元気100教室 エッセイ・オピニオン

一世一代の出来事 武智 康子

 先日、今まで手を付けなかった、夫の本箱の整理を始めた。

 中ほどの棚に最後の論文ファイルと一緒に、固い台紙がついた冊子を見つけた。開いてみると横文字で書かれている。読んでいるうちに思い出した。これは私達夫婦にとって、あの一世一代の出来事の表彰状だ。

 それは、1997年10月のある日、世界自動車技術会から技術貢献賞を授与する旨の知らせを受けた。鉄鋼会社で自動車用鋼板を研究していた夫は、まさか自分が表彰されるとは思っていなかったようで、非常に驚いたようだった。
 自動車関係の学会では、エンジンなどの機械部門が主力だったからである。しかも場所は、十一月九日に開会式とウエルカムパーテイーが開かれる、パリのベルサイユ宮殿とあった。加えて夫人同伴の招待だった。私も、飛び上がるほどびっくりした。

 夫と相談の上、私も出席の決意はしたものの、少しばかり心配になった。

 夫が所属するもう一つの鉄鋼関係の学会は、鉄のように地味で、現地の大学やパーテイーだけはホテルでというのが大半だが、自動車技術会は、ベンツやルノー、フォードなどの世界に名立たる大企業が参加しているので、とても華やかな学会である。

 夫は、いつものように三つ揃いの背広で出席するが、私は、このような式では陰で夫の役に立つことが大切であること、ましてや会場がベルサイユ宮殿であることも考えて、一世一代の気持で、初めて海外に和服を持参することにした。
 その和服は、父が叙勲で皇居に参内する時、一緒に招待された母が一世一代の気持で新調した色留袖である。その着物を私が形見として受け継いだのだ。
 決して派手ではないが、淡い紫地にぼかしの裾模様のお祝いの席での正式の和服である。きっと天国の母も喜んでくれたことと思う。


 そして当日の夕方、観光客が去った後のベルサイユ宮殿に入った。
 私達が案内されたのは、舞台のある大きなホールだった。この煌びやかな中世の様式のホールで、開会式が始まった。
 最初に、当時のフランスのシラク大統領の挨拶があった。さすが自動車関係の学会だ。

 行事は進んで、いよいよ表彰式となった。受賞者の名前が呼ばれて、七人が舞台上の椅子に座った。そして一人ずつ表彰状と記念品が渡された。夫は、一番小柄だったが、下から見ていた私には、とても大きな存在にみえた。私も、心から夫を祝福した。

 一時間ほどのセレモニーが終わり、休憩を兼ねてパーテイー会場に移動した。
 そこには、8人の円卓がたくさん並べられていた。メインテーブルに案内された私達だったが、私の右は夫だが左はベンツの研究者夫妻だった。
 私の緊張は少し和らいだ。それは、ベンツのご夫妻とはデトロイトの会議でお会いしたことがあり、顔なじみだったからである。夫の右隣りは、確かイタリアの方だったように思うが、私の斜め向かいには、トヨタの社長ご夫妻が座られていた。ご夫人は、やはり和服をお召しになっていた。
 ふたりの日本女性が、和服を着ていたことから、このテーブルでは和装談議で話に花が咲いたことを、私ははっきり覚えている。

 ただ、料理はフランス料理のフルコースだったので、和服の袖がちょっと気になった。
やはり洋食には洋服の方がいいなと感じた瞬間だった。

 全てが終わって、ホテルに戻った時、夫が、
「今日は、和服でよかったね。僕も鼻が高かったよ」と言ってくれた。
 私は、和服は小物も多くいつもと違って荷物がとても重かったが、夫の表彰に花を添えることが出来て、本当に良かったと心から嬉しく思った。

 表彰の時に、いっしょに頂いた記念品は、夫が開発した自動車用鋼板で作った金色に塗装された自動車の置物だった。この自動車は、いつも書斎の机の上に飾ってあったので、今は、神前の台の上に置いてある。
 私は、今、発見した表彰状を自動車の脇にそっと供えて、ありし日の夫を偲んだ。

