元気100教室 エッセイ・オピニオン

汁かけごはん 金田 絢子

 昭和44年6月30日の日記には、
「おとといパパが、金曜日の、多分お酒が原因で具合を悪くし、無理して出かけた銀行からはやく戻り、土曜日は夕刻まで大騒ぎだった」
 ではじまる。

 近くのY先生に来ていただき、注射をしたり、くすりを出してもらったことはなんとなく覚えている。
どうやら快復した夫は、月曜日、パンがゆを食べて出勤したらしいが、次に記してある当時8歳の長女と夫の会話は記憶にない。

「子供でもないのにあんなもの食べてるよ。おつゆをかけて食べちゃいけないというくせに、パパだってそうやって食べてるじゃないの」
「かけてるんじゃないよ。牛乳の中にパンを入れたんだ」
「私だってそういうふうにすることあるよ、おつゆの中にごはんを入れて食べることあるんだから」

 遡って41年4月11日の日記にも、これに似た会話の場面が記されている。いずれも、もともとお味噌汁をご飯にかけて食べるのを、夫が快く思わないのに依っている。
 夫に言わせれば、お行儀が悪いという訳である。私は、お味噌汁をかけて食べるのを、咎められずに育ったので、娘がそうやって食べても奇異には感じなかった。

 この話を最近になって美容院で、若い女性美容師にしたら、
「お味噌汁をごはんにかけて食べるとホントにおいしいんですよね」
 いかにも感に耐えないといった風に言ったので私は嬉しくなった。

 常々、私は朝食に昨夜の残りごはんをあたためて、納豆をかけて食べる。
 夫が亡くなってから、夜お味噌汁を作ったりするとつい二人前になる。朝、なべにのこったのをあたためなおし“あ、やっぱりかけよう”と妙に張り切ってしまう。


 辞書でみると、

①汁かけ飯―味噌汁などをかけた飯。
②ごはんの上に具をのせ、だし汁をかけたもの。とある。

②の方がお行儀のよい感じがする。

 夫は、食事の作法が特別よかったわけではない。
 姑が「絢子さんと結婚するんだったら、結婚前に今少し、食べ方をしつけるんだった(姑は私をいいところのお嬢さんと思いこんでいた)」と言ったのを覚えているが、私がお味噌汁をかけるのが好きだなんて知らなかっただろう、と思うとおかしくなる。

 見合いにしても恋愛結婚にしても、相手の生活習慣など、共に暮らして初めて知ることばかりである。
 私は、結婚したてのころ、残りごはんをおじやにしたことがあった。

 二、三日何気なくつづけていたら、夫は「いい加減にしてくれ」と腹を立てた。
 まだ電子レンジが出はじめのころで、自宅のアパートにはなかった。暖めるかわりに、おいしいおじやにしたのに機嫌を悪くされてびっくりした。

 夫婦は、相手のやり方、思考に戸惑ったり、共感したりしながら絆を深めていく。いつも夫は、私の意志を尊重してくれたものだった。

 これからもつい、お味噌汁は二人前できてしまうだろうが、“汁かけごはん好き“としては、なんら問題のないところである。

火 桑田 冨三子

 今年の暮れは寒かった。
 毎年のこととして暮からお正月にかけて家族は総出で播州・竜野の田舎にある今は誰も住んでいない実家に戻る。

 そして9個も並ぶ墓石の掃除をし、先祖にお参りすることになっている。しかし今年は子どもの受験があるとかで、私は息子の左近と久しぶりに、たったふたりだけで行くことになった。

 裏庭には、夏に切った木や枝が大量に積んである。これがすっかり乾いているから焚火にはもってこいである。他にもまだある。落ち葉が深々とたまっている。家の大掃除などひと仕事が終わると、左近が焚火をはじめる。


 私は夕食の用意だけして寒い外に出てゆく。陽が沈んだあとでも光がのこる空は未だあかるい。風邪はつめたいが、そんなに強くない。

 星が白く光りだす頃になると、焚火の日は、ぼうぼうと燃え盛る。パチパチと火の粉が飛び跳ねる。枯れた竹の節が割れてバンッと大きな音を立てる。見ているだけで心が踊る。これはなぜだか判らないが、結構、焚火を楽しむ人はおおいらしい。

 人間の半分は焚火を好み、あと半分は焚火には関心がない、と何かでよんだことがある。
 ただ火を見ているだけで、何もしゃべらない。時々火ばさみで燃え尽きないで落ちてくる枝を、ふたたび炎の上に戻すだけだ。


 左近は、蓑(み)(穀・塵などを分けて除く農具)いっぱいに落ち葉を抱えて来て投げ入れる。小さくなっていた火がふたたび盛大に燃えあがり勢いを取り戻す。
 それの繰り返しだ。
 やがて焚火は終わりに近づく。もう新たに燃やすものは持ってこない。燃え尽きるのを見守るだけだ。もはや炎はない。ただ真赤に輝く燠(おき)の世界である。

 火ばさみで炭を掻きだし穴をあけてのぞき込む。そこがまた想像力を掻き立てる。まるで宮殿の様だ。豪華な赤い柱に支えられた広間には、チロチロと青い炎が立っている。
 見ていて飽きることがない。それは、夜、飛行機の窓から見える到着地の街の光が、宝石箱をひっくり返したように見える、あの煌びやかな光と同じだ。


