元気100教室 エッセイ・オピニオン

やり方を替えてみる 吉田 年男

 往きと帰りで道の反対側を歩いてみる。散歩中によく経験することであるが、道路は同じなのに、周りの景色が変わって新鮮に見えてくる。


 些細なことだが、歯磨きひとつでも、歯ブラシは右手で持つものと決めていたものを、あえて左手の持ち替えてみる。
 そうすると、動作は多少ぎこちなくなるが、歯に当たるブラシの角度が微妙にかわって、今までにない感覚が味わえて楽しくなる。

 それだけではない。洗面台に向かって立っている立ち位置まで、手の動きの変化に連動して替えてみたくなったりする。そして両足に架かる体重移動まで気になってくる。


 習慣として、なにげなく繰り返し行っている日常の所作は、大切にしたいことだが、たまには変化を楽しむ観点から、動作や、やり方をかえてみるのも面白いのではないかと思った。
身近なもので試すものはないかものか?


 無意識のまま、毎日くりかえしている公園での体操が頭に浮かんだ。そうだマンネリ化を解消するためにも、体操でためしてみよう。

 私の体操は定型的なラジオ体操とはちがう。プログラムが多少複雑なので、面白いことになりそうな予感がしてきた。時間の流れなどに全く違った感覚が生まれるかもしれない。

 プログラムは自分流で、手足の屈伸などのほかに、顔面のマッサージや、でんぐり返し、スクワット、簡単な腹筋、それに呼吸法などを取り混ぜている。 

 全行程を終えるのに一時間はかかる。現役のころからやっている体操なので、大凡30年はつづいている。
 その間に新しい動作のいくつか加わったにしても、体操の中身はほぼ同じ動作の繰り返しで、よく飽きずに続けてきていると自分でも思っている。

 楽しみは、そのプログラムの順番を故意に入れ替えてみたときの身体の反応だ。日常味わっている気分と違った新鮮な何かを期待できそうだ。

 何年か前に、体操をする場所を替えてみたことがあった。あずまや近くの広場、雑木林の中、公園北側の小さなスペースなど、何か所かに体操場を決めて実施をした。


 マンネリ化を防ぐためにやってみたのだが、大いに気分が変わり、各動作にもメリハリがつき、そして何よりも、季節の変化をより敏感に感じられるようになり、気分転換の手ごたえを十分に感じたことを覚えている。

 いつもは手足の屈伸から入っているが、それをあとまわしにして、いきなり深呼吸をしてから入る呼吸法から始めてみた。

「それは違うよ」と身体が反発しているようで落ち着かない。そして心の動揺からか? 動きが全体に影響して急にぎこちなくなった。

 身体は習慣としてしっかりプログラムをおぼえていて、そう簡単には順番の替えを受け入れてくれない。そのことは判っているので、めげずに根気よく続けてみた。

 一か月をすぎたころから様子がわかってきた。それは、個々の動作に活気がうまれた感じで、明らかに身体は軽い。動きがスムーズになった。
 場所を替えてみたときの、あの感覚とはまた違う。いままでに感じたことのない新しいものあった。より意識も明瞭になっているのかもしれない。

 やり方を替えてみるこころみは、立ち位置、場所を替えることと同様に、自分流のマンネリ化を回避する手段として明らかに効果を感じた。
 普段の何気ない日常生活において、変化を楽しむ観点からもほかの所作にも広く応用ができそうにおもった。

大活字本  青山 貴文

 我家は熊谷の西北寄りに所在し、深谷図書館の方が、熊谷図書館より近い。十数年前、深谷図書館の閲覧室で、大活字本の蔵書を3000冊くらい揃えたコーナーを見つけた。その陳列された書籍は、有名作家の司馬遼太郞などの時代物や夏目漱石などの近代の作品群であった。そのころは、ひと気の少ないコーナーで、私も興味がなく寄り付くこともなかった。


 ところが、このごろ視力が落ちてきたのか、従来のメガネでは通常の文字が楽に読めない。特に、画数の多い複雑な文字などが出てくると、どうしても普通の姿勢で読めない。背を丸め、あごを突き出して本に近づくか、あるいは、本を手に持って目前に紙面を持って来なくては読めなくなった。


 若いころは、紙面から4~50センチ離れた本を、背筋を伸ばし胸を張って姿勢を正して読んだ。さながら、古い書物に出てくる寺子屋の子供たちが、本を立てて、姿勢を正して読んだ姿に似ていた。

 そんなことなら、眼鏡店で検眼してメガネを新調すべきだと思うがどうも面倒くさい。なんと言っても、新たにお金がかかることは億劫になる。今かけているメガネでも、新聞は読めるし、運転もできる。日常生活には支障はない。だが、読書となると、新たにメガネを作るべきか否か逡巡する。

 一方、好きな日本酒を買うために、酒専門店には気軽に立ち寄れる。高価な旨い大吟醸酒を数本買えば、メガネ代くらい何でもないのだが、眼鏡店には足が向かない。


 要するに、どちらに優先して金を使うかと言う問題になる。メガネを買い変えて姿勢を正して読書するか、あるいは、美味い酒を愛飲して生活に潤いを与えるかだ。
 そう考えると、残り少ない人生、後者の方が大切のような気がする。酒が無性に好きだった亡き父にだんだん似てきている自分がいる。

 さらに、当用漢字ではない画数の多い知らない漢字に接することが多くなってきた。その漢字の読み方や正確な字体をはっきりしようと辞書で調べる。なかなか目的の漢字が探りあてない。やっと目当ての漢字にたどり着いても、メガネの度数が合っていないのか、虫眼鏡を使っても良くわからない。