 そして、二度とないような経験をさせてくれた夫に「大切な思い出をありがとう」と感謝した。

回転木馬  武智 康子

 2018年1月30日、その日は小春日和であった。昼下がりに今日も夫と私は、散歩に出かけた。向かったのは、自宅から歩いて15分程の所にある「としまえん」だ。

 この遊園地は、土日は、家族連れや若者達でいっぱいだが、平日は閑散としている。むしろ、私達のような高齢者がちらほらみられる。夫と私は、「木馬の会」の会員で、年間パスポートを持っていた。乗り物も乗り放題なのだ。

 正門を入ると、広場には大きな花壇があり、両側を大きな木々に囲まれた道を10メートル程進むと、遊園地の中を横切って流れる石神井川に出る。川の両岸は桜並木で、春は花見で有名な場所だ。
 橋を渡ると、そこからは「土」なのだ。私達は、この土を踏んで歩くことを楽しんだのだ。
 遊園地の広大な敷地は、大体子供向きと若者向きのエリアに分かれているが、左奥には、世界初の流水プールやウオータースライダーなど、大人も楽しめるプールもある。
 全部で31種類もの遊具があって、皆で楽しめる遊園地なのだ。デイズニーランドが東京に出来るまでは最高の遊園地だったようだ。

 ただ、園の中央には、何といっても「としまえん」のシンボルである世界最古の回転木馬「カルーセルエルドラド」がある。遊園地はとてつもなく広く、私達は、いつも方向を定めて散歩した。
 今日は夫の要望に従って、まず、まっすぐエルドラドに向かった。エルドラドは、動物が手彫りなので、一頭ずつ木馬の表情が違う。きらびやかなゴンドラの装飾も趣向が凝らされている。コペンハーゲンのチボリ公園にある回転木馬と同じなので、夫は、とても気に入っているのだ。

「いらっしゃいませ。武智さん、散歩ですか」 
 声をかけてくれたのは、園の機械設備担当の佐藤さんだ。私達は、よく行くので、何時しか顔なじみになったのだった。
「今日は、いい日和だが、回転木馬のお客さんはいないね」
「どうぞ、お乗りください。貸し切りですよ。今朝、点検もしましたから」
 それではと、私達はいつもの木馬に乗った。貸し切りの回転木馬の上から見る園内は、何だかいつもと違って私達には、特別の風景に見えた。

 佐藤さんは、入社以来30数年、園の機械設備一筋に働き、自身の結婚式もこのエルドラドで挙げたそうだ。この木馬の歴史は数奇で、20世紀初めにドイツで作られてヨーロッパ各地を巡業し、その後ニューヨークの遊園地を経て、解体されて倉庫に眠っていたのを、1969年にとしまえんが購入して日本にやって来たのだそうだ。
 2年がかりで組み上げられ、今まで五十年近くとしまえんで活躍しているとのことだ。佐藤さんにとっては分身のようなものだと話してくれた。
 ただ、この日が、夫と私の忘れえぬ最後のとしまえん散歩となってしまったのだった。
 今夏、このとしまえんが、練馬区の防災公園設置とあいまって閉園することになった。

 8月20日、私は、息子達二家族とともに七人で、夫が愛した「としまえん」を訪問した。そしてエルドラドの前で、ばったり佐藤さんに出会った。
 佐藤さんは、家族と一緒にいない夫のことを聞いてとても驚き、手を合わせ、天国の武智さんに伝えて欲しいと次のことを話した。

「ご主人は技術に詳しく、特に機械に使われている金属の疲労について、いろいろ解りやすく教えてくださいました。その後の仕事にとても役に立ちました。私はご主人に感謝しています。今回の閉園に当たって、エルドラドはいったん倉庫に眠りますが、私は、木馬がいつまでも現役でいられるように今まで機械整備を十分にしてきたし、これからもどこにあってもエルドラドの整備を続けます」と胸を張った。私は涙が出るほど嬉しかった。

「帰ったら、神前で天国の主人に必ず伝えます。どうぞエルドラドを守ってください」と言って別れた。そのあと、皆でエルドラドに乗って、それぞれに祖父を、父親を、そして夫を偲びながら、七月と八月の毎週末に打ち上げられる花火を見て、最後のとしまえんを楽しんだ。
 帰宅後、私はすぐに、夫の神前に佐藤さんのことを報告した。佐藤さんは五十歳後半ぐらいだろうか。必ず回転木馬のエルドラドを守ってくれるだろうと信じている。

