元気100教室 エッセイ・オピニオン

エッセイ 「散髪」 = 青山貴文

 毎月1回は、散髪をする。
 面倒くさいが、散髪するとさっぱりする。
 私の髪の毛は、通常の人より伸びるのが早いような気がする。
 新陳代謝しないと、艶のある清潔な頭髪を保てないから致し方ないが、手間がかかる。

 十数年前、ファミリーサロン・アクアという理髪店が自宅から歩いて15分位のところに開店した。
 散髪代が格安で、理髪が短時間でかつ店内が清潔だ。
 理髪台が6台あり、数人待ちでも、数分待てば自分の順番が来る。

 その理髪店は、年中無休で、朝8時半から、夜7時までやっている。
 全国に支店を持つチェーン店で、店員たちの技術の向上や、生活面の指導など行き届いている。
 そのためか、店員たちは礼儀正しく、とても気持ちが良い。


 この店のモットーなのか、理髪師をいろいろの支店に派遣し、経験を積ませているらしい。
有給休暇を確実に取らせるために、常に新たな理髪師が応援にやってくる。よってしばしば、見知らぬ理髪師に自分の頭髪を任せ ることになる。
 新顔が、にこやかに私に尋ねる。
「髪の毛は、どういたしますか?」
「左分けで、耳が出るくらいで、あとは適当にやって ください」
「じゃあ、これくらいカットして、もみあげはこれくらいに……」
 と、鏡の中の私に応える。
 初対面だが、阿吽(あうん)の呼吸で、チョキチョキやり始める。
 途中で、「眉毛の下は剃りますか?」「整髪剤は何にしますか?」などと聞いてくる。
「剃ってください」とか、「リキッドでお願いします」
 とか、必要最小限の言葉で答える。

 昔の話になるが、私は幼少のころから高卒後二浪するまで、坊主頭であった。
亡き父母がバリカンでカットしてくれていた。
「貴文のおつむは、右に片寄っているね」とよく言われた。

 大学生になって、立川市富士見町の自宅近くに、バラック建ての床屋があった。オールバックの背の高い30才くらいの独身の お兄さんが店主だった。
 彼の母親らしいおばさんが洗髪などしてくれた。
 私は、丸坊主から、頭髪を伸ばし初めて、髪の格好を気にする年頃であった。
 その兄さんが、「おたくの髪の毛は、癖があって、カットが難しいね」と言っては、首を傾げる。
 何度も櫛を通してカットしていた。
 自分は、なぜか肩身が狭かった。

 アクア店では、洗髪の時は、清潔な洗面台が前面に備えてあり、前屈みすれば、豊富なお湯のシャワーと石けんで2回要領よく洗ってくれる。一人30分弱で終わる。
全店員の「ありがとうございました!」という声掛けで、2、090円を支払って出てくる。
すごく合理的で無駄がなく、さっぱりする。

 今から40年前、私が40才のころ、シカゴ空港の理髪店で怖い体験をした。 
 当時住んでいたミシガン州アルマ町近郊のランシング空港へのフライトまでに、待ち時間があった。
 シカゴ空港の散髪店で、時間をつぶそうと、書類が一杯入った手提げ鞄を抱かえ気軽に入った。

 二人の大男の黒人理髪店員が、店内で暇そうにしていた。
 若造の私をみて、にやにやしている。いやな感じであった。
 米国滞在も2年目に入り、こちらの生活にも慣れ、自信に満ちてきたころだ。
 空手などからっきしできないが、さも出来そうな日本男子然として、不敵な面構えをしていたと思う。

 月曜から4日間、移動時間も含め5社の出張も無事に終わり、明日は金曜日で、1日工場へ出勤すれば、休みだという気楽さもあった。
 かたや、空港の理髪店の椅子のカバーは、黄ばんで油臭かった。
 私も無精髭で、革靴も埃まみれで、疲労した面持ちで椅子に座り、ひげを剃るよう頼んだ。

 大きな目玉をした黒人店員が、横たわった私の顔を横柄に覗き込む。
こちらは無邪気にニコリとした。彼は私の品定めをしている。
 剃刀をふりかざして、もう一人の黒人の店員に向って、大声でわめいている。

 カミソリを上段に振り上げて、私を揶揄する。お客に対して、失礼な奴だ。日本ではこんな無礼は許されない。
 何をしゃべっているか良く解らないが、こちらは、ムッとする意外に、意思表示する方法がない。
 彼はカミソリで、私のあごひげを、無造作に剃り落としては、へらへらしている。

 あのころ、私は何かあれば日の丸を背負って、敢然と対峙するという気迫を持っていた。相手の目玉を目の隅で睨みつけて、泰然としていた。
 相手も、下手をするとまずいと、私をチラチラ睨んで逡巡しているようだった。
ひげを全て剃って貰ったが、さっぱりするどころか、冷や汗をかいていた。
 それ以後、空港での散髪は一切やめたものだ。

故(ふる)きを温(たず)ねる = 廣川 登志男

 老舗そば屋の「神田まつや」前にちょうど差しかかった。途端にお腹がグーッと鳴った。現金なものだ。お腹は正直なのだろう。

  上野から歩き出し三時間ほど経っている。昼時だったためか、店は満員に近かったが、入り口に近い四人席が空いていて案内された。
 隣には、高齢とおぼしき和服姿の旦那さんが、板わさとお新香を肴に升酒をのんびりやっている。昔、この店を贔屓にしていた池波正太郎も、ここで舌鼓をうっていたことだろうと頭に浮かび、「うーん! どうしよう」と一瞬心が動いたが、これから皇居一周を歩く予定にしている。