 その解読方法として、簡便な方法を見つけた。スマホにインストールした「漢字辞典」の手書き個所に、正確に知りたい漢字を人差し指で大きく書く。細部のはっきり分からない所は、いい加減に似せて書く。
 すると難しい画数の多い漢字でも、簡単に見つかる。そして、その漢字の正しい書き順、音・訓の読み方、意味、さらにその漢字を用いた述語の例まで、大きな字体で示してくれる。これはすごい。メガネを新しくする必要などさらさらなくなった。


 雨天や体調がかんばしくなく、終日書斎で過ごす時がある。そういう日は、テレビの大相撲やサッカーなどを観ながら、合間に池波庄太郎の「剣客商売」などの軽い内容の時代小説を読む。机に真正面に向かわずに、半身に構えて椅子に座る。

 ひどい時は、両足を机上の片隅に置いて背筋を伸ばして椅子にふんぞり返って観たり、読んだりする。

 これは、昔ミシガン州のエドモア工場事務所で体験した仕草だ。安全靴を履いた同僚のボブ・ハンドリーが、昼休みなどに長い足を机に置いて、新聞や雑誌を読んでいた。
 彼は、技術者でありかつポリスマンだ。米国では、人徳のあるひとでないとポリスにはなれないらしい。

 私も書斎でリラックスするときは、彼を真似て短い足だが、両足を机の上に置いて、本を読んだりテレビを観たりする。疲れて窓辺に目をそらすと、一羽の雀が電線に止まってこちらを見ている。

 そんな時、字体の小さな本を手で持って顔に近づけたり、辞書などいちいち引いてはいられない。深谷図書館で借りた大活字本を利用する。

 この本は、従来の普通書籍の字体の2倍の大きさで、行間も2倍くらい広い。80センチくらい離れても楽に読める。テレビ方向に本立てを置き、この大活字本とテレビを、目玉を少し動かすだけで見られるようにする。

 加えて、この大活字本は読み易く親しみやすい。敬遠しがちな小難しい内容の書物、例えば市川浩著「哲学とは」などの書もあまり抵抗なく読める。

 どうも、大活字本が似合う歳になって来たようだ。

スカイバス  石川通敬

 私がスカイバスを知ったのは運行が開始された2005年のことだった。

 このバスは日本初の二階建て観光バスである。中央郵便局横、丸ビルのとなりから出発し、所要時間45分で皇居、銀座、丸の内を見るコースが設定されている。その特徴はロンドンの二階バスに似た赤い色だが、違う点は二階席に天井がなくオープンなところである。



 知るきっかけとなったのは、当時2、3講座をもっていたK女子大学のT学部長からある日突然、依頼された要請にある。

「石川さん、近年大石晃一著『大阪学』が先駆けとなり、都市別学がブームになっているのをご存知ですか。本校でもこれにあやかり、『東京学』を特別講座として開設したいと思うのですが、協力していただけませんか」
 との打診だ。

 彼の発想の原点の一つは、定年間近な教育者の優しい親心にあったと思う。
 もう一つは、彼が東京大学の出身だったからではないかと推測した。私も感銘を受けた夏目漱石の三四郎の影響ではないか。
 田舎から出てきた三四郎が、東大前の市電の雑踏、古い江戸が取り壊され急ピッチで日々建設されていく東京の街の活気とダイナミックな変化に驚嘆する様の描写が、同氏の脳裏に残っていたのではないだろうか。稲城の学生達に進化を続ける東京を見せたいと思ったに違いないと私は勝手に想像している。


「本校は東京の大学ですが、郊外地稲城にあり、学生はこの辺りに下宿し、残り時間をこの近辺でアルバイトをしています。歴史ある東京を知らないまま卒業するのです。気の毒な子供達です」と。

 同氏が提案した特別講座は、東京・江戸についての講義と東京都庁、浅草をはじめとする伝統的江戸情緒の街、銀座・丸の内に代表される首都東京の顔を見学する会の設定であった。
 これを数人の教師が、ボランティアとして役割を分担した。私の担当は「東京学(その一)首都東京、(その二)銀座文化諭」であった。面白い発想と思ったのが担当分けの理由だ。

「あなたは慶應義塾を卒業し、丸の内で働いていたのでそのキャリアーをベースに講義をし、現地を案内してください」と。
 同大学で正規に受け持っていた講座は、経済学と海外生活論で6年間教えた。経済学をわかり易く教え、公務員試験に合格する水準に教育することは至難であったが、海外生活論は、大人気化し、教える自分も勉強出来て楽しかった。 

 こんな中依頼された東京学の講義と見学会は3年間と短期の体験であったが、忘れがたい思い出が数々残った。その一つがスカイバスだったのだ。バス代金が1人1200円で、大学の予算では負担できない、学生もお金を払ってまで参加しないはずだとの状況判断があった。
 そこでこの窮状解決のため私は一肌脱ぐことにした。授業に先立ちビデオカメラをもって同バスに乗車、ガイドの案内と風景を撮影して、見学会前の教室で学生に見せたのである。

 もう一つは、この機会に得られた新しい知識だ。銀座の歴史と担ってきた役割。日比谷を作った日本の公園の巨匠本田静六。銀座、丸の内に残る歴史的建造物群等改めて認識したことは枚挙にいとまがない。