 2020年8月31日、月曜日の午後八時、最後の花火が晴れた夜空に打ち上げられた。八分間の連射による壮大な打ち上げ花火を、自宅のベランダから夫の写真とともに眺めた。
 そして、「としまえん」は94年の幕を下ろした。もう、としまえんの花火や遊園地の賑やかな声も聴けないのは寂しいが最古の回転木馬「エルドラド」がどこかで日の目を見る日を楽しみにしたい。

喉元過ぎた熱さ  廣川 登志男

 八ヶ岳の大石川林道から分岐し、雨池峠経由縞枯山に向かう。標高差300mほどの急登を標準時間で登り切り、標高2,403mの縞枯山山頂にたどり着いた。
 それまであまり休んでいなかったし、途中で内腿に若干の違和感を覚えていたこともあって、眺めはあまりよくなかったがここでコーヒータイムをとることにした。草地は霧雨で濡れていたので、平らな石を見つけ座り込んだ。
 コーヒーといっても、インスタントのカフェラテだ。疲れた身体には、この甘いラテが美味しい。カロリーも多少は補充できる。それに、この日は平日ということもあって、まったく人に会わない静かな山行で気持ちが良かった。

 北八ヶ岳は、お気に入りの場所だ。入社してすぐに始めた登山は、この八ヶ岳が最初だった。何度も通い詰めたが、五十歳を過ぎた頃から、岩稜多き南八ヶ岳より、苔むす北八ヶ岳の方を好むようになった。山行形態も、当初はグループ山行だったが、自由度が高く、静かに山歩きできる単独山行に切り替えつつあった。


 今回の計画も、北八ヶ岳をゆっくり楽しむ二泊三日の単独山行だった。麦草峠をベースに、初日は雨池から縞枯山を巡るルート。二日目は、県道の反対側の中山から白駒池に戻り、テント泊で星空観察。三日目は池の周りを散策して苔や森の写真を撮るなど、ゆったりと自然を味わう計画だった。

 山頂で二十分ほど休んで、そろそろ次の茶臼山に目指して立ち上がろうとしたときだ。内腿の筋肉がピクピクと攣りはじめ、痛みで動けなくなってしまった。
 このような事態は、四、五年前からたまにだが起きるようになっていた。今回は更に膝の後ろまで痛みと攣る状況で、とにかく足を伸ばせず中腰で前傾姿勢のままじっと我慢した。しばらくして何とか痛みが治まったので、恐る恐る歩を進めたが、十歩も行かぬ間にまた攣ってしまった。
「こりゃまずい」
 その場に辛うじて座り込み、痛みを我慢して腿のストレッチやもみほぐしをやる。さらに、以前、攣ったときの経験から、用心に持参していた経皮鎮痛消炎剤なる塗り薬を擦り込みながら腿や膝裏を揉んだ。
 甲斐あってスーッと痛みが消えてきた。樹林帯とはいえ、大きい岩がゴロゴロしている下山道だ。途中で攣って転倒したら大怪我になる。慎重を期すため、これも以前の経験から念のために持参していた二本のストックを取り出して使った。

 それでもさらに二回攣った。その度に、先ほどと同様に鎮痛薬を擦り込んだり、もみほぐしたりして何とか下山することができホッとした。かかった時間は、標準時間の倍近くかかっていた。人に会わない山中で動けなくなったらと思うと、ぞっとしてしまった。

 今回の出来事で、三千m級の高山は諦めて、ハイキング程度にしなければならないと思い、心が落ち込んでしまった。まだまだ若いと自負していたが、それは気持ちだけであって、身体の方は間違いなく老化していたようだ。
 認めたくはないが認めざるを得ない。それが人間の人間たる所以なのだろう。


 下山後は、少し休んでから八ヶ岳西側の茅野市方面に下り、道の駅「蔦木宿」の温泉「つたの湯」で傷んだ腿をもみほぐした。夕方、キャンピングカーもどきの「ひろかわ号」に戻り、持参してきた食材の牛肉などで一杯やりながら、明日以降の計画を、足を酷使しないヘラブナ釣りに変更して就寝した。