「やっぱり止めとこう」と、後ろ髪を引かれながらもりそばだけを注文した。
 上野から皇居の辺りまで歩くのは、いつも楽しい。史跡や寺社など、見ておくべきものが本当に多い。

 上野を十時前に出立して、湯島天神、神田明神、湯島聖堂を巡った。

 何度も通っているところだが、その都度新しいことに気づくのでいつも時間がかかる。皇居周りも、これまでに2回ほど歩いていたが、国会議事堂周辺にまでは足を伸ばしていない。
 今回はじっくり見てやろうと、美味しいそばをすすり終え歩き始めた。

 以前はほとんど気づかなかったが、議事堂前に樹の生い茂った庭園があった。さして期待はしていなかったが、コンクリート造りの味気ない大通りを歩くよりは楽しかろうと、寄り道することにした。

 庭園内は結構な斜面だが、歩きやすい歩道となっていて、園の入り口には、「桜の井」と記された井戸があった。
 江戸時代から名水で知られる井戸であり、当時から近くを通る通行人にも提供されていたと碑に記載されている。安藤広重の絵にもなっているという。

 さらに坂を上ると、すぐに大老井伊直弼の上屋敷跡がある。地図で確認すると、ここから四,五百メートルで桜田門に到る。桜田門外の変で暗殺された井伊直弼は、この先に暴漢が待ち受けていようとは思いもしなかったに違いない。

 議事堂に向かって右側に、小さいながらも立派な石造りの洋風建築があった。碑には「日本水準原点標庫」とある。

 全く知らなかったが、ここが日本各地の標高原点だった。さして期待をせずに入った庭園に、思いもかけない場所があって深く感動したことを覚えている。

 水準原点が、なぜこの地に設置されたのか疑問がわいた。家に帰って調べると、この地には、明治時代に陸軍参謀本部陸地測量部があったと記載されている。
 そういえば映画「剱岳 点の記」で、陸軍の陸地測量部が映し出されていたが、それがこの地だったのだろう。ここを起点に、日本全国八十六カ所に基準水準点があり、さらに多くの水準点が設置されて、各地の高度が測量される。


 調べると、さらにいろいろなことを知ることができた。国土地理院の水準点は、全国の主な国道や県道等に沿って約2kmごとに二万二千点ほど設置されている。
 その水準点の高度差を測っていくのだが、2kmの間の高度差を一回で測量するわけではない。短い距離の測量を何十回も積み重ねて測量する。
 どれほどの回数が必要なのかは、専門家でないからわからないが、膨大な労力を要するだろう事は理解できた。また、江戸時代に「大日本沿海輿地全図」を完成させた伊能忠敬の業績や、今後の測量がGPSに取って代わることなども勉強できた。


 このように、散策などで湧いた興味や疑問については、図書館やインターネットで調べることにしている。今回も、日本地図作成に関する多くの知識を得たし、井伊直弼一行の辿ったルートや、襲撃の状況も克明にわかった。そして、襲撃の起こった背景も理解できた。

 これが、史跡や名所、寺社などを訪れる意味合いだろうし、それをエッセイとして紙に書き残す努力が、それらの正確な理解につながり、ひいては日本人としての知見が深まるものと思う。
「故きを温ねる」努力があってこそ、真の日本人たり得るのではないだろうか。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

カジノ 石川 通敬

 政治家の発言や新聞記事に、聞きなれない外国語が最近以前より頻繁に使われるようになった気がする。例えばコロナウイルスで知った「パンデミック」「クラスター」だ。よほど博識の人でないと、ついていくのが大変な世の中だ。「IR」もその一つで、家内に聞くと、早速スマホで検索してくれた。

「それはカジノを含む総合型リゾートを意味するそうよ。」
 という。

 妻は比較的最近PC,スマホを利用するようになったが、私より若いせいか、使いこなし方のスピードが速い。伝統的勉強よりも検索能力のスピードが、大切な時代になったと痛感した出来事である。

 自分も負けてはいられないと、カジノについて検索をした。

 その結果まず思いだしたのが、ロンドンのプライベートクラブ「クロックフォード」だ。同クラブは駐在員時代によく利用したところだ。
 仕事が一段落すると同僚と、近くのパブや日本料理屋で一杯のみ、自宅への帰り道そこによりカジノを楽しむのがお決まりのコースだった。


 それだけではない。当時日本はバブルのピークに近づいておりロンドンもその余波を受けていた。日本から出張してくる国内の顧客のお世話に、大手銀行、証券会社はもちろん、一人、二人の駐在員事務所も押し寄せる人の波への対応に大わらわだった。

 大手銀行、証券会社では、支店長はじめ、数名の次長が手分けして、ロンドンを案内し、英国を満喫してもらう努力をしていた。

 そんな中で、私がよく使ったのが、今述べた「クロックフォード」だった。同クラブは二〇〇年前に設立された伝統あるクラブで、社会的地位のあるものや、大金持ちしかメンバーになれないと言われていた。

 それまでの常識では日本人が入れてもらえるところではなかった。それがバブルの恩恵だったのだろう、その頃は中間管理職の駐在員も大挙メンバーにしてもらえる栄誉に浴し、クラブライフを楽しめる時代になっていたのだ。


 仕事第一の駐在員にとって、そこは日本からの来訪者への最高の接待場所でもあった。と言うのも世界最高級の食事と酒が提供され、優雅な雰囲気でカジノを楽しめる場所を提供していたからだ。
 誇張すると、博物館で見る王宮に迷い込んだと錯覚させる雰囲気だったと言えるかもしれない。
 それ以上に心を奪われたのは、ゲームを取り仕切るディーラーだ。驚くほど素敵な美人たちで、美しいスタイル、目鼻立ちもさることながら、話す英語が澄んだ声で素晴らしかった。