 想像はさらにあらたな想像を呼ぶ。人家の少ない田舎の空は星がよく見える。そこで私は古い、ある情景を思い出す。
 燃え尽きる焚き火の終焉を見るたびにその情景がありありと心に浮かびあがってくる。

 ケープタウンでIBBYの大会が終わり、ヨハネスブルグから840キロを一気にフランクフルトへ飛んだ時のことである。

 満天の星の中を黒い巨大な怪鳥の様に飛行機は飛び続けていた。拡げた長い翼の先には、まるで秘密の合図かのような赤い光が時を置いて点滅していた。
 機内の灯は全部消されていた。乗客はみな眠りこんでいる。窓という窓はみな閉じられて、私以外に窓から外を見ている人はいない。

 私は奇妙な遊びを思いついた。
 この飛行機の機体がすっかり消えたことにするのだ。この窓も、壁も、前の椅子も乗客も全部見えない。周りのすべてを消してみると、私はなんと一人で空を飛んでいるではないか。まるでそれは、魔法のランプをこすり絨毯に乗って空を飛んでいるアラジンであった。竜野の空には満天の星がきらめいていた。

 ふと我に立ち返って、自分の今の姿を見出だす。高い白壁の塀に囲まれた、だだっぴろい枯草の庭の中で消えていく焚火の残りの前に、しゃがみこんで、ジイッと火を見つめている私、これは一体何なのだろう。

 テンポの速すぎる都会生活への抵抗か、それともストレス解消か、いやいや、何のことはない、ゆっくりと流れていたあの昔の日々へのノスタルジアにちがいない。

 
              イラスト:Googleイラスト・フリーより

家具との出会い  石川 通敬

 これまで私は、次々に幅広く多様なものに首を突っ込んできた。よく言えば、意欲満々、何事にも前向きに取り組む人間と言える。しかも一度始めたら一生追及をやめない。
 その結果やることが増え、すべてが中途半端になる。これが欠点だ。そんな雑多な趣味の一つが家具である。その背景には、家具にかかわる出会いがいろいろあったからだ。



 はじまりは、研修生として旅行中に耳にした言葉だ。ドイツで出会った日本人駐在員が、
「ドイツの若者は堅実で 家庭を築くスタートラインが家具を整えることと考え、お金をためて一生ものをコツコツそろえるのだよ」と話してくれたのだ。
「そうだ。その通りだ」と。

 当時、私はまだ結婚していなかったが、この言葉が頭にこびりついた。 
 次に刺激となったのが、ニューヨークで買った世界の家具という本だ。1950~70年代アメリカの黄金時代が花開いたときだ。彼らは世界中に進出し、自国の製品と文化を輸出した。
 その一方で、世界各国の文化、文物に関心をもった時代だった。それはニューヨークの書店にも及んでいた。世界各国の料理とか、金貨の歴史などが、所狭しと並んでいた。その中で私は世界の家具という本を見つけたのだ。読んでみて驚いた。なんと日本には家具の伝統がないと紹介されていたのだ。確かに京都御所を見ても家具らしきものはない。

 そんな時期に、トロントで市内観光バスに乗る機会があった。そのとき車窓から目の当たりにしたのが、うっとりとするほど美しい高級住宅街だった。初めて見るカナダの豊かさに驚いた。
 その衝撃で赴任地ニューヨークに帰ってからは、日本に帰国するまで、一般公開されている歴史的豪邸を、訪ねるのが趣味になった。そこでアメリカの伝統的インテリアと家具に魅了されたのだ。

 もう一つ重要な出会いが、ニューヨーク、ロンドンのデパートの売り場だった。お屋敷を想定したモデルルームが店内にいくつも設営され、あふれるほど沢山の高級家具が配置されていた。素晴らしい展示だった。


 こんな出会いに刺激を受け、是非買いたいと思うものが増えていった。しかしサラリーマンの給料は知れており、貯金もない。また日本に帰った時のことを想像すると、欧米水準のスペースがないのが実情で夢を追えないのは明白だ。

 そんな制約の中で、自分好みの家具を二十数年かけてアメリカ、ヨーロッパの各地で買い集めた。また親が遺した茶箪笥等をその中に加えてもみた。そして新しいものが入るたびに、家内と相談し、部屋の模様替えをするのが年中行事となっていた。これがとても楽しかったのだ。

 最後の模様替えが終わってからかれこれ三十年になるが、今何が気に入っているのか、ダイニングルームの例をご披露すると次のようなものだ。

 この部屋は八畳ほどの狭いものだ。その真ん中にマホガニー材の楕円形で、支柱が一本のテーブルと四脚の椅子がある。このセットは当時多くのロンドン駐在員が、駐在記念に買い日本に持ち帰ったものの一つだ。我が家ではそれを囲むように、三方の壁沿いに英米で買ったものや、家内の母からもらった和家具類がぎっしり並べてある。

 その中で一番大切に思っているのが、四十数年前ニューヨークのアパートで仲良くなったある会社の駐在員が譲って下さった本棚だ。その人は、
「石川さん、アメリカの中古市場には素晴らしいものがゴロゴロしているのを知っていますか」という。
「これは二、三十年前のものですが、合板ではなく、無垢のマホガニー材で作られたものです。新品は我々の給料ではとても高くて買えない価値のあるものです。日本に持ち帰りたいのですが、会社の引っ越し経費規定を超えるのであきらめました。よければ石川さんに差し上げます」と言われてもらったのだ。