 特に忘れがたい楽しい思い出が、30数人の若い女子学生を引率して歩いた銀座、新橋、日比谷丸の内の体験である。


 本稿を書くにあたり、書棚にあった「首都東京」と「銀座文化論」という二つのファイルをしばらくぶりに開いてみた。
 第一の感想は、何事も時間をかけ、本気で勉強し、発表することがいかに大切かという点だ。授業からすでに十数年経っているが、東京、銀座に話が及ぶとき、その時の努力がいかに今の知的生活の助けになっているかを改めて悟った次第だ。

 第二が、この時始めた勉強を、全く継続して来なかったことに気が付いたのだ。なにごともその場限り、喉元を過ぎるとすっかり忘れるという自分の欠点の典型事例だったので情けなく思った。

 最後は、スカイバスの後日談だ。私はスカイバスが好きで、機会があればいつも乗ってみたいと思っている。その理由は東京の街を見るのが好きだからだ。毎年乗っても新たな発見があり見飽きない。

 そんな思いがかなったのがK女子大の後、群馬のG女子大で教える機会ができたときだった。T学部長のことを思い出し、毎年ゼミの学生を東京ツアーに招待することにしたのだ。日本橋にある貨幣博物館、スカイバス、外国人記者クラブでのドリンクのセットコースを提供した。愛する東京と教え子のため奉仕できたと今も喜んでいる。

 残っていた機会も同大学の退職を機に終了した。今は孫との観光だけになったが、これもいずれ終了する。
 東京に元気をもらうため、一人になっても定期的に同バスには乗るつもりだ。


              イラスト:Googleいらすと写真・フリーより

うた日記の思い出 武智 康子

 私は、先週妹の招きで13年ぶりに鎌倉に出向いた。

 駅前は、コンコースにビルが立ち並び、一見、都会の駅前と変わらぬが、一歩住宅街に入ると細い道の両側には、蔦の絡まる塀の家など戸建ての家並みが続き、昔ながらの風景が見られて懐かしかった。

 私と妹は、まず鎌倉山の中腹にある鎌倉文学館に向かった。文学館の建物は、旧前田侯爵の別邸である。緑に囲まれた坂道を登りきると、木造の洋館造りの文学館に着いた。

 ここには、川端康成をはじめ里見弴など、鎌倉を愛した多くの文豪たちの作品や自筆の原稿などが展示されている。
 原稿を見ていて、気づいたことが二つある。

 一つは、川端康成をはじめ文豪たちは、意外に女性的な柔らかな字を書く人が多い。それだけ心が繊細で柔軟であったのだろうか。
 川端の「雪国」や「伊豆の踊り子」にも、それが表れているように感じる。
 もう一つは、原稿用紙が基本は同じであるが、時代によって少しずつ違っているのに気付いた。面白い発見だった。

 そして、四つ目の部屋に入ったとき、私は、高浜虚子の句集を見つけた。その句集をパラパラと見ていて、ふと、私の頭の中に子供時代のことが、浮かんだ。

 それは、私が小学校4年生か5年生のころだった。私より一回り年上の従姉の家に行ったとき、従姉の部屋で高浜虚子の句集と与謝野晶子の歌集をみたのである。

 すべてが「五、七」調の軽快なリズムにのった表現の俳句や短歌だったのだ。私は、内容はよくわからないが、初めて出会ったこの軽快なリズムに、子供心に魅了されたのだった。
 わずか10歳足らずの私には、俳句に季語があることも、三十一文字が和歌であることも知らなかったのだが、ただ、そのリズムに興味をもったのだった。

 当時、日記を書くことを宿題として出されていた私は、その日の出来事を一つ取り上げて「五、七」調の俳句や短歌の形で表現して、「うた日記」として先生に提出したのである。

 先生もびっくりなさったようだったが、俳句には、季語があることを教えてくださった。だが、返却されたノートには、次の一句(実は短歌にも一つ)に三重丸が付けられ、「優」と書かれていた。その句は


「 かんなくず 積んで帰るや 夕暮れの道 」


 まだ、戦後間もないころで、疎開先の小学校に通っていた時である。
 疎開先の吉井町には、材木問屋が多くあり、製材所が町はずれに何軒もあった。七輪やかまどの火を起こすのに「かんなくず」はとても役に立ったのだ。私は、その日も学校から帰ると、大きな豆米袋を持って町はずれの製材所に大人の自転車を横乗りして、お使いに行ったのだ。

 その様子を「五、七、五」に詠んだのだった。

 四人兄弟姉妹の二番目で長女である私は、妹や弟の子守りはもちろん母の手伝いをするのは、当たり前の時代だった。先生は、季語がなくとも日記としてとらえ、私の母へのお手伝いをほめてくださったのだろうか。

 私は、初めて作った句に「優」をつけてくださったので、余程嬉しかったのか家族に自慢をしたことを覚えている。それ以来、何かにつけ家族の語り草になっていったのだった。

 文学館で四つの部屋を見終わると、テラスでお茶を飲みながら休憩をした。その時、この句のことを妹に話すと、現場を知る由もないはずの妹でさえ、この句をうっすらとだが、覚えてくれていたのには驚いた。

 大げさだが、この私のたわいもない句は、家族の絆を作っていったのだろうか、とさえ感じた。
 私と妹は、しばらくの間、外の景色に浸った。

 文学館のテラスから見下ろす森と、その向こうに見える相模湾の海が夕日に輝いていて、とても美しかった。

 いつも高層ビルばかり見ている私には、この静けさと緑に包まれた鎌倉に、昔も今も文豪たちが集まる気持ちがわかるような気がした。
 それから間もなく、私たちは夕日を背に鎌倉山を下った。