 仕事で出会う大柄で、どすの聞いた低い声で話すアメリカンイングリッシュの女性達と仕事をする日本のビジネスマンにとって、その出会いはオアシスのように感じられたものだ。
 案内した人々も同じ印象をもったのだろう、


「素晴らしいところですね。ロンドンの良い思い出になりました」
 と一様に驚き、お礼を言われるとき、メンバーになっていてよかったと喜んだものだ。その意味で同クラブは、ロンドン時代の宝物だった。


 私がカジノを初めて体験したのは、ロンドンに駐在する十年ほど前で、職場の同期の連中と、マカオに行ったときのことだ。
 当時マカオは、宗主国ポルトガル自身が発展途上国レベルで低迷しており、その植民地マカオの街はゴミだらけだった。
 カジノの施設も汚く、働いているスタッフも粗野で、何となく恐怖心を覚えた。もしロンドンで、カジノに出会わなければ、私のカジノ観も違っていたと思う。


 ロンドンでのカジノの出会いに刺激され、その後狂ったように、ヨーロッでは出張や家族旅行の折、モナコ、スイス、ストックフォルム等手あたり次第覗いてみた。しかし、どこも退屈な場所だった。

 アメリカに駐在するようになってからは、本場ラスベガスやカナダを訪ねたが、大衆的で、大型のパチンコ屋的雰囲気で馴染めなかった。
 豪華客船クリスタルハーモニーの見学会にもロサンゼルスでは招かれた。韓国にも行ったが、どちらも魅力を感じなかった。

 こうした結果私のカジノ熱は冷め、思い出も忘却の彼方に消えていた。


 今回の検索は、自分がいかに勉強しない、滑稽な田舎者だったかという事実を気づかせてくれた。
 クラブの歴史も、英国社会の評価も知らず、日本人仲間の風評と雰囲気だけを聞きかじり、有難がっていた自分が恥ずかしい限りだと悟ったのだ。
 同クラブは、歴史も古くお金持ちや身分の高い人が出入りしたらしいが、ウィキペディアによれば、「そこは耳障りで、下卑た場所」と紹介してある。所有者も次々代変わりしているのだ。
 変わらないのは最高級レベルのシェフが美味しい料理を出すのが伝統で、私が出入りしていた当時同クラブは、日産のゴーンさんで最近脚光を浴びたレバノン人の手に亘った時期だった。それでも料理はレバノン風フレンチでとてもおいしかった。


 2016年に「カジノを含む総合リゾート」(IR)法案が成立し、日本でもカジノを観光のため品揃えするつもりのようだ。

 日本のカジノはどんなものになるのだろうか。カジノの語源はイタリー語で小邸宅。そこにおいしい料理と酒、美女をそろえたプライベートクラブ風がクロックフォードだ。ラスベガスタイプの大型パチンコ屋風を目指すのだろうか。気になるところだ。

コロナ禍にあって 井上 清彦

 朝食を済ませていつものようにパソコンの前に座ると、南側のガラス窓を通して、暖かな日差しがまぶしいくらいに降り注いでくる。ときは春だ。浮き立つような気持ちになる季節なのに、気持ちがついてこない。

 中国・武漢から始まった、新型コロナウィルスが、世界中に蔓延して、世界保健機関が、ついに「パンデミック」を宣言するに至った。

 今朝、テレビが、ニューヨークダウが3千ドル近くの暴落を記録したと告げている。人の移動が制限され、実態経済にも大きな影響を及ぼし始めた。


 私自身も、楽しみにしていた芝居やピアノコンサートはもとより、所属クラブの俳句、スケッチなどの活動も、軒並み中止に追い込まれた。私が幹事を務める4月初めの高校クラス会も延期とした。出席予定だった熊本在住の山男は、早割航空券が無駄になったとぼやいていた。

 我が家では、妻が、一日中テレビの新型コロナウィルス番組を追いかけ「怖い、怖い」を連発している。厳しい検疫官である妻の承認を得ないと、外出もままならない。
 月2回の仕事、入院中のひとり暮らしの弟対応と通院以外は原則外出禁止だ。「あなたは危機意識が足りない」と妻に言われ、このところほとんど家での「巣ごもり生活」を余儀なくされている。


 東京にみぞれ混じりの雪が降り、桜の開花が宣言された翌日の朝は、打って変わって風もなく良い天気だった。毎年、桜見物サイクリングを楽しむ「善福寺川」を散歩の目的地に決め、一人で自宅から歩き始めた。 


 荻窪駅南口に出て、「荻外荘の道」をたどって善福寺川に着いた。ここから川沿いの道を歩く。自転車でやっと通れる道幅だが、歩きだと気にならない。
 マラソンで行き交う人たちに道を譲りながら歩を進める。大勢の小さい子どもたちが、大声を出しながら遊んでいる姿が目立った。

 犬を連れた人たちも多い。ソメイヨシノのツボミがところどころほころんでいる。「陽光」という名前の桜は満開だった。白モクレンも彩りを添えている。昼食後に出かけ、目的地の「尾崎橋」に着いて、付近の椅子に座って缶コーヒーを飲んで休憩する。

 まだ満開には早いので、桜の木々も目立たない。夕食の時間までに戻るため、早々に帰路につく。花々や、コサギの姿をカメラに収めながら、もと来た道を足早に戻る。帰宅して万歩計を見ると1万6000步を記録していた。
 妻は午後一人でのびのび出来たせいか、機嫌が良い。


