじょうやく)を結んだ。
 寄ってたかって西洋の食い物にされていた。

 これは清国がかたくなに鎖国主義で門戸を固く閉ざしていたからだ。日本もこのまま鎖国主義をつらぬけば、西欧列強の強力な軍隊と戦争となり、民を苦しめる。

「戦争を回避するのが正しい道だろう」

 攘夷旋風のなかで、正弘は有能な人材をあつめて知力を武器にして、開国に踏み切る決断をする。
 この勇気は強靭(きょうじん)な精神力もあるが、天才的な鋭い人材抜擢の英知にある。若きエリート外交官が、西洋に立ち向かっていくのだ。
 戦争無くして開国して、さらに輸入関税20%という西洋どうしの利率で、5カ国と通商条約を結ぶのだ。
 ちなみに、インド、中国、南米諸国は軒並み5%の輸入関税である。

 蒙古襲来の国難で、若き北条時宗は二度の国難を救った。それ以来であろう。

長編歴史小説「阿部正弘」の執筆を終えて。いよいよ近代史革命へ(2)

 ある元外交官が、「ペリー提督が来航する、それ以前が重要です。そこを教えないかぎり、幕末史の本質はわかりません」と語っていた。同感である。

 私は「阿部正弘の生涯」(仮題)が9月末に刊行されたならば、1845年から1945年『100年間の歴史を学ぼう』運動を提唱し、多くの日本人に呼びかけていく。それ自体が近代史革命である。

 この2つの年代に、ぱっと気づくひとはいるだろうか。

 1845年2月22日、備後福山藩主の阿部正弘が、満25歳(数え27歳)で老中首座(現内閣総理大臣)になった。
 かれはペリー来航で、西洋列強の砲弾外交にも屈せず、情報が力なりで、「戦争無くして開国した」のである。1945年には悲惨な太平洋戦争が広島・長崎の原爆投下で終戦した。

 この100年には、「平和で解決しようとした人間」と「戦争で権威を得ようとした人間」、という政治家トップの思想と頭脳の差がでてくる。

『100年間の歴史を学ぼう』運動は、私たち現代人からはさほど遠くなく、祖父、曽祖父の時代であるし、身近に感じてくれるだろう。
 多くの家には、いまなお軍人姿の親、親戚筋が写ったアルバムもあるだろうし、仏壇には位牌がある、そんな手が届く時代なのだ。この方々が、なぜ戦死したのか。その理由と回答はこの100年のなかにあるのだ。
 

 ここを学べば、千年間に値するほど、濃密な歴史がこめられている。「民への政治」と「権力の政治」を学ぶほどに、私たちが令和のいまから「将来を考える」シュミレーションになるのである。人間は過去を参考にして、明日からの予測と行動を考えるからだ。


           *


 水野忠邦が「天保の改革」に失敗した。阿部正弘をそれを引き継いで老中首座になったのが、弘化2(1845)年2月22日である。
 アメリカ捕鯨船・マンハッタン号が鳥島(ジョン万次郎がかつて漂着していた)で、11人の阿波国(徳島県・鳴門)の難破船の日本人を発見して救助した。
 クーパー船長は捕鯨漁を中止し、かれらを日本にとどけるために、鎖国日本の江戸湾に勇気をもって向かうのだ。さらに、その途中の房総はるか沖合で、これまた銚子の難破帆船11人を救助した。日本人は合計22人である。

 クーパー船長は手振り身振りで、「日本幕府に入港許可をとってきてくれ」と、外房の勝浦と白浜の二か所で、日本人を2人ずつ二組を上陸させるのだ。
 
 それぞれ領主がちがっていた。一方は浦賀奉行所へ、もう一方は領主の御3卿・清水家(江戸)に護送された。
 奉行と清水家はそれぞれ事情聴取したうえで、組織の頂点となった阿部正弘に処置の「伺い書」を挙げた。それが弘化2年2月22日である。

 これだけ『2』という数字が並ぶのは、阿部正弘が奇跡の登場を予感させる。

 250年の守旧・幕閣の頭が固い、『遭難民は長崎に送り、そこからオランダ船でいちどインドネシアかマカオに送り、あらためて長崎に連れてきて、尋問する』という従来の国法で処すべし、と主張した。

