わずか古文書の4行を求めて松本、安曇へ(上)=歴史小説の取材
歴史小説は可能なかぎり資料を掘り起こす。そして登場人物を鮮明に描きだす。それには古文書に出てくる人名の役職が欲しい。松本藩士が活きいきと動くためにも。
多方面の資料から探りだす。しかし、かれらの役職が川除役とか、応接掛とか、郡奉行とか、明確に明記した資料が見つからない。まして、藩主とか、家老とか、大きな役と違い、藩史などあたっても、下級藩士になるほど役職は判らない。至難の業だ。
ことし(2015)1月15日から2日間は、雪降る長野に取材に出向いた。松本城は雪が積もり、幻想的な風景だった。城内の学芸員から、取材させていただいた。
人物を事前に質問形式で、ご連絡差上げていた。
德川政権下で、松本藩の藩主はころころ変わっている。幕末は戸田藩主だ。この藩主も、あたらこちら渡り歩いている。
学芸員が 「戸田家・藩士録」から、5人の該当人物の資料が探し出してくれていた。筆文字の古文書だ。禄高の列記で、かれらがなんの仕事をしていたのか。役職はまったくもって不明瞭だ。
農村地帯の庄屋や百姓が、相手する藩士らは「お武家さま」と言っても、地役人とか、徒士とかである。5石2人扶持、10石3人扶持とか、わずかな禄高だ。
現代でいえば、河川補修工事の検査に市役所の主任、係長がやってくる。決して市長や局長ではない。セクションも土木課、環境課、公害課の一課、2課、など各係長などで多岐にわたる。保管期間は限られているだろう。
失望していたが、ひとり200石の人物がいた。郡奉行だと特定できた。これだけでも、収穫だと思うことにした。
戦国時代、武田信玄が深志城(松本城)で32年間にわたり支配していた。応対してくれた学芸員から、武田家の城造りの土木技術力を聞くことができた。予想通り高い技術を持っていた。
これは収穫だった。飛騨・信州を背景とした歴史小説のなかで、安曇野の河川工事が出てくるので、ある種の推測の裏付けになった。
武田家支配の32年間は、当時の平均年齢からしても、二世代にわたると見なせる。つまり、武田家の文化、技術、生活様式が信濃の一部に溶け込んでいる。影響を受けている。そう捉えることができるからだ。
現代版でいえば、昭和20(1945)年の終戦で、米軍など進駐軍が日本にやってきた。それから32年後となると、昭和52(1977)年だ。日本の文化や生活は、戦前とちがい、すっかりアメリカスタイルになった。
それを武田家の信濃支配に置き替えると、人々の生活様式の変化がわかりやすい。
【つづく】