丸亀城は美しい。大学生の頃から、だれとなく聞いた。その後、今治から高松、金比羅(こんぴら)にはなんども行った。
ただ、丸亀にはふしぎに一度も足を踏み入れていなかった。
最近は、広島には月に一、二度行く機会がある。ほとんど東京にストレートに帰ってくる。
阿部正弘を執筆中から、鳥居燿蔵(とりいようぞう)が気になっていた。あまり悪人として描きたくなかった。理由は作家の勘だろうか、悪党には思えなかったのだ。
鳥居は、水野政権の全盛期に忠実な側近だった。「天保の改革」の強烈な推進者である。それが目立ち、苛酷(かこく)過ぎたから、後世では悪人そのものとして取り扱われたのだ。
このたび、私は広島帰りに、本州から四国にわたり、丸亀に立ち寄ってみた。現地では期待した史料に巡り合えなかったが、城内を歩くうちに、執筆中の内容が次つぎとよみがえってきた。
「鳥居燿蔵(とりいようぞう)」と聞くだけでも、歴史好きには、悪人のひびきがあるだろう。「蛮社の獄」(ばんしゃのごく)の思想弾圧。天保の改革では、庶民に「奢侈(しゃし)禁止令」を苛烈(かれつ)に実行する。
矢部定謙(さだのり)町奉行を陥れた。そして、みずからその町奉行の座についたうえ、さらに勘定奉行までも兼務する。
儒学の教養に満ちた鳥居だが、性格はかたよっており、蘭学(らんがく)の砲術家の高島秋帆(たかしましゅうはん)を敵視し、スパイと詐術を使って陥れる。
そのうえで、長崎奉行に高島秋帆を捕縛(ほばく)させて、江戸送りにさせた。冤罪(えんざい)だから、取調べは長引いた。鳥居は死罪を言い渡したが、高島は幸運にも、水野の失脚で刑の執行が猶予された。のちに、水野忠邦の再失脚で、軽微な罪のみとなった。
老中首座の水野忠邦の側近でありながら、江戸・大坂上知令の反発が強まり、水野政権が危うくなると、裏切って、老中の土井利位(としつら)につく。水野がそれで失脚する。
ところが、家慶(いえよし)将軍が水野忠邦を再登場させたのだ。となると、鳥居燿蔵は立場がなくなる。当然ながら、水野忠邦から報復をうけて失脚する。
町奉行を罷免(ひめん)されて、江戸城・清水口の門番担当になった。一気に格下げである。私が鳥居で感心するところは、常務・専務の役職から守衛になっても、腐らず、律儀にしごとをしている点にある。
この人物は真からの悪人ではないな、と思った。水野忠邦の命令というか「天保の改革」を実現する、という職務に忠実すぎたのだ。不正や悪をあばくために、大勢のスパイを使った。それが鳥居の命取りになったのだ。
人生は転落のサイクルに入ると、悪循環になるようだ。『水野三羽烏』の鳥居燿蔵、渋川敬直(ひろなお)、後藤三右衛門)が、罪に問われた。それは水野忠邦をまき込んだ貨幣鋳造の悪巧みの発覚だった。鳥居燿蔵は連座を問われたのだ。
阿部正弘政権の下で、老中次席の牧野忠雅(まきのただまさ)に裁かれる。判決として、鳥居燿蔵は丸亀藩(京極藩)に「押し込み」(軟禁)になった。
どんな罪だったのか。
鳥居が使っていたスパイたちが、陰険な手段を使って犯罪をでっち上げていた。結果として、罪なき人までも陥れた。そのひとりが高島秋帆だった。
鳥居燿蔵をあえて弁護するとすれば、賄賂とか、不正とか、私欲に満ちた悪人ではなかった。むしろ、そうした幕府内の悪人たちに挑み、スパイをつかってまでも、徹底した身辺捜査をしていたのだ。
鳥居燿蔵の断罪は、「町奉行が、幕府の要職にある人々の身辺捜査などやるべきでない」という罪である。現在ならば、越権行為である。
鳥居燿蔵は政治的な行為だったと認めたのだ。
もう一度考える。鳥居燿蔵は悪人か、悪党か。
鳥居燿蔵は幕府の儒官・大学頭・林述斎(じゅっさい)の四男として生まれた。そして、旗本の鳥居一学の養子に入った。
頭脳抜群の鳥居燿蔵は、水野忠邦(ただくに)政権の下で、精一杯の努力したのだろう。『君がため尽くす誠は古も今も変わらぬ武士(もののふ)の道』と詠う。まさか、当人は後世で、これほどまでに悪人・悪党扱いされると思っていなかったと思う。
先般、ネットの歴史もので、ある歴史学者が太平洋戦争を論じていた。真珠湾攻撃に携わった参謀はバカだ、こんな見通しもできず、ミッドウェーの戦術はあまりにもお粗末だ、無能に等しいと語っていた。
歴史上の人物をバカ呼ばわりする。歴史学会を批判する。どんな偉い歴史学者かと思って調べてみると、私が卒業した中央大学で、史学科出身だった。
私とは学部は違うけれど、およその能力は察しがついた。
「戦時に生まれていたら、おおかた海軍兵学校(江田島)など入学できる能力ではないし、大戦争に突入させた参謀本部の在籍におよばず。徴兵制の出征で、どこぞ上等兵あたりで駆けまわっている人物だろう。横柄な口はたたけない下っ端の兵隊にちがいない」
歴史は後ろからみれば、何とでもいえる。
約80年前の歴史上となった人物をバカ呼ばわりする。見苦しいな。この手の歴史学者にかかれば、鳥居燿蔵などはきっと悪人の頂点に据えるだろう、と思った。
