北アルプスの新街道に情熱をかけた人(下)=岩岡伴次郎と飯島善三
ことし(2014)8月には、飛騨高山市の市史編纂室の学芸員を訪ねた。飛騨新道が小倉村から神河内まで出来た。そのさき飛騨まで、なぜ7年間も新道掘削の許可がなされなかったのか。その背景を知らずして、小説は書けないと思った。
飛騨郡代の職域を聞いた。幕府の勘定奉行の直轄下にあった。その権限は強く、実石20万石以上があり、大大名に匹敵していた。
飛騨郡代は、勘定奉行の直轄にあったと知った瞬間、
「これだと、小さな松本藩も、まして庄屋も手も足もでないな」
とすぐさま理解できた。
実際に、松本藩は小藩だし、郡代の足元にも及ばず、新道共同掘削などつよく申しできなかったようだ。
むしろ、7年にして、よく許可が下りたな、と思った。
「飛騨代官、郡代のうち、19代の大井帯刀永昌(ながまさ)が、最も好かれた人物でした」
学芸員からそう聞いて、幸運だったな、と思った。
新田次郎著「槍ヶ岳開山」で、庄屋の伴次郎と、農夫の又重郎を並列に置いているのは、かなり違和感がある。
播隆上人と道案内役の又重郎が槍ヶ岳に登った。それは間違いない歴史的な事実。庄屋の岩岡伴次郎と、農夫の又重郎がふたりして、飛騨新道許可(上高地から飛騨の間)を求めて、本覚寺の椿宗(ちんじゅ)和尚に頼みに行った、と物語は展開する。
寺の住職は寺社奉行の管轄であり、飛彈郡代に影響を及ぼさない。もし、僧侶が大名格の飛騨郡代に直訴すれば、重罪だった。(1770年代の飛騨・大原騒動で、郡代の施政に口出しした僧侶や神官は死罪になった)。かれらが椿宗和尚に頼むことは、死を覚悟させることであり、あり得ないだろう。大原騒動は上宝村が中心の一つだから。
さらに、庄屋と農夫とでは、身分の差がありすぎる。新田氏は、庄屋の機能をあまり掌握していなかったのか。あるいは史実が判らず、想像で埋めてしまったのか。
故人になったから、もはや聞きようがないけれど。
「森を伐り開いて、どのような工法で牛馬が通れる山道が造れるのか」
小説で新道作りの技法を描くとなると、私には知識がない。そこで、岩岡さんに訊ねてみると、新道の開削技術に関連した資料が焼失しているので解らないという。
岩岡伴次郎と飯島善三にはしっかりした共通点が見いだせる。幕末と明治初年と、多少の年月のずれはある。しかし、安曇野と信濃大町は隣り合っている。
北アルプスを越える新道づくり。その掘削技術はほぼ同じだろう。となると、10年前の飯島善三取材が、いまや伴次郎史料の不足を補ってくれる。
「善造は北アルプスの新道現場に何度も出向いている」
庄屋は多忙だ。伴次郎も当然ながら、時おり、飛騨街道の新道現場に出向いていただろう。実際に道路を作っていたのは、開削技術を持った黒鍬職(くろくわしょく)に依頼していたはずだ(請負業)。
現代の文献を見ていて、大名や藩がからむ「御普請」制度をあまり理解していないのではないか、と懐疑的になる。松本藩が飛彈新道に対して、ある割合で費用分担している。これは「御普請」である。
松本藩(役所)を窓口とした請負契約が必要となる。現代でいえば、請負はゼネコン(黒鍬職)である。江戸時代の行政のやり方が、現代に通じている面が多々ある。行政が金を出す決定となると実に長いが、一旦、予算が下りると、工事は短期に仕上げる技術がある。
工事を請け負ったゼネコン(黒鍬職)は測量や土木技師や監督官をだす。村人は一般に特殊技術がないので、単なる手間賃の労働者だ。飛彈新道が「御普請」である以上、小倉村の農夫だった又重郎(播隆上人筆『槍ヶ岳略縁起』の表記)は、道路人足、単なる下働きだった可能性が高い。むしろ、そう考える方が自然だ。
庄屋の岩岡家は、戦国大名の有力家臣だった。武田、上杉、織田軍が信州に侵攻した時からの武将である。江戸時代に入ると、地元の有力な豪農であり、一般農民よりは一段高い階層に属し、絹物や雪駄の着用も許されていた。
庄屋として、年貢の割当て、領主への願書などの作成、触書、廻状をだす。ほとんどの公文書には庄屋の署名・捺印が必要とされていた。つまり、岩岡村の行政の長だった。
飛騨郡代は勘定奉行支配下の江戸の旗本だ。小大名の松本藩主から依頼されても動かない相手だ。
農夫の又重郎を飛彈に連れて行っても意味もないし、役立たない。なぜならば、飛騨新道発起人に名を連ねる庄屋仲間たちが裃を身につけて出向く必要があったからだ。
当時は松本から飛彈へは野麦峠越えだ。一般道路だから、道案内人などいらない。この点でも、又重郎は必要ない。
視点を変えれば、飯島善三・父子が、富山藩領の庄屋と連帯で行動している。だから、『信越連帯新道』と名づけられた。
岩岡伴次郎にとって必要なのは、信州側の庄屋たち全員の連署と、飛騨・上宝村の庄屋たちとの連帯だった。この連帯なくしては、大井帯刀郡代は落せなかった。だから、7年もかかった。
「承知したぞ」と大井が、松本藩主と連署の形式で幕府・老中に許可をとった。
上高地から飛騨・中尾まで工事に着工すると、プロ集団の黒鍬職は測量や土木技師や監督官をさしむけ、工区を割り、大量の土木作業員を投入した。そして、ひと夏で一気に仕上げてしまった。これが大名や藩がからむ「御普請」制度なのだ。
歴史小説とは、史料と史料の隙間を埋めるものだ。その史料はねつ造してはいけないし、できるだけ正確に沿って記するべきだ。それを肝に銘じて、より丹念に取材していく。まだ、200年前の出来事だから、今後とも多くの史料が出てくるだろう。
「播隆上人に対して最も力になったのが、庄屋の務台家ですよ」
この証言から、務台家の取材を試みた。