 3日後は、二人でお彼岸のお墓参りだ。東西線「早稲田駅」から徒歩で、牛込弁天町の「草間彌生美術館」前にあるお寺に着く。受付で住職の奥様は「コロナの影響らしくて、いつもよりお参りの人は少ないです」と言う。墓前でコロナの早期の収束と家族の安寧を願って頭を垂れる。

 帰路、環状八号線・四面道近くのお気に入りの小さなフレンチレストランで昼食だ。店内の客は我々だけで、静かな音楽が流れている。食事前にトイレふで、手を入念に洗い、持参したアルコールを含ませたティシュでナイフとフォークをシェフに見えないように拭う。

 食べ終わるまで1時間ほどだったが、だれも客は入ってこない。メニューは、前菜とハンガリー産の鴨肉、新鮮果物のタルトのデザートとコーヒーだ。約1ヶ月ぶりの外食に舌鼓をうった。

 30歳代後半の、一人で切り盛りするシェフに、「コロナで大変ですね」と声をかけると、「昼は、高齢者客が敬遠してさっぱりだけど、夜は、そこそこ入っているので、何とかなっている」との返事に、ちょっと安心した。コロナ禍のなか、若者を応援したい気持ちもあって、ここを訪れた。


 私が編集長を務める所属クラブの季刊誌春号は、編集グループ全員が集まる最終読みあわせを3月1日に予定していたが、急遽、テレワークに切り替えた。メールのやり取りでまとめ、3月3日零時過ぎに、ネット入稿して一息ついた。

 地域の会では、ホームページ委員会に属している。3月末の委員会は、開催できないので、テレワークで対応するとの連絡が委員長からあった。最近メンバーに加わった大学の名誉教授の木村さんから、「『スカイプ』を使ったらどうか」との提案があったが、時期尚早と見送りになった。

 私は、『スカイプ』に興味があったので、木村さんに連絡を取り、懇切丁寧な指導を受け、なんとか使えるようになった。
 パソコン画面で、相手のしゃべっている声が聞こえ、姿が見れる。お互いのデスクトップの画面も見られる。彼の属している学会では、これを駆使して、最近八人の会議を開いたという。
『スカイプ』がつながったとき、私は嬉しくて、世界が広がった感覚があり気持ちの高ぶりを感じた。


 大学同期や、地元の「おとこのおしゃべり会」仲間などと、メールで「新型コロナ」や「巣ごもり生活」を話題に連絡をとりあっている。時には、声を聞きたくて、通話料金を気にしながら長電話をする機会も増えてきた。

「巣ごもり生活」を余儀なくされる環境にあって、本を読んだり、絵を描いたり音楽を聴いたり、断舎離を実行したりして、楽しんで行きたい。飽きたら、散歩とか、お気に入りのレストランの食事で気晴らしもいい。

 収束までしばらくかかりそうな「コロナ禍」にあって「巣ごもり生活」を味わって行きたい。
 

やり方を替えてみる 吉田 年男

 往きと帰りで道の反対側を歩いてみる。散歩中によく経験することであるが、道路は同じなのに、周りの景色が変わって新鮮に見えてくる。


 些細なことだが、歯磨きひとつでも、歯ブラシは右手で持つものと決めていたものを、あえて左手の持ち替えてみる。
 そうすると、動作は多少ぎこちなくなるが、歯に当たるブラシの角度が微妙にかわって、今までにない感覚が味わえて楽しくなる。

 それだけではない。洗面台に向かって立っている立ち位置まで、手の動きの変化に連動して替えてみたくなったりする。そして両足に架かる体重移動まで気になってくる。


 習慣として、なにげなく繰り返し行っている日常の所作は、大切にしたいことだが、たまには変化を楽しむ観点から、動作や、やり方をかえてみるのも面白いのではないかと思った。
身近なもので試すものはないかものか?


 無意識のまま、毎日くりかえしている公園での体操が頭に浮かんだ。そうだマンネリ化を解消するためにも、体操でためしてみよう。

 私の体操は定型的なラジオ体操とはちがう。プログラムが多少複雑なので、面白いことになりそうな予感がしてきた。時間の流れなどに全く違った感覚が生まれるかもしれない。

 プログラムは自分流で、手足の屈伸などのほかに、顔面のマッサージや、でんぐり返し、スクワット、簡単な腹筋、それに呼吸法などを取り混ぜている。 

 全行程を終えるのに一時間はかかる。現役のころからやっている体操なので、大凡30年はつづいている。
 その間に新しい動作のいくつか加わったにしても、体操の中身はほぼ同じ動作の繰り返しで、よく飽きずに続けてきていると自分でも思っている。

 楽しみは、そのプログラムの順番を故意に入れ替えてみたときの身体の反応だ。日常味わっている気分と違った新鮮な何かを期待できそうだ。

 何年か前に、体操をする場所を替えてみたことがあった。あずまや近くの広場、雑木林の中、公園北側の小さなスペースなど、何か所かに体操場を決めて実施をした。


 マンネリ化を防ぐためにやってみたのだが、大いに気分が変わり、各動作にもメリハリがつき、そして何よりも、季節の変化をより敏感に感じられるようになり、気分転換の手ごたえを十分に感じたことを覚えている。

