広島藩が『倒幕の密勅』は偽物だと暴露した=浅野家・芸藩誌
教科書で教えてきた『薩長倒幕」は、史実とちがう。いまさら否定されても困る。それが、学者や作家の偽らず心境だろう。なにしろ、明治政府が、義務教育制度を確立した時から、百数十年間も教えつづけてきたのだから。しかし、いずれ、この『薩長倒幕』という用語も教科書から消える日があるだろう。
ことしは大政奉還150年である。明治政府が隠ぺいしてきた、広島藩・浅野家の『芸藩誌(げいはんし)』が注目を浴びている。とくに、『倒幕の密勅(みっちょく)』が、天皇の詔書の形態をとっていない、と前々から偽物説は流れていた。
それを如実に暴露したのが芸藩誌だった。だから、芸藩誌が明治政府によって封印されてしまった。世の中に出たのが、昭和53(1978)年で、わずか300部であった。
広島市内でも、おおかた5、6カ所程度しか所有していないと思う。大学や研究機関の学者の目に触れることも少ない。
と言っても、存在しているからには、歴史は真実を求めて動くし、漸次、芸藩誌の関心が高まり、メディアやネットに載りはじめてきた。やがて、火がつくと、一気に幕末史の塗り替えになるだろう。
「芸藩誌」の編さんの経緯は、ほとんど知られていない。当時の明治政府も宮内庁も、広島・浅野家から、こんな家史の編さんが出てくるとは、予想すらしていなかっただろう。
【経緯として】
明治新政府は、大政奉還から戊辰戦争終了後まで、勝利した王政復古を高々に謳(うた)うために、維新史という編集がはじまった。それは大名家が権力を失った廃藩置県の1872年からのスタートだった。新政府は各大名家にも史料の提出をもとめた。
薩摩と長州は資金力があり、すでに家史(かし)の編さんをはじめていたし、功名心もあるから、積極的である。
しかし、廃藩置県で武士階級が破壊した直後である。妻や娘を質に入れても、生活もままならないのに、過去の史料を新政府に提出しろ、と命じられても、素直に応じる元大名家など皆無に等しい。
そのうえ、大名家の主(元藩主)は東京に集められている。家臣の武士は6年分の給料を国債で渡されて解雇されている。
無給で、過ぎ去った事蹟(じせき)を編さんしろ、と言われても、応じられるわけがない。
結局、維新史は17年間もかかり、明治22(1889)年に、薩長には都合の良い「薩長倒幕」という維新史ができあがったのである。
翌年、明治23年から義務教育制度がスタートした。「薩長倒幕」という用語の維新史が、そのまま教科書に落とし込まれたのだ。
三谷博「明治維新の史学史」によると、明治憲法に基づく帝国議会の開会(明治23年)は、元大名家など政治的勢力の再編のまたとない機会となった。
維新の敗者たちも議会に進出し、新たな政治参入できる。となると、元大名家は、歴史の書き直しで、明治国家の内部に、自らの地位を確保しようと、家史編さんブームの活況を呈してきた。
宮内庁はこれを背景にして「維新史」の編さんをめざした。補助金を出して薩摩、長州、土佐、水戸の4家に3年間で、家史を編さんし、提出するように命じた。尊王攘夷運動に関わった大名家と、皇室との関係を強調しようと試みたのだ。
孝明天皇の誕生から廃藩置県まで(1831-1871年)の資料収集を図った。さかのぼり過ぎたのだ。
4家だけでなく、公卿の三条、岩倉、中山の3家が必要不可欠となった。共同して4家+3公卿だけでも、資料不足である。
孝明天皇と親しかった徳川将軍家、会津家、桑名家も加えた。王政復古のときには敵であったが、外せなかったのだ。
となると、味方となった尾張家と浅野家も必要となり、それぞれに史料の編纂と提出を命じたのだ。(上記は三谷氏資料・引用)