            Google写真・フリーより

【寄稿・エッセイ】 うがいと手洗い  筒井 隆一

 池袋の居酒屋、「土風炉」を、仲間7人で利用した時のことだ。

「お客様、カウンターにあるアルコール液で、手を消毒していただかないと、お店に入れません」

 店のお姉さんに、甲高い声で注意された。この店には、今まで何度も来ている。アルコール消毒液のボトルは見かけたが、消毒しなければ店に入れない、と言われたのは初めてである。


 中国武漢で発生した、新型コロナウイルスが猛威を振るい始めてから、手洗い、うがい、マスク着用が、やかましく言われるようになった。
 インフルエンザ予防に対する意識が、今までになく高まっている。スーパーやドラッグストアでの、マスクの品不足、売り切れを見ても、それがよくわかる。

 我々が子供の頃、学校から家に戻ると、母親から
「外から帰ったら、忘れずにうがいと手洗いをするのよ」と言われたのを思い出すが、真面目にやった覚えはない。また、この年になっても理屈っぽさが直らず、うがいや手洗いが、ウイルス予防にどれだけ効果があるか分からないので、気合を入れてやる気がしない。

 先週、大手製薬会社の研究所長を長く務めた、小・中学時代の同級生と、飲んで語る機会があった。ウイルスについても詳しい男だ。

「お前さんのような、理屈っぽい人間に分かってもらうのは難しいな。確かにうがい、手洗いの効果を、定量的に示す研究成果は無いよ。また、うがいや手洗いをするのは、日本、韓国など東アジアのごく限られた地域に限られていて、世界のほとんどの国には、そんな習慣は無いんだ」

「どれも、やらないよりはよい、というものばかりじゃないか。俺のように理屈っぽい人間にも分かるような、ウイルス予防効果の定量的な説明が欲しいね。

 TVに、毎日入れ替わり立ち替わりで、ウイルスの専門家と称する、大学医学部の教授やら厚生労働省のOBが顔を出し、『予防はやる必要がある』と言う。


 ただ、うがいや手洗いを、どの時点でどれだけやれば、どれだけの効果がある、と明確に言い切る人はいない。『やらないよりはいい』という話で終わっている」

「マスクにしても、感染予防の実験室レベルの研究はされているが、一般的な環境でのインフルエンザ予防効果についての研究は、あまり進んでいないんだ」

「確かに公共交通機関内での注意、着脱の仕方、使い捨てか二度使いか、などマスクの具体的な使い方も、千差万別だからな」


 その道の専門家と直接話をして、ウイルスに関しては、まだまだ解明が進んでいないことを知った。
 高齢者の仲間入りをした我々、どこまで効果があるか分からないが、流行前のワクチン接種、外出後のうがいと手洗い、十分な休養、バランスの取れた栄養と水分の摂取などを積極的に心がけ、自衛するしかない、と悟った。

 また、インフルエンザは、これらの「他からの感染予防」と同時に、「自分が他に感染させない予防」が重要だと思う。周りの人に対するマナーを守る必要があるのだ。

 電車やバスの中で、マスクを着けずに、大きなくしゃみや咳をしているおじさんがいる。自分ではなく、その人自身に、マスクをつけてもらわねばならないが、強制するわけにもいかない。車内トラブルの原因になってしまう。
 一人ひとりが、インフルエンザ予防に心がけるしか、方法はないのだ。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

青い眼がほしい 金田 絢子

 2019年8月、黒人の女性作家トニ・モリスン(米国人)死去の報が、新聞に載った。

 彼女は、1979年「青い目がほしい」で文壇にデビューし、自分の子が奴隷になるのを逃れるため殺害する女性を描いた「ビラヴド」で88年ピュリツァー賞を、93年にはノーベル文学賞を受賞した。

 まず私は、デビュー作の「青い目がほしい」を読みたいと思った。

 書店に置いてなかったので、アマゾンから娘に取り寄せてもらった。題名に魂をゆさぶられ、黒人のみじめさ、黒人の少女ピコーラのかなしみに、単純にひき入れられると決めてかかっていた私は、正直まごついた。


 同書は、私がこれまで手にしたどの物語ともちがっていた。
 私は、つっかえ、つっかえ読んだ。二度目にやっと半分くらい理解した。モリスンさんは「ピコーラを憐んでしまう解決法は避けたかった」としている。

 急に、それまでとまるで関係のない場面が出てくるが、それらをていねいに読み解くと、モリスンさんの言いたいことが見えてくる。


 例えば、チョリーーピコーラの父ーの生い立ちが語られるが、チョリーは生まれてすぐに母親に捨てられ、親から何も教えてもらえずに育った。
 黒人故に貧しく、それは代々続く屈辱的なものである。

 チョリーがたえず酔っぱらっていることは、妻のプリードラヴにとって自分たちの人生を何とか耐え得る材料になる。チョリーにとっても妻は、実際手で触れ、傷つけることのできる数少ないものの一つなのだ。

 妻の上に、はっきり言葉にできない怒りや、挫折した欲望のありったけをぶちまけ、暗い野獣のような形式にしたがって、お互いに傷つけ合う。二人とも口には出さなかったが、殺し合いはしないという了解が成り立っていた。

 ピコーラは思う。この眼があおかったら、私の顔が黒くなくてかわいかったらチョリーもミセス・プリードラヴもちがっていた筈だ。
「まあ、きれいな眼をしたピコーラをごらん。わたしたち、あんなきれいな眼の前じゃ悪いことをしてはいけないわね」
 チョリーもプリードラヴも、どうしようもない黒人の宿命に苛立って、激しいけんかをするのだ。モリスンさんは言う。