 土岐頼旨(とき よりむね)・浦賀奉行(江戸詰)から、『数え10歳の孤児が乗っています。(銚子船)が正月休暇で釜石に入港すると、寒冷地なのに袷の着物もなく、空腹の孤児がいた。可哀そうなので、船員がマンマンを食べさせた。正月明け出帆する段になっても、孤児が下船しないので、食事を与えて乗せていたら、難破した」と証言しています。

「この孤児をマカオまで行かしめるのは酷です。仁愛の処置を」と、土岐奉行が阿部正弘に伺い書を出したのである。
 正弘は人道的な見地から、孤児を救うために、国法を曲げて、アメリカ捕鯨船を浦賀に入港させた。これがアメリカ船の浦賀入港の第一歩となった。

 この影響が漸次拡大し、やがてペリー来航へとつながっていくのだ。

 阿部は「民のいのち」を大切にする人物だった。相手が、浮浪児・孤児でも、おなじ日本人だ、哀れな子を助けるべし、と裁許した。それでも、「祖法は守るべし」と大反対した大目付を即座に左遷し、正弘は土岐の上申書をたたえて大目付に据えた。


 大目付役は代々世襲の色彩が強く、豪華で広い役邸住まいだろう。ひとたび左遷となれば、政治生命は断ち切られて、1-2日で役邸から立ち退きが要求される。それは厳しいものだ。(大名屋敷、旗本屋敷、幕閣の役邸は幕府の貸与が原則である)。

 25歳の宰相(さいしょう)が就任から1か月にも経たずして、「鎖国は祖法」の禁を破り、アメリカ船を浦賀に入港させたうえ、大目付役を断罪したのだ。

 アヘン戦争後に、英仏米は次のターゲットを日本ときめていた。未曾有(みぞう)の国難の時代に流星のように現れた天才的な若き政治家だけに、決断は大胆で早い。

              * 

 こうした経緯を小説「阿部正弘の生涯」で展開するために、当時の浦賀奉行(浦賀と、江戸詰の双方)、清水家の尋問書を読み込んでみた。海外側の裏付けも探す努力をした。

 デンマークの海軍提督が書いた「世界周遊記」が目に止まった。……提督が上海に立ち寄り、中国系英字新聞「チャイニーズ・レポジトリー」を読むと、米国捕鯨船のクーパー船長の談話が乗っていた。
 ビレ海軍提督は、その全文をデンマーク国王に送った。その新聞の元は、ホノルルの新聞「ザ・フレンド」から転載されたものであり、同地(ホノルル)の医学博士が、クーパー船長から聞き取って新聞に寄稿したものです、と国王への手紙に記す。
 そのうえで、「私も日本に行ってみます」、ビレ海軍提督は追記している。

              *

 マンハッタン号の船員は、浦賀に滞在中の上陸は許されず、数日間滞在した。水、薪、食料が無料でもらえた。『こんかいの浦賀入港は特例です。ふたたび来ないように』。この英字新聞の記事と、日本側の資料よる、正弘が土岐頼旨に与えた入出港・指示書とまったくおなじである。
 むろん、救助された日本人の人数も22人でまちがいなかった。

 まさか、デンマーク軍艦のビレ海軍提督が、国王に送った手紙から、アメリカ捕鯨船のマンハッタン号の浦賀入港の客観的な裏付けが得られるとは、思ってもいなかった。
 私自身も、おどろいた。

            * 

 補足だが、土岐頼旨が2度目の「伺い書」の原文が現存している。
『マンハッタン号の件は未決でしょうか。大嵐で難破した日本人が生きて母国にたどり着いて、異国船の船内で、上陸を切に願っています。差し出がましいのですが、とくに10歳の子が哀れで、胸が痛みます。釜石の両親にも見棄てられた貧しい孤児ゆえに、幕府があたたかく救ってあげる。それが日本人の仁愛かと存じます』
 そうした内容が深くつづられている。目がうるみ、涙ぐんでしまう。
 教科書では教えてくれない出来事だ。それゆえに現代文にして、多くの日本人に知ってもらいたいと、私は作中で紹介している。
 これが幕末外交史のスタートである。

 このマンハッタン号の浦賀入港から、老中首座・阿部正弘と、日本中をゆるがす幕末史がまさしくはじまるのだ。

 
【関連情報】

 デンマークの海軍提督が使用した当時の海図があった。開聞岳(写真)はヒュルネル岳、佐多岬はチチャゴフ岬となっている。奄美諸島の殆どが現代に通用しない島名である。
 これはロシア人(クルーゼンシュテルン)が名づけたものらしい。
 
