元気100教室 エッセイ・オピニオン

おふざけだが真面目  廣川 登志男

 4歳になる孫娘が、咄嗟に言った言葉に感心してしまった。バナナを食べさせていた時のことだ。

 孫娘が、皮の最後の所に残った短い長さの部分を食べようとしたときに、握っていた左手に力を入れすぎたせいか、スポッと抜けて床に落ちてしまった。
「バナナって美味しいけどすっごく滑るのよ! おじいちゃん」
 バナナの皮が滑るというのは、少し大人になればみな知っているが、四歳の孫娘が当たり前のように言った。過去に、皮を踏みつけて痛い目に遭ったのかどうかわからないが、小さい子供が滑ったことを心に残している。子供の観察力・記憶力は大したものだ。

 そういえば、「バナナの皮はなぜ滑る」を研究した人がいたのを思い出した。
 4年ほど前のことで、新聞で紹介されていた。

 北里大学の馬淵教授たちの研究だ。教授はその成果を論文にまとめ上げて発表していた。それをイグノーベル賞選考委員たちが見つけ出して、2019年の物理学賞を授与することになった。

 教授は関節潤滑の研究者で、関節が痛くなく曲げ伸ばしできるのには、滑りが重要だと言っている。ある著書の中で、
「関節潤滑の良さは、バナナの皮を踏んだ際の滑りの良さを連想させる」
 と記している。
 しかし、なぜバナナの皮は滑るのだろう。教授はふと疑問に思った。バナナの皮の滑り良さは当たり前のことと思っているが、その証拠のデータはあるのだろうか。
 教授はかなり調べたが、データは見つからなかった。ここで持ち前の探求心が頭を持ち上げ、「それなら自分が調べてやろう」と、調べるに至った経緯を述懐している。

 教授たちは、顕微鏡などでの調査で、バナナの皮に存在する「小胞ゲル」が靴で踏まれることで破れ、中の粘液を放出して潤滑の役目を果たすという事実を突き止めた。これを論文に仕上げたことで、イグノーベル賞受賞となったのだった。

 この賞は、毎年5千件ほどの受賞候補者から、10の個人あるいは団体に与えられる。賞の基準は、「まず人を笑わせ、そして考えさせる研究成果」となっている。
 1991年に、ノーベル賞のパロディとして創設されたもので、人間に直接役立つ内容ではないが、「少しおふざけが入っているものの、極めて真面目な研究」を対象にしている。

 ノーベル賞とは正反対な面があるが、興味深いテーマが盛りだくさんで人気がある。昨年まで十二年間連続で受賞している日本の受賞テーマを少し紹介する。

・足の匂いの原因となる化学物質の特定(92年・医学賞・神田不二宏他5名)

・夫のパンツに吹きかけることで浮気を発見する「Sスプレー」の開発(99年・科学賞・牧野武(セーフティ探偵社))

・台所の生ゴミ90%が削減可能な、パンダの排泄物中のバクテリア(09年・生物学賞・田口文章:北里大学名誉教授)

 なかなか面白いテーマだ。ひょっとすると人間に役立つものもありそうだ。
 2番目のテーマなぞは特に面白い。加えて、開発者の会社名が何とも言えない。探偵社なのだ。いつの日にかアングラ商品として売り出され、買って使う人が出てくるかもしれない。

 これまでの国別受賞者数(‘91年~‘14年)は、1位が断トツのアメリカ、2、3位に英国と日本が拮抗していて、四位を引き離している。
 英国と日本についてのイグノーベル賞創設者談を引用すると、「両国とも、研究者に変人が多いが、社会に許容されている」ことが、受賞者が多い一番の理由だと断じている。

 私は変人ではない(と思っている)が、入社して研究部門に配属された。最初に指導されたことは、
「何でも疑問に思え。ナゼ・ナゼ・ナゼである」
「グラフで、相関を示す帯から外れた異常点には重要なことが隠れている」
この『二つの教え』を肝に銘じて仕事をしていた。
 5年の研究生活の後、研究成果を現場で実機化する技術者となった。

 異動先は、同じ君津製鉄所のUO鋼管工場だった。当時は、薄板工場と肩を並べる高収益工場で、石油・ガスを運ぶパイプライン用の大径鋼管の製造を担っていた。色々な操業トラブルに見舞われたが、前述した教えを守って何とか切り抜けてきた。

 5年前にエッセイ教室に入った。穂高先生からは、「目を皿のようにして社会や自然を観察することが大事だ。そして、少しでも何か異常を感じたら、そこにエッセイのネタが隠されている」。研究と同じことを仰る。

 まだ70歳前だ。まだまだ時間はある。イグノーベル賞を狙って、とは言わないが、子供が持つ感性を失わずに、そして、『二つの教え』を守って「少しおふざけで、だけど真面目」なエッセイを書きたいと思う。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

女ごころ  金田 絢子

 作家、岩橋邦枝さんのエッセイ、「平気でばあさんという男ども」を共感をもって読んだのは、15年ほど前になるだろうか。未だに頭にこびりついている。

 彼女は、50歳そこそこで、ばあさん扱いをされた。学生たちの飲み会に仲間入りしたとき、会費が、女子は男子学生よりも二、三千円安かった。
 彼女は男性並みの会費を払い、律儀に差額を持ってきた学生に「いいんですよ」とお釣りをことわった。すると同席していた中年の大学教師が口をはさんだ。
「そう、こちらはいいの。ばあさんは女のうちに入らない」
こんな奴は、ビールでもぶっかけてやればいいのだ。