 今回の山行で、自らの体力の限界を知ることになった。これからは、アウトドアならヘラブナ釣りやゴルフ、インドアなら剣道、エッセイや麻雀、蕎麦打ちなどに精を出そう。これらの道具はほとんど揃っているが、ゴルフはしばらくやっていなかったので、買い換える必要があった。ドライバーもアイアンも、すでに七、八年買い換えていない。一ヶ月ほど経って、近くのニキゴルフでそれらの試打をした。店員の技術主任が立ち会ってくれ、ヘッドスピードや飛距離、それに方向などを測定してくれた。
 すると、「お客さん、70歳でヘッドスピード42m/秒出す人は見たことがありませんよ。これなら、ゼクシオなら少し硬めで重いクラブが合いますね」
 この言葉にすっかり気をよくし、ドライバーやアイアンなどを全てゼクシオに買い換え、練習に励む毎日となった。


 今では、ゴルフ練習に加え、ストレッチにスクワットなど筋肉を鍛える運動を三日おきに励んでいる。こうなると何のことはない。先日の八ヶ岳の教訓「身体は間違いなく老化している」などすっかり忘れ、そのうち3,000m級登山にも出かけようと、いつもの自信満々の自分に戻っていた。
 あるとき、ふと気がついた。

 人間は経験をもとに少しずつ賢くなるというが、あれほど大変な目に遭った八ヶ岳の経験をすっかり忘れて、若いときのつもりでいる。あぶない、あぶない。『喉元過ぎた熱さ』に、またなるところだった。

コロナと文化活動  筒井 隆一

 新型コロナウイルスの本格的な蔓延が始まってから、もう半年以上経った。当初は、「気温が高くなれば感染も下火になる」という専門家の説明もあり、このように感染拡大が広範囲に、且つ長引くとは、思ってもいなかった。

 新型コロナウイルスは、音楽を楽しむ人間にも、厳しい試練を与えている。コンサート、ライブなどの大規模イベントはもちろん、仲間内の小規模な演奏会、発表会も、ことごとく中止や延期になった。音楽を聴く機会を求めても、イベントそのものが開かれないのだ。

 楽器の演奏という面から言えば、フルート、オーボエ、トランペットをはじめとする管楽器は、息を吹き込んで音を出す。そのため、弦楽器や打楽器などとは違って、マスクを着用すると、演奏できない。
 飛沫感染の危険性を考えれば、管楽器の演奏には、施設の利用を制限せざるを得ない。飛沫がどこまで飛ぶのか、奏者間の距離、聴衆との距離をどれだけ取ればよいのか、これらのソーシャルディスタンスを守るための検証実験が、あちこちで行われている。影響がない、という判断が出るまでは、施設を利用させてもらえないのだ。

 私たちのフルート独奏団「ナナカマド」は、フルートを愛する十数人の集団で、今から二十五年前に誕生した。年に一度の発表会と、それに向けた三か月に一度の例会(練習会)を続けている。発表会は、西武池袋線大泉学園駅前の、「ゆめりあ」ホール、そして例会は、JR中央線荻窪駅近くの杉並公会堂に付属するスタジオを、利用している。


「ゆめりあ」は客席数百七十、響の良いこじんまりした人気のホールで、私たちのグループが発表会を持つには、ぴったりの施設だ。利用については、一年前の同月十日に抽選会があるのだが、今年はコロナ騒ぎの始まった二月から全面閉鎖となり、六月末までホールは利用できず、抽選会も実施されなかった。

 また、杉並公会堂のスタジオも、施設の利用と抽選会が中止となり、七月末に再開の知らせが、やっとHPに載った。両施設とも、五か月間利用できなかったわけだ。

 再開に当たっては、スタジオ等の施設利用について、細かい条件が付いている。私たちが利用するAスタジオは、通常定員六十名だが、同時入場は十名に制限されていた。使用中は一時間に数回、扉と窓を開けて換気をすること、と書かれている。
 更に管楽器は、演奏中にどうしても水滴が床にしたたり落ちる。これを必ずタオルで拭き取るように指示されていた。無論スタジオ内でも三密は避け、演奏時以外は必ずマスクを着用しなければならない。