編さんを命じられた元広島藩主の浅野家は、最後の大名・浅野長勲(ながこと)が健在だった。長勲は大政奉還にも、小御所会議の王政復古にも、中心的役割を果たした人物である。政治の裏舞台を知り尽くす、生き証人だった。
編集トップには川合三十郎と橋本素助(もとすけ)が選ばれた。元学問所のエリートで、長勲と辻将曹(つじ・しょうそう)の下で、政治活動も展開している。
慶応3年9月に、薩長芸軍事同盟が結ばれた。それに基づき、御手洗(広島県・大崎下島)から3藩進発で、6500人の兵と最新武器を京都に挙げてきた。川合と橋本らは立案から実行まで、一部始終、それに関わっている当事者なのだ。
ややさかのぼること、薩長芸軍事同盟が締結された直後、小松帯刀、大久保利通、西郷隆盛は、薩摩藩内において島津久光たち公武合体の考えが支配的であり、倒幕の兵をあげにくいと苦慮していた。『天皇の命令ならば、藩内統一ができる』。そこで『偽の密勅』でも良いから、それを薩摩に持ち帰りたい。長州藩も倒幕で藩内統一できているが、うちも書いて貰おう。
薩長芸の3藩は、そんな内情を話し合い、実行に移したのだ。
小松帯刀、大久保利通、西郷隆盛は大坂から、広島藩の船に乗船し、その偽密勅を鹿児島に持ち帰った。翌月(慶応3年11月下旬)、薩摩藩が3000人、長州藩が1200人(+約1000人は尾道待機)、そして広島藩と3藩の船が御手洗港に集合してくるのだ。朝敵である長州藩の船には、広島藩と薩摩藩の旗を掲げさせた。
それらを取り仕切ったのが広島藩の川合と橋本たちだから、『偽の密勅』は事細かく知り尽くしていた。
『毛利家の復官(朝敵を解く)入京の内勅書は、玉松操が起草し、岩倉具綱(ともつな・岩倉具視の養子)が一時の方便として、これを薩摩の大久保と長州の広沢に交付した。中山卿のごときは、この存在すら知らされていなかった。故に、表面上はそれを用いることはなかった』(藝藩志第八十巻)
三条実愛は、岩倉具視、中御門経之(なかみかどつねゆき)・中山忠能(ただのり)の4人しか知らないし、当事者の薩長は語らない、と信じて疑わなかった。芸藩誌が編纂されるまで、まさか広島藩がこと細かく『倒幕の密勅』を認知しているとは知らなかったのだ。
芸藩誌には、もう一つ大きな記載が秘められていた。
慶応3年9月の段階では、長州処分が解決していなかった。『幕府はいまだに、朝敵の毛利敬親・父子を拘引(後手に縛って)江戸に連れて来いと言っている。ならば、長州の家老をダシにして、6500人の兵をあげよう』と辻将曹と小松帯刀が奇策を話し合っているのだ。
徳川幕府は、第二次長州征討で、敗戦などみじんも認めていない。長州が勝利した、とは四候会議でも、各大名は認識していない。
大政奉還でも、王政復古の新政府の要人メンバーにも、長州藩はひとりも加わっていない。歴史的事実である。
西郷隆盛が仕掛けた鳥羽伏見の戦いでは、6500人の兵のうち、長州藩兵が加わり、広島藩は「薩摩と会津の私恨だ」として加わらず、そのぶん土佐藩と鳥取藩が入った。
ここで、初めて長州藩が顕在化してくるのだ。
明治10年には西郷が西南戦争で落ちて、翌年に大久保が暗殺された。以降は、長州閥の天下となった。維新史の上に、堂々と乗っかってきた。
明治40年代に、芸藩誌の「倒幕のダシ」を目にした長州閥の政治家は、どんな気持ちに陥っただろう。むろん即時、発禁処分。片や、大正時代に遅ればせながら、編さん委員を差し替えてまでも、完成させた防長回天史は太鼓をたたいて世に送りだす。
かれらの先祖である毛利元就は安芸の国・広島から出ている。徳川時代に芸州広島に転封してきた浅野家は、長州戦争では盾になってくれたが、憎き存在だったかもしれない。
芸藩誌は永遠に封印したつもりだろう。
それから約100年後、300部が刷られて世に出てきたのだ。