 私にもいささか苦い思い出がある。(当時、私は60代であった)近所の若夫人が娘とみちですれちがい、
「よく、お宅のおばあさまにお目にかかります」
 それを聞いて私はショックで暫く口がきけなかった。
(なぜ、お母さまにって言わないのかしら、まちがってる)
 と思ったからだ。

 我が家では、「おばあちゃん」は禁句である。
 私が四八歳の時に生まれた初孫にも「アーバ」とよばせてきた。私の気持ちを慮って娘たちは決して「おばあちゃん」とはよばない。「アーバ」もしくは「お母さん」である。

 そんなことを露知らないひとさまが、お婆さんよばわりをするのは仕方がないとも言えるが、どうしてもその時、こだわらずにはいられなかった。私は娘の母親であって祖母ではない。

 フランスでは、いくつになってもマダムだそうである。フランスはうぬぼれの強い国で私は好きじゃないけれども、”なんでもかでもおフランス”の日本人が、この風習をまねないのは、片手落ちだと思う。

 岩橋さんは、この彼女のエッセイのはじめに、
「今年は大学を卒業して40年目にあたるので、クラス会の趣向をかえて小旅行をしよう。夫婦づれ歓迎という案が出て、旧友数人で会食をした」
 のだが、中の一人が
「(主人が)ばあさん連中に囲まれておともする気はないって」
 というかと思えば
「うちもそうよ」
 なんて合づちを打つのまでいる。


 60歳を一つ二つ過ぎた女に、ばあさん呼ばわりはないだろう、と彼女は言う。
 私もそう思う。たしかにおばあさんと呼ばれただけで、腹をたてるのは度量がせまい人間のあかしには違いない。
 でも人はみな、煎じ詰めれば問題にするにも当たらない事柄に、一喜一憂する生きものではないか。
 ずっと昔、背の高い友人が、もう一人の背の高いクラスメートをさして何気ない調子で「Dさんは背が高いからいいのよ」と言った。私が背の低いことにコンプレックスを持っていたら、カチンときたかもしれない。
 私は学校ではコンプレックスの固まりだったのに、「チビ」については何とも思っていなかった。
 私は周囲の人、殊にオバサマ連にちやほやされたが、小さくてかわいいからだと勝手に決めこんでいた。

 また、小さいと年をとってから、皺なんかも全身が手狭な分、めだたなくてすむと楽観視してきた。
 ところが、ある時、私より小さくて、すっかりしなびた人を目にして、ぎゃふんとなった。老いてちぢんで歩いている姿は、目立たないの次元を越えて、いじましかったのである。勝手な思いこみをしたがる、私の性癖が地に落ちた瞬間であった。
(もうやめよう、意地を張るのは)と思った。

 ああ、それなのに、数日経ったら、当たり前のように以前の私に戻っていた。年をとってばあさんとよばれるのは当たり前、とうそぶく度量を未だもちあわせぬ、私の苦闘は続く。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

令和の花束   武智 康子

 令和元年五月二日の朝、日比谷花壇から大きな箱に入った花が届いた。

 私は、「母の日には早すぎるし、私の今年の誕生日は過ぎたし、今頃、どうしてお花が届くのだろう。いったい誰からの贈り物だろう」と不思議に思った。
 とにかく花を受け取った。伝票を見て驚いた。(U S A)という大きな文字が私の眼に飛び込んだのだ。よく見ると、贈り主は、ロスアンゼルスに住む教え子からだった。

 そっと箱を開けた。中には、ピンクの薔薇を中心に淡いピンクとグリーンのカーネーション、それに濃い紫と白の小花を散らして、それらを大きな葉っぱ五枚で包み込んだ素敵な花束が入っていた。手紙も添えられていた。

「先生、お元気ですか。日本の新しい年をお祝いします。ロスアンゼルスでも、日本人と一緒にみんなでお祝いしています」
 と、丁寧な日本語で書かれていた。

 そう、改元のお祝いの花束だったのだ。私は、相変わらずよく気が利く彼女だと感心した。
 その教え子とは、百歳クラブのクラブ誌十七号で、「日本のお母さんへ」というサブタイトルつきの手紙を、紹介したことがある彼女である。

 彼女は、京都大学経済学部の卒業式を待つだけになった三月初め、両親が滞在しているロスアンゼルスに十日間ばかりの予定で、渡米したのだ。だが、いよいよ日本に戻ろうとした時、米国を出国できなかった。彼女は、泣きながら日本語学校で担任だった私に、電話をかけてきた。手紙も頻繁に来た。パソコンがまだ普及していない時代だった。

 大使館や大学にも相談したが、私にはどうすることも出来なかった。理由もわからなかった。今は、家族全員が米国籍だが、当時、彼女は、大連出身の中国籍だった。丁度、香港の返還が成される時代だった。関係があるかどうかはわからない。

 私は、両親の下、米国のビジネススクールで、もう一度学び、会計士の資格を取得して、米国で仕事をすることを勧めた。それから半年ぐらい何も連絡がなかった。心配していたところ、カリフォルニア大学のビジネススクールで学び始めたとの手紙を受け取り、安心した。

