A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

あなたは、西郷隆盛と大久保利通と、どっちが好き? (上)

 鹿児島市の『大久保利通の像』を訪ねてみた。鹿児島中央駅から、徒歩で5分ていどの甲突川に架かった高見橋の袂にある。昭和54年9月26日に設置された像は、台座からの高さが9.7mである。彫刻家・中村晋也の製作である。大久保には威厳に満ちた風格が漂う。

  この銅像を建立するにはかなりもめたらしい。
 大久保利通の銅像が、鹿児島市内にまったくないのはおかしい? 明治維新に最大級の功績を遺した人物なのに、他府県ならば、とうの昔にできているはずだ。そんな疑問が鹿児島県以外から出てきたのだ。
 つまり、鹿児島県人はだれも大久保利通の像を作る気がなかったのだ。そんな外部からの話がきっかけとなり、大久保利通の没後100年記念行事で、銅像を建てようと運動がはじまった。
 
「なんで、鹿児島に、大久保の像を立てるんだ。あいつは薩摩人をみな敵にした人物だ。西南戦争で、どれだけ大勢の仲間が死んだと思っているんだ。そんな奴の像が必要なのか。銅像を建てても、壊されるのがオチだ」
 賛否両論が渦巻いたというよりも、大多数の市民が大久保の銅像に不快感を示していた。それほど、大久保利通は100年経っても鹿児島で嫌われていたのだ。


 西南戦争の折、鹿児島軍はいっとき熊本まで攻め入っていた。やがて敗走し、市内まで戻ってきた。追い込まれた西郷隆盛は城山の壕に入り自決に及んだ。まさに、悲劇のヒーローだった。

 西南戦争の戦死者は、優秀な青年が多かった。かれらの遺族は、大切な息子を亡くし、深い悲しみをおぼえた。逆賊ともされたことから、大久保に恨みを持った。100年間も続いた、鹿児島県民たちの怨念となっていた。(西郷隆盛ら戦死者は逆賊扱いで、いまなお靖国神社に祀られていない)。

「大久保の銅像がよく無事に立ちましたよ」
 同市内の、ある高校教師から、30年ほどまえ、そんな話を聞かされた。その時のみならず、その後においても鹿児島を訪ねる機会があったが、大久保の像にはいちども足を運ぶことはなかった。


 私はここ5年ほど幕末ものに取り組んでいる。鹿児島、小倉、下関、萩、岩国、広島、鳥取、岡山、京都、彦根、名古屋、埼玉、福島など、月に1、2度はどこかしら訪ね歩いている。その先々の歴史資料館・公文館・博物館の学芸員、大学教授などから取材していると、意外な事実にぶつかったり、おどろくべき重要な発見があったりする。


 私の歴史人物像は、これまで読んだ歴史書や小説から培われていた。いまは、自らの手が書くために「歴史の真実」を追っていると、人物のイメージが180度違ってきたりする。

 小・中学校時代から、私は歴史が好きで、偉人伝などを好んで読んでいた。
 明治維新が成功すれば、大久保が途端に西郷に冷たくなった。そして、英雄の西郷を下野させた。さらには西南戦争で追い詰めて自決させてしまった。
「惜しい人物を亡くした」
 私はそう信じて疑わなかった。

『西郷隆盛は明治政府を作った英雄で、太っ腹で庶民に愛された。大久保利通は頭脳明晰だが、怜悧な官僚で心が冷たい』
 そんな風にも捉えつづけていた。

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