 幸いなことに、私の会社は持ち帰りを認めてくれた結果、我が家の家具の中心ができたのだ。
 非常に不思議な事実にある時気づいた。ロンドンで買った安物もののグラスケース、小ぶりの本箱等が、日本の茶箪笥等と幅・高さがぴったり同じで、うまく調和して収まっているのだ。世界に共通する生活の知恵があるのだろうか。

 リビングルームにもいろいろ思い出のものがある。
 一例を挙げると、ニューヨークのユダヤ人街で買った「クラシック家具百科事典」にも載っている椅子二脚だ。これらは木部の骨組みだけで、格安の値段で売られていたので買ったのだ。その後これをヨーロッパで革張りに完成させ、以後我が家の応接家具として活躍している。二百年前のものを、生き返らせたと思うとうれしい。


 こうして家具との出会いを振り返る時、一番感謝しているのは、妻が私の道楽に反対せず、前向きに協力してきてくれたことだ。定年退職もはるか昔になった今、お気に入りの家具類に囲まれて住めているのもこんな趣味があったからだと喜んでいる。
 一つ気がかりなのは、われわれの死後子供たちが、何を継承する気になり、使ってくれるかだ。

                          イラスト:Googleイラスト・フリーより

【寄稿・エッセイ】 世界一の美男子 = 桑田 冨三子

 鮮やかで目の覚めるような青の民族衣装で「青の民族」とよばれるトウアレグ族の男は、世界一のイケメン、いや、美男子である。

 聞き捨てならぬこの噂は、長い間、私の耳を離れなかった。ちなみに世界一の美女がそろっているのはヒンバ族だそうである。いづれもアフリカ産の人間たちだ。
 これは、パリコレなど、ファッション・モデルの体躯をみると理解できる。ツンとうえを向いた胸やおしり、そして腰から下がうらやましいほど長い。筋肉の格好よさはすばらしい。


 窓の向こうの桜の葉が、半分黄色になった。カーテンのレース越しに入る陽ざしは、やけに低くなっている。もはや秋は終わったようだ。
 電話が鳴った。
 電話の主は、久し振りの学習院・資料室の富田さんだ。パリにいる私の親しい友・令子さんのお嬢さんがいま日本に来て、私に聞きたい事があるそうだ。広尾の地下鉄駅に近いカフェ「ジュボウ」で会った。令子さんの夫はフランス人である。

 その昔、彼女がシベリア鉄道でフランスへ行ったとき列車の中で知り合って結婚したと聞いている。お嬢さんは、アリサと名乗った。切れ長でパッチリとした黒い眼は確かに母親ゆずりだが、母親よリはるかに大きく、それは往年の雑誌「ひまわり」の表紙絵を彷彿とさせた。黒髪をキリリと後ろに結び、スラリとした肢体にベージュの上着と広すぎないフレアスカートが素敵だった。


 彼女が差出したのはフランスの新聞「ル・フィガロ」の企画委任状だった。それには、譲位をされる天皇・皇后のお気持ちを取材したい、と書かれていた。
 宮内庁には取材申し込みをしているが難しいだろうから、美智子さまのことで何かふさわしいエピソードを聞かせてほしいとのことだった。参考になる写真や本などは家にあるので、場所を自宅へ移した。

 そのとき語った彼女自身の経歴を聞いて私は驚愕した。
「私はトウアレグ族の人と結婚していました、一時的・・・でしたけど。」
 そこで彼女は私に一枚の映画のチラシを見せた。
「フランス・アフリカ・日本を舞台に活躍するジャーナリストのデコート豊崎アリサの初監督作品」と書いてある。
 この洒落たパリジェンヌのお嬢さんはなんと、ジャーナリストであり映画監督だったのである。わたしは早速しらべてみた。


 トウアレグ族はベルベル人系の遊牧民で、アフリカ大陸サハラ砂漠の西部に住んでいる。インディンゴ・ブルーのマント風の衣装とターバン姿の男性は、身長180cmをかるく超える均整の取れた体躯、高い鼻梁、くっきりとした眉と濃い青や黒い瞳、大きく引き締まった口元で、女性は圧倒され見惚れてしまうと書いてあった。

 イスラム教徒だが、一般的なイスラム教徒とはことなり、男性が全身を顔まで衣装で覆っている。女性は非常に自由で、へジャブやベールもなく肌を露出してもよいし、女系社会であり、男性は好戦的で戦闘に強く、そのうえ子育てをする女性にはとてもやさしいという。
 身分制度があってこの青衣の男は貴族であり、奴隷のような階級もあるらしい。


 今でこそ、アフリカ大陸は黒人の国というイメージだが、もともとは北アフリカを中心に白人系であるベルベル族が暮らしていた。
 トウアレグ族はこのベルベル人の血をひく古い部族だと考えられている。彼等には村や隊商を襲撃して物品を奪う以外に、黒人たちを攫って奴隷にしてきたという長い過去があるが、混血化がすすんだため、今では金髪碧眼のトウアレグ族はいなくなったという。

 遊牧民だっトウアレグ族は定住先を持たずに生きていた。しかし多くのアフリカ大陸の国々が彼らを定住化させる政策をとり懐柔しようとしたので、一部のトウアレグ族は反発し、何度も反乱や独立戦争を行ってきた。

