A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

「作られた歴史」 阿部正弘は偉人か、無能な老中か(3)

 教科書が正しいと信じていた。小説家になり、歴史を深く掘りさげる機会が増えるほどに、明治政府にごまかされていたのか、と思う。教科書や歴史小説を信じてきた私自身はバカだったな。

 私はこのところ開国の時の、老中首座・阿部正弘(福山藩主)にスポットを入れはじめている。
 日米和親条約で固定化した、無能あつかいにされた阿部正弘像はそう簡単に覆らないだろう。私が小説のなかで取り込んでも……、阿部の低い世の認識は変えられないと思う。

 となると、日露和親条約から開封してみよう、と私は思った。他の歴史小説家すら阿部と日露和親条約の流れは手掛けていないだろう。研究者もほどんどいないだろう、という勘だった。

 日露の争いはさかのぼること18世紀頃からで、約100年以上にわたり、松前藩と南下政策のロシアがもめつづけていた。北方四島では戦争すらあった。捕虜交換などもあった。
「北方四島はロシア系アイヌ人の居住地だ」
 それがロシア側の主張だ。21世紀の現在も、ロシアはおなじ考え方だ。

 阿部は日露和親条約で、国後・択捉は日本領としてロシア側に認めさせたのだ。つまり、国境線は択捉島と得撫島との間で確定した。
 日露和親条約がいつ結ばれたか。それが重要になる。1855(安政元)年12月21日に伊豆の下田(現・静岡県下田市)長楽寺において、日本とロシア帝国の間で締結された。
 日米和親条約の翌年である。つまり、徳川幕府が開国を決めてから、わずか一年で、北方問題が解決できているのだ。
 阿部正弘の素晴らしさは、身分にとらわず有能な人材を多数登用したことだ。ロシア外交の交渉団の人選は、阿部がみずから行った。そして、江戸表から下田港での日露交渉を指図している。

 阿部がいかなる指図を出したのか。それを細かく知りたくなった。そこで5月には福山城を訪ねてみた。予想通り、具体的な史料はなかった。
「道は遠いな」
 私はつぶやいた。

 第二次世界大戦の後、ロシアはサンフランシスコ条約を結ばなかった。それから独自に、日露(日ソ)交渉は行われてきた。どの総理も北方領土問題を解決できていない。

 吉田茂、鳩山一郎、石橋湛山、岸信介、池田勇人、佐藤榮作、田中角榮、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘、竹下登、宇野宗佑、海部俊樹、宮澤喜一、細川護煕、羽田孜、村山富市、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎、鳩山由紀夫、菅直人、野田佳彦~、

 これらが束になっても、阿部正弘を越えていないのだ。現代の政治家と比べてみても、阿部がどれだけ有能な政治家かわかる。阿部老中の功績で最大級のものだ。なにしろ、現在でも、日本はこの条約を根拠にしているのだから。

 これだけの事実がありながら、阿部はなぜ評価されないのだろうか。明治政府は開国の最高責任者の阿部正弘を持ち上げたくなかったのだ。明治の政治家たちが小さく見えてしまうからだ。


                                 【つづく】

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