 外国から見れば、鎖国の日本は外国人を入れさせず、未開の地であった。船乗りたちが勝手に日本の地形に地名をつけて世界共通で共有していたのだ。
(ナガサキ、エドは知られていたらしい)

長編歴史小説「阿部正弘」の執筆を終えて、あなたは日本の歴史教科書を信じますか(1)

 日本人は、「新聞報道を信じますか」と問われると、70%~80%が「はい」と答える。アメリカ・USAは「信じない」が70%以上だという。

 これを日本史にあてはじめると、教科書を信じるがきっと80%以上ではないか、と思う。「お上(政府)のやる事だから信じる」、「文部省選定だから、嘘ではない」、「歴史学者だから、良心があり、ねつ造や、わい曲などしない」と信じ込んでいるだろう。


 私はこんかい「阿部正弘の生涯」(仮題)の書き下ろしを執筆しながら、教科書を鵜呑(うの)みにする日本人の姿をつよく感じた。

 厳密にいえば、「幕末史」において、私たちは「教科書に毒されている」とさえ感じた。

 さかのぼること昨年、新聞連載「阿部正弘」が内諾をうけていた。私の前にふたりの作家が順番待ちだった。つまり、3年後からの連載だった。
 かたや、お世話になっている出版社が、「ぜひ、私の方から出版してください」といわれた。新聞連載が終われば、単行本で結構ですよ、と応えていた。しだいに、「早く出したいので、書下ろしで、原稿をくれませんか」と要望のトーンが挙がってきた。
「決まっているものをひっくり返せませんよ。道義的に」
 やんわり、お断りしていたが、私はこころが揺れはじめた。

              * 

 作家にとって、自分の想いのまま書ける、書き下ろしは魅力である。新聞連載の場合は読者の声が多少なりとも、執筆に影響するし、1週間に一度ぐらいは小さくても盛り上がりのストーリーを折り込む。
「新聞の購読量を挙げる努力」「打ち切られるような無様な作品にしたくない」が暗に筆にも影響してくる。意識・無意識を問わず、読者への迎合となる。ときには娯楽小説、流行作家に近い「売れる商品づくり」のスタンスになりかねない。


 作者の考え方、信条、価値観をつらぬく姿勢が大切だ。殆んどの作者は、新聞連載のあと、作品に手を入れる。
 しかし、一度書いた作品は修正しても、さほど骨組みが変わらず、人間でいえば、脊髄(せきずい)の修正まではできない。

            *
  
 約半年間ほど、私の心は新聞連載か、書下ろしか、とゆれ動いていた。
 年初(2019)の出版社と賀詞の電話あいさつのなかで「阿部正弘を、ぜひ書下ろしでください」と頼まれた。「かしこまりました。新聞社は2年先ですから、代替えの企画を入れてみます」と書下ろし単行本の出版を承諾した。
「初稿はいつもらえますか」
 そこまでは深く考えておらず、「阿部正弘」は8年間取材してきていますし、「5月連休が明けたら、お渡しします」と即答した。

            *

「読売カルチャー金町」の小説講座は第4週の木曜である。勤め人の方が受講できるように夜7-9時。講座が終了すれば、みな空腹なので、会食をして小説談義を楽しんでいる。
 その席で、「阿部正弘の書下ろし」の経緯を語ると、若き女性受講生が、「あと3か月半で、歴史小説が書けるのですか」と質問してきた。
 びっくりしたのは私の方で、指折れば、まさに「3か月半」だ。まずい。出版社に約束はしたし、遮二無二にやるしかない。「穂高健一ワールド」の記事も犠牲になった一つで、手が回らなかった。(約束よりも、1か月半ほど伸びてしまった)。

             *

 書下ろしの場合は、校正(誤字・脱字・文章の正確さ)、校閲(時代考証)などプロ級の方に頼んでおくものだが、だれもが毎日ヒマをしているわけでない。
 知人の校閲者は、年内は仕事が入っているから、あしからず、だった。
「ここは自分でやるしか、ないか」
 とくに気をつけるのは年代、人名、地名、そして事件・事象の確認だった。

           *

 IT時代だから、ネットで「用語検索」をかけると、歴史マニア、歴史オタクのブログにも飛んでいく。執筆疲れの癒(いや)しから、バカバカしくとも、そんなブログを読むこともあった。
 その大半が、得意げに上から目線でブログを書いている。薩長史観で、官制『幕末史』を鵜吞(うの)みにしている。それら内容の寄せ集めで、得意がっている。およそ自己努力による新発見などない。
 少なくとも、歴史関係者のブログ80%以上が教科書、既成作家の通念を越えておらず、斬新さがまったくないのだ。
           *  