 努力家の彼女は、その後米国の会計士の資格も取得して、順調に会計士の道を歩んでいる。現在は独立し、ロスアンゼルスの市内で、国際弁護士のご主人とともにオフィスを構えて、米、日、中の三ヶ国語を使って多くの顧客に対応しているとのことだ。今回は、彼女のきめ細かい心遣いから、きっと日本人の顧客には、花束を贈っただろうと、私は想像している。

 彼女は、「令和」の意味も理解していた。英語では「Beautiful Harmony」 というそうだ。彼女は、日本を離れて二十年近く経つのに、日本の文化を忘れていなかった。私は嬉しかった。さっそく、メールではなく、直筆のお礼の手紙を送った。

 実は、平成二十八年の秋、彼女はやっと訪日の機会を得て、約十六年ぶりに日本を訪れた。私は、東京のプリンスホテルで日本到着の翌日と、帰国前の日と二回、彼女の一家と会食をした。
 彼女の明るく真っ直ぐな性格は少しも変わっていなかった。むしろ、私の方が変わっているはずだが、彼女は「先生は、年をとっても若い。少しも変わっていない」とお世辞をいってくれた。その言葉は、お世辞とわかっていても私を元気付けてくれた。

 彼女の夫も立派な紳士で、中学生と小学生の二人の息子達も素直に育っていて、素敵な家族だった。
 なかでも、私が一番嬉しかったのは、彼女が京都大学で十六年ぶりに、真の卒業証書を受け取ったことだった。それまでは卒業証明書だけだったそうだ。その卒業証書を見せてくれた。私は、彼女にとっては、努力と苦労が報われた一瞬だっただろうと思い、心から「おめでとう」と言って労った。これからも遠く日本から、エールを送りたいと思っている。

 現在、元号があるのは世界中で日本だけだが、これは日本の文化であり、ある出来事を知るのに、すぐにその時代背景も頭に浮かぶと言う便利さも持っている。今回のように、お祝いで改元が迎えられるのは、気持ちを一新する意味でも素晴らしいことだと思う。

 令和の時代が、真に「Beautiful Harmony」であることを願ってやまない。


         イラスト:Googleイラスト・フリーより  

ワラビ採り  青山貴文

 今年のゴールデンウイークは十連休だ。
 毎日が日曜日の私には、余りうれしくもない。新緑を求めて皆が出かける。帰省客で高速道路は渋滞だ。列車も、飛行機も予約で満杯だ。だからと言って、この最高に良い時候に家で過ごすのは、もったいない。

 3年日記を、ひもといてみる。この時期は、我が家から、約15キロに所在する釜伏せ山近くの中間平(ちゅうげんだいら)に出かけている。そこは、海抜150キロの高台だ。その見晴らしの良い丘から東北方向に、双眼鏡で熊谷の我家周辺がよく見える。南東の方角遠望、約70キロには、新宿の高層ビル群が眺められる。

 そこで、薄曇りだがサンドイッチを作って、近場の中間平に妻とドライブがてら出かけた。私は登山パンツに愛用の登山靴を履く。妻はノルディック姿で、ウオーキングシューズにズボンだ。遠目からは、40歳代の夫婦に見える。

 毎年訪れる見晴台が、真新しい木材で改築されている。4人掛けのがっちりした椅子付きの木製テーブルが、その周辺に5台も備えてある。
 そのひとつに腰掛け、眼下に広がる景色を見ながらサンドをほおばる。家で頂くより遙かにうまい。鳴き始めたばかりの、未熟な鳴き声のウグイスの声が可愛い。空気が澄み切っている。家に居ては、この清々しい空気と野鳥の囀りは、体感できない。さらに、新緑の中間平には、この頃に限り、ワラビが出現する。

 数十年前に山菜に詳しい妻が、シダの葉伝いに茂みの中に入って行って、ワラビの群生している場所を見つけた。我々の秘密の場所としていたが、数年前から、シダの葉が倒されており、数人の方がワラビ採りに来ていると感じていた。我々と同じようなカップルと会うことがあり、獣道らしい細い道もできて秘密でもなくなった。

 そこは、東電の鉄塔を目当てに、背丈の高さくらいの土手を這い上ると、急に拓けた傾斜地になっている。その鉄塔の周辺は、おおきな木々が伐採されて日当たりがよく、ワラビの群生地になっていた。
 ワラビは、同一シーズンでも、3回くらい再生するので、採られても、数週間すると、また採れる。誰かが先にきて、ワラビがほとんど取られていることが多くなった。それでも、5~6本採れると大切に持ち帰り、湯がいて甘辛く煮て、酒の肴にしている。
 先客が来ているときは、挨拶がてら
「こんにちは、採れますか?」と、にっこり笑って問い掛ける。
「いや、だめですね、すでに採られていますよ」と、愛想笑いが戻ってくる。


 ところが、昨年、二人の人影が、傾斜地の上方で動く気配がした。彼等は、男の二人連れで、私と同年配らしい。口の開いた篭を腰につけ、地下足袋を履いている。山菜取りのセミプロの恰好だ。
「どうですか? ・・・ワラビが採れますか?」
 と挨拶をしたが、無言だ。
(なにも、黙っていることもないだろう。ワラビの一つや二つでガツガツするな)
 と思いながら、私もガツガツ探す。
 当方は登山靴だけは立派だが、手ぶらだ。ただ、小鳥の声を聴きながら、数本のワラビが採れればよい。彼らは、いつの間にか立ち去っていた。

