あなたは、西郷隆盛と大久保利通と、どっちが好き? (下)
一昨年(2011)、江田島(広島県)の元海軍兵学校の『教育参考館』を見学すると、西郷隆盛の肖像が大々的に飾られ、軍人の鏡となっていた。その肖像の威厳さを凝視するほどに、違和感をもった。西郷隆盛が明治からの軍国主義の道を作った張本人なんだ、という認識をつよめた。
学校で習う「大政奉還」は十五代将軍・徳川慶喜が戦争もせず、江戸幕府の政権を天皇に返還した、平和的な日本をつくった。そのままならば、世界に誇るべき偉業だった。
鳥羽伏見の戦いは、西郷隆盛ら薩長の貧しい下級(中級)藩士たちが、政権の座を狙った軍事クーデターだ、と私はいま歴史解釈に立っている。
その直前、徳川家をあえて戦争に巻き込むために、西郷は益満休之助、伊牟田尚平らを江戸に送り込み、江戸や関東の富豪の家から、三千両、五千両と掠奪し、火を放つ。江戸庶民を恐怖に陥れた。
西郷は戦争を引き起こし、政権掠奪、勝つためには庶民の犠牲などかまわず、手段を選ばない軍人だった。少なくとも、庶民の暮らし向きや安全など、およそ配慮がなされていない。
鳥羽伏見の戦いだけでは軍事クーデターが成就しなかった。西郷は権謀術策で、己が権力のために、公家たちに根回し、やらなくてもよい東北征討の戊辰戦争をやった。
全国諸藩の10-30歳代の若者は藩兵士や農兵として関東・東北の戦いに駆りだされた。一方で、東北の若者たちも藩命で受けて立った。そして、数万人が戦死した。
これら双方の若者は、尊皇と言っても、天皇制自体がわかっておらず、なぜ敵・味方になるか、それすらも解っていなかった。
「官軍で死ねば神として祀られ、東北人は賊軍で路傍の石が墓」
若者がともに国家(藩)のため、家族のためだと信じて疑わず戦った。国民、庶民の目で見れば、戊辰戦争ほど、無意味な戦いは日本の歴史上にないのだ。
「天皇を手にしたものが、最大の権力者になる」。それが古代からの天皇制による政治の原点である。だから、薩長の下級藩士たちは、会津城が陥落(開城)すると、軍事クーデターの仕上げとして、天皇を京都から連れ出し、江戸城に閉じ込めた。江戸を東京と改め、なし崩しに、明治軍事政権を作った。 京都から東京に正式な遷都もせず、政権がずっと続いてきたのだ。
江戸幕府は260年間にわたり海外とはいちども戦争しなかった。そして平和裏に政権委譲し、『京都御所の新政府』が誕生した。京都でしっかり育てるべきだった。しかしながら、下級藩士たちのクーデターで、わずか1年間足らずの短命に終わった。それから明治時代に入り、軍事国家になっていった。
たとえ、短命政権でも、この存在は重要である。いまからでも歴史教科書で、しっかり教えるべきである。平和国家を維持しようとした、重要な役目の政権だった、と。
ひとたび軍人や軍部が力を持つと、政権は長い。
天皇は軍人でもないのに、大元帥に奉られた。天皇の名の下、大元帥の立場で、10-20年ごとに、海外への侵略戦争の最高責任者とされてきた。その不幸は国民も同じ。成人になれば、徴兵制の下で、戦場へと送られた。大勢が死んだ。
「ぼくは戦争に行きません」
そう言えば、牢獄しか道はなかった。
上野の銅像も影響している。西郷隆盛は親しみやすい庶民の姿だ。これが『陸軍大将軍服着用』の姿ならば、鳥羽伏見の戦いから、日本の軍国主義を導いた張本人だ、という説明もたやすいだろう。と同時に、東北人らも上野に上京してきて、戊辰戦争の犠牲者の立場から怨念の目で見たことだろう。
その意味で、彫刻は歴史上のイメージを変えてしまうから恐ろしい。
鹿児島にいくと、西郷隆盛の像は軍服だ。ただ、他県から、その西郷像を見学目的にして鹿児島にいく人はほとんどいないと思うけれど……。
この頃、鹿児島県の出身者から、「西郷隆盛は鹿児島の大切な若者たちを西南戦争で殺してしまった。許せない人物だ」という話をきく機会が多くなってきた。
「勝海舟の卓越した能力があったから、江戸城が開城できた。武闘派で、軍事討幕の最たる西郷だが、勝がいたから、後世で平和主義者に見られている。本質は逆だ』と言い切る人もいる。
鹿児島県人も、西郷一辺倒ではなくなった、ずいぶん変わってきたな、という思いがする。それは軍人西郷の実像がしだいに認識されてきたからだろう。
そんな背景もあり、鹿児島取材を兼ね、いちど大久保利通の像に足を向けてみようと決めていた。10月に訪ねてみると、大久保の姿は青空を背にして、威厳に満ちていた。
この大久保は第二次長州征討には反対し、老中・板倉勝静と大激論した末に、薩摩の参戦拒絶を押し切った。明治に入れば、征韓論(韓国を武力で奪う)にも反対した。
大久保は佐賀の乱、西南戦争など武力で鎮圧させた。しかし、西郷と違い、大久保の政治姿勢の本質は戦争嫌いではなかったかと思う。
『ようやく戦乱も収まって平和になった。この先は、維新の精神を貫徹することにする。それには30年の時期が要るな』
それが暗殺された朝の大久保のことばだ。
歴史には「もしも……」はないけれど、大久保利通が暗殺されていなかったならば、日清戦争、日露戦争もなかったかもしれない。怜悧に国内外の時局を見つめる大久保ならば、政治家とメディアが世論を過熱させて戦争に導く、それら勢力に毅然と立ち向かい、ふたつの戦争を阻止しただろう。それができる能力は少なくとも大久保にはあった。
そんな思いで、私は銅像をじっと見つめていた。