やり方を替えてみる 吉田 年男
往きと帰りで道の反対側を歩いてみる。散歩中によく経験することであるが、道路は同じなのに、周りの景色が変わって新鮮に見えてくる。
些細なことだが、歯磨きひとつでも、歯ブラシは右手で持つものと決めていたものを、あえて左手の持ち替えてみる。
そうすると、動作は多少ぎこちなくなるが、歯に当たるブラシの角度が微妙にかわって、今までにない感覚が味わえて楽しくなる。
それだけではない。洗面台に向かって立っている立ち位置まで、手の動きの変化に連動して替えてみたくなったりする。そして両足に架かる体重移動まで気になってくる。
習慣として、なにげなく繰り返し行っている日常の所作は、大切にしたいことだが、たまには変化を楽しむ観点から、動作や、やり方をかえてみるのも面白いのではないかと思った。
身近なもので試すものはないかものか?
無意識のまま、毎日くりかえしている公園での体操が頭に浮かんだ。そうだマンネリ化を解消するためにも、体操でためしてみよう。
私の体操は定型的なラジオ体操とはちがう。プログラムが多少複雑なので、面白いことになりそうな予感がしてきた。時間の流れなどに全く違った感覚が生まれるかもしれない。
プログラムは自分流で、手足の屈伸などのほかに、顔面のマッサージや、でんぐり返し、スクワット、簡単な腹筋、それに呼吸法などを取り混ぜている。
全行程を終えるのに一時間はかかる。現役のころからやっている体操なので、大凡30年はつづいている。
その間に新しい動作のいくつか加わったにしても、体操の中身はほぼ同じ動作の繰り返しで、よく飽きずに続けてきていると自分でも思っている。
楽しみは、そのプログラムの順番を故意に入れ替えてみたときの身体の反応だ。日常味わっている気分と違った新鮮な何かを期待できそうだ。
何年か前に、体操をする場所を替えてみたことがあった。あずまや近くの広場、雑木林の中、公園北側の小さなスペースなど、何か所かに体操場を決めて実施をした。
マンネリ化を防ぐためにやってみたのだが、大いに気分が変わり、各動作にもメリハリがつき、そして何よりも、季節の変化をより敏感に感じられるようになり、気分転換の手ごたえを十分に感じたことを覚えている。
いつもは手足の屈伸から入っているが、それをあとまわしにして、いきなり深呼吸をしてから入る呼吸法から始めてみた。
「それは違うよ」と身体が反発しているようで落ち着かない。そして心の動揺からか? 動きが全体に影響して急にぎこちなくなった。
身体は習慣としてしっかりプログラムをおぼえていて、そう簡単には順番の替えを受け入れてくれない。そのことは判っているので、めげずに根気よく続けてみた。
一か月をすぎたころから様子がわかってきた。それは、個々の動作に活気がうまれた感じで、明らかに身体は軽い。動きがスムーズになった。
場所を替えてみたときの、あの感覚とはまた違う。いままでに感じたことのない新しいものあった。より意識も明瞭になっているのかもしれない。
やり方を替えてみるこころみは、立ち位置、場所を替えることと同様に、自分流のマンネリ化を回避する手段として明らかに効果を感じた。
普段の何気ない日常生活において、変化を楽しむ観点からもほかの所作にも広く応用ができそうにおもった。