 かれらは、「幕末史」がいつできたのか。それすらわかっていない。昭和14年の完成である。この時代背景を考えるべきだ。

 幕末史の編さん事業は当初、明治時代の半ばからスタートした。薩長閥の政治家がまず文部省と宮内庁に編さんを命じた。『幕末とはペリー来航から廃藩置県まで』と定義した。この定義そのものが薩長閥には都合がよかった。

 編さん事業は遅々として進まず、途中で中断したり、外務省に移ったり、東京帝国大学に移管されたり、また政府機関にもどったりする。歴史事実を素直に記載せず、政府に都合よくしようと歪曲する意図があるから、異論も出るだろうし、いつまでもまとまらなかったのだ。
 
 長州閥の多い政府だから、歴史学者が長州や薩摩に媚(こ)びて編さんしている。たとえば、長州藩がまったくからんでいない事象でも「薩長」ということばでごまかしてしまう。

 昭和11年「大日本外交文書」が刊行されてから、さらに編集を重ねて昭和14年に「幕末史」が完成した。
 昭和14年とは、どんな時代だったのか。
 満州事変、五・一五事件、国際連盟脱退、天皇機関説事件、二・二六事件、盧溝橋事件、日中戦争の勃発、国家総動員法、そして昭和14年が治安維持法の制定である。つまり、厳しい言論統制の時代に入った年に、政府刊行の「幕末史」が完成したのだ。

「幕末史の、ここは事実とちがいます。事実誤認があります。真実と真逆です。朝敵の長州はさして倒幕に関わっていません」
 そんな異議を吐く学者がいれば、治安維持法により逮捕される時代である。むろん、研究論文など発表すれば、それは逮捕の証拠品になる。
 
 そして、2年後には太平洋戦争の突入、やがて特攻隊、ガダルカナル、ミッドウェーと進んでいく。この期間となれば、政府刊行の幕末史に異論など言えるはずがない。獄中死を覚悟すれば、別だけれど。

               *

『歴史は思想教育に利用されやすい』もっとも顕著な学問だ。

 明治・大正・昭和(太平洋戦争終結まで)の官制歴史教育は、国民皆兵(徴兵制)、「祖国のために死す」を美化するものだった。さらに昭和14に完成した「幕末史」は正しい、と金科玉条(きんかぎょくじょう)のごとく扱われ、国定教科書の基本になった。

 つまり、幕末史が、薩長閥政治家に都合よく、軍事教育、および思想教育に使わてきたのだ。
 幕末史は6年間の無修正のまま終戦を迎えた。戦後教育のおいても、日本史の教科書がこの無修正「幕末史」がベースになっている。そのまま現代につながっている。
 だから、私たちが学んできた文部省選定「日本史」は、年表は事実でも、内容には虚偽が多く、公平性に欠ける。だから、いまだに日本史が必須科目にならない。

              * 

 歴史作家たちが描く幕末物も「幕末史」を利用してきた。だから、教科書も、娯楽歴史小説も、出典元はおなじである。 

「阿部正弘は、砲弾外交に蹂躙(じゅうりん)されて、おろおろして開国した」と論じる。軟弱な阿部正弘だと決めつけた、偉そうぶったブログにはなんども出合い、嫌悪をおぼえてきた。自説として掲載しているけれども、治安維持法のできた年・昭和14年に完成「幕末史」をまったく疑ってもいない。実際に、いつできたかも、知らないのではないか。

 ただ、教科書も表現がちがっても、「砲弾外交に屈して開国した」と書いている。出所は、幕末史でおなじなのだ。
 
             *

「歴史から学ぶには、歴史は真実でなければならない」
 私はその執筆姿勢から、可能なかぎり日本側の資料と、外国側からの資料とつきあわせする、照合する『合わせ鏡』で、既成概念・官制幕末史の打破を試みた。
 