「人種差別が毎日の生活の中で、いかにひとを傷つけるか。黒人対白人の人種差別だけでなく、人種差別のある社会では、その影響は人種内にも出てくる。

 昔、子供たちと読んだ「ドリトル先生」にしろ「チボー家の人々」、シュトルムにしても白人優位の小説である。
 彼らは有色人種を虫けらのように思っていたのだ。

 アメリカが日本に原子爆弾を落としたのだって、東京大空襲で、未曾有の殺戮を行なったのも、人種差別と無縁ではあるまい。


 でも、時代は大きく変わった。少なくとも1960年代から、アメリカの黒人たちの公民権運動がさかんになった」と解説にもあるが、黒人が声をあげはじめてからの小説は、白人至上主義の内容ではなくなっていよう。

 20数年前、私と夫はスペイン旅行のツアーに参加した。旅のおわりはおさだまりのパリであった。


 パリへ向かう飛行機を待つ空港で、私とツアー仲間のS夫人とは、老いた白人夫婦を中に、四人がけの椅子にかけた。するとやにわに、心持ち体をふるわせながらマダムが、皺だらけの右手で、同じようにしわまぶれの夫の左手を固くにぎりしめてこう言った。

「ねぇ、あなた日本人よ。いやだこと」

 ただし、この語は私の創作である。彼女は険しい表情で前方を見つめたまま、無言であった。
いくら世をあげて人類平等を唱えても、潜在意識は変わらない。


「青い眼がほしい、誰よりも青い目にして下さい」
 とピコーラは祈り、奇跡を夢みて、聖職者をたずねる。

 黒い肌という地獄から浮かび上がって、青い眼でこの世を見たいという小さな女の子に、奇跡を行うことができたら、と心底彼は思う。そしてピコーラは、青い眼、だれよりも青い眼を得るが、その青い眼はピコーラにしか見えない。

 ところで私には、どうこのエッセイをまとめたらいいかがわからない。ただ、人種差別は人類永遠のテーマにちがいない、と思うばかりである。

        イラスト:Googleイラスト・フリーより

    

【元気に百歳クラブ】 張作霖爆殺の理由はこうだった  桑田 冨三子

 それは、市井に出ている有名な本達が述べる張作霖を爆殺した理由を読んだ朝起きたら雨が降っていた。いや、よく見ると雨粒は白く見える。

 そうか、みぞれになっているんだ。強く斜めに吹きつけたかと思うと渦を巻いたり、混沌の空中を乱舞し、その行方が定まらぬ。今日は冷える。


「何故この本を書いたのですか」
 昨日、私は突然、こんな質問を受けた。
(え?この本を書いて、何かいけなかったかしら)
 いぶかりながらも私はじっくりと、思い返してみた。いったい私は、此の本を書くことによって何が言いたかったのか。

 それは、市井に出ている有名な本達が述べる張作霖を爆殺した理由を読んだ私が、思わず「違います」と大きな声で言いたくなったからである。
「歴史は真実を語るべきだ」と私は信じている。


1、大江志乃夫の『張作霖爆殺』(中公新書、1989年)

「河本のねらいは、張作霖爆殺により、東方三省権力を中小の地方軍閥に四分五裂させて、満州の治安を攪乱し、関東軍出動の好機を作為するということにあった。(16-17ページ)河本としては、日本の主権下にある満鉄付属地内で張作霖が爆殺されたとなれば、その部下の軍隊が直ちに現場に駆けつけるであろうから、主権侵害を口実に武力の衝突を引きおこす計画であり(後略)(19ページ)。


2、田原総一朗『日本近現代史の「裏の主役」たち」(php文庫2013年)、でこう述べている。

「河本たちは、この爆殺事件による混乱に乗じて、満州で戦争をおこそうと謀ったのである」
3、一番新しいところでは、(新潮新書、2018年刊)『決定版 日中戦争』(中の第1章で「の中戦争への道程」で戸部良一がこう書いている。

「張作霖の部下たちが復讐戦に出てきたところを武力で制圧し、満洲に対するコントロールを強めようとした、関東軍のねらいは達成されなかった」


 いったい何故、河本大作は張作霖を爆殺したのか。張作霖爆殺の目的は何であったのか。これ等の本を見ると、世の作家や評論家は張作霖爆殺の真の目的を解らずに、極めることもなく、証拠もなしに想像からこのような解説をしていると思われる。

 河本大作はその供述書で、張作霖爆殺に至ったその理由をはっきり述べている。その概略はこうである。
 北京から敗走してくる奉天軍は増え続けた。その総勢は30万人になろうとし、侮日の気運は高まっていたため、日本軍と在華邦人一般の憤懣は極点に達し、一触即発の情勢となった。
 こうした状況下でⅠ万人に満たない日本軍では、満洲各地に散らばっている在華邦人と満州鉄道の安全を護るのがむつかしくなる。
 いかにこの苦境を脱するか、関東軍司令官・村岡長太郎は日夜、焦慮し、奉天軍の張作霖総統を殺害する以外に、日中の衝突を回避する方法はないと考えた。

 満州における日本の権益を護り、満鉄やその沿線に住む日本人の生命財産を護ることが、関東軍の使命である。軍司令官のこの意図を知った各参謀は、司令官の意図の実現へ向け、ぜひとも成功させようと意見が一致し、皇姑屯(こうことん)の東方約千メートルで奉山線と満鉄線が交叉する地点に、爆破装置を設置しようと決定した。