 2012年にはトウアレグの国「アサワド」として独立宣言を出したが、国として機能するには至らず、国際的には民止められてはいない。そんなところへアリサは行ったのだ。

 映画のパンフレットによると、ニジェール北部アイール山脈のトウアレグ族のキャンプ地では、塩キャラバンの一隊がテレネ砂漠を横切りビルマ・オアシスを目指し、ナイジェリアのカノに戻るという長旅が準備されていた。
 アリサはこのサハラ砂漠の果てからブラックアフリカの入口までの三角点を巡る現代版キャラバン隊の商いに同行した。

 彼女はラクダに跨り、ソーラーエネルギーを利用して3000㎞に及ぶ距離を撮影した。そして、実際に体験して得たキャラバンの経済的効果、その社会的役割、トラックでなくラクダによる物資の運送の長所など映画として広く世界に伝えた。

 出来上がったこの映画を日本では、墨田区にある「たばこと塩の博物館」で今年の6月に公開されたという。知っていれば見に行きたかった。

 美智子さまの84歳誕生日のコメントが出ていた。これはアリサに教えようと電話をした。長い呼び鈴の後、返答はあった。声がとてつもなく小さい。
「いま飛行機の中に座っています。」
「エ?どこへ飛んでるの。」
「パリです。」
 退屈だった今年の秋の終わりに起きた珍事である。  
 

              写真・引用 = トゥアレグウィキペディア(Wikipedia)

おとこのおしゃべり会」 井上 清彦

「おとこだって、おしゃべりがしたい!」
  と地元の東京・杉並区「ゆうゆう桃井館」(かつては敬老会館と呼んでいた)の「おとこのおしゃべり会」が誕生した。

 それは、2015年の5月のことだ。毎月第4土曜日の夕方4時半から6時半、お菓子とコーヒー付きで参加費は200円、当日参加もオーケーだ。


 「おんなのおしゃべり」は、よく知られているが、おとこだって、本音は、おしゃべりしたいのだ。

 ヨーロッパに行くと、街角で年配の男たちが、小さな卓を囲んで、談笑している風景をよく目にする。
集まったのは、自主グループで桃井館を使っている、

 私が所属している「おとこの台所教室」や「ダーツを楽しむ会」などのメンバーや、募集チラシなどでこの会のことを知って参加した人たちで、最低でも10名が参加している。


 新しいメンバーが加わると、全員の自己紹介で会が始まる。
 最近はメンバーが固定してきた。年齢は80歳代、70歳代が中心だった。仕事を続けている人はまれ、殆どはリタイア組。「傾聴」など、ボランティア活動をしている人が多いのが特長だ。

 出席したメンバーからそれぞれ話題提供がある。これまでの話題には、戦前の北京中学校の想い出、傾聴ボランティア、紙芝居ボランティア、犯罪被害者支援の会の活動などの紹介、短歌を即席で創作したり、尺八演奏もあった。

 プロジェクターを使い映像をスクリーンに映して、相続の話、シニアライフの紹介、海外旅の記録などもある。心惹かれた本や映画(地球交響曲など)の紹介、奥様との山歩き、大河ドラマ「西郷どん」の歴史情報や地域などの有益情報もある。
 なかには体験に基づく医療情報の紹介もあり参考になる。


 テーマがある時は前半に一時間使い、後半は、時事評論などのワイワイガヤガヤが基本だ。

 昨年12月の開催日は祝日にあたり、桃井館が休館で、初めて会場を移して、杉並会館マツヤサロンでの忘年懇親会を開催した。暮れの忙しい時期だったが、ほとんどのメンバーが集まり酒も入って話が弾んだ。

 今年に入ってからは、メンバーの紹介で、荻窪地域区民センター副会長からプロジェクターを使って「荻窪の記憶(大田黒公園周辺百年の歴史」の講演があり、生まれてこの方荻窪に住んでいる私は、過去の荻窪の風景や日常の暮らしぶりに大変興味を覚えた。


 またケア24清水のセンター長から「介護保険制度の仕組み」の講演もあり、高齢化するメンバーにとって身近な事柄であり、関心が高かった。どちらの講演も15名もの出席があった。

 もちろん、講師をお呼びするのは、良いテーマが見つかったときだけ、原点は肩肘張らずに、皆で語り合うことだ。


 こうした取り組みが注目を浴び、杉並区の取材に「おしゃべり会」が取り上げられた。杉並区の小劇場「座・高円寺」にも出演している若手男優が、「おしゃべり会」でメンバーをインタビューした。この様子が区のホームページ「すぎなみニュース まちかどナウ」平成28年1月31日号に掲載され、また同じ内容が地域のテレビで放映されたこともある。知り合いにもこのことを伝え、「観たよ」との反応が返ってきた。私も登場するのでもちろん見たが、妻は関心がないのか見向きもしなかった。

 また茅ヶ崎に住む私の大学クラスメイトは、地元に「おしゃべり会」を発足させるため参考にしたいと見学に来た。終わってから、荻窪の食事処で感想を聴いたところ、「出席者の皆さんの知的レベルが高い」とのことだった。


 彼は、その後、地元で「おとこのおしゃべり会」を立ち上げ、活発に活動を行っていて、時々、私宛に報告と、相談がある。


 今年4月、私の水彩画を出展した展覧会には、「おしゃべり会」のメンバーの多くが京橋の画廊まで足を運んでくれ、なかには夫妻で観に来てくれて嬉しかった。こうしたメンバーが関連する行事に参加するケースも多々見られる。