 ところで行政は、コロナの感染拡大を見極めながら、経済を立て直す、という。一方文化活動の実施に関しては、それが不要不急の活動に該当するのか、明確な判断を示さず、曖昧な対応をしている。文化活動は経済の一部を担っており、その活動をやめたら経済の一部が止まることにならないのだろうか。自粛か経済か、どちらを優先させるのだろう。


 文化活動は、元々不要不急なものだ、と思う。演劇、音楽、アート、旅、レストランやバーでの飲食など、それは不要不急だからこそ、社会に豊かさと奥行きをもたらすのだ。人は、食べて寝て、必要最小限の行動だけで過ごせるものではない。音楽やアートに心を打たれ、落語や漫才に腹を抱えて大笑い、映画や芝居に涙する。そのような不要不急の営みが、我々の日常や人生を豊かにしているのだろう。

 近年、文化予算の削減が、多くの自治体で行われている、と聞く。文化活動に対する予算は、受益者が限定的で、削りやすいからなのだろうか。ある面では、精神的な贅沢、金持ちの道楽、と考えられているのだろう。

 今回のコロナがきっかけで、それが一気に加速するのが恐ろしい。

惜しまれる閉店  吉田年男

 我が家からJR中野駅までの徒歩十五分程の道について、以前「マイロード」というタイトルでエッセイを書いた。

 それはJR中央線で御茶ノ水駅までかよっていた学生当時の思い出の道で、半世紀以上過ぎたいまも、この道には店構えの変わらない文具店などが軒を連ねるからだった。

 店構えが変わらないといえば、開店以来三十年、お世話になっている荻窪駅前の書道用品店が八月いっぱいで店を閉じるという。
 店主との出会いは、サラリーマンをしていたころからで、勤めかえりにネクタイ姿で、お店に伺っていたことを、昨日のことのように覚えている。

 店主の彼は、とても親切で面倒見がよくて、展覧会の飾りつけや、岩櫃山の麓(群馬県)で毎年行っている「書」の合宿の準備でも、大変お世話になっている。
 お店は主に奥様と二人でやっているのだが、彼はシャイな性格なのか、閉店の理由など、私に面と向かって話してくれない。
 それとなく奥様に閉店の理由を尋ねてみた。奥様曰く
「還暦も過ぎたので、好きな絵画の制作に没頭して過ごしたいようだ」と。


 そういえば、彼の絵は素人離れしている。一年ほど前に、銀座の画廊で個展を開いたほど専門的なのだ。特に表情の描き方が素晴らしくて、店の前に置かれていた少女の肖像画を観たとき、生き生きとしていて、恐ろしいほど強烈に心に残っている。

 篆刻の腕前も素晴らしい。かれは、絵画に限らず、やることがすべて多彩で、趣味の範囲をはるかに超えている。篆刻作品は、私も全紙作品用の大きなものから、色紙用の小さな雅印まで、幾つか彫ってもらっている。
 書道用品は、なんでもすぐに彼のとろころに行けば、直ちにそろえることができる。これからはそうはゆかなくなってしまう。
 お店がなくなることは、わたしには、耐えがたい出来事には違いないが、それよりも惜しまれることがある。

 我が家の書道教室に来ている子供たちと、その親御さんとの絆だ。私は、彼の名刺を何枚か余分にもらって、いつも手元に置いてある。それは初めてお子さんを連れて我が家に見えたお母さんに差し上げるためだ。

 道具は何をどのようにそろえればよいのか? 始めるとき、だれもが迷うことだ。それは年齢によっても違ってくる。筆、墨などの消耗品は別にして、小学生であれば、六年間は間違えなく使えるもの。中学生であれば、高校を卒業して成人になってからも使用に耐えられるものを使ってほしいと思っている。
 道具調達のノウハウは、今まで店主の彼にすべてお任せをしてきた。道具を買いに行くとき、お母さんは必ずこどもをお店に連れてゆく。子供たちに会うのがとても楽しいと、彼はくちぐせのように言っていた。

 彼との長い間のお付き合いのなかで、子供たちからはもちろんのこと、親御さんからも、道具のことで一度もクレームも聞いたことがない。その信頼関係が途絶えてしまうことが惜しまれてならない。