 いつもは手足の屈伸から入っているが、それをあとまわしにして、いきなり深呼吸をしてから入る呼吸法から始めてみた。

「それは違うよ」と身体が反発しているようで落ち着かない。そして心の動揺からか? 動きが全体に影響して急にぎこちなくなった。

 身体は習慣としてしっかりプログラムをおぼえていて、そう簡単には順番の替えを受け入れてくれない。そのことは判っているので、めげずに根気よく続けてみた。

 一か月をすぎたころから様子がわかってきた。それは、個々の動作に活気がうまれた感じで、明らかに身体は軽い。動きがスムーズになった。
 場所を替えてみたときの、あの感覚とはまた違う。いままでに感じたことのない新しいものあった。より意識も明瞭になっているのかもしれない。

 やり方を替えてみるこころみは、立ち位置、場所を替えることと同様に、自分流のマンネリ化を回避する手段として明らかに効果を感じた。
 普段の何気ない日常生活において、変化を楽しむ観点からもほかの所作にも広く応用ができそうにおもった。

大活字本  青山 貴文

 我家は熊谷の西北寄りに所在し、深谷図書館の方が、熊谷図書館より近い。十数年前、深谷図書館の閲覧室で、大活字本の蔵書を3000冊くらい揃えたコーナーを見つけた。その陳列された書籍は、有名作家の司馬遼太郞などの時代物や夏目漱石などの近代の作品群であった。そのころは、ひと気の少ないコーナーで、私も興味がなく寄り付くこともなかった。


 ところが、このごろ視力が落ちてきたのか、従来のメガネでは通常の文字が楽に読めない。特に、画数の多い複雑な文字などが出てくると、どうしても普通の姿勢で読めない。背を丸め、あごを突き出して本に近づくか、あるいは、本を手に持って目前に紙面を持って来なくては読めなくなった。


 若いころは、紙面から4~50センチ離れた本を、背筋を伸ばし胸を張って姿勢を正して読んだ。さながら、古い書物に出てくる寺子屋の子供たちが、本を立てて、姿勢を正して読んだ姿に似ていた。

 そんなことなら、眼鏡店で検眼してメガネを新調すべきだと思うがどうも面倒くさい。なんと言っても、新たにお金がかかることは億劫になる。今かけているメガネでも、新聞は読めるし、運転もできる。日常生活には支障はない。だが、読書となると、新たにメガネを作るべきか否か逡巡する。

 一方、好きな日本酒を買うために、酒専門店には気軽に立ち寄れる。高価な旨い大吟醸酒を数本買えば、メガネ代くらい何でもないのだが、眼鏡店には足が向かない。


 要するに、どちらに優先して金を使うかと言う問題になる。メガネを買い変えて姿勢を正して読書するか、あるいは、美味い酒を愛飲して生活に潤いを与えるかだ。
 そう考えると、残り少ない人生、後者の方が大切のような気がする。酒が無性に好きだった亡き父にだんだん似てきている自分がいる。

 さらに、当用漢字ではない画数の多い知らない漢字に接することが多くなってきた。その漢字の読み方や正確な字体をはっきりしようと辞書で調べる。なかなか目的の漢字が探りあてない。やっと目当ての漢字にたどり着いても、メガネの度数が合っていないのか、虫眼鏡を使っても良くわからない。


 その解読方法として、簡便な方法を見つけた。スマホにインストールした「漢字辞典」の手書き個所に、正確に知りたい漢字を人差し指で大きく書く。細部のはっきり分からない所は、いい加減に似せて書く。
 すると難しい画数の多い漢字でも、簡単に見つかる。そして、その漢字の正しい書き順、音・訓の読み方、意味、さらにその漢字を用いた述語の例まで、大きな字体で示してくれる。これはすごい。メガネを新しくする必要などさらさらなくなった。


 雨天や体調がかんばしくなく、終日書斎で過ごす時がある。そういう日は、テレビの大相撲やサッカーなどを観ながら、合間に池波庄太郎の「剣客商売」などの軽い内容の時代小説を読む。机に真正面に向かわずに、半身に構えて椅子に座る。

 ひどい時は、両足を机上の片隅に置いて背筋を伸ばして椅子にふんぞり返って観たり、読んだりする。

 これは、昔ミシガン州のエドモア工場事務所で体験した仕草だ。安全靴を履いた同僚のボブ・ハンドリーが、昼休みなどに長い足を机に置いて、新聞や雑誌を読んでいた。
 彼は、技術者でありかつポリスマンだ。米国では、人徳のあるひとでないとポリスにはなれないらしい。

 私も書斎でリラックスするときは、彼を真似て短い足だが、両足を机の上に置いて、本を読んだりテレビを観たりする。疲れて窓辺に目をそらすと、一羽の雀が電線に止まってこちらを見ている。

 そんな時、字体の小さな本を手で持って顔に近づけたり、辞書などいちいち引いてはいられない。深谷図書館で借りた大活字本を利用する。

 この本は、従来の普通書籍の字体の2倍の大きさで、行間も2倍くらい広い。80センチくらい離れても楽に読める。テレビ方向に本立てを置き、この大活字本とテレビを、目玉を少し動かすだけで見られるようにする。

 加えて、この大活字本は読み易く親しみやすい。敬遠しがちな小難しい内容の書物、例えば市川浩著「哲学とは」などの書もあまり抵抗なく読める。

 どうも、大活字本が似合う歳になって来たようだ。

スカイバス  石川通敬

 私がスカイバスを知ったのは運行が開始された2005年のことだった。

 このバスは日本初の二階建て観光バスである。中央郵便局横、丸ビルのとなりから出発し、所要時間45分で皇居、銀座、丸の内を見るコースが設定されている。その特徴はロンドンの二階バスに似た赤い色だが、違う点は二階席に天井がなくオープンなところである。