 今回は、車を見晴台の駐車場に置き、勝手知った東電の鉄塔の所まで、運動がてら歩いて行った。車で動くのと違って、草木や小鳥のさえずりが間近かに感じ新鮮だ。登る土手をやっと見つけた。
 簡単な木の階段が出来ている。東電の職員の点検用なのだろう。ところがシダの葉が無い。人が入った形跡もない。雑草が伸び放題になっている。目的の場所は、荒れ果てた斜面に変貌していた。

 しかたなく、やって来た車道を引き返すのも、折角履いてきた登山靴が泣く。眼前の山道に沿って草木を愛でながら、迂回して駐車場に戻ることにした。

 今まで雲間に隠れていた太陽が顔を出した。新緑が陽に映えて、行く手が明るい。ワラビが皆無の山菜採りもこの晴天で救われた。時々立ち止まって妻を立たせ、新緑を撮る。久し振りの山歩きは、足腰を鍛えてくれ、心が洗われる。

 私たちの駐車場が眼下に見える丘に出てきた。なんとシダの葉が斜面一面に群生している。ここなら、ワラビが絶対見つかる。妻も私も無口になり、シダの日だまりの中に入って行く。
ところが、シダはほとんどが大きく生長し、来るのが一ヶ月くらい遅かった。
 待望のワラビは細く短くお粗末だが10本くらい採れた。釣りでいう坊主の日ではなくなった。
「ヤッホー。どこに居るの?」
 と、妻の声が丘の上の方でする。二人合わせて、20数本のワラビを採取することができた。
 来年は、3週間くらい早めにこの丘にやって来ようと、話しながら帰宅した。早速、3年日記の来年4月5日の欄に「中原平ワラビ採集のこと」と記す。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

「元気に百歳」クラブってどんなところ?

「元気に百歳」当クラブ は2000年に設立し、2014年に15周年を迎えました。

高齢化時代の中で社会と家族に負担をかけないで元気に生きられるよう、社会・友人・家族と良好なつながりを持ち、心身の健康を保つことをクラブの目標としています。

「元気であることが社会に対する最高のボランティア」「自立(自律)と支え合い」が合言葉です。

 私達のような考え方の輪が広がり、少しでも社会貢献できることを願って活動を続けています。

 当クラブは首都圏とその周辺及び関西が活動の中心ですが、中部、九州や北海道に在住の会員も含めて現在、会員数は約200人です。

 クラブの目標に沿って地域毎の活動を行っていますが、首都圏とその周辺地区についていえば、年2回の例会と、「パソコン教室」、「俳句の会」、「エッセイ教室」、「日だまり」、「ゴルフ会」、「健康体操と歌の会」、「スケッチ会」の7種のサロンを中心に活動しています。

 (詳細は「元気に百歳」当クラブのホームページをご覧ください)

90%以上の会員の方々が何らかのサロンに参加して「学び」と「遊び」を楽しみ、その中で「仲間意識」を醸成しているのが本クラブの特徴の一つです。

 心を開いた仲間としてのつながりを深めて交流の輪を広げましょう。そして、社会に私達の活動を発信していきましょう。



「元気に百歳」クラブってどんなところ?

 平均年齢60代後半!

 まだまだ元気一杯なシニア達が"元気が最高のボランティア"をモットーに、特技や趣味を生かして活動の場を広げています。

  本クラブは、そんな皆様方が精力的に活動できる場を作ると共に、様々なイベントを通して個人交流の場(グループサークル)を提供しています。

 『活躍の場がほしい』『気の合う友人を増やしたい』、余った時間は是非「元気に百歳」クラブでご活躍下さい。

 本ホームページでは、クラブの活動の内容や予定を随時公表していきます。会員の皆様も、イベントスケジュールの確認などにお役立て下さい。また、活動報告なども公開していきますので、お楽しみ下さい。


 (詳細は「元気に百歳」当クラブのホームページをご覧ください)


【補足説明】

 穂高健一は同クラブで「エッセイ教室」の指導をしています。すでに120回を超えています。

 作品は、任意に、「穂高健一ワールド」の『元気100教室・エッセイ&オピニオン』に掲載しています。
 掲載作品は教室に提出された原稿どおりで、講師の手を加えていません。

大いなる誤算  林 荘八郎

 湘南海岸沿いの道路を西へ向かってドライブすると、正面に富士山、左手に伊豆半島が横たわる。そしてサイクリングを楽しむ人たちを追い抜く。愛好者が多い。あの爽快感は私も大好きだ。

 次男は自転車好きで、高校に入学するとサイクリング用の自転車をねだった。
 その自転車で、さっそく夏休みに名古屋にある母親の生家を目指して行った。途中、静岡で日が暮れてしまい、通りがかった寺のお堂の軒先を借りて夜を明かしたことや、翌日の夕方に名古屋に着くまでの間の面白かったこと、苦労したことを楽しそうに聞かせてくれたことがある。

 その後、就職した彼が買ったマウンテンバイクが、物置に置きっぱなしになっていた。

 私はそれを借りて、いつか伊豆へサイクリング旅行に出かる機会を楽しみにしていた。目指すは伊豆半島。海岸伝いに一周する計画だ。

 伊豆には伊東、伊豆高原、城ケ崎、赤沢、爪木崎、下田、弓ヶ浜、石廊崎へしばしば出かけた。
 ある時期には家族との海水浴や、友人とダイビングを楽しみに、年に四十回は出かけた馴染みのある所だ。