庭からの贈り物 井上 清彦

 記録的な猛暑続きの8月を過ぎ、9月も半ばに入ると、朝晩の涼しさが嬉しい。我が家の日常は、7月末に庭からやってきた一匹のカマキリと共にある。
 南の部屋のカーテンから忍び込んだ赤ちゃんカマキリを見つけ、妻が居間の鉢植えの木に運んできた。鮮やかな若草色の小さな侵入者だ。
「ようこそ、我が家にいらっしゃい」。
 書き続けている十年日記を見ると、昨年の今頃もカマキリが登場している。

 パソコンに収めてある当時の写真にも、部屋の中のカマキリが写っている。これまでのカマキリは、家の中を移動し、台所や仏壇の中にも足を伸ばした先輩もいた。今年の侵入者は、これまでと異なって、居間の鉢植えの樹が気に入ったらしく、ここから離れない。

 妻は、起きてから寝るまで、目をかけ話しかけている。
「この子、わたしのほうを見ていて、かわいいわ」とか、「この子お利口さんね、わたくしの言うことがわかるみたい」。
 スマホで調べると、
「カマキリは、人間になついているように見えるが、決してそうではない」と書いてある。
 でも、この説を信じていなくて、しきりに優しい声で話しかける。そばでパソコンを叩いているわたくしの耳に、優しい言葉が聞こえてきて、
(俺に話しているのかな、それにしても優しい語りかけだなあ)
 と思っていると、
(そんなことはない)
 カマキリ相手だということがわかって、ちょっとがっかりする。


 彼女は、自分が見られる場所に置きたいと、割り箸をカマキリに差し出し、これに捕まらせて樹から横の広いテーブル上に移動させる。
 当初は嫌がっているが、しばらくすると言うとおりなる。
「この子、私の方を見ているみたいに頭を動かしたり、目をくりくりするわ、あなたも見てご覧なさい」
 と言われて、私は、パソコン机の椅子を離れ、樹に止まっているカマキリに会いにゆく。
 確かにこちらの方に頭をかしげ、目をクリクリしながら、こちらの方をみているみたいで、確かにかわいい。

 樹から離れないので、餌やり、水やりもやりやすい。妻は、甲斐甲斐しく家の中や玄関先の蜘蛛を捕まえてきて与える。
 目の前に差し出すと、飛びかかって食べるときもある。水分は、霧吹きで樹に吹きかけた水滴を飲む。また、スイカを与えたときには、体が赤く染まった。
 妻は「この子、自分から狩りをしないし生存競争に負けるわ」と、いろいろ考えて餌を与える。ネットで、ヨーグルトを食べると調べて、試したが食べようとしない。

 家に来て2周間ほど経ったある夜、ちょっと目を話したすきに脱皮した。妻は直ぐに気がついて、「あなた、脱皮したわよ」と言われて近づくと、まず目に入ったのは、木にぶら下がっている茶色の透明感がある抜け殻だ。


 カマキリは、木の上の方で休んでいる。胴体の色は緑色から茶色に代わっていて一回り大きくなっている。
 四六時中観察している妻に言わせると、「四本ある手足は健全だが、鎌の右の一部が欠けている」と言う。
 私は、脱皮という生命の営みを目撃して感動すら覚えた。生来の記録好き、早速、脱皮のカラと脱皮後のカマキリの姿をカメラに収め、2つのライングループに添付して知らせた。

 その後、蜘蛛も食べなくなり、妻はいろいろ試していたが、ある日、鶏肉をあげたら、これが当たりで、鎌でしっかり抑えて真剣に食べている。

 その後は動かず、頭を下にして眠っている時間が多くなってきた。そんなある朝、私が、2階の寝室から1階の居間に降りてくると、早起きの妻から「あなた、また脱皮して、ついに羽化したわ。これでやっと成虫になったわ。欠損していた鎌も治っているわ」早速通告がある。
わたくしの目に、意外と小さい抜け殻がぶら下がっているのが見えた。

 肝心の、カマキリはいつもどおり木の幹に居る。小さな抜け殻からは、想像出来ないほど大きく変身し、周りが緑色になったしっかりした羽が生えている。成虫になったので、尻尾の方を見るとメスだった。