 つまり、張作霖爆殺の目的は日本と中国の衝突を避けることであって、在華邦人の命を護るためであった。
 前述の、大江志之夫や田原総一朗、戸部良一が書いているような、満洲を占領することが張爆殺の目的ではなかった。繰り返すが、その真逆の日中の衝突の回避が張作霖爆殺の唯一の理由であった。それを、大作の目的は達成されず、失敗であったという解説は全くの間違いである。

 また、日露戦争以来「馬賊や軍閥」とは度々関係を持ち、馬賊の顧問になった経験もある大作は、「奉天軍のごとき馬賊軍団は日本の軍人とは違って、親分がやられたら子分達がカタキとして反撃をする」などの思想は皆無である」ことを知っていた。だからこの危機を脱する唯一の方法として、奉天軍の張作霖総統の殺害を選択した。

 案の定、金蔓である雇い主が倒れたと知った子分達はすぐに雇い主をかえて、離散してしまったから、張の爆死以後、奉天を始め満州各地の反日運動はぴたりと沈静化した。

 この事実を評論家たちは、「大作の目論見は失敗した」と伝えているが、これもまた真逆の解説であり、大作たちの意図した日中の衝突を回避することは護られ、大作たちの意図した所は大成功だった、と言えよう。
 この間違いの訂正こそが、私がこの本を書く一番の目的であった。

 新しい令和の時代、2年1月11日の朝日新聞には、偶然だと思うけれど、こんな記事を見つけた。
「歴史学会では新しい研究成果が不断に生み出され、通説は日々塗り替えられていく。
 作家や評論家がしたり顔で語る史論が、学会ではとっくの昔に否定された説に依拠していることも珍しくない。」
 外を眺めると、雨もみぞれも、もう止んでいるようだ。


「関連情報」

「張作霖を殺した男」の実像」(文芸春秋企画出版/文芸春秋・1500円+税)、2019年8月30日の出版。

正月に想う   青山 貴文

 令和初の静かな正月が明けた。柔らかい新春の朝陽が居間に差し込んでいる。清酒のお神酒で神に感謝し妻と乾杯する。

 昨暮、近郊の酒専門店でいろいろの銘柄(産地)と値段を天秤にかけ、いつもよりも少し高価な清酒の一升瓶を購入した。日頃でも、どの酒にするか選ぶのは楽しい買物の一つだ。


 この正月の新潟の清酒「菊水の純米酒」は、ほぼ期待通りの清酒であった。なんとも言えない新鮮な芳香と内臓に溶けこむコクのある旨い酒だ。


 私は、生来亡き母に似てアルコールに弱く、特に日本酒は独特の嫌な臭いが鼻を衝いて嫌いであった。お猪口一杯日本酒を飲むと顔が真っ赤になり、心臓が高鳴って、頭痛がして体質的に合わず飲むことを控えた。

 一方、ビールは暑い日や運動した後は、コップ一杯が最高にうまく好んで飲んだ。ただ、数杯飲むとやはり真っ赤になってだるくなり眠くなる。だから、現役のときは、酒の席が苦手であった。


 会社を辞めてから、酒の旨さを知った。亡き父のDNAに、今頃急に影響されるようになったのか、夕方になり周囲が暗くなると、無性に酒が恋しくなる。あれほどいやであった日本酒の臭いが、なぜか鼻腔をくすぐる匂いとなり、飲みたくなるのだから不思議だ。
 さらに、少しのアルコールでは顔色も変わらなくなった。面の皮が厚くなったのか、皮膚の機能が鈍感になり、表皮まで変色しなくなったのかもしれない。

 夕食時、書斎でコップ半分くらいの酒を飲んで階下の食堂に降りて行く。
「一杯やって居たでしょう?」
 と妻は鼻を突き出して臭いを嗅ぎながら言う。
「池井戸潤の本を読んでいて面白くて、酒なんか飲んでいられないよ」
 と自信を持って言う。
 妻は自分の判断ミスかと自問する。この辺のやりとりは愉快だ。父もこの快感を抱きながら、どこかで一杯やって食卓に着いていたのかも知れない。


 最近は日本酒に限る。酒好きの父が、生前「ビールは、水ぽくって腹が張るだけで美味しくない」とよく言っていた。私もそういう歳になったのだろう。

 夏になると、冷蔵庫で冷やした4合瓶の冷酒をコップ半分くらい注いで、二階の書斎で、良薬をなめるように少しづつ飲む。
 特に、大相撲などのTV放映の時は、笹沢佐保等の軽い本を読みながら、「はっけよい」の行司の掛け声で、テレビ画面に見入る。 

 ところが、この頃は友人の多くが日本酒やビールは糖質が多くて体に良くないという。ウイスキーや焼酎のお湯割りがよいらしい。糖質を摂っても、その分、大いに歩き、体を動かせば問題ないとおもうのだが。

 なんといっても、少量の酒は呑むほどに顔がほんのりと火照って、頭がもうろうとなってすべてが鷹揚になってくる。

 書斎の机上が散らかっていようが、エッセイが書けなくて期日が間に合わないだろうが気にならなくなる。今の今がほんわかしていればよい。しくじったことなど全て許されるので、ストレスがなくなる。よって病気とは縁遠くなる。


 古来より「酒は百薬の長」と言われるが、よく言ったものだ。

 父は、普段は静かな男であったが、酒癖がわるかった。特に、日本酒を呑むと際限がなかった。自説を大声で喋りだし、相手を揶揄して意見を聞かない。一升瓶の酒がなくなるまで飲んだ。そして独演者になってしまう。

