学校教育で、幕末史の真実を教えるべきだ
鎌倉市・長谷の故早乙女貢さん邸宅で、文学サロンが7月25日(日)で行なわれた。第1回講師は、清原康正(文芸評論家)さん、第2回は高橋千劔破(ちはや・作家)さん。同一日の講演である。
早乙女貢さんは、「会津士魂」の筆者である。早乙女史観は、勝者の歴史観に異議を唱え、見直しを説いている。それがふたりの講師に通底するテーマだった。講演内容については、PJニュースで取り上げている。
歴史は勝者によって改ざんされる=会津の悲劇から
講演には共感も多く、私見も含めて補足してみたい。
「早乙女さんは、旧・満州からの引揚げ者だった。敗者側から歴史を見る、独特の史観を持っていた。それが会津士魂の31年間の執筆につながった」と清原さんは話す。
清原さんも満州で生まれ育つ。引揚げのさなか、母や兄弟を亡くす、という悲惨な状況があった。清原さんはわが肉親の境遇と重なり合うのか、目を閉じて、一言ひと言、胸のうちから語っていた。実に、印象的だった。
高橋さんは歴史関係の元名編集者だ。
「学校で教える、幕末史は勝者の歴史が押し付けられている。ペリー提督が突然に日本に現れて、幕府が右往左往した。それは事実と違う」
と言い切る。
徳川幕府と西洋との出会いは、ペリー提督よりも前からある。イギリスやフランスは琉球を窓口にして薩摩と貿易をはじめた(1844)。薩摩藩といえば、第11代将軍、13代将軍の正室を出している、徳川の身内だ。そこがヨーロッパ諸国と貿易をしていたのだ。幕府はそれを容認していた。
高橋さんは触れていなかったが、ペリー来航よりも半世紀以前から、江戸幕府はオランダ国旗を掲げた、アメリカ商船と交易をしていた。
確認できているだけでも、1799より1809年に13隻が毎年、長崎・出島に来て交易している。アメリカ船は日本からの貨物として、浮世絵、きもの、箪笥、茶道具、鏡台など、あらゆるものを運んでいる。それらの一部が今なお、アメリカの博物館で保存されているのだ。
幕府のほうは長崎・通詞(通訳)たちに、積極的に英語を習わせているのだ。
東インド艦隊司令長官のビットル提督が、米国大統領の親書(通商要求)を持って東京湾の浦賀にやってきた(1846)。それはペリー提督来航(1853)よりも、7年も前のことだった。幕府は、ビットル提督に対して、交渉窓口は長崎だと言い、米国大統領からの親書の受け取りを拒否した。
ペリーの黒船が来ても、幕府は特別な驚きもなかった。ここ50年間で、アメリカ商船が長崎に来ているし、ビットル提督も浦賀にきた。捕鯨船から逃げ出した米国人が北海道に上陸したことから、長崎でアメリカに引渡しもしている。
さらには1年前に、米国大統領からオランダを介し、ペリー提督が特使として出むく、と公式に伝えられていたからだ。
幕府はペリー来航で右往左往していない。むしろ、落ち着き払って、一年後の交渉を約束し、長崎から英語のできる日本人通訳を呼び寄せているのだ。
他方で、庶民といえば、ビットル提督、ペリー提督の来航がめずらしく、大勢が浦賀に外国船見物に集まった。屋台も数多く出て、大賑わいだった。
幕府は実質的に、1799年からアメリカと交易していた。このことをなぜ日本史で教えないのだろうか。いまだもって伏せる理由があるのだろうか。
薩長の官僚が支配した明治政府、それらに遠慮する時代ではもうないはずだ。
関連情報
早乙女貢 士魂の会 (左クリックで同会のHPが開けます)
o第3回早乙女貢記念 鎌倉文化サロン開催
日時:2010年8月22日(日)13:00~14:30
場所:早乙女貢邸 鎌倉市長谷4-11-15
電話:090-1540-8333
講師・テーマ:清原康正氏「歴史小説から人生を学ぶ・竜馬がゆく」
o第4回早乙女貢記念 鎌倉文化サロン開催
日時:2010年8月22日(日)15:00~16:30
場所:早乙女貢邸 鎌倉市長谷4-11-15
電話:090-1540-8333
講師・テーマ:高橋千劔破氏「敗者から見る幕末維新史・京都騒乱」