 出版後、多くの日本人が「こんなことは教えてもらっていない」とおどろくだろう。

明と暗の歴史を遺す広島湾を歩く(下)= 似島

 日清戦争のとき大陸の戦地で、コレラなどの伝染病が流行していた。日本兵がそれを持ち帰ったことで、日本全国に広がってしまった。

 大陸からの伝染病を水際で防御する、その「検疫所」の設置が急務となった。


 似島には検疫所の遺構がいくつか残っている。

 大陸からの帰還兵は宇品港に着く。似島が宇品のすぐ沖合に位置していたことから、明治28(1895)年、後藤新平が指揮して、似島検疫所が2ヵ月の突貫工事で建設された。

 同島の検疫所内には、「捕虜収容所」が併設された。第一次大戦時の青島攻撃で、捕虜になったドイツ兵がこの似島に収容された。

 旧陸軍が管轄する似島検疫所は、哨兵が各所に立ち、機密保護に努めていた。 

 ドイツ人捕虜のカール・ユーハイムが、収容ちゅうに「バウムクーヘン」を焼いた。とても美味しくて、広島見本市に出品された。そして、わが国にまたたくまに広がった。
 似島はバウムクーヘン発祥の地といわれている。

 案内してくれる藤井さんが、この公園を手掛けた。思い出話がたっぷり。そのなかには、原爆病で命を落とした人たちの話も多く含まれていた。

 この島はサッカーとして名高かった歴史がある。

 1919年(大正8年)、第一次世界大戦で日本軍の捕虜となって、似島検疫所に収容されていたドイツ人と、広島高等師範学校の学生による親善試合が行われた。
「日本で初めてのサッカー国際試合」ともいわれる。

 捕虜・ドイツ兵はサッカーがとても妙手で、日本中のサッカー関係者から注目されたそうです。
 

 広島のカキはとても有名です。

 これ以上、語ることもないでしょう。

 ホタテ貝の牡蠣殻に、種付します。

 似島の海岸には、幾何学的に、蛸壺(たこつぼ)が並んでいます。ちょっと愉快な気持ちになれました。

 島の急病人は、救急車と広島消防署・救急艇の連係プレイで、広島市街地の病院に搬送されます。


 
 広島・宇品港にむけて、高速艇は出港の汽笛を鳴らしてから、疾走していきます。約20分間の航海です。

明と暗の歴史を遺す広島湾を歩く(中)=原爆孤児を収容した似島

 似島(にのしま)は、広島湾に浮かぶ孤島である。広島の市街地からでも、似島の安芸小富士(標高278 m)が形よく三角錐で確認できる。

 わたしは広島県の離島で生まれ育っているから、瀬戸内の島嶼(とうしょ)がより身近な存在だ。幼いころ親や教師などから「原爆孤児」を収容した島で、大勢が白血病で亡くなり、焼却された島だと聞かされてきた。


「気色悪いな」という子ども心が残り、似島にはいちども足を踏み入れたことはなかった。ある意味で、大人になっても行きたいと思わなかった。
 そうした気持ちが剥離(はくり)したのは作家という職業柄だろう。

 ことし(2019)4月21日(日曜)に、広島港の宇品から、約3kmの沖合にある似島に上陸した。案内してくれたのが、藤井啓克(広島市在住)さんである。
 同島は広島市だから、離島振興法の対象外であり、人口は約800人くらい。集落は、西と東と、2か所にある。


 宇品港を出発した連絡船の船上で、「この島の西側には、サルベージ船の船主が多いので、お金持ちなんですよ」と藤井さんにおしえられた。

 連絡船が最初の寄港地に着くと、たしかに豪華な一軒家が建ち並んでいた。

 藤井さんは昭和20年代後半から、この似島の都市計画に携わってきた。島内の公園設計と施工管理である。


写真は焼却炉

「当時は、原爆の生々しさが残っていました。原爆病で亡くなった児童たちが火葬された、焼却炉が幾つもありました」
 かれは公園指定地を決めたり、デザイン設計をおこしたりした。そして、業者が施工に入ると、人骨が次から次に掘り出された、と語る。

 当時の状況を聴くほどに、島の全域が墓地にすら感じさせられる。
 藤井さんは同島に泊まり込んでのしごとだから、さぞかし夜は不気味だったことだろう、と思う。

 島には平地が少なく、海水が透明な快い砂浜がある。

「この島には、明治28(1895)年から、旧日本陸軍の似島検疫所が置かれていました。大陸から帰還した人はまずこの島に上陸し、すべての服を脱いで、検疫をうけました。だから、衣類の焼却炉などがあったのです」と話す。
 