 六十歳を過ぎて、その計画の実行を思い立った。
 一週間かかっても二週間かかってもいいやと思い、現金と着替えだけを持って、トレーニングウエア姿で横浜から伊豆を目指しその自転車で出発した。まず逗子へ出た。

 国道135号線で西へ向かう。さっそく地魚料理の食堂が目に入る。春の飛び魚は旨いので、「春とび」の名で愛される。昼食は「春とび」の刺し身定食だ。スタートから楽しい。

 平坦な車道をトラックや乗用車と一緒に走る。速いスピードで追い越されるので、危険を感じ左の歩道へ入ろうとした。しかし自転車のタイヤがうまく歩道に上がらなかったらしい。私の身体は車道から歩道へ放り出され転倒した。一瞬何が起こったのかも分からなかった。

 人声で私は数人の人たちに囲まれているのに気づいた。不思議にも身体の何処にも怪我はなく痛みも感じなかった。幸いメガネのフレームを少し破損し、レンズの端にひびが入っているだけで済んだ。自転車にも異常はなかった。
「大丈夫ですか」
 との声に送られ立ち上がって再び走り出した。


 その後、暫く国道1号線を走る。
 しかし自転車にとって走りにくい。愛好者が増えているのにサイクリング専用道路がなぜないのかという不満が沸く。

 小田原から先は伊豆半島を一周する135号線に入る。
 安全のため自動車用の真鶴道路を避けて旧道を進む。車は来ない代わりに道は狭い。最初の登りだ。道沿いはミカン畑だ。菜の花も美しい。高台に着くと眼下に青い海が広がり、その向こうに伊豆大島が横たわる。

 高台から駆け降りるときは楽しい。
 風を一杯浴びながら駆け降りる。快適で楽しいので思わず声をあげる。しかし登りの坂道はきつい。三段式の変速機つきの自転車でも、息が上がる。車で走るときはアクセルを少し踏み込むだけで済むのにと悔しく思う。


 行く先々の民宿での海鮮料理は道中の最大の楽しみにしていた。楽しさと苦しさを繰り返して真鶴に着き、広告看板を頼りに宿に電話した。
 部屋は空いているのに
「お一人ですか。お一人はお断りします」
 思ってもみない返事だ。

 どこも一人客は泊めてくれない。これは予期していなかった。どうにかビジネスホテルを見つけて部屋を確保した。この先でも同じだろうか。初日に計画が狂う。


 翌朝、大好きな伊豆半島を目の前にした。
 いよいよ今日は熱海を通って伊東へ向かうことになる。東海岸のドライブコースは何回も車で走っているのでよく知っている。懐かしくてワクワクした。

 ふと、前日の小田原から真鶴までのコースがきつかったことを思い出した。そしてこれから始まる熱海から伊東に向かう長い上り坂を思い浮かべた。その先の伊東から天城高原への長い登り坂も思い出した。稲取から先も同じだ。


 西海岸はなおさらだ。
 堂ヶ島辺りはまるで山登りのように険しい。思えば伊豆半島の道は上り下りだらけだ。そして最後に横浜へ戻るためには半島の背骨にあたる山並みを横切って越えて来なければならない。いろいろなシーンが次々と頭の中をよぎる。


 湯河原に着くと、伊豆の山々が一層高く聳えて見えた。
 何だか無謀なことに挑んでいるのに気付き、たじろいでしまった。誤算だった。相手は大きすぎる。少年の夢のような計画は、伊豆半島の入り口で諦めた。準備不足を悔やんだ。


 季節外れの台風が発生したという。天気も崩れる予報が出た。前日の転倒の痛みも感じる。未練を残し、強まり始めた南風に背中を押されながら帰途に就いた。

            イラスト:Googleイラスト・フリーより

汁かけごはん 金田 絢子

 昭和44年6月30日の日記には、
「おとといパパが、金曜日の、多分お酒が原因で具合を悪くし、無理して出かけた銀行からはやく戻り、土曜日は夕刻まで大騒ぎだった」
 ではじまる。

 近くのY先生に来ていただき、注射をしたり、くすりを出してもらったことはなんとなく覚えている。
どうやら快復した夫は、月曜日、パンがゆを食べて出勤したらしいが、次に記してある当時8歳の長女と夫の会話は記憶にない。

「子供でもないのにあんなもの食べてるよ。おつゆをかけて食べちゃいけないというくせに、パパだってそうやって食べてるじゃないの」
「かけてるんじゃないよ。牛乳の中にパンを入れたんだ」
「私だってそういうふうにすることあるよ、おつゆの中にごはんを入れて食べることあるんだから」

 遡って41年4月11日の日記にも、これに似た会話の場面が記されている。いずれも、もともとお味噌汁をご飯にかけて食べるのを、夫が快く思わないのに依っている。
 夫に言わせれば、お行儀が悪いという訳である。私は、お味噌汁をかけて食べるのを、咎められずに育ったので、娘がそうやって食べても奇異には感じなかった。

 この話を最近になって美容院で、若い女性美容師にしたら、
「お味噌汁をごはんにかけて食べるとホントにおいしいんですよね」
 いかにも感に耐えないといった風に言ったので私は嬉しくなった。