 昆虫大好きで知られる、歌舞伎俳優の香川照之さんは、カマキリが大好きで、カマキリの着ぐるみでテレビに登場したこともあるほどだ。カマキリは、3次元を認識できると言う。左右の細いアンテナのような触覚もあり、周りの動きや音声に敏感に反応する。それでいて、人から逃げることはないので、小さな子供などが気に入って飼ったりするという。
 病原菌とは縁がなく、清潔で、野菜を食べる害虫を食べる益虫だという。

 庭からの贈り物が届いて、そろそろ2ヵ月になる。今後について、妻は「自分で狩りに行くような気配がしないわ、このままでは生存競争に勝てないわ」と言い、私は「ここにいつまでもおいておかないで、野生に戻したほうがいい」と方針が定まらない。

 2日前に庭仕事で2時間したが、庭には、ブンブン飛んで来る蚊と蝶のほかは、生き物がいない。肝心の餌の方は、お父さんが乗り出し、ネットで「ミルワーム」(飼育動物の生き餌、甲虫の幼虫)を餌にしていると知って、駅前のスーパーのペットショップで購入した。

 帰宅早々与えたら、野性を発揮し、鎌で抑えて、食いついて食べ終えた。これで当面餌の心配はなくなり、生きた餌を与え続けているうちに野生を取り戻すかもしれない。それまでの間、コロナ禍の巣ごもり老夫婦のお相手をしてくれそうな気配だ。
                                【了】  

エッセイ 「散髪」 = 青山貴文

 毎月1回は、散髪をする。
 面倒くさいが、散髪するとさっぱりする。
 私の髪の毛は、通常の人より伸びるのが早いような気がする。
 新陳代謝しないと、艶のある清潔な頭髪を保てないから致し方ないが、手間がかかる。

 十数年前、ファミリーサロン・アクアという理髪店が自宅から歩いて15分位のところに開店した。
 散髪代が格安で、理髪が短時間でかつ店内が清潔だ。
 理髪台が6台あり、数人待ちでも、数分待てば自分の順番が来る。

 その理髪店は、年中無休で、朝8時半から、夜7時までやっている。
 全国に支店を持つチェーン店で、店員たちの技術の向上や、生活面の指導など行き届いている。
 そのためか、店員たちは礼儀正しく、とても気持ちが良い。


 この店のモットーなのか、理髪師をいろいろの支店に派遣し、経験を積ませているらしい。
有給休暇を確実に取らせるために、常に新たな理髪師が応援にやってくる。よってしばしば、見知らぬ理髪師に自分の頭髪を任せ ることになる。
 新顔が、にこやかに私に尋ねる。
「髪の毛は、どういたしますか?」
「左分けで、耳が出るくらいで、あとは適当にやって ください」
「じゃあ、これくらいカットして、もみあげはこれくらいに……」
 と、鏡の中の私に応える。
 初対面だが、阿吽(あうん)の呼吸で、チョキチョキやり始める。
 途中で、「眉毛の下は剃りますか?」「整髪剤は何にしますか?」などと聞いてくる。
「剃ってください」とか、「リキッドでお願いします」
 とか、必要最小限の言葉で答える。

 昔の話になるが、私は幼少のころから高卒後二浪するまで、坊主頭であった。
亡き父母がバリカンでカットしてくれていた。
「貴文のおつむは、右に片寄っているね」とよく言われた。

 大学生になって、立川市富士見町の自宅近くに、バラック建ての床屋があった。オールバックの背の高い30才くらいの独身の お兄さんが店主だった。
 彼の母親らしいおばさんが洗髪などしてくれた。
 私は、丸坊主から、頭髪を伸ばし初めて、髪の格好を気にする年頃であった。
 その兄さんが、「おたくの髪の毛は、癖があって、カットが難しいね」と言っては、首を傾げる。
 何度も櫛を通してカットしていた。
 自分は、なぜか肩身が狭かった。

 アクア店では、洗髪の時は、清潔な洗面台が前面に備えてあり、前屈みすれば、豊富なお湯のシャワーと石けんで2回要領よく洗ってくれる。一人30分弱で終わる。
全店員の「ありがとうございました!」という声掛けで、2、090円を支払って出てくる。
すごく合理的で無駄がなく、さっぱりする。

