教科書で教えてくれなかった「大政奉還」の意味?(3)
芸州広島藩は、なぜ大政奉還を藩論として打ち出してきたのか。
私たちは、歴史を見るとき、つい政治的な視点から追ってしまう。経済的・社会的な視点でみると、大政奉還がしっかり見えてくる。
現代に置き換えると、でも、民主党の原発の全面廃炉よりも、2-3%の経済成長を民は求めて自民党の安倍政権を選択した。都知事の選挙でもしかりだ。
『経済が政権を変えてしまう』
それがまさしく大政奉還の根幹だった。
長州藩は朝敵で、藩士も藩兵も京都にこれない。新撰組などに、長州人だと見破られる切り捨てられてしまう。薩長同盟はまったく倒幕に機能していない。長州が関わるのは鳥羽伏見の戦いからである。それなのに、倒幕=薩長同盟で解こうとしている。とんちんかんな幕末史になってしまう。長州はまったく土俵外だった。
尊皇攘夷の志士が討つ。それすらも外野の騒ぎだった。現在でいう、警察が懸命にテロリストを探し、逃げ回っているようなものだ。
民衆が政治を動かす。ヒーローがいない。これが大政奉還である。民衆のエネルギーを過小評価してはダメである。、民衆が大政奉還を成し遂げたのだ、ともいえる。
幕府は第二次長征の敗北すら認めていなかった。和平交渉は勝海舟が宮島で勝手に決めてきたものだ。無効だ、第三次長州征討もほのめかす。とやたら、強気だ。戦勝した長州藩といえども、自国の幕府軍を追い払っただけだ。京都に挙兵したわけではない。
慶喜は民衆に負けたのだ。
広島藩がなぜ大政奉還へと踏み切ったか。『藝藩志』から紹介しよう。
先の第二次長州征討の戦争は、幕閣の意地とミエと体面だけでおこなわれただけである。参戦した諸藩はいまや金も人も使い果たし、財政圧迫で苦しんでいる。参戦しても、領土や勝利品が貰えるわけでもない。
遠く長州への人馬に要した1日2食の食費、雑費、宿泊費もそれぞれ自藩が負担し、往復した街道筋の宿から、宿泊費が未払いだと督促を受けている。
武具や兵器を放り投げて帰藩している。新たに最新の銃を買い揃えるとなると、これまた藩財政を圧迫する。
その結果が農民などに、苛酷な負担となっている。
戦争を仕掛けた小笠原老中すら幕閣でなお君臨している。幕府の根は腐っている。「幕府の権威はもはや地に落ちた。威厳ばかりで、筋道がなく、でたらめな政治だ。正しい条理に沿った政治ができない。
幕閣は時運の変化すらわからず、近年の凶作の災害すら対応できず、古い制度、古い格式ばかり守り、慶喜は取り得のない人物を政治に登用している。
『ええじゃないか』と、庶民は狂乱し、天下の騒乱はますます激化して、暴徒のごとく、ええじゃないかと言えば、何でもできる。止まるところがない。もはや尋常の方策では、この事態は挽回できない。
慶喜にはひとを見る目がない。ひどい人物ばかり要人に据えておる。持ち上げられたら、信じてしまう悪い癖がある。四候の忠言や勧告もまったく聞く耳を持たず。慶喜公は、朝廷すら兵庫開港問題で脅す。長州問題すら、まだ解決せずに、宙に浮かせている。
「なげかわしいのは、将軍だけでない。全国の諸藩においても同じだ。協力して、この日本領土を防御する心がまったくない。
例えば、馬関(下関)が列強の外国から攻められても、鹿児島が薩英戦争で砲弾を撃ち込まれても、列藩はただ傍観するだけだった。
もし外国に領土の一部が奪い取られたならば、どこの土地でも日本の領地である。それは国難である。殺傷させられた兵は、みんな日本の民。それなのに諸藩は挙国一致の心もない。
これは関ヶ原の戦いで得た恩賞をそのまま260年間にわたり享受している。封建制の群雄割拠の弊害が強くでているからだ。
【つづく 3/4】
『写真:京都御所 2014年3月5日』