【歴史から学ぶ】日本人は既成事実に甘い。遷都のない首都・東京から考える。(上)
日本(JAPAN)の首都は東京である。ただ、約千年つづいた遷都(せんと)がなされていない。意味のよくわからない「奠都」(てんと)だという。
「お上のやったことだ」
日本人はいちど既成事実として受け止めると、150年経っても問題視しない。為政者の取り繕う、言葉のまやかしに弱い。
いまさら、遷都論など陳腐かもしれない。幕末から明治への過渡期に、南北朝とおなじ東西朝の時代があった。『歴史は将来の指針になる』。ごまかしてはいけないという趣旨で、そこを掘り下げてみたい。
日本人と天皇制は切り離せない。明治政府は、「一世一元の詔」で、天皇一代につき一元号とした。しかし、明治天皇、大正天皇、昭和天皇と3代で、そのルールは終わった。
元号は古くて、新しい問題として、日本人はつねに向かい合っていく必要性がある。
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わたしたちの日本史の幕末編は、官撰「維新史」(弘化3年から明治4年)が底本になっている。
明治時代に編纂(へんさん)がはじまり、大正時代を経て、軍国主義の真っただ中の昭和16年12月に全6巻が完成している。大略4000ページで、外交、学事、軍事、経済など諸般の説明におよぶ。
「史実に対し、厳正公平である」と記しているが、日中戦争のさなかで、太平洋戦争(真珠湾攻撃)の直前で軍事一色であった。言論統制の治安維持法の下で、学者や研究者は内容に異議を唱えたり、反対意見を述べたりすれば、反政府主義だとレッテルを押されて国賊とされた時代である。
中立性と客観性に疑問が持たれている。
この「維新史」では、遷都でなく、あいまいな表現の「東京奠都」(てんと)がつかわれている。現代の学者、有識者、歴史作家たちは、そのまま東京奠都をつかう。
ことばの曖昧さの裏には、ごまかしが忍んでいるのが常だ。
現代においても、為政者はことばの曖昧さで、本筋をはぐらかす。実例は数限りなくある。言葉の裏に敏感になる必要がある。
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慶応2年12月25日に、孝明天皇が崩御(ほうぎょ)された。満14歳の幼帝・睦仁(むつひと)親王が践祚(せんそ)された。幼帝に代わって執政が天皇の政務を執り行う。
慶応3年10月15日の大政奉還で徳川幕府が瓦解した。同年12月9日に、小御所会議で、王政復古の大号令で天皇親政になった。なにをどう考えたのか。幼帝の補佐をする摂政・関白を外したのだ。となると、詔書、勅書、条約の勅許、錦の旗などが正式に出せない。
天皇の機能がなくなり、天皇の空白時代になってしまったのだ。重大な政治的なカラクリだ。ここを問題視する歴史学者は少ない。ある意味で、タブー視している。
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かれらは天皇の裁許がなくても、政治が推し進められると考えたのだろう。総裁・議定・参与をもうけた。
慶応4年正月に鳥羽伏見の戦いが起きた。新政府は東征軍を江戸にむかわせた。全国制覇を目指したのだ。
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ところが新政府を快く思わない旧幕臣、関東一円、奥羽越列藩同盟の諸藩は、小御所会議で決まった「天皇親政」を逆手に取った。
「ならば、天皇による東日本政府をつくろう」
上野寛永寺の貫主・輪王寺宮能久(よしひさ)を東武天皇として奉じ、元号・延壽(えんじゅ)を発布したのだ。
輪王寺宮は孝明天皇の義弟で、21才であり、皇位継承権がある。江戸市中では、もともと東叡山(上野)の人柄のよい親王だと評判だった。
東武天皇とは、東の武(やまとたける)から命名したのかもしれない。江戸から東北まで、東武天皇や元号・延壽がしだいに庶民にまで浸透してきた。
わが子には南北朝時代という、天皇がふたりいる時代があった。まさに、幕末に皇室が分断した時代が訪れたのだ。
【つづく】