 常々、私は朝食に昨夜の残りごはんをあたためて、納豆をかけて食べる。
 夫が亡くなってから、夜お味噌汁を作ったりするとつい二人前になる。朝、なべにのこったのをあたためなおし“あ、やっぱりかけよう”と妙に張り切ってしまう。


 辞書でみると、

①汁かけ飯―味噌汁などをかけた飯。
②ごはんの上に具をのせ、だし汁をかけたもの。とある。

②の方がお行儀のよい感じがする。

 夫は、食事の作法が特別よかったわけではない。
 姑が「絢子さんと結婚するんだったら、結婚前に今少し、食べ方をしつけるんだった(姑は私をいいところのお嬢さんと思いこんでいた)」と言ったのを覚えているが、私がお味噌汁をかけるのが好きだなんて知らなかっただろう、と思うとおかしくなる。

 見合いにしても恋愛結婚にしても、相手の生活習慣など、共に暮らして初めて知ることばかりである。
 私は、結婚したてのころ、残りごはんをおじやにしたことがあった。

 二、三日何気なくつづけていたら、夫は「いい加減にしてくれ」と腹を立てた。
 まだ電子レンジが出はじめのころで、自宅のアパートにはなかった。暖めるかわりに、おいしいおじやにしたのに機嫌を悪くされてびっくりした。

 夫婦は、相手のやり方、思考に戸惑ったり、共感したりしながら絆を深めていく。いつも夫は、私の意志を尊重してくれたものだった。

 これからもつい、お味噌汁は二人前できてしまうだろうが、“汁かけごはん好き“としては、なんら問題のないところである。

火 桑田 冨三子

 今年の暮れは寒かった。
 毎年のこととして暮からお正月にかけて家族は総出で播州・竜野の田舎にある今は誰も住んでいない実家に戻る。

 そして9個も並ぶ墓石の掃除をし、先祖にお参りすることになっている。しかし今年は子どもの受験があるとかで、私は息子の左近と久しぶりに、たったふたりだけで行くことになった。

 裏庭には、夏に切った木や枝が大量に積んである。これがすっかり乾いているから焚火にはもってこいである。他にもまだある。落ち葉が深々とたまっている。家の大掃除などひと仕事が終わると、左近が焚火をはじめる。


 私は夕食の用意だけして寒い外に出てゆく。陽が沈んだあとでも光がのこる空は未だあかるい。風邪はつめたいが、そんなに強くない。

 星が白く光りだす頃になると、焚火の日は、ぼうぼうと燃え盛る。パチパチと火の粉が飛び跳ねる。枯れた竹の節が割れてバンッと大きな音を立てる。見ているだけで心が踊る。これはなぜだか判らないが、結構、焚火を楽しむ人はおおいらしい。

 人間の半分は焚火を好み、あと半分は焚火には関心がない、と何かでよんだことがある。
 ただ火を見ているだけで、何もしゃべらない。時々火ばさみで燃え尽きないで落ちてくる枝を、ふたたび炎の上に戻すだけだ。


 左近は、蓑(み)(穀・塵などを分けて除く農具)いっぱいに落ち葉を抱えて来て投げ入れる。小さくなっていた火がふたたび盛大に燃えあがり勢いを取り戻す。
 それの繰り返しだ。
 やがて焚火は終わりに近づく。もう新たに燃やすものは持ってこない。燃え尽きるのを見守るだけだ。もはや炎はない。ただ真赤に輝く燠(おき)の世界である。

 火ばさみで炭を掻きだし穴をあけてのぞき込む。そこがまた想像力を掻き立てる。まるで宮殿の様だ。豪華な赤い柱に支えられた広間には、チロチロと青い炎が立っている。
 見ていて飽きることがない。それは、夜、飛行機の窓から見える到着地の街の光が、宝石箱をひっくり返したように見える、あの煌びやかな光と同じだ。


 想像はさらにあらたな想像を呼ぶ。人家の少ない田舎の空は星がよく見える。そこで私は古い、ある情景を思い出す。
 燃え尽きる焚き火の終焉を見るたびにその情景がありありと心に浮かびあがってくる。

 ケープタウンでIBBYの大会が終わり、ヨハネスブルグから840キロを一気にフランクフルトへ飛んだ時のことである。

 満天の星の中を黒い巨大な怪鳥の様に飛行機は飛び続けていた。拡げた長い翼の先には、まるで秘密の合図かのような赤い光が時を置いて点滅していた。
 機内の灯は全部消されていた。乗客はみな眠りこんでいる。窓という窓はみな閉じられて、私以外に窓から外を見ている人はいない。

 私は奇妙な遊びを思いついた。
 この飛行機の機体がすっかり消えたことにするのだ。この窓も、壁も、前の椅子も乗客も全部見えない。周りのすべてを消してみると、私はなんと一人で空を飛んでいるではないか。まるでそれは、魔法のランプをこすり絨毯に乗って空を飛んでいるアラジンであった。竜野の空には満天の星がきらめいていた。

 ふと我に立ち返って、自分の今の姿を見出だす。高い白壁の塀に囲まれた、だだっぴろい枯草の庭の中で消えていく焚火の残りの前に、しゃがみこんで、ジイッと火を見つめている私、これは一体何なのだろう。