 私は、「おしゃべり会」誕生前から携わっており、幹事の一人としてメールやパソコンが他のメンバーより強いので「連絡役」を仰せつかっている。課題があれば、幹事たちが集まり解決策を話し合う。

 今年で、あしかけ4年目。開催場所のゆうゆう桃井館のスタッフには、いつも美味しい手作りの菓子、コーヒーなど飲み物の準備で、大変お世話になっている。

 地域の仲間との友情を育む「ふれあいの場」として、これからも活動を続けてゆきたい。


              イラスト:Googleイラスト・フリーより

【寄稿・エッセイ】  白薔薇 = 森田 多加子

「白薔薇」という名前の喫茶店は、海岸通りにあった。
 通りに面した入口から入って、細長い建物の一番奥の席につくと、窓から見える景色は、全部海だ。船に乗っているかのような錯覚に陥る。

 20代前半の頃は、(少しもの悲しい気持ちになりたいなぁ)と思う時がたまにあった。そのころの若者が使っていた〈メランコリー〉という言葉に酔っていたのかもしれない。誰かを好きになって一人で悶々としていたからかもしれない。自分を小説のヒロインにして、淋しい感情をつくる。すっぽり嵌ってしまうと、涙なんかも自然に出てくる。

 そんな気持ちになると、仕事を終えてからひとりで「白薔薇」に行く。ここに来ると、海が私の考えていることを察してくれる。ヒロインになりきらせてくれる。
「私は、今、一番不幸な女」
 本などをめくり、淋しい女を演じて大満足だった。

 この喫茶店に初めてきたのは、高校生の時だ。姉とその恋人とであった。日頃の生活と比べると、まるで別世界で、コーヒーの味も、家で入れる代用品まがいのものとは全く違うものだった。カルチャーショックを受けた。

 7歳上の姉は、「白薔薇」近くの、大きなビルの中にある「西華産業」という商社で働いていた。毎朝華やかな服装で家を出る。
 そのころ高価だった絹のストッキングもはいていた。化学繊維がまだ出ていない頃の、肌にピッタリ馴染むストッキングは絹製しかなかった。極細の絹糸で織られたものは、ちょっとしたことで伝線(編み目がほつれること)する。雑に歩いて木の椅子のささくれなどに引っ掛けると悲鳴に繋がる。そういうことで、田舎の町では珍しかったと思う。

 靴下がほつれると、私が修理屋に持っていった。編み目一列の修繕代は高いのに、何列も修理する。修理なのに、透き通った美しいストッキングをはいている姉をもっていることを、誇らしく思っていた。

 姉の行動は眩しかった。家にいても明るい性格で、両親をはじめ、誰からも愛された。私と齢の差もあるだろうが、なんだか遠い世界の人だった。現実ではないような思いだった。
のちに、姉にこの頃の話をすると、

「そうねえ。西華産業に勤めていた女性は、みんな派手だったものね。お給料も良かったし、素敵な男性も多かったからね」
 笑いながら話す50代の彼女は、すでに太ったフツーの中年女になっていた。

 「白薔薇」は門司港駅の近くにある。
 この駅は明治24年に建てられたという。駅舎としては日本で初めての重要文化財になった。東京駅よりも古い建物だ。


 私は門司に25年間住んだが、いつも利用していたはずの門司港駅の素晴らしさには、気づいていなかった。こうして重要文化財になり、遠くから建物を見に来る人たちがいる、という話を聞いて、(へー、あの古くて汚い建物は、そんなに価値があったのか)と、里帰りした折に、改めて見にいった。
 すでにそれらしく、何やら風貌も出ていて、私が知っていた駅舎とは雰囲気が違った。しかし、観光客が押し寄せたのは最初だけで、新幹線ができてからは、地理的に門司港駅はあまり利用されなくなった。折角観光客誘致のために作った駅周辺のレトロ街は、私の知る限りでは閑散としている。
そして、私の心のふるさと「白薔薇」はすでになかった。

 建物が時代や環境で変化していくように、我々人間の顔も生活や生き方によって変貌する。
私自身、たくさんのサークルに関わって動きまわっていた青春時代、子供を育てていた母親の頃、高齢になった現在。年齢の顔ではなく、その時の生活が顔に出ていると思う。


 門司港駅舎は、現在復元工事の真っ最中で、来年2019年3月にはグランドオープンする予定だという。きっとたくさんの人に認められて、自信に満ちた駅舎になることだろう。


        イラスト:Googleイラスト・フリーより

白馬岳  青山貴文

 今夏、8月6日(月)東雲がたなびく6時頃、隣町の深谷市に住んでいる古澤光康君からメールが来た。
「おじさんおばさん達が登った白馬岳に週末行ってきました。天気は良かったものの、おばさん達がおっしゃった通り、かなり辛い登りで大変でしたが、なんとか登頂できました。今日からドイツ出張です。頑張ってきます」
 光康君は数週間前、我が家に遊びに来たとき、白馬に会社の部下ら仲間4人と登ってくるとは言っていた。
 しかし、急に決まった出張前の大切な時によく行ったものだと思った。
 私だったら仲間に謝って、登山を取りやめ、出張の準備に精出すと思う。彼は明朗な好青年で、意外と太っ腹だ。仲間たちとの約束を優先したのだろう。