 原子爆弾が投下されたあと、宇品の暁部隊(陸軍船舶部隊)から船舶衛生隊の将兵約102名で編成され、被爆者たちは似島に次々に搬送された。
 検疫所が臨時の野戦病院として使用された。その数は1万人とも言われている。

 被災者が似島に運び込まれたあと、多くの死者がでた。そして、埋葬された。慰霊碑も設置されている。

 検疫所跡地には、両親やきょうだいを失った原爆孤児たちに対する福祉を目的とした「似島学園」が設立された。


 
 戦時の歴史は奥深いが、景色だけは自然のままである。

明と暗の歴史をいまに遺す広島湾を歩く (上) = 宇品

 私は初稿で「二十歳の炎」(改訂版・広島藩の志士)で、広島藩・神機隊が戊辰戦争に自費で出陣した。このとき宇品港から豊安丸に乗込んだ、と書いていた。
 江戸時代の回船時代から広島湾に宇品(うじな)があったと、信じ込んでいた。

 校閲してくれた友人の畠堀操八さん(広大付属・東京大学出身)が、「幕末には宇品港はなかったよ、西国街道の草津港だよ」と指摘された。
 歴史を書くうえで、思い込みは怖いな、と思った。

「かつしかPPクラブ」の郡山利行さんから、明治時代に薩摩出身の千田貞暁(せんだ さだあき)が広島県令(県知事)になり、宇品を拓いたと聞かされていた。

 広島市在住の藤井啓克さんは、原爆で破壊された町の都市計画を推し進めたひとである。このたび、広島市内、宇品、似島(にのしま)をたっぷり一日案内してもらった。
 厚いファイルを片手に、諸々説明してくださった。


 広島はそもそも太田川のデルタ地帯である。中国山地はたたら吹き銑鉄業が古代から盛んだった。その残土・鉱滓(こうさい)を太田川に流していた。千数百年にわたり、堆積した残土の上にできた地盤の悪い都市である。
 
「県知事の千田貞暁が、1884年に宇品港の築港および宇品干拓を着工した。しかし、難工事であった。工事期間中、何度も災害に遭遇し、工事費は跳ね上がった。資金集めにずいぶん苦労し、元藩主の浅野長勲に出資を懇願した。さらに、2度にわたの国庫補助金を受けたけれど、なお完成をみず、築港工事が粗漏(怠慢 ・ 手おち ・手抜り )だとして懲戒処分、さらには左遷されたのです」と藤井さんは語る。

 1889年(明治22年)11月に竣工式が行われた。日清戦争・日露戦争で、宇品港が軍用港として役割が大きかったので、多大な費用をかけた千田は批判されていたが、再評価されて現在に至る。

 日清戦争への緊張感が高まるなかで、山陽本線の広島駅から宇品まで引込み線が敷設された。それが「宇品線」であり、なんとわずか17日間で完成したのである。戦時の動員力には、空恐ろしささえも感じさせられる。

 宇品駅ホームは大量の兵員・物資の荷卸しを円滑にするために、560メートルもあった。東京駅の長い新幹線ホームは440メートルだから、いかに巨大なホームだったかわかる。

 日清戦争のとき、広島が大本営になり、明治天皇も長期に在留し、臨時国会も開かれた。(いっとき首都機能を持った)。兵員、物資の輸送として、宇品港から朝鮮半島にわたった。

 この後、日露戦争、日中戦争、太平洋戦争のときも、大勢の兵士がこの宇品港から輸送船で中国大陸に出征している。

 

 広島国際フェリーポートがある。船舶の役目を終えて、劇場船「STU48号」として使用されている。


 
 元宇品地区は、宇品灯台の周辺から内港地区にかけて、瀬戸内海国立公園に指定されている。広島では数少ない原生林の1つ、クスノキの巨樹の樹林がある、と藤井さんは語る。

 マツダ宇品工場から船積みする輸送船が、沖合に停泊する。奇異な形状の船体だけに、目を奪われる。(写真の右手奥)
 