 知るきっかけとなったのは、当時2、3講座をもっていたK女子大学のT学部長からある日突然、依頼された要請にある。

「石川さん、近年大石晃一著『大阪学』が先駆けとなり、都市別学がブームになっているのをご存知ですか。本校でもこれにあやかり、『東京学』を特別講座として開設したいと思うのですが、協力していただけませんか」
 との打診だ。

 彼の発想の原点の一つは、定年間近な教育者の優しい親心にあったと思う。
 もう一つは、彼が東京大学の出身だったからではないかと推測した。私も感銘を受けた夏目漱石の三四郎の影響ではないか。
 田舎から出てきた三四郎が、東大前の市電の雑踏、古い江戸が取り壊され急ピッチで日々建設されていく東京の街の活気とダイナミックな変化に驚嘆する様の描写が、同氏の脳裏に残っていたのではないだろうか。稲城の学生達に進化を続ける東京を見せたいと思ったに違いないと私は勝手に想像している。


「本校は東京の大学ですが、郊外地稲城にあり、学生はこの辺りに下宿し、残り時間をこの近辺でアルバイトをしています。歴史ある東京を知らないまま卒業するのです。気の毒な子供達です」と。

 同氏が提案した特別講座は、東京・江戸についての講義と東京都庁、浅草をはじめとする伝統的江戸情緒の街、銀座・丸の内に代表される首都東京の顔を見学する会の設定であった。
 これを数人の教師が、ボランティアとして役割を分担した。私の担当は「東京学(その一)首都東京、(その二)銀座文化諭」であった。面白い発想と思ったのが担当分けの理由だ。

「あなたは慶應義塾を卒業し、丸の内で働いていたのでそのキャリアーをベースに講義をし、現地を案内してください」と。
 同大学で正規に受け持っていた講座は、経済学と海外生活論で6年間教えた。経済学をわかり易く教え、公務員試験に合格する水準に教育することは至難であったが、海外生活論は、大人気化し、教える自分も勉強出来て楽しかった。 

 こんな中依頼された東京学の講義と見学会は3年間と短期の体験であったが、忘れがたい思い出が数々残った。その一つがスカイバスだったのだ。バス代金が1人1200円で、大学の予算では負担できない、学生もお金を払ってまで参加しないはずだとの状況判断があった。
 そこでこの窮状解決のため私は一肌脱ぐことにした。授業に先立ちビデオカメラをもって同バスに乗車、ガイドの案内と風景を撮影して、見学会前の教室で学生に見せたのである。

 もう一つは、この機会に得られた新しい知識だ。銀座の歴史と担ってきた役割。日比谷を作った日本の公園の巨匠本田静六。銀座、丸の内に残る歴史的建造物群等改めて認識したことは枚挙にいとまがない。

 特に忘れがたい楽しい思い出が、30数人の若い女子学生を引率して歩いた銀座、新橋、日比谷丸の内の体験である。


 本稿を書くにあたり、書棚にあった「首都東京」と「銀座文化論」という二つのファイルをしばらくぶりに開いてみた。
 第一の感想は、何事も時間をかけ、本気で勉強し、発表することがいかに大切かという点だ。授業からすでに十数年経っているが、東京、銀座に話が及ぶとき、その時の努力がいかに今の知的生活の助けになっているかを改めて悟った次第だ。

 第二が、この時始めた勉強を、全く継続して来なかったことに気が付いたのだ。なにごともその場限り、喉元を過ぎるとすっかり忘れるという自分の欠点の典型事例だったので情けなく思った。

 最後は、スカイバスの後日談だ。私はスカイバスが好きで、機会があればいつも乗ってみたいと思っている。その理由は東京の街を見るのが好きだからだ。毎年乗っても新たな発見があり見飽きない。

 そんな思いがかなったのがK女子大の後、群馬のG女子大で教える機会ができたときだった。T学部長のことを思い出し、毎年ゼミの学生を東京ツアーに招待することにしたのだ。日本橋にある貨幣博物館、スカイバス、外国人記者クラブでのドリンクのセットコースを提供した。愛する東京と教え子のため奉仕できたと今も喜んでいる。

 残っていた機会も同大学の退職を機に終了した。今は孫との観光だけになったが、これもいずれ終了する。
 東京に元気をもらうため、一人になっても定期的に同バスには乗るつもりだ。


              イラスト:Googleいらすと写真・フリーより

うた日記の思い出 武智 康子

 私は、先週妹の招きで13年ぶりに鎌倉に出向いた。

 駅前は、コンコースにビルが立ち並び、一見、都会の駅前と変わらぬが、一歩住宅街に入ると細い道の両側には、蔦の絡まる塀の家など戸建ての家並みが続き、昔ながらの風景が見られて懐かしかった。

 私と妹は、まず鎌倉山の中腹にある鎌倉文学館に向かった。文学館の建物は、旧前田侯爵の別邸である。緑に囲まれた坂道を登りきると、木造の洋館造りの文学館に着いた。

 ここには、川端康成をはじめ里見弴など、鎌倉を愛した多くの文豪たちの作品や自筆の原稿などが展示されている。
 原稿を見ていて、気づいたことが二つある。

 一つは、川端康成をはじめ文豪たちは、意外に女性的な柔らかな字を書く人が多い。それだけ心が繊細で柔軟であったのだろうか。
 川端の「雪国」や「伊豆の踊り子」にも、それが表れているように感じる。
 もう一つは、原稿用紙が基本は同じであるが、時代によって少しずつ違っているのに気付いた。面白い発見だった。