 テンポの速すぎる都会生活への抵抗か、それともストレス解消か、いやいや、何のことはない、ゆっくりと流れていたあの昔の日々へのノスタルジアにちがいない。

 
              イラスト:Googleイラスト・フリーより

家具との出会い  石川 通敬

 これまで私は、次々に幅広く多様なものに首を突っ込んできた。よく言えば、意欲満々、何事にも前向きに取り組む人間と言える。しかも一度始めたら一生追及をやめない。
 その結果やることが増え、すべてが中途半端になる。これが欠点だ。そんな雑多な趣味の一つが家具である。その背景には、家具にかかわる出会いがいろいろあったからだ。



 はじまりは、研修生として旅行中に耳にした言葉だ。ドイツで出会った日本人駐在員が、
「ドイツの若者は堅実で 家庭を築くスタートラインが家具を整えることと考え、お金をためて一生ものをコツコツそろえるのだよ」と話してくれたのだ。
「そうだ。その通りだ」と。

 当時、私はまだ結婚していなかったが、この言葉が頭にこびりついた。 
 次に刺激となったのが、ニューヨークで買った世界の家具という本だ。1950~70年代アメリカの黄金時代が花開いたときだ。彼らは世界中に進出し、自国の製品と文化を輸出した。
 その一方で、世界各国の文化、文物に関心をもった時代だった。それはニューヨークの書店にも及んでいた。世界各国の料理とか、金貨の歴史などが、所狭しと並んでいた。その中で私は世界の家具という本を見つけたのだ。読んでみて驚いた。なんと日本には家具の伝統がないと紹介されていたのだ。確かに京都御所を見ても家具らしきものはない。

 そんな時期に、トロントで市内観光バスに乗る機会があった。そのとき車窓から目の当たりにしたのが、うっとりとするほど美しい高級住宅街だった。初めて見るカナダの豊かさに驚いた。
 その衝撃で赴任地ニューヨークに帰ってからは、日本に帰国するまで、一般公開されている歴史的豪邸を、訪ねるのが趣味になった。そこでアメリカの伝統的インテリアと家具に魅了されたのだ。

 もう一つ重要な出会いが、ニューヨーク、ロンドンのデパートの売り場だった。お屋敷を想定したモデルルームが店内にいくつも設営され、あふれるほど沢山の高級家具が配置されていた。素晴らしい展示だった。


 こんな出会いに刺激を受け、是非買いたいと思うものが増えていった。しかしサラリーマンの給料は知れており、貯金もない。また日本に帰った時のことを想像すると、欧米水準のスペースがないのが実情で夢を追えないのは明白だ。

 そんな制約の中で、自分好みの家具を二十数年かけてアメリカ、ヨーロッパの各地で買い集めた。また親が遺した茶箪笥等をその中に加えてもみた。そして新しいものが入るたびに、家内と相談し、部屋の模様替えをするのが年中行事となっていた。これがとても楽しかったのだ。

 最後の模様替えが終わってからかれこれ三十年になるが、今何が気に入っているのか、ダイニングルームの例をご披露すると次のようなものだ。

 この部屋は八畳ほどの狭いものだ。その真ん中にマホガニー材の楕円形で、支柱が一本のテーブルと四脚の椅子がある。このセットは当時多くのロンドン駐在員が、駐在記念に買い日本に持ち帰ったものの一つだ。我が家ではそれを囲むように、三方の壁沿いに英米で買ったものや、家内の母からもらった和家具類がぎっしり並べてある。

 その中で一番大切に思っているのが、四十数年前ニューヨークのアパートで仲良くなったある会社の駐在員が譲って下さった本棚だ。その人は、
「石川さん、アメリカの中古市場には素晴らしいものがゴロゴロしているのを知っていますか」という。
「これは二、三十年前のものですが、合板ではなく、無垢のマホガニー材で作られたものです。新品は我々の給料ではとても高くて買えない価値のあるものです。日本に持ち帰りたいのですが、会社の引っ越し経費規定を超えるのであきらめました。よければ石川さんに差し上げます」と言われてもらったのだ。

 幸いなことに、私の会社は持ち帰りを認めてくれた結果、我が家の家具の中心ができたのだ。
 非常に不思議な事実にある時気づいた。ロンドンで買った安物もののグラスケース、小ぶりの本箱等が、日本の茶箪笥等と幅・高さがぴったり同じで、うまく調和して収まっているのだ。世界に共通する生活の知恵があるのだろうか。

 リビングルームにもいろいろ思い出のものがある。
 一例を挙げると、ニューヨークのユダヤ人街で買った「クラシック家具百科事典」にも載っている椅子二脚だ。これらは木部の骨組みだけで、格安の値段で売られていたので買ったのだ。その後これをヨーロッパで革張りに完成させ、以後我が家の応接家具として活躍している。二百年前のものを、生き返らせたと思うとうれしい。


 こうして家具との出会いを振り返る時、一番感謝しているのは、妻が私の道楽に反対せず、前向きに協力してきてくれたことだ。定年退職もはるか昔になった今、お気に入りの家具類に囲まれて住めているのもこんな趣味があったからだと喜んでいる。
 一つ気がかりなのは、われわれの死後子供たちが、何を継承する気になり、使ってくれるかだ。