 今から40年前、私が40才のころ、シカゴ空港の理髪店で怖い体験をした。 
 当時住んでいたミシガン州アルマ町近郊のランシング空港へのフライトまでに、待ち時間があった。
 シカゴ空港の散髪店で、時間をつぶそうと、書類が一杯入った手提げ鞄を抱かえ気軽に入った。

 二人の大男の黒人理髪店員が、店内で暇そうにしていた。
 若造の私をみて、にやにやしている。いやな感じであった。
 米国滞在も2年目に入り、こちらの生活にも慣れ、自信に満ちてきたころだ。
 空手などからっきしできないが、さも出来そうな日本男子然として、不敵な面構えをしていたと思う。

 月曜から4日間、移動時間も含め5社の出張も無事に終わり、明日は金曜日で、1日工場へ出勤すれば、休みだという気楽さもあった。
 かたや、空港の理髪店の椅子のカバーは、黄ばんで油臭かった。
 私も無精髭で、革靴も埃まみれで、疲労した面持ちで椅子に座り、ひげを剃るよう頼んだ。

 大きな目玉をした黒人店員が、横たわった私の顔を横柄に覗き込む。
こちらは無邪気にニコリとした。彼は私の品定めをしている。
 剃刀をふりかざして、もう一人の黒人の店員に向って、大声でわめいている。

 カミソリを上段に振り上げて、私を揶揄する。お客に対して、失礼な奴だ。日本ではこんな無礼は許されない。
 何をしゃべっているか良く解らないが、こちらは、ムッとする意外に、意思表示する方法がない。
 彼はカミソリで、私のあごひげを、無造作に剃り落としては、へらへらしている。

 あのころ、私は何かあれば日の丸を背負って、敢然と対峙するという気迫を持っていた。相手の目玉を目の隅で睨みつけて、泰然としていた。
 相手も、下手をするとまずいと、私をチラチラ睨んで逡巡しているようだった。
ひげを全て剃って貰ったが、さっぱりするどころか、冷や汗をかいていた。
 それ以後、空港での散髪は一切やめたものだ。

故(ふる)きを温(たず)ねる = 廣川 登志男

 老舗そば屋の「神田まつや」前にちょうど差しかかった。途端にお腹がグーッと鳴った。現金なものだ。お腹は正直なのだろう。

  上野から歩き出し三時間ほど経っている。昼時だったためか、店は満員に近かったが、入り口に近い四人席が空いていて案内された。
 隣には、高齢とおぼしき和服姿の旦那さんが、板わさとお新香を肴に升酒をのんびりやっている。昔、この店を贔屓にしていた池波正太郎も、ここで舌鼓をうっていたことだろうと頭に浮かび、「うーん! どうしよう」と一瞬心が動いたが、これから皇居一周を歩く予定にしている。

「やっぱり止めとこう」と、後ろ髪を引かれながらもりそばだけを注文した。
 上野から皇居の辺りまで歩くのは、いつも楽しい。史跡や寺社など、見ておくべきものが本当に多い。

 上野を十時前に出立して、湯島天神、神田明神、湯島聖堂を巡った。

 何度も通っているところだが、その都度新しいことに気づくのでいつも時間がかかる。皇居周りも、これまでに2回ほど歩いていたが、国会議事堂周辺にまでは足を伸ばしていない。
 今回はじっくり見てやろうと、美味しいそばをすすり終え歩き始めた。

 以前はほとんど気づかなかったが、議事堂前に樹の生い茂った庭園があった。さして期待はしていなかったが、コンクリート造りの味気ない大通りを歩くよりは楽しかろうと、寄り道することにした。

 庭園内は結構な斜面だが、歩きやすい歩道となっていて、園の入り口には、「桜の井」と記された井戸があった。
 江戸時代から名水で知られる井戸であり、当時から近くを通る通行人にも提供されていたと碑に記載されている。安藤広重の絵にもなっているという。

 さらに坂を上ると、すぐに大老井伊直弼の上屋敷跡がある。地図で確認すると、ここから四,五百メートルで桜田門に到る。桜田門外の変で暗殺された井伊直弼は、この先に暴