A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【新事実】(下)幕末の元号は、慶応・延壽・明治だった=西軍の従軍日記にも表記

 輪王寺宮能久(よしひさ、京都生まれ・21歳)は寛永寺貫主、日光門主、全国天台宗の座主である。つまり、京都の比叡山も統括するほど、絶大なる権限がある。
 江戸の元幕臣と奥州列藩は、ここに手を結び、慶応4年3月15日に、「東武天皇」として奉り、元号を慶応から『延壽』(えいじゅ)として布告したのである。

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 その輪王寺宮(東武天皇)は、薩摩をつよく批判している。「君奸の賊」(くんかんのぞく・二・二六事件でも使われた言葉)だと激しく攻撃している。
 京都には、「無名の天皇」および摂政も存在していないのに、慶喜追討令、錦の旗、東征令などを乱発し、3月15日を江戸攻撃の日としている。

『無名の師』(独裁的指導者による名分のない戦争)だ。

 皇族の輪王寺の立場とすれば、睦仁(むつひと)親王はまだ皇太子なのに、薩摩に利用されたという怒りがあった。そこには薩長と驕(おご)る平家と重なり合うものがあったのだろう。

 かつて孝明天皇は八月十八日の変で、これまでの勅書、詔書は毛利家による偽書であり無効とした。これと同様に、睦仁親王が天皇の即位するまで、すべてが無効である、とした。
 こうなると、東征軍としては、江戸侵攻の大義が無くなる。

 上野山にこもる彰義隊を撃つ。それは名目であり、輪王寺宮をいっしょに葬る必要があったのだ。それが刻々と近づいてきた。

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 輪王寺宮「東武天皇」を奉じる智者は、徳川宗家はもはや盟主にならず、と見切ったのだ。

 徳川政権をつぶした慶喜はもう水戸に帰れ、勝海舟・大久保一翁は徳川の残務処理で江戸を火の海にしない代わりに、江戸城は明け渡してもいい。その役目の範囲内に閉じ込めたのである。それ以上は、出しゃばるな、と。

 戦争には戦費がいる。勝海舟などは2年無役であったから、江戸城の金庫の内情すら無知だったのだ。だれも勝や大久保一翁らには教えようとしない。

 東日本の雄たちは、江戸城の金庫蔵を空にしたうえ、新鋳造金をつくる金座・銀座から、ひそかに関東・東北の各拠点に移動させたのだ。

 江戸にやってきた大村益次郎は、軍資金が江戸城になく愕然としたという。大村は1日にして上野彰義隊を壊滅させると豪語していたという。
 目的は一つ、東西朝時代の到来をさける。一日にして、寛永寺にいる輪王寺(東武天皇)を殺戮する。なにしろ京都の「無名の天皇」をかつぎだし、江戸侵攻してきたのだから。大義はない。
 殺意は別にしても、寛永寺に輪王寺宮がいると、大村益次郎は知っていた、些細な理由で大規模な戦争を仕かけたのだ。

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 長雨つづきの日だった。上野戦争の火焔のなかから、輪王寺宮(東武天皇)が、榊原鍵吉(江戸随一の剣豪)、三河島の植木職人、僧侶3人と巧妙に逃げている。
   
 彰義隊を攻撃した翌朝、西軍の兵士は輪王寺宮さがしに駆り出された。広島の神機隊らも加わっており、どこにも輪王寺宮が見当たらなかったと、浅野家史「芸藩志」に詳細が書かれている。

 浅草を経由し、輪王寺宮はやがて品川沖からは榎本武揚の軍艦によって平潟(福島)へ、そして仙台、会津、奥羽一帯で東武天皇として君臨するのだ。

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 京都で、明治天皇が即位したのが慶応年4年8月27日で、大嘗祭は11月18日である。延壽は同年9月7日で終わっている。

 慶応時代、延壽時代、明治時代、と歴史の順番のなかに書き加えても、別に問題ないのではないか。延壽時代は約半年間だが、幕末には一年未満の元号は他にもある。

 その方が戊辰戦争はわかりやすい。
 後醍醐天皇のときに南北朝時代があり、幕末の延壽に東西朝時代があった、とすればよい。

 広島・神機隊の隊士の「関東征日記」の表紙には、延壽元年・3月15日と表記されている。いま広島の郷土史家の手元にある。
 西側の資料からでも、『延壽元年』が出てくるのである。

 鎌倉時代の年号が変わったり、聖徳太子の像が紙幣になりながらも違っていたりする。
 戊辰戦争が従来の「新政府と旧幕府の戦い」とするのはご誤認であり、延壽元年の東西朝時代に関東・奥羽越の広い範囲を戦場にした大戦争が起きたとしても、決して不合理ではない。すべて人間がやることだから。

 歴史は真実を隠さないことである。歴史は私たちの財産である。


 写真(2枚)=広島・神機隊 二番中隊 伍長・清原源作さんの従軍日記 (上野戦争に参加) 
 
                   

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