西南戦争の田原坂は激戦だった。政府軍の真の勝因はなにか
2016年7月21日、鹿児島から、熊本を経由し、植木駅前からタクシーに乗り、「田原坂西南戦争資料館(藤本典子館長)を訪ねた。
明治10(1877)年の西南戦争で、薩摩軍と政府軍の戦いで勝敗を決めたのが、田原坂(同年3月4日~3月20日)の戦いだった。
取材目的は、芸州広島藩の「神機隊」は戊辰戦争で戦い、さらに西南戦争に出むいて戦死した兵士がいる。戊辰戦争と西南戦争をつなぐものだ。
ことし5月下旬には、中国新聞の岩崎論説副主幹がこの趣旨の下に、同館を訪ねている。私はそれを引き継いで訪問した。
同館の中原幹彦学芸員から、まずは西南戦争の全体像を訊いた。
「ブック本などで紹介されている内容は、田原坂の実際の戦いとはかなり乖離(かいり)しています」
中原さんはそう前置きをされた。
一般に言い伝えられているのは、政府軍は最新の武器を装備し、軍服が統一されており、片や、粗末な薩摩軍に比べると、圧倒的な差があったとする。
政府軍の勝因は、兵員と物資の補給力、それに情報力の差だった、と中原学芸員は強調された。
「当時、東京、長崎、植木、熊本まで電信通信網(有線)ができていました。『越すに越されぬ田原坂』と歌にもあるように、田原坂など大激戦で、政府側が不利な戦況が電信で、中央(東京)に即座に伝えられました。熊本城が燃えた。それらもいち早く電信で、中央に報告されたのです」
1869年(明治2年)には東京・横浜間で、電信による電報の取り扱いがはじまった。明治政府は電信に力を入れており、数年で電信網は全国へと張り巡らされていく。
西南戦争のときは、熊本、長崎まで有線が敷設されていた。
「政府軍は形勢不利だ、という戦地情報が通信で入ると、北海道、東北から、各地から兵をあつめ、援軍を次つぎに戦場に送り込んだのです」
明治6年からは徴兵制が制定されていた。政府側は兵士あつめに、この徴兵制が有効にはたらいた、とつけ加えた。
「通信網は、鹿児島までは開通していなかった。この差は大きかったのです」
田原坂(標高105㍍)は細い坂道である。
政府軍は大砲を熊本に運び込もうとする。薩摩軍が細い道の両側に待ち伏せをしており、政府軍に襲いかかる。
至近距離なので、発砲は味方をも傷つけてしまう。そこで、薩摩軍は抜刀で襲いかかった。
同館の展示室にはかつて「かち弾(だま)」が展示されていた。(弾丸と弾丸が空中でぶつかった)。これをみた観客は銃撃戦を想像してしまう。
実際には日本刀による戦いが主力だったから、かち玉の展示は引き下げたと話された。
武器はイギリス製が多かった。大阪、東京にも、軍事工廠があったが、不発弾が多く、海外製品に比べると、質が劣っていた。
3月29日の日奈久(ひなぐ)へ、政府軍が海上から上陸作戦をとった。軍艦は10隻余り、三菱などから借り上げた徴用の官船が60隻。政府軍が薩摩軍の退路を断った。
薩摩はなぜ明治政府と戦ったのだろうか。
「島津家は幕末に国力がありました。織物、紡績が盛んで豐かであり、薩摩藩じたいでパリ万博に出展するほどの力がありました。戊辰戦争に勝った自負心があり、日本国の新政府をリードするのは薩摩だという強い意識があったのです。それに西郷隆盛というカリスマがいましたから」
中原学芸員はそのように見解を述べた。
薩摩は他に比べて士族・郷士の人口比率が高かった。かれらは幼いころから示現流(じげんりゅう)の軍事訓練を受けている。
「サーベルでは人を斬れなかったようです。簪かんざしみたいで」
そう説明されてから、示現流の日本刀の威力は強かったという。
薩摩軍の兵士らには、天皇をトップとした政府を自分たちが作りなおすのだ、という強い意識が底流にあった。
片や、政府軍の兵士らは、「天皇の下に戦う」という、天皇の意義すらもわからない。「なんで」上官の指示に従うのか、と理解できなかった。
農業は自営業だから、ふだん誰からも一挙手一投足の働きに口出しされた経験がない。組織で活動。それ自体が理解できない。
その上、戦地ではいのちをかけた戦いにおびえていた。しかし、恐怖が連日だと、恐怖ではなくなる。練度が上がってくる。
実戦が連日になると、薩摩の示現流にも立ち向かうほど、政府軍は優秀な兵士に成長してくる。
西南戦争は7か月間も続いた。結果として、政府軍が勝った。東京・日比谷に意気揚々と凱旋した。
ただ、政府軍の兵士が長崎で流行っていたコレラを持ち帰り、関西、関東、と全国に広がっていったという付属があった。
「戊辰戦争と西南戦争は切り離せないないし、一体です。戊辰戦争で戦い、西南戦争にも参戦し、そして亡くなった兵士は多い」
薩摩側の戦没者の研究は進んでいる、と中原学芸員は教えてくれた。
その一方で、政府軍側で、戊辰・西南戦争で戦った戦没者たちの研究はなされていない、と話す。
広島の神機隊は戊辰戦争後、明治5年頃に解散している。その後、政府軍として出兵し、戦死した人がいる。こんかいの田原坂の取材を足がかりにした、追跡調査は学術的にも価値がありそうだ。
写真提供(同行者) = 浦沢誠さん