A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

「作られた歴史」 阿部正弘は偉人か、無能な老中か(4)

『阿部正弘は、黒船の来航に対して何らなすことがなかった。無能な老中だった』
 明治の為政者たちは、老中首座だった阿部を悪くいう。かれの態度が優柔不断で、無能だったと、でっち上げてきた。ここに、明治維新の歴史のねつ造がある
 現代でも、歴史家、小説愛好者はそれを鵜呑みにして、盲目的に信じている。

 もし、首席老中の阿部が開国を導くのに、独裁的な決定をしていたならば、それこそ日本は最大の不幸だった。
 阿部暗殺が起きるだろう。国内は騒乱状態になり、どの国とも和親条約を結ばずして、アヘン戦争の二の舞になったはずだ。

  文明開化の象徴の一つに、新橋と横浜の鉄道開通がある。明治政府の快挙だと教えられてきた。それすらも、誤認がある。

 ペリー提督が開国のメリットとして、蒸気機関車の縮小版、地球儀、無電通信設備などサンプリングとして持参してきた。
 当時の先進技術である。日本人は書籍で知識があっても、実物を見るのは初めてである。日本人は真似ることは得意だ。ここから西洋文明の導入が図られはじめた。
 有能な幕府の人材が海外遊学などで学び、外国人技師を数多く国内に招いたのだ。

 攘夷と叫ぶ志士は、かれら外国人の技術者たちの生命を狙っていた。決して英雄ではない。単なるテロリストだ。 だから、明治の新政府の要人となった彼らは、何をしたのか。
 過去の政権を罵詈雑言で罵倒し、いっぽうでは国民の目を欺(あざむ)いた。かれらは牙(テロリスト)を隠し、海外で侵略戦争ばかりやる軍事政権をつくったのだ。

 徳川幕府の老中たちには、高い外交交渉力があった。現代でも学ぶべきものは多い。老中は決して戦争で解決しようとは考えていなかった点だ。平和裏に最大限に誠意を尽くしていた。だから、諸外国は日本で武力を使えなかったのだ。

 誠意とは何か。

 米国のビッドル提督がくれば、鎖国は国論だが、友好的な態度をとった。幕府は大勢の日本人を米国軍艦の見学会に出かけさせた。そのうえ、薪の松5000本、水2000トン、卵3000個、小麦2俵、大根、ナス、ニンジンなど生鮮食品を大量に贈ったりしている。まさしく、誠意ある友好態度だ。

 ペリー提督にしても下田上陸すれば、音楽隊が軍人パレードして見せるなど、じつに友好的だった。ペリー提督すら、日本に戦争をしにきていないのだ。大砲だって、礼砲を打っただけだ。

 日露和親条約の締結に来たロシア・プチャーチン提督が、安政の大地震と大津波で軍艦を失えば、帰国用の船をつくってあげた。
 水戸の徳川斉昭は攘夷の象徴的な存在で奉られているが、ロシア人500人が大津波で難破して沼津海岸に上陸しているから、全員皆殺しにせよ、と叫んだ。まさに狂人だ。

 老中首座の阿部正弘はその主張を正面から拒絶し、造船材と人手をすべて無償で提供した。そして、かれらロシア人たちは妻子のいる母国に送り返す道をとった。この人道的な処置で、ロシアの提督は感動し、北方四島において妥協し、日本の領土として、かれらが帰国する直前に日露和親条約を結んだのだ。

 この阿部老中は無能だと言えるだろうか。

 全員を殺せと言った水戸派の斉昭の思想が、維新志士たちの攘夷思想の根幹となり、明治時代へと受け継がれている。
 冒頭から、征韓論、日清戦争、日露戦争へと海外で戦争をくりかえせば、当然ながら敵がいっきに増えてくる。気づけば、日独伊三国同盟のほかは、欧米・アジア諸国はすべて敵だった。おそろしくも、第二次世界大戦まで続いた。

 軍事国家がいかに脆(もろ)かったか。国内の大空襲、広島・長崎の原爆投下で終った。だから、維新から軍事政権は77年しか持たなかったのだ。
 徳川幕府は260年間も続いた。それは一度も戦争をしなかったから。

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