飯能戦争をご存知ですか=渋沢平九郎の死 (下)
顔振峠の茶屋の老婆に勧められて、農民姿に変装した平九郎は、下山してきた。黒山三滝の近くで、官軍の芸州・神機隊隊の斥候3人に呼び止められた。そして、尋問を受けた。
「秩父の神官の息子だ」
「嘘つくな。武士だろう」
見破られた平九郎は剣術の達人で、隠しもつ小刀で3人に斬りかかった。3人それぞれに負傷させた。援軍を求めに逃げる斥候が、銃を放った。
その一発が平九郎に当たった。神機隊の斥候の話から駆けつけると、平九郎は岩の上で自決していた。
この落ち武者が渋沢平九郎だとわかったのは、神機隊の斥候3人を治療した、医師・宮崎通泰が書き残した1枚の絵からだった。さらには平九郎が袂に入れていた、辞世の歌が3首残されていた。
これらから、平九郎は渋沢栄一の妻が、実姉であり、その関係から栄一の養子になっていた。つまり、栄一からすれば、わが子が飯能戦争の落武者になり、自決して死んだのだ。
平九郎の首級が越生の法恩寺の前で晒(さら)されていた。郷土史家の手で書き表されていた。
渋沢栄一は、埼玉県が生んだ著名な人物だ。それだけに、渋沢平九郎の研究者が多い。文献を集めてみると、小説家もどきの創作が随所にある。それでいて、現地から聞き取り調査した資料に基づいているから、信頼度が高い記述だとされている。
渋沢平九郎が割腹につかった小刀は、神機隊・参謀の川合鱗三が大切に保管しており、明治27年に渋沢栄一に返還されている。
書き手によって、最期の場面は、ずいぶん想像が入いったりするものだ。
実兄・尾高惇高の伝記、塚原蓼州著「藍香翁」
平九郎は背の高さ5尺7寸で、大柄な武士だった。
2か所の重傷を負った平九郎は、巨石に腰打ちかけて、かの小刀を逆手にして、心静かに、その腹切って果てた。5月23日午後4時だった、と記す。
同書の中に、芸州藩・神機隊の参謀、川合鱗三は死時の目撃証言として、「敵につかまって恥じて死ぬよりも、従容として自決した様子だった」と語っている。
小川喜内氏「郷土の故事・渋沢平九郎の壮烈な最後」は、あまりの創作に驚かされた。
斥候3人の報告から神機隊30人駆けつけた時、平九郎は農家の周辺を歩いていた。卓越した平九郎の剣を怖れて誰もかかっていかない。
この間に、平九郎は路傍の石に座り、割腹した。
官軍は鉄砲で射殺し、完全に息絶えたことを確認してから介錯した。その首を越生宿の官軍の屯所に持参し、隊長の首実検に供した。隊長はこの首を見るなり、
「馬鹿者、この首は死に首で、討ち取った首ではない」
と大喝したという。
30人が取り囲んで、射殺した。
郷土の歴史家がここまで創作すれば、史料・資料にもならなくなる。 【了】