A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【幕末史の謎解明】西郷隆盛も真っ青?=「雅楽助はなに奴だ」(下)

 江戸時代の甲府は東海・東山をうかがう要衝(ようしょう)の地である。江戸の防御の要の一つ。慶応4年2月1日に、思いがけない官軍の先鋒が現れたのだ。それは『官軍鎮撫隊(ちんぶたい)』だった。

 同隊を先導したが、小沢雅楽介(おざわうたのすけ)である。本名を小沢一仙(いっせん)という、伊豆半島・松崎生まれの宮大工だった。
 かれは発明発見、発想がユニークな人物だった。風変わりな沈まない船を設計したり、琵琶湖と日本海結ぶ運河を作ろうと奔走したり、まずは奇想天外な人物だった。

 大政奉還、王政復興、鳥羽伏見の戦いの頃、小沢はちょうど京都にいた。草莾(そうもう・武士でない、民間人たち)の志士として一旗揚げようと考えたのだろう。公家(くげ)の高松実村(さねむら)を総帥に仰ぎ、『官軍鎮撫隊』を立ち上げたのだ。かれには勤王志士とのつながりはない。高松実村は、父保実の三男で、政治もわからない、ボンボンだった。
 それを担ぎ出したのだ。小沢の単なる着想だった。
 
 慶応4年1月18日は鳥羽伏見の戦いが起きた半月後で、きな臭い京都だった。わずか14人で京都を出発した。『官軍鎮撫隊』とは名前から行けば、江戸・徳川を鎮撫(討幕)することを意味する。小沢雅楽介にすれば、遊び半分だったかもしれない。軍資金もなければ、武器もないのだから。

 小沢雅楽介はいずこでも、「尊王」を声高に叫び、「鎮撫の趣旨」を呼びかける。東海道を東に進む。「官軍の先鋒隊である」、「御一新(ごいっしん)である」と言い、大垣藩、彦根藩などから武器を提供してもらい、兵士を借用する。美濃、信濃へと進む。
 街道沿いの諸藩の家老たちは礼服で迎え、藩士たちを同隊に加えさせた。

 神主や御岳御師(おし)なども組み込む。約3000人からの堂々の陣容となり、宿場では人足、駕籠、馬などを出させる。2月1日には、台ヶ原で、10ヶ条を発表した。
「当辰年は年貢を半分にする」
 そんな農民には夢のような内容である。
「浪人でも、勤王に励むものは朝廷への出仕を許す」
 天皇がどんな存在かも下々のものはわからないし、きっとありがたい話だと信じ込んだ。

 大工が頭で公家を一人連れて「官軍鎮撫隊」を名乗っただけでも、わずか半月で3000人の軍隊が作れる。これはまさに画期的なものだった。


 新政権で孤立を深めていた西郷隆盛は、これを見逃さなかった。
「公家と参謀がいれば、戦闘部隊が作れる。軍費も少なくて、大勢が戦いにはせ参じる」
 即時、2月9日には、東征大総督府をつくった。、公家の有栖川熾仁親王を大総督宮として、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍した。

 新政府の公家たちは戦争経験など皆無なのに、「幕府鎮撫府」と、「東北鎮撫府」の総督として祭上げて、京都から連れ出したのだ。参謀は、西洋式軍隊で実戦経験がある、薩長土の下級藩士たちだった。
小沢雅楽介がやったように兵士と軍糧を現地調達しながら、進軍したのだ。「宮さん、宮さん」という軍歌も作られた。


 江戸城開場までが、西郷隆盛の活躍の場だった。京都から品川まで、「みやさん、みやさん」という小沢雅楽介の方式が通用したのだ。尊王、公家といえば、ひれ伏したのだ。
 しかし、江戸城は明け渡してもらったが、江戸・東京の佐幕派、とくに彰義隊などに通用しなかった。西郷は腕力で押す武将型だ。手をこまねいていた。
 

 長州藩の知将・大村益次郎が緻密な戦略戦術で、一日にして彰義隊を壊滅させたのだ。と同時に、軍師として奥羽攻めの細かな采配を振るった。
 諸藩にたいして武器、兵士の数、食糧、軍資金など、細かく指図した。敵の動きを読み、郡部の各関所に配置する、兵士の数までも決めたのだ。それはすべて当たっていく。
 こうなると、西郷隆盛は無力化してくる。その一方で、長州藩が発言権が強まり、最も影響力を持ち、明治軍事政権への道をまっしぐらに進んでいくのだ。

「この戦いが成功すれば、こんどは明治天皇を京都から連れ出す。そうすれば、京都の新政府はもう骨抜きだ。われら薩摩、長州、土佐の中級・下級藩士の手で、政治が動かせる」
 このように軍事クーデターは進んでいった。
 現に、この年9月に会津・松平家が落ちると、翌10月にはもう明治天皇を東京に移しているのだ。行幸という名目で。まさに、筋書き通りに、京都の新政府は解体し、東京の明治軍事政府が生まれたのだ。


 山梨県史・甲府市史によると、公家の高松実村は、東征大総督府から甲府から京都に呼び戻された。のちに、子爵になっている。
 しかし、小沢は勅宣(ちょくせん)を取らずに京都から公家を連れだした、偽勅使だと言い、韮崎で捕まり、3月14日にはさらし首にされた。京都で旗揚げしてから2カ月で惨殺である。

 鳥羽伏見で仕掛けた、薩長土の軍事クーデターのメンバーにしてみれば、大工に先取り・横取りでヒーローになられると困るのだ。少なくとも、薩長土の不都合な人物だった。
 
 勅宣などはその実、何が本物で、なにが偽物かわからない。公家も、志士たちもでたらめな勅宣で動いていた。
 小沢雅楽介が薩長土芸の志士だったならば、戊辰戦争の画期的な戦略を考えた、有能な人物として、明治の教科書に載っただろう。
 かれが大工だった故に、偽勅使事件として、歴史の上から消されてしまったのだ。教科書ではまず教わることはないだろうが、歴史を動かした人物には間違いない。

 私には、少なくとも歴史の空白を埋まってくれた人物だった。

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