 それ故に、歳をとってから友人がいなくなった。家族も、酒の席では彼と一緒に話したくなくなる。特に母は父の絶え間ない、だみ声を嫌った。
 母にとって、日本酒は気ちがい水であった。母はいつも私に言っていた。
「貴文! お酒のみになってはいけないよ」


 40数年前の古い話になるが、米国ミシガン州アルマ町に家族と共に赴任し、一年経って両親に来てもらった。母は、父に日本酒を飲ませないでほしいと懇願した。
 米国の隣人に迷惑をかけ、私に恥をかかせることを恐れたのだと思う。

 私は、そのころ日本酒の旨さを知らなかった。アルマの片田舎では日本酒は売ってないことにした。
 バーボン(トウモロコシから作った米国産ウイスキー)のボトルしか、棚に置かなかった。父は、好きでもないビールやバーボンでは酔うほどに呑まなかった。
 母は静かな父と最高の時を過ごした。逆に、父は日本酒が呑めないやるせない3か月を過ごして帰国して行った。

 日本酒の旨さを知ってから、父に本当にすまないことをしたと思うようになった。
 今となっては後の祭りだが、一度でよいからカリフォルニア米の美味しい日本酒を現地で飲んでもらえばよかったとつくづくおもう。

 正月のお神酒を静かに呑むにつけ、父のことが思いだされる。


       イラスト:Googleイラスト・フリーより

   

風景を荒廃させる者  石川 通敬

 最近「日本の美観 遮るもの」という新聞記事が目に入った。
 「清潔なのに風景が荒廃しているような状況を目にしたくない」という記事だ。

 江戸末期から明治初めに来日した多くの外国人が、日本の美しさに魅了された。
「手つかずの自然だけでなく、手入れの行き届いた農地や並木道なども感動の対象になっていた」 
 同記事によると現在「欧州と日本の違いを特に感じるのは電柱と屋外広告だ」と言う。


 電柱については、国も遅ればせながら、2016年に無電柱化推進法を施行している。

 しかし自宅周辺の現状は、やっと目黒通りと山手通りから電柱が無くなった程度だ。一方目黒駅から我が家までは数分だが、この辺りの道路には電柱が林立し、空を見ると蜘の巣のように電線が縦横にはりめぐらされている。

 かねてより私は緑豊かな街に住むことが夢であった。


 そうした街並形成に欠かせないのが、街路樹や住宅に植えられている樹々である。しかし世の中は道路を管理する行政担当者を含め、多様な人々がその管理にかかわっている。
 土地所有者の価値観や、植木屋の都合だと思うが、都会の数少ない木々が、毎年枝を払われ丸坊主にされる事例が実に多ことに私は心を痛めていた。


 そんな問題意識があって私は3年前町内会の理事に加えていただいた。
 昔は少数の戸建て住民により形成された小規模な町会だったが、マンションの増加につれ、今では加入世帯3000、役員も33人と巨大化している。一理事が貢献できる機会はほとんどないままうち過ぎていた。

 私が住む街を貫く細い道路に面した教会には桜と枝垂桜があり、街の風景に潤いを与えてきた。しかし長い間毎年枝が丸坊主に剪定さるので、かねがね残念思っていた。


 ところが10年前から枝落としが抑制さえられるようになったのだ。その結果今では2本とも大きな風格ある樹々に成長、咲き誇る桜が毎年町民を楽しませてくれている。親しくしている教会の信者に聞くと、ある神父さんが、同教会に着任した時、枝を落とすなと命令したのだそうだ。

 年に一度町内会の総会とそれに続く懇親会がある。昨年の秋の会では、私のテーブルに、その年着任したばかりの神父が同席していた。
 この教会は、夏にはビヤパーティーの場所を提供するなど、いろいろ住民に協力的だ。私は日頃からの感謝の気持ちをこめ、思わず神父に声をかけた。

「神父様、私は教会に日頃より感謝しています。特に境内の桜のお陰で、街の要『ドレメ通り』が緑豊かになっています。ありがとうございます」と。


 ところがその途端和やかに談笑していた神父が突然目をむき、顔を真っ赤にして激高したのだ。
「私は法令を守ります。申し訳ありませんが桜の枝落しは実行します」と。

 これには同席して談笑していた一同が、何事かと話をやめ緊張が走った。

 電力会社から道路にはみ出ている枝が危険なので切ってほしいと言われたに違いないと皆が思った。これにはすかさず同じテーブルにいた環境担当の副会長が、
「電線に触れないよう剪定しているケースもありますよ」
 と応酬てくれた。


 その後しばらくたって2本の木を見ると、丸坊主に剪定されずに済んでいた。ささやかだが、これが街の美化に貢献できた私の初仕事になったのだ。

 電柱と屋外広告については、気になっている事例がもう一つある。私は30年前より毎年数回蓼科に行く。
 その経路は長年中央高速道の諏訪インターチェンジを出て、お義理にも美しいと言えない新興市街地を経由してリゾート地に行ったものだ。
 そこは電柱と電線が道路沿いに立てられ、屋外広告も所狭し並ぶ全国どこにでも見られる風景だ。折角のリゾート気分がいつもここで打ち壊わされていた。

 その悲劇を救ってくれたのが10年ほど前の道路の開通だ。諏訪の一つ手前、南諏訪インターチェンジから行ける新しいルートができたのだ。


 料金所を出ると眼前に八ヶ岳連峰がそびえ、背後には南アルプスの山々が連なる。
 新しく開墾された広大な水田と畑とそこここに残る自然林が、東西南北の山裾まで広がる広大な盆地だ。