 彼は、港区麻布の仙台坂の升本酒店に生まれた。小学生のころボーイスカウトに入った。
 成長するにつれて、サイクリングなどの戸外のスポーツを行なうようになり、時たま秩父の野山をかけまわっていた。私は浪人時代、彼がまだ生まれていないころ、この遠縁の酒店に店員として住み込んでいた縁がある。

 彼は、芝高校から現役で東京工業大学に入った。私は残念ながら二浪したが、この国立大学に入学できず、致し方なく私大に入った。
 彼は、私と同じ鉄鋼会社に入社し、熊谷工場の研究所に配属になった。8年後、安来工場への転勤を命じられた。その折り、家庭の事情もあり、大企業ではないが、東松山市の中堅優良企業に躊躇なく転職した。 

 彼の白馬岳のメールには、4枚のスナップ写真が添付してある。

 一枚は、サングラスを右手に持って、41歳にしては、若々しい登山姿だ。青色の毛糸の帽子に黄色の長袖を着て、黒いリュックを担ぐ。遠くに雪渓を登る色とりどりの登山者の群れが写し込まれている。

 次は、青色の半そで姿で陽光の下、真っ青な空をいただく頂上塔に右手を置いて、左手に2本の杖を持って立っている。

 三つ目は、山荘のテーブルのケーキとコーヒカップを前に、健康そうな茶褐色に雪焼けした顔が微笑んでいる。

 最後の写真は、画面一杯に、山小屋の野外テーブル上に、食べかけの大きな三角山のかき氷とスプーンが大写されている。その氷の頂上に真っ赤なサクランボが一つ鎮座している。そのサクランボの背後には白馬の山塊と陽を受けた白い雲が湧きあがっている。

 私たちの若いころの登山は、おにぎりやインスタントラーメン・菓子、水などの食糧と、ガスボンベをリュックで運んだものだ。山頂でお湯をわかし、インスタントのコーヒーや味噌汁を作った。ケーキやかき氷などとはおよそ無縁であった。

 古澤君が大切な出張前に、友人たちとの約束を守り、危険な雪渓を登ってきた勇気と果断さには、ちょっと無謀を感じる。
 しかし、その若わかしく優雅な登山姿に羨望を感じる自分がいる。


 私の青色表紙の登山ノートによると、還暦の3か月前、2000年8月10日(木)、白馬岳に夫婦で登っている。
 早朝、まだ自動車のライトを必要とする3時ころ、熊谷を車で発ち、猿倉から白馬の雪渓を登り、お花畑を横切り、14時ころに山小屋に着いたと記す。
 妻が言うには、山荘での生ビールが最高においしかったというが、私には記憶がない。ただ、猿倉で一セットが 1,000円の簡易アイゼンを購入し、堅い雪上を一歩一歩登った感触はいまだに覚えている。妻は、高級アイゼンを事前に準備して登っていた。

 私たちは、翌朝6時ころから紺碧の空のもと、眼下に白雲や雪渓を眺めながら、尾根伝いに白馬岳(2932m)白馬乗鞍岳(2436)、天狗原(2180)などを経由して栂池(つがいけ)ヒュッテに着いた。
 翌日の土曜日に熊谷に戻ってきた。一日は休養を充分にとり、月曜日に出社している。


 一方、古澤君は週末の土・日曜日の休日を利用し、猿倉と白馬山荘の往復登山であった。休日を取ることもなく、翌月曜にはドイツへの出張に出かけている。そして、任務を無事終えたようだ。私たちと違って、超多忙のなかで仕事と趣味を両立させている。

 現在、彼は持ち前の果敢さで、海外出張も多く、時間があると本場のオペラを垣間見ているらしい。私には、そんな高尚な趣味もない。

 後日談であるが、彼は今回の出張前の白馬登山に対し、社長からお目玉をもらったそうだ。


            イラスト:Googleイラスト・フリーより

こころに残るゴルフ

 4月初旬、福岡のゴルフ場から年会費の請求書が届いた。
 私は、主人の帰函以来、諸手続きに追われゴルフ場のことなどすっかり忘れていた。早速、主人の退会手続きをとるのと同時に、17年間預けていた主人と私のゴルフバッグを送り返してもらった。

 そのゴルフ場は、海沿いの美しい松林に囲まれたフラットなコースなので、高齢者向きであった。私達夫婦は東京に戻ってからも、年に5~6回は福岡でゴルフを楽しんでいた。

 手続きの4日後に戻ってきた二つのバッグの中には、それぞれのクラブに私の手作りの名入りのカバーが被せてある。なんだか懐かしかった。だが、主人のはもう使うことはないのだと思うと、少し寂しくもあった。と同時に、楽しかった思い出深いシーンが、私の脳裏をよぎった。


 その一つは、家族ゴルフである。

 ある時、社会人になってまだ日の浅い次男が、福岡の私宅に帰ってきたので、当時、福岡に在住していた私の父を誘って、親子三代のゴルフをしたことがあった。
 その日は、五月晴れの絶好のゴルフ日和であったことを覚えている。

 ゴルフを始めて間もない次男は、とにかくよく飛ぶが、右に左に忙しい。80代の父は、飛距離はなくともグリーン周りでは、熟練の技を見せてくれる。
 スポーツが苦手な主人は、仕事柄しかたなく始めたゴルフだが、その性格のように着実にボールを運んでいく。そして、スポーツが得意な私は、女性としては「飛ばし家」であった。そのため女性用のティーではなく、レギュラーティーから打つのだった。