 そして、四つ目の部屋に入ったとき、私は、高浜虚子の句集を見つけた。その句集をパラパラと見ていて、ふと、私の頭の中に子供時代のことが、浮かんだ。

 それは、私が小学校4年生か5年生のころだった。私より一回り年上の従姉の家に行ったとき、従姉の部屋で高浜虚子の句集と与謝野晶子の歌集をみたのである。

 すべてが「五、七」調の軽快なリズムにのった表現の俳句や短歌だったのだ。私は、内容はよくわからないが、初めて出会ったこの軽快なリズムに、子供心に魅了されたのだった。
 わずか10歳足らずの私には、俳句に季語があることも、三十一文字が和歌であることも知らなかったのだが、ただ、そのリズムに興味をもったのだった。

 当時、日記を書くことを宿題として出されていた私は、その日の出来事を一つ取り上げて「五、七」調の俳句や短歌の形で表現して、「うた日記」として先生に提出したのである。

 先生もびっくりなさったようだったが、俳句には、季語があることを教えてくださった。だが、返却されたノートには、次の一句(実は短歌にも一つ)に三重丸が付けられ、「優」と書かれていた。その句は


「 かんなくず 積んで帰るや 夕暮れの道 」


 まだ、戦後間もないころで、疎開先の小学校に通っていた時である。
 疎開先の吉井町には、材木問屋が多くあり、製材所が町はずれに何軒もあった。七輪やかまどの火を起こすのに「かんなくず」はとても役に立ったのだ。私は、その日も学校から帰ると、大きな豆米袋を持って町はずれの製材所に大人の自転車を横乗りして、お使いに行ったのだ。

 その様子を「五、七、五」に詠んだのだった。

 四人兄弟姉妹の二番目で長女である私は、妹や弟の子守りはもちろん母の手伝いをするのは、当たり前の時代だった。先生は、季語がなくとも日記としてとらえ、私の母へのお手伝いをほめてくださったのだろうか。

 私は、初めて作った句に「優」をつけてくださったので、余程嬉しかったのか家族に自慢をしたことを覚えている。それ以来、何かにつけ家族の語り草になっていったのだった。

 文学館で四つの部屋を見終わると、テラスでお茶を飲みながら休憩をした。その時、この句のことを妹に話すと、現場を知る由もないはずの妹でさえ、この句をうっすらとだが、覚えてくれていたのには驚いた。

 大げさだが、この私のたわいもない句は、家族の絆を作っていったのだろうか、とさえ感じた。
 私と妹は、しばらくの間、外の景色に浸った。

 文学館のテラスから見下ろす森と、その向こうに見える相模湾の海が夕日に輝いていて、とても美しかった。

 いつも高層ビルばかり見ている私には、この静けさと緑に包まれた鎌倉に、昔も今も文豪たちが集まる気持ちがわかるような気がした。
 それから間もなく、私たちは夕日を背に鎌倉山を下った。

            Google写真・フリーより

【寄稿・エッセイ】 うがいと手洗い  筒井 隆一

 池袋の居酒屋、「土風炉」を、仲間7人で利用した時のことだ。

「お客様、カウンターにあるアルコール液で、手を消毒していただかないと、お店に入れません」

 店のお姉さんに、甲高い声で注意された。この店には、今まで何度も来ている。アルコール消毒液のボトルは見かけたが、消毒しなければ店に入れない、と言われたのは初めてである。


 中国武漢で発生した、新型コロナウイルスが猛威を振るい始めてから、手洗い、うがい、マスク着用が、やかましく言われるようになった。
 インフルエンザ予防に対する意識が、今までになく高まっている。スーパーやドラッグストアでの、マスクの品不足、売り切れを見ても、それがよくわかる。

 我々が子供の頃、学校から家に戻ると、母親から
「外から帰ったら、忘れずにうがいと手洗いをするのよ」と言われたのを思い出すが、真面目にやった覚えはない。また、この年になっても理屈っぽさが直らず、うがいや手洗いが、ウイルス予防にどれだけ効果があるか分からないので、気合を入れてやる気がしない。

 先週、大手製薬会社の研究所長を長く務めた、小・中学時代の同級生と、飲んで語る機会があった。ウイルスについても詳しい男だ。

「お前さんのような、理屈っぽい人間に分かってもらうのは難しいな。確かにうがい、手洗いの効果を、定量的に示す研究成果は無いよ。また、うがいや手洗いをするのは、日本、韓国など東アジアのごく限られた地域に限られていて、世界のほとんどの国には、そんな習慣は無いんだ」

「どれも、やらないよりはよい、というものばかりじゃないか。俺のように理屈っぽい人間にも分かるような、ウイルス予防効果の定量的な説明が欲しいね。

 TVに、毎日入れ替わり立ち替わりで、ウイルスの専門家と称する、大学医学部の教授やら厚生労働省のOBが顔を出し、『予防はやる必要がある』と言う。


 ただ、うがいや手洗いを、どの時点でどれだけやれば、どれだけの効果がある、と明確に言い切る人はいない。『やらないよりはいい』という話で終わっている」

「マスクにしても、感染予防の実験室レベルの研究はされているが、一般的な環境でのインフルエンザ予防効果についての研究は、あまり進んでいないんだ」

「確かに公共交通機関内での注意、着脱の仕方、使い捨てか二度使いか、などマスクの具体的な使い方も、千差万別だからな」


 その道の専門家と直接話をして、ウイルスに関しては、まだまだ解明が進んでいないことを知った。
 高齢者の仲間入りをした我々、どこまで効果があるか分からないが、流行前のワクチン接種、外出後のうがいと手洗い、十分な休養、バランスの取れた栄養と水分の摂取などを積極的に心がけ、自衛するしかない、と悟った。

