教科書で教えてくれなかった「大政奉還」の意味?(1)
私はいま長編歴史小説を書いている。脱稿まで、もうすこし。初稿が書き終えていても、解らないところがあると、現地を訪ねる。先般も、京都に行ってきた。
ともかく疑問があれば専門家とか、学芸員とか、郷土史家から聴き取りをしている。ただ、なかなかその道に人に出会わない。
一方で、歴史的な資料や文献は、難解な候文などが多い。漢文形式もある。机に向かいながら、ときには「現代小説」がいかに楽かな、と思う。また「時代小説」のほうが適当に空想にリアリティーを持たせるだけだから、これも楽だな。そんな想いで執筆している。
歴史小説だから、あまり史観と間違ったことは書けない。「なんだ嘘っぱちじゃないか」となってしまう。逆に調べるほどに、これまでの歴史は「嘘っぱちだ」とわかることがある。
大政奉還がまさにそれだった。
坂本龍馬が提唱し、後藤象二郎が板倉老中に出したと言われている。事実なのか。疑わしくなった。一方で、大政奉還の建白書は歴史的事実だ。
その内容となると、どうなのだろうか。私たちはどのくらい大政奉還の意味を理解しているのだろうか。一通の建白書で、15代将軍・徳川慶喜が政権を投げ出すほど、建白書にはインパクトがあったのか。
そんな疑問がつねにつきまとう。
四候(しこう)会議で、当時の四強の大名が束になっても、慶喜将軍にはかなわなかった。すべて押し切られてしまい、山内容堂などは怒って高知に帰ってしまった。
後藤象二郎の文筆力が、その慶喜に勝るほどすごいかったのか。その疑問が頭のなかに横切っていた。かえりみれば、学生時代から、そんな疑惑があった。
後藤象二郎は、同年の5月・鞆の浦沖で起きた、龍馬の『いろは丸事件』で、長崎奉行所において、大張ったりをかましている。当事者の龍馬に変わり、象二郎は紀州藩から「金塊、最新銃数百丁を載せていた」と言い、膨大な弁償金を取っているのだ。
いろは丸にそんなにも大そうなものを積んでいたのか。紀州藩は反発しながらも、当時は証明の手立てがなかった。相互の話し合いの信頼だけだ。
平成時代に入り、いろは丸を海底調査をすれば、船倉には荷物がなく、船員たちのガラクタな日常品ばかりだった。
私はそれを京都大学の助教授(潜水した学者)から、写真と一部引き揚げ品の実物を見せてもらった。(3年前)。だから、後藤象二郎なる人物はまったく信用していなかった。
徳川家康いらい最も聡明な将軍だといわれた慶喜は、後藤の建白書をどこまで信じて受け入れたのか。慶喜と象二郎ではあまりにも知的なレベルが違いすぎる。
どうしても腑に落ちなかった。
慶応3年の10月15日、慶喜は何を根拠にして、徳川家の政権を朝廷に奉還したのか。後藤の執筆力ではないだろう。容堂は徳川政権の温存の考えだ。佐幕思想だと、慶喜が知らないはずがない。ここにも、後藤の建白書には奇怪な矛盾があった。
大政奉還の建白書は、土佐に遅れること3日で、芸州広島藩の執政・辻将曹が板倉老中に提出している。ここらにカギがありそうだ、と思った。
広島は原爆で資料が乏しい。だれも、幕末・広島の歴史小説など書こうとしない。広島大学近代史の著名教授すら、長州藩が専門だ。
4年前から歩きつづけた結果、『藝藩志』の存在を知った。芸州広島藩の大政奉還のながれが詳しく載っている。
龍馬と象二郎の薄っぺらなおとぎ話とちがう。明治時代に、川合三十郎と橋本素助が十数年にわたって取り組んだ、濃密な文献だった。
まず驚いたのが、大政奉還が広島藩から、具体的に、藩の統一(藩論)となされて活動したことだ。
1866(慶応2)年12月29日、広島藩主・浅野長訓の命で、執政(家老級)の石井修理が大政奉還の建白書を持って、宇品港を出発した。
翌年正月4日に、修理が板倉閣老へ拝謁し、大政奉還の建白書を提出した。
『幕府をして反正治本をもとめる。よって罪を謝罪し、政権を朝廷に返還せしむる』
そんな内容の大政奉還の建白書だ。
翌5日には菅野肇の飛鳥井伝奏(朝廷への取次)にも上奏書を出した。
一般に伝えられている土佐藩からの大政奉還の建白書(同年10月3日)よりも、約10か月も早く、広島藩から幕府と朝廷に提出しているのだ。
私は、えっと疑った。これって教科書では教えていないな、と思った。
長州閥の明治政府が、この『藝藩志』を発禁処分にした。そのことも解ってきた。それでいて、長州閥の政治家は『防長回天史』は出版させているのだ。広島藩が目立っては、明治政府としてなにが不都合なのか。
真実はとかく不都合なのものだ。史実の解明の目が、私になりに大政奉還に向けられた。
板倉閣老が握りつぶしたのか。徳川慶喜が無視したのか。菅野肇の飛鳥井伝奏へと渡された朝廷も、推し進める力がなかったのか。一通の大政奉還の建白書ごときで、巨大な江戸幕府が一つ返事で政権を投げ出すわけがない。
いずれにせよ、この段階では、気が熟しておらず、採用されずに終わっている。
広島藩は大政奉還が藩論だとして、黙って引き下がらず、世子の長勲、執政(家老級の役職)の辻将曹、石井修理、応接掛の船越洋之助、小林柔吉らが京都に上がり、藩論一致の下で、倒幕の活動をはじめたのだ。つまり、大政奉還による倒幕活動だった。
倒幕を藩論としたのは、全国でも、広島藩が初めてだった。(他は志士たちの個人的な活動)。長州藩すら、まだ討幕を藩論としていない。
あえてくり返すと、後藤象二郎の大政奉還の建白書よりも、10カ月も早くに、広島藩が京都を中心に活動しているのだ。藝藩志はそれを細かく月日を明記しながら記す。
龍馬と後藤象二郎の同年6月の「船中八策」って、やはり偽物だ、とおもった。
しかし、後藤象二郎から10月に大政奉還の建白書が提出された。それも歴史的な事実だ。この10か月間を埋める、これを解明するのは大政奉還にかかわっていた薩摩藩の小松帯刀(家老)だろう。それをあたる必要がある。
薩摩は建白書をも出さずして、慶喜は後藤(土佐)、辻(広島)、小松(薩摩)と3人から聴き取りをしている。建白書を受け取った後、慶喜は象二郎よりも、数段に、小松から意見を求めている。そして決断したのだ。
小松が大政奉還のカギを握っている人物だ、と思った。
昨年夏には鹿児島を訪ねた。
【つづく 1/4】
『写真:京都御所 2014年3月5日』