A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

明治政府に嫌われた、芸州・広島藩(上)=薩長討幕の恥部を知る

 幕末の広島藩は薩長芸の軍事同盟を結び、大政奉還で倒幕の中心的な存在だった。なぜ明治以降の歴史から消えてしまったのか

 長州藩は四か国連合艦隊と戦って下関まで占領される、さらに幕府の長州征長で、疲弊し、倒幕への力はなかった。薩摩も同様にイギリスと戦っている。島津家は徳川将軍に正室を出している、身内なのだ。薩摩藩の重役には徳川家を倒す意志などなかった

 芸州・広島藩は第二次長州征討において出兵拒否をした。戦争に対して無傷だったから、軍事力は温存されていた。だから、薩長芸軍事同盟の中心的な動きができた。もう一つには、経済面である。


 広島藩は大崎下島・御手洗港で、薩摩藩と密貿易で深く結びついていた。諸外国と結ばれた通商条約では、開港が下田、函館、長崎などに限定されている。

(スエズ運河の完成が1869年だから、欧米の蒸気船は瀬戸内の海峡など楽に航行できる)

 広島・宮島港では長州藩と交易する。広島藩の船が御手洗と宮島と間で、薩摩と長州の荷を運ぶ。大がかりな三角貿易がおこなわれていた。尾道の豪商から池田徳太郎などに、「御手洗はやりすぎている、薩長貿易を手伝いすぎて、幕府から芸州が睨まれたらどうするのか」といさめる書簡を送っている。
 このように薩長は経済面ではつよく結びついていたのだ。

 坂本龍馬が裏書きした薩長同盟で双方は和解した、と後世には伝えられている。紙っペラ一枚ていどで、数人の交渉で激動期の政治が変わるわけがない。経済が政治を動かす。強い経済的なパイプが国(藩)どうしを結び付けるのだ。

 明治政府の主力政治家は長州人だ。禁門の変で藩士の多くを失っているし、長州の政治家たちはその遺族に対する配慮から、広島藩を通じて薩摩と取引していたと、おおびらにできなかった。
 むろん、明治時代に入っても、夫や息子を亡くした遺族は薩摩を恨んでいる。だから、御手洗の三角貿易の事実はいつまでも隠し通していたかったのだ。

 御手洗での海外密貿易が公になるのは、薩摩出身者たちも好まなかった。広島は明治時代まで薩長の歴史上の恥部をにぎっていたのだ。

 幕府は第一次長州征討を行った。広島藩の執政・辻将曹が仲立ちし、武力解決を回避させた。それでは不満だといい、慶喜や会津・桑名が第二次長州征討を企てた。

【つづく】

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