偉そうぶった歴史学者をなぜか思い起こしながら、私は丸亀城を歩いていた。
ちなみに、中央大学・学生歌《惜別の歌》が、小林旭が歌っている。そのDVDをみると、小林がこの丸亀城が背景だった。私は大学との縁を感じていた。
丸亀城「三の丸」の石垣は、曲線美で、見事な石工たちの技である。「見返り坂」からそそり立つ姿はみあきない。
堅固に組まれた石垣の高さは、約22メートルである。日本の城はほとんど同じだが、上端は垂直で、敵兵が城壁に登れない構造である。
丸太や竹で、やぐらを組んで、不安定な足元にも負けず、巨大な石をつり上げて、設置していく。当時の職人たちの汗と努力は、歴史上に名を残すわけでもない。しかし、精一杯の努力をしたのだろう。
名を残すのは、築城の大名だけだ。
ぼう大な築城資金はだれが出すのか。苛政から搾取される農民の年貢である。どこの領地のお城でも、資金の殆んどが農民である。
しかしながら、いずこも大名の名まえだけが残っている。ときには名君として。
鳥居燿蔵(50歳)の軟禁生活は、23年におよぶ。幕末の動乱期で、老中などは幾人も入れ替わる。「鳥居を放免(ほうめん)するか」という声が一度もあがらないまま、明治時代に突入した。
鳥居燿蔵は、「自分は罪あって幕府よりここに預けられた身である。だから、徳川将軍から直接きた文書でなければ、寸歩も進退を自分勝手にできない」といって泰然(たいぜん)として動かなかっという。
燿蔵の実家は林家であり、鳥居に養子に入っていた。京極藩(丸亀藩)は幕府がなくなり、早くに出て行ってもらいたいと明治新政府に訴えた。
すると、京都の鳥居家が本家だから、73歳の燿蔵を引き取れ、と命じた。260余年前の本家と分家だから、燿蔵は鳥居本家などまったく知らず、拒否した。
戊辰戦争が北の方では解決がつかず、乱世である。老人の厄介な話など、明治新政府はいちいちかまっていられない。決定は決定だ、丸亀から出ていき、自由にしろ、と命じた。
明治元年10月16日に、鳥居は讃岐・多度津?から海路で兵庫港に渡り、大阪で形式的に鳥居家のひとに会う。あとは自由だ。駿府まで歩き、実家の林家の親戚筋と会う。
さらに東京の品川に着く。渋谷に行って、長男・成文と会っている。ここから長男家族と生活をともにする。
☆
晩年の鳥居燿蔵は、人恋しさで、数々の人たちに会っているという。鳥居燿蔵の日記はみていないが、関連資料によると、土岐頼旨(とき よりむね)、浅野長祚(ながよし)とたびたび懇談していると記されているらしい。
拙著「安政維新」(阿部正弘の生涯)・10月15日出版予定のなかで、土岐丹波守頼旨、浅野長祚が浦賀奉行として登場してくる。
かれらが現役のときは、浦賀に外国の大形軍艦が来航するなど、開国の足音が近づいていた。両者は阿部正弘の鎖国の放棄と開国への判断に、少なからず影響を与えた人物である。つまり、開国派である。
阿部正弘が死んで、牧野忠雅が老中を辞したとき、鳥居燿蔵は大喜びしたという記録が残されている。アンチ阿部正弘である。
儒学思想の鳥居燿蔵は徹底した攘夷(じょうい)思想であり、徳川幕府が瓦解(がかい)すると、「自分のいう通り攘夷をつらぬかず、開国したから、徳川家が倒れる結果になった」と批判したという。
鳥居燿蔵の実父・林述斎との関係からみれば、幕末の外国奉行となった堀利煕(ほり としひろ)と岩瀬忠震(いわせ ただなり)は甥(おい)である。
阿部正弘が抜擢した聡明な人物で、安政の五カ国の通商条約をおしすすめた。まさに、歴史を作った秀才たちだった。
歴史の評価は裏と表である。
日米通商条約を結んだ岩瀬は、「天皇の勅許を得るまでまて」という井伊大老の指図に反したことから、にらまれて蟄居を命じられた。江戸向島の岐雲園の幽閉の身で、2年後に失意から病死した。
堀は老中首座の安藤信正と口論になり、その日のうちに割腹した。
鳥居燿蔵とは気性の強さにおいて、3人には血筋を感じさせる。ただ、鳥居の頑迷に23年の幽閉の孤独に耐えた「生きる」という精神力は、想像を絶する。
丸亀城を歩きながら、人間の生き方の評価は死後にならないとわからないものだと思う。
気になるのは、開明派だった土岐頼旨、浅野長祚と昵懇(じっこん)になったという。数奇な巡り合せだと思う。いったい、どんな話題が出ていたのだろうか。
そこは想像するしかない。
私たちは令和元年の生きている。30年後、50年後に、どのように評価されるのだろうか。1世紀後から、現在をみれば、価値観が変わり、私たちは歴史上のうえで、とんでもない社会悪を維持している国民かもしれない。
後世の人たちから、「なんで、こんなことも予測できなかったのか。警告できなかったのか」と為政者、文学者、技術者などが、激しい個人攻撃を受けるかもしれない。
明日は見えないものだが、歴史は後からならば、何とでもいえる。しかし、歴史から学ばなければ、将来は予測できない。だから、過去の事象はあなどれない。
丸亀城で、「歴史の重要な位置づけ」をつよく抱いた。