                          イラスト:Googleイラスト・フリーより

【寄稿・エッセイ】 世界一の美男子 = 桑田 冨三子

 鮮やかで目の覚めるような青の民族衣装で「青の民族」とよばれるトウアレグ族の男は、世界一のイケメン、いや、美男子である。

 聞き捨てならぬこの噂は、長い間、私の耳を離れなかった。ちなみに世界一の美女がそろっているのはヒンバ族だそうである。いづれもアフリカ産の人間たちだ。
 これは、パリコレなど、ファッション・モデルの体躯をみると理解できる。ツンとうえを向いた胸やおしり、そして腰から下がうらやましいほど長い。筋肉の格好よさはすばらしい。


 窓の向こうの桜の葉が、半分黄色になった。カーテンのレース越しに入る陽ざしは、やけに低くなっている。もはや秋は終わったようだ。
 電話が鳴った。
 電話の主は、久し振りの学習院・資料室の富田さんだ。パリにいる私の親しい友・令子さんのお嬢さんがいま日本に来て、私に聞きたい事があるそうだ。広尾の地下鉄駅に近いカフェ「ジュボウ」で会った。令子さんの夫はフランス人である。

 その昔、彼女がシベリア鉄道でフランスへ行ったとき列車の中で知り合って結婚したと聞いている。お嬢さんは、アリサと名乗った。切れ長でパッチリとした黒い眼は確かに母親ゆずりだが、母親よリはるかに大きく、それは往年の雑誌「ひまわり」の表紙絵を彷彿とさせた。黒髪をキリリと後ろに結び、スラリとした肢体にベージュの上着と広すぎないフレアスカートが素敵だった。


 彼女が差出したのはフランスの新聞「ル・フィガロ」の企画委任状だった。それには、譲位をされる天皇・皇后のお気持ちを取材したい、と書かれていた。
 宮内庁には取材申し込みをしているが難しいだろうから、美智子さまのことで何かふさわしいエピソードを聞かせてほしいとのことだった。参考になる写真や本などは家にあるので、場所を自宅へ移した。

 そのとき語った彼女自身の経歴を聞いて私は驚愕した。
「私はトウアレグ族の人と結婚していました、一時的・・・でしたけど。」
 そこで彼女は私に一枚の映画のチラシを見せた。
「フランス・アフリカ・日本を舞台に活躍するジャーナリストのデコート豊崎アリサの初監督作品」と書いてある。
 この洒落たパリジェンヌのお嬢さんはなんと、ジャーナリストであり映画監督だったのである。わたしは早速しらべてみた。


 トウアレグ族はベルベル人系の遊牧民で、アフリカ大陸サハラ砂漠の西部に住んでいる。インディンゴ・ブルーのマント風の衣装とターバン姿の男性は、身長180cmをかるく超える均整の取れた体躯、高い鼻梁、くっきりとした眉と濃い青や黒い瞳、大きく引き締まった口元で、女性は圧倒され見惚れてしまうと書いてあった。

 イスラム教徒だが、一般的なイスラム教徒とはことなり、男性が全身を顔まで衣装で覆っている。女性は非常に自由で、へジャブやベールもなく肌を露出してもよいし、女系社会であり、男性は好戦的で戦闘に強く、そのうえ子育てをする女性にはとてもやさしいという。
 身分制度があってこの青衣の男は貴族であり、奴隷のような階級もあるらしい。


 今でこそ、アフリカ大陸は黒人の国というイメージだが、もともとは北アフリカを中心に白人系であるベルベル族が暮らしていた。
 トウアレグ族はこのベルベル人の血をひく古い部族だと考えられている。彼等には村や隊商を襲撃して物品を奪う以外に、黒人たちを攫って奴隷にしてきたという長い過去があるが、混血化がすすんだため、今では金髪碧眼のトウアレグ族はいなくなったという。

 遊牧民だっトウアレグ族は定住先を持たずに生きていた。しかし多くのアフリカ大陸の国々が彼らを定住化させる政策をとり懐柔しようとしたので、一部のトウアレグ族は反発し、何度も反乱や独立戦争を行ってきた。

 2012年にはトウアレグの国「アサワド」として独立宣言を出したが、国として機能するには至らず、国際的には民止められてはいない。そんなところへアリサは行ったのだ。

 映画のパンフレットによると、ニジェール北部アイール山脈のトウアレグ族のキャンプ地では、塩キャラバンの一隊がテレネ砂漠を横切りビルマ・オアシスを目指し、ナイジェリアのカノに戻るという長旅が準備されていた。
 アリサはこのサハラ砂漠の果てからブラックアフリカの入口までの三角点を巡る現代版キャラバン隊の商いに同行した。

 彼女はラクダに跨り、ソーラーエネルギーを利用して3000㎞に及ぶ距離を撮影した。そして、実際に体験して得たキャラバンの経済的効果、その社会的役割、トラックでなくラクダによる物資の運送の長所など映画として広く世界に伝えた。

 出来上がったこの映画を日本では、墨田区にある「たばこと塩の博物館」で今年の6月に公開されたという。知っていれば見に行きたかった。

 美智子さまの84歳誕生日のコメントが出ていた。これはアリサに教えようと電話をした。長い呼び鈴の後、返答はあった。声がとてつもなく小さい。
「いま飛行機の中に座っています。」
「エ?どこへ飛んでるの。」
「パリです。」
 退屈だった今年の秋の終わりに起きた珍事である。  
 

              写真・引用 = トゥアレグウィキペディア(Wikipedia)

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