 ただ、このコースには、私にとって一つの苦手なホールがあった。

 それは、大きな池越えの左ドッグレックのロングホールだ。女性用のティーは池の向こう側に設定されている。しかし、レギュラーティーから打つ私は、目一杯ドライバーを振るしかない。何度も池ポチャを経験した。

 この日、主人と私は何とか池をクリア。一番飛ばす次男が池ポチャ。父の一打は池の淵に当たって、フェアウェイに跳ねた。
 お互いに助け合いながら親子三代のゴルフは、とても楽しかった。スコアが一番良かったのは、経験豊富な父だった。
 父は、孫とも一緒にゴルフを楽しめたことを、とても喜んでくれた。父の笑顔を今も思い出す。しかし、その後、親子三代のゴルフは二度と実現することはなかった。


 そして、もう一つは、主人の大学の教職員のゴルフ大会に、私も初めて参加した時のことである。私の他にも教授夫人が二人ほど始めて参加されていて、女性は8人であった。

 いつものコースなので、私は何も不安はなかった。私の組は、年輩の教授と事務長、それに若い助手と私である。主人は別の組である。

 女性は、「女性用のティーから」とのルールなので、私はいつもと違ってクラブの選択に迷った。出だしは良くなかったが、だんだん距離感がつかめてきた時、あの大きな池越えのホールにきた。女性用のティーは池の向こう側にある。

 私は、池を越す必要がないのである。

 男性群が、池越えを打ち終えた後、急いで先に行って女性用のティーから思いきりドライバーで打った。すると、グリーン手前近くまで飛んだのだ。
 結局、パー5のホールを2オン1パットで上がったのだった。イーグルである。初めてだった。いつもは、パーで上がるのが「やっと」だったのに。「池越え」という精神的なプレッシャーが、無いことの影響の大きさに我ながら驚いた。


 年輩の教授は、やはり着実なプレー。事務長は実力派。若い助手は次男と同じタイプ。四者四様の楽しいゴルフだった。

 そして、笑顔で終了した後、表彰会場に入った時である。突然大きな拍手が湧いた。
「奥さん、優勝、おめでとうございます。」
「エッ。」私は驚いた。

 その日は、女性用のティーから打ったお陰でいつもより少しはスコアがいいが、優勝する程ではないはずだ。すると幹事が説明してくれた。
「初めての参加者は、ハンディキャップが36ですよ」と言う。
 私は、更に驚いた。36を引けば私のスコアは54、プロ並みではないか? いや、スコアだけ見れば、プロよりいい。本当に驚いた。
 思わず主人の顔を見た。主人はにこやかに笑っていた。確かに、他の教授婦人達も、上位を占めていた。

 私は、皆さんの温かい心に感謝しながら、優勝杯をいただいた。ゴルフの優勝はあとにも先にもこれ一回のみである。因みに、その日の主人は、ブービー賞だった。

 そして、よく見ると、いただいた優勝杯には、「武智杯」と掘り込んであった。奇しくも、当時、主人が学長であったからだった。
 その取り切りの優勝杯は、今もリビングの飾り棚に飾ってある。偶然ではあるが、今は亡き主人からのプレゼントのように思えた。

 私は、よく見えるように、戸棚の一番前に置き換えたのだった。私にとって、深く心に残るこの優勝杯を、いつまでも大切にしたいと思う。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

いい人生だった 金田 絢子

 昭和13年生まれの私は、一つから4つ半まで父親の任地、北京にくらした。北京から帰国した17年の9月に弟が生まれた。

 今年(平成30年)はまさに酷暑の夏であるが、昭和17年も記録的な暑さだったらしい。身重の母が日に何べんも水を浴びたというエピソードがのこっている。私は年子の兄と、弟にはさまれた一人娘として、甘やかされて育った。

 疎開先きから東京に帰ってきて、近くの小学校に1年ほど通い、5年生から女子短大と大学が併設されたG校に学んだ。
 因みに、中・高は男女別学であった。当時、女子高等科を卒業後の進路は、大学、短大、社会人の割合が三分の一ずつと均等していた。私は、短大にすすんだ。

 短大に入って間もない日曜日、高等科を出て社会人になっていた親友と二人で、大学のイベントに参加した。ファイアストームを囲んで、フォークダンスを踊った。

 友人は私の一つ前の列にいた。私のとなりの男性は、曲がとぎれてつないだ手が離れる度毎に、手の平の汗をハンカチでぬぐった。友人が小走りにきて、耳元にささやいた。
「ステキ。石濱朗みたいね」
 あとで知ったが、彼はR大の学生で、数人の仲間とわが母校のお祭りに来ていたのである。

 私と友人は、フォークダンスが終わって早々にひきあげた。駅に近づくと“朗くん”を中心にして、男子のかたまりがこちらを見ている。
 私たち、いや私を待ち受けていたのだ。これも、少し経ってからわかったのだが、とくに感動はしなかった。“私は可愛い”とうぬぼれているわりには、異性への関心はないに等しかった。端的に真実をのべるならば、ただぼんくらなだけであった。


 ところが、その私が短大を卒業した翌年、まさかの結婚をしたのである。世の中、何が起こるかわからない。
 間をとりもって下さったのは、北京時代のお仲間の、弁護士夫人Nさんである。初対面の日、Nさん邸へ、私は母と出かけたが、相手は一人でやってきた。
 男性は、背は中くらい、ちょっぴり禿げていて頗る調子がよかった。驚くほど物知りでもあった。つき合っているうちに、頭が良いこともわかった。それが決め手だといえばきこえはいいが、調子のよさにのせられたと見る方があたっている。