 その中心部を一本の道が貫く。この農地は諏訪神社の所有する広大な土地を、十数年かけて区画整理したものだ。特に雪の残る八ヶ岳、南アルプスは素晴らしい。
 その景観はスイスを彷彿とさせ、豊かな気分になる。多分それは電柱のない風景のお陰ではないかと感謝している。


 南諏訪からのルートを走り始めて、そろそろ10年になる。しかし残念なことにいつの間にか畑を横切る電柱が立てられ、素晴らしい風景を蝕み始めていることだ。昔仕事で日本来た人々が異口同音に言った褒め言葉は、
「日本の街はチリ一つなく清潔だ」
 であった。

 しかし一度も美しいと言われたことはなかった。
 日本人の清潔好きは世界に自慢でき、嬉しいことだが、一日も早く美しいと言われる国に戻ってほしいものだ。風景を荒廃させる物を除去しようという社会風潮がはぐくまれることを願っているが、年老いてたわごと的コメントしかできない自分が悲しい。


イラスト:Google 写真・フリーより

【元気に百歳】  ベルリンの壁   武智 康子

 2020年正月、世界各地の新年の様子が報じられていた。その中に、ベルリンのブランデンブルグの門前で、新年を祝うドイツの若者たちの姿があった。

 この門前には30年前まで、東西冷戦の象徴と言われた155キロメートルに渡る壁があったのだ。

1989年11月9日、東ドイツの民主化運動によってその壁が崩壊し、自由を求めそれを信じて多くの人が東側から西側に移入した。
 そして、1990年10月3日、ドイツは再び一つの国になった。

 その翌年の春、私たち夫婦はベルリンに滞在していた。

 学会終了後、ベルリン大学のマトロフ教授夫妻とともに、ベルリンの壁があった所に行った。壁は、粉々に壊され、小さな破片がまだ転がってはいたが、既に、ベンツセンターとソニーセンターの工事が、始まりかけていた。私たちはその脇の検問所を通った。

 東側に入ってみると、何だかガランとしていて、人通りも少なくアパートが3、4棟建っていて、遠くに列車の小さな駅が見えた。
 商店が並ぶ賑やかな西ベルリンとは雲泥の差があった。
 私たちは、30分程歩き回ったが、何だか侘しさを感じて西側に戻ったことを覚えている。そして、出口の所の小さな土産屋で、飾り物用として形の良い壁の破片を売っていたので、記念に一つ買った。確か10マルクはしなかったと思う。

 それから5年後、夫と私は、ドイツ、ベルギー、オランダの国境の三角点に位置する、中世の名残が残る都市アーヘンを訪問する機会があった。

 夫は、アーヘン工科大学での講演後、ブレック教授からベルリンが最近少し変わってきたことを聞いた。そこで、当時たまたまアーヘン工科大学に留学していた次男と一緒に、三人でベルリンを訪ねた。

 旧西側では、さらに賑やかになり、メインストリートで同性愛者の行進が行われていたことを覚えている。
 私たちは、ブランデンブルグ門を目指した。既に、検問もなく歩いて旧東側に入った。そこで目にしたのは、冷戦時に、壁を乗り越えようとして、射殺された旧東側の人たちのお墓だった。私は思わず手を合わせた。

 インフラも少し整備され、広い道路わきに小さなカフェがあった。喉が渇いたので、ちょっと立ち寄ってみた。飲み物は、全て缶入りのものだけだった。
 私は、トイレを借りた。ドアを開けて驚いた。隅にバケツに水が入れてあり、柄のない器が置かれていた。形は、水洗トイレだが、「水が出ないのだ」と私は直感した。
 よく見ると、窓ガラスも割れたままである。私は、緊張してしまった。
 

 まだまだ、旧東側は、発展が遅れていることを、身をもって感じた瞬間だった。
 後に旧東ベルリンにあった美術館などの文化遺産の建物が、危険な状態にあることも報道で知った。

 社会主義独裁政権下では、お互いの競争の原理がなく経済の発展が遅れてしまったのであろう。
 ベルリンの壁崩壊後、30年経った今、西側企業の投資や連帯税の国民の負担などで、旧東側地域の経済水準の向上もみられ、インフラも整備された。
 ただ、旧東側地域では、半分強の市民が自らを「二級市民」と言っているそうだ。現在、ドイツでは企業も教育も行政も指導的な立場の人は、旧西側の出身者が大半を占めているそうである。


 旧西側の制度に飲み込まれてしまった旧東側の人たちは、大混乱の中、努力する力がなかったのだろうか。
 いや、メルケル首相のような優秀な人材もいる。彼女は、旧東側出身の物理学者である。長い間、ドイツの首相として世界の首相の中でも、引けを取らない活躍をしている。

 一人一人は、立派な人間であっても、生まれ育った環境から抜け出すことができなかった人たちも多いのかもしれない。

 スポーツの世界においても、ドーピング違反が多いのは、旧東側の選手である。何故だろうか。
 思い当たる節もある。
 私は、スポーツは、真の身体と心体で競ってこそ、意味があると思っている。
 ベルリンの壁が崩壊して30年、今、世界の五大陸のあちこちで、火種がくすぶっている。

 私は、この令和の新年にあたって、また、冷戦の時代が将来も来ないことを、真に願ってやまない。


     イラスト:Googleイラスト・フリーより  

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