 また、インフルエンザは、これらの「他からの感染予防」と同時に、「自分が他に感染させない予防」が重要だと思う。周りの人に対するマナーを守る必要があるのだ。

 電車やバスの中で、マスクを着けずに、大きなくしゃみや咳をしているおじさんがいる。自分ではなく、その人自身に、マスクをつけてもらわねばならないが、強制するわけにもいかない。車内トラブルの原因になってしまう。
 一人ひとりが、インフルエンザ予防に心がけるしか、方法はないのだ。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

青い眼がほしい 金田 絢子

 2019年8月、黒人の女性作家トニ・モリスン(米国人)死去の報が、新聞に載った。

 彼女は、1979年「青い目がほしい」で文壇にデビューし、自分の子が奴隷になるのを逃れるため殺害する女性を描いた「ビラヴド」で88年ピュリツァー賞を、93年にはノーベル文学賞を受賞した。

 まず私は、デビュー作の「青い目がほしい」を読みたいと思った。

 書店に置いてなかったので、アマゾンから娘に取り寄せてもらった。題名に魂をゆさぶられ、黒人のみじめさ、黒人の少女ピコーラのかなしみに、単純にひき入れられると決めてかかっていた私は、正直まごついた。


 同書は、私がこれまで手にしたどの物語ともちがっていた。
 私は、つっかえ、つっかえ読んだ。二度目にやっと半分くらい理解した。モリスンさんは「ピコーラを憐んでしまう解決法は避けたかった」としている。

 急に、それまでとまるで関係のない場面が出てくるが、それらをていねいに読み解くと、モリスンさんの言いたいことが見えてくる。


 例えば、チョリーーピコーラの父ーの生い立ちが語られるが、チョリーは生まれてすぐに母親に捨てられ、親から何も教えてもらえずに育った。
 黒人故に貧しく、それは代々続く屈辱的なものである。

 チョリーがたえず酔っぱらっていることは、妻のプリードラヴにとって自分たちの人生を何とか耐え得る材料になる。チョリーにとっても妻は、実際手で触れ、傷つけることのできる数少ないものの一つなのだ。

 妻の上に、はっきり言葉にできない怒りや、挫折した欲望のありったけをぶちまけ、暗い野獣のような形式にしたがって、お互いに傷つけ合う。二人とも口には出さなかったが、殺し合いはしないという了解が成り立っていた。

 ピコーラは思う。この眼があおかったら、私の顔が黒くなくてかわいかったらチョリーもミセス・プリードラヴもちがっていた筈だ。
「まあ、きれいな眼をしたピコーラをごらん。わたしたち、あんなきれいな眼の前じゃ悪いことをしてはいけないわね」
 チョリーもプリードラヴも、どうしようもない黒人の宿命に苛立って、激しいけんかをするのだ。モリスンさんは言う。


「人種差別が毎日の生活の中で、いかにひとを傷つけるか。黒人対白人の人種差別だけでなく、人種差別のある社会では、その影響は人種内にも出てくる。

 昔、子供たちと読んだ「ドリトル先生」にしろ「チボー家の人々」、シュトルムにしても白人優位の小説である。
 彼らは有色人種を虫けらのように思っていたのだ。

 アメリカが日本に原子爆弾を落としたのだって、東京大空襲で、未曾有の殺戮を行なったのも、人種差別と無縁ではあるまい。


 でも、時代は大きく変わった。少なくとも1960年代から、アメリカの黒人たちの公民権運動がさかんになった」と解説にもあるが、黒人が声をあげはじめてからの小説は、白人至上主義の内容ではなくなっていよう。

 20数年前、私と夫はスペイン旅行のツアーに参加した。旅のおわりはおさだまりのパリであった。


 パリへ向かう飛行機を待つ空港で、私とツアー仲間のS夫人とは、老いた白人夫婦を中に、四人がけの椅子にかけた。するとやにわに、心持ち体をふるわせながらマダムが、皺だらけの右手で、同じようにしわまぶれの夫の左手を固くにぎりしめてこう言った。

「ねぇ、あなた日本人よ。いやだこと」

 ただし、この語は私の創作である。彼女は険しい表情で前方を見つめたまま、無言であった。
いくら世をあげて人類平等を唱えても、潜在意識は変わらない。


「青い眼がほしい、誰よりも青い目にして下さい」
 とピコーラは祈り、奇跡を夢みて、聖職者をたずねる。

 黒い肌という地獄から浮かび上がって、青い眼でこの世を見たいという小さな女の子に、奇跡を行うことができたら、と心底彼は思う。そしてピコーラは、青い眼、だれよりも青い眼を得るが、その青い眼はピコーラにしか見えない。

 ところで私には、どうこのエッセイをまとめたらいいかがわからない。ただ、人種差別は人類永遠のテーマにちがいない、と思うばかりである。

        イラスト:Googleイラスト・フリーより

    

ジャーナリスト
小説家
カメラマン
登山家
わたしの歴史観 世界観、オピニオン(短評 道すじ、人生観)
「幕末藝州広島藩研究会」広報室だより
歴史の旅・真実とロマンをもとめて
元気100教室 エッセイ・オピニオン
寄稿・みんなの作品
かつしかPPクラブ
インフォメーション
フクシマ(小説)・浜通り取材ノート
3.11(小説)取材ノート
東京下町の情緒100景
TOKYO美人と、東京100ストーリー
ランナー
リンク集