 娘たちは、夫がまだ元気なころ、
「お父さんに上手に言いくるめられて、お母さんたら、お父さんひと筋なんだから」
 と揶揄したものだ。

 今年、暑い暑い7月、合間に台風がきて一日だけ涼しい日が訪れた。悪天候を口実に私は一歩も外へ出なかった。折からの風にのって、夫の声がきこえてきた。

 最後の入院の前日のことである。夫はいつものように、介護ベッドに半身を起こし私たちに話しかけていた。体力はとみに衰え、すでに、予定を書き込む手帳に、ちぢこまった字しか書けなかった。“もう長くない”と本人が、誰より自覚していただろう。何の話のつづきか忘れたが、
「いい人生だった」
 と夫が言った。夫がこの言葉を口にしたのは初めてではないが、死の予感も手伝ってか、殊に私の胸にしみた。自分自身に聞かせる風にも
「みんなのおかげだよ」
 と言っているようでもあった。
 ふと耳を澄ますと、風の音、雨の音にまじって
「ただいま」
 爽やかな夫の声がする。うれしくなって玄関へ走った日々が甦える。
 3人の娘や孫たちとのあれこれ、数々の出会い、ちょっとした行違い、人見知りの私。全部ひっくるめて懐しい。私も命の瀬戸ぎわに、
「いい人生だった」
 と言ってみたい。

           イラスト:Googleイラスト・フリーより

一族集合  筒井 隆一

 ガジュマルとマングローブの密林の中に続く、曲がりくねった道を、小型自動車が進む。

 道が高台に出ると、東シナ海の真っ青な海が、樹林の隙間から顔を見せる。今日は長男夫婦の案内で、沖縄本島の最北端、辺戸(へと)岬を目指している。

 道に沿って、所々に「ヤンバルに注意」の標識が立っている。
 この時期、運がよければ国の天然記念物、ヤンバルクイナに出会えることもあるようだ。沖縄本島の北部、ヤンバル地区にしか生息しないヤンバルクイナは、鳥類では最も新しく、1981年に発見されたが、外来生物による捕食と、生息環境の森林破壊で、絶滅の危機に瀕している。

 また鳥類の中で唯一飛べない鳥だが走るのは早く、時速40キロメートル程度というから、マラソン選手の倍のスピードで走ることになる。

 そのヤンバルクイナの飼育、繁殖のため、保護施設が岬近くに設置されている。そこに、たった一羽だけ飼育されているヤンバルクイナ、愛称「キョンキョン」を見学するために、宿泊した西海岸のリゾートホテルから3時間近くかけて走って来た。だが、迂闊にも今日が休園の水曜日ということを忘れており、施設の前まで来て気がついた。大失敗である。


 同じころ、次男一家の5人は、宿泊先のホテルで水遊びに興じていた。ホテル建物内の屋内プール、建物に隣接した屋外プール、そして50メートルほど先は、遠浅、白砂の美しい海岸で、小さな子供から大人まで、安全に泳ぎを楽しめるようになっている。三人の孫たちも夢中になって泳ぎ廻っていたようだ。

 私は、一族の集まりを大切にしている。そして何かの節目には、全員集合して情報交換、懇談をする。私が古希を迎えた時には、大阪勤務だった長男と、東京在住の私たちとが、中間の熱海で合流し、飲んで語って、一夜を明かした。

 今回は私が77歳の喜寿、家内が70歳の古希を迎えるにあたって、長男の勤務地沖縄に集合し、「筒井家一族の会」を開くことになった。現地の受け入れ担当は長男、沖縄への移動担当は次男という役割分担だ。

 筒井家のルーツは、もともと奈良大和の戦国大名からのし上がった、筒井順昭、順慶親子から続いた家柄、と言われている。
「洞が峠を決め込む」「元の木阿弥」などは筒井一族に関係ある言葉だ、と父親から聞いていた。
 近鉄奈良駅の近くにある伝香寺が筒井家の菩提寺で、関西に出向いた時には立ち寄るようにしている。


 さて、長時間のドライブにもかかわらず、ヤンバルクイナを見損なった長男組がホテルに戻った。そして、一日中プールと海岸での水遊びを楽しんだ次男組とが合流し、皆が顔をそろえた。せっかく沖縄に来たのに、ホテルのレストランでの会食はつまらない。向かいにある琉球料理店に席を移し、宴会が始まった。本場の泡盛が、美味しい。

 私たちは、普段は夫婦二人だけの生活だ。
 農園で畑を耕したり、来客を迎える準備をするとき、そしてヨーロッパへの二人旅などを除けば、夫婦の対話も途切れがちである。
 皆が集まれば、息子たちは、転勤転務を含め仕事上の情報交換ができるし、私たちは、三人の孫をからかいながら談笑すれば、老化防止にもなる。お互いの体調、健康のこと、今後を息子たちにどう託していくか、なども大切なテーマである。

 情報は、一方的に提供したり受け取ったりするものではなく、交換するものだ、と先輩に躾けられた。一族集まっての飲み会は、まさに情報交換である。

 この夜も昼の水遊びで疲れ切った孫たちが膝で寝てしまうまで、一族の酒盛りが続いた。


   イラスト:Googleイラスト・フリーより

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