 この宇品港から、広島湾に浮かぶ三角錐の似島(にのしま)にむかう。霊感の強い人は、「背筋がぞっとする島だ」という。

                         【つづく】    

小説「阿部正弘」はどこから書きだすか=大奥の悪女と女犯の僧

 約8年間にわたり、備後福山藩主で老中首座だった阿部正弘を取材してきた。書きだしの第一歩がなかなか難しかった。

 阿部正弘が家慶将軍から25歳で老中首座(内閣総理大臣)に大抜擢された。抜擢されるだけの理由があるはずだ。
そこを歴史小説の書きだし・第一歩にする、と決めた。

 正弘は22歳で寺社奉行になり、全国の神社仏閣を統括する。そこで起きた「中山法華経寺の事件」の解決が、老中昇進を決定的なものにした。
 どんな事件か。

 下総中山法華寺(千葉県・市川市)の広い山内には、いくつかの小さな別院がある。智泉院と守法院が事件の舞台である。

 守法院の日啓(71歳)なる僧侶には、頭のよく美顔の娘「美代」がいた。商家に預けて育ててもらい、やがて旗本の養女にしてから、大奥女中に入れた。そこから展開される「お美代の方」の悪事は、江戸時代を通じて稀代の悪女ともいえる。

            *

 家斉将軍に寵愛されたお美代の方は、3人の子どもを産んだ。夜な夜な、将軍に巧妙におねだりする女だった。
 まずは、実父のいる中山法華寺を徳川将軍祈祷所にさせた。将軍代参で出むいた大奥の上臈などと、僧侶が淫ら行為におよぶ場所になった。

 お美代の方は日啓を手引きし、大奥に入りこませる。(男性禁止だが、医者と祈祷師は例外だった)。日啓は家斉将軍に悪霊がついていると脅す。
 その霊を払うために、豪華な2万8000坪の「感応寺」(豊島区雑司が谷)を建立させる。そこも、大奥と僧侶の密会の場所になった。

 そのうえ、大御所の家斉が死去すると、お美代は遺書を偽造し、将軍家を乗っ取りを計ったのである。

 幕閣は放置できなくなくなった。

 名奉行といわれた脇坂安董(わきさか やすただ) が老中に昇格していた。かつて難事件をいくつも解決した凄腕である。その老中・脇坂が、下総中山法華経寺の事件の捜索に入ったのだ。
 ところが、脇坂は1か月後に毒殺されてしまった。

 どこまで悪なのか、と思う。

 当時の寺社奉行は月番制で4人いた。脇坂安董の死後、老中首座の水野忠邦が、寺社奉行の阿部正弘に、その後の解決を命じたのだ。
 女犯の僧を摘発し、深追いすれば、大奥の女臈や奥女中にとどまらず、大御所の家斉一派にまで事がおよぶ。かたや、将軍家に泥を塗ることになる。難解な事件である。

 阿部正弘はだれもが想像できない、意表をついた見事な解決を成すのだ。家慶将軍は、正弘のすぐれた頭脳が幕府に役立つと判断して、25歳で本丸老中に大抜擢をしたのだ。

 アメリカ艦隊のペリー提督がやってきた。大統領の親書を受け取った。かれらが出帆した1週間後、阿部正弘は長崎奉行江戸詰を通じて7、8隻の軍艦を発注したのだ。その1隻がスクリュープロペラ船の最新艦の咸臨丸だった。

 現代に置きかえれば、ジェット戦闘機の発注とおなじで、見積額も、支払い条件も、パイロットの養成機関の創設も、すでに下打ち合わせができていたのだ。

 中山法華経寺の難解な事件にたいして、阿部正弘は人の意表をつく解決をしてみせた。人間の大胆な性格とか、英知とは変わらない。
 まわりが「命を惜しまず、死力を尽くしてアメリカ艦隊と戦う」と武威で息巻いて、ペリー提督に目が奪われているときに、正弘は老中首座の権限で、咸臨丸の発注、海軍兵学校(長崎海軍伝習所)の創設による日本海軍発足まで決めてしまったのだ。
 幕閣のだれもが発想できない、意表をつくものだった。

 ペリー来航の10日後に、家慶将軍が死去している。将軍不在のなかで、最も若い老中首座の阿部正弘が、戦争回避による開国に毅然と立ちむかっていく。水戸藩の徳川斉昭(なりあき)は、徳川御三家の立場を乱用し、極端な攘夷論の言説を吐きつづける。そのうえ、移り気だ。

 斉昭をかわしながら、ときに内側に取り込みながら、老中首座の阿部正弘は他人が真似できない政治手法を取り入れ、あっという間に250年来の古い体質の祖法(国禁)を次々に破棄し、新しい国家に生まれ変わらせていくのだ。

 だれも、きわだって反対することもなく、かつての老中首座の松平定信、水野忠邦すらも、だれもなしえなかった後世への大改革をやってのけたのである。
 それらを裏付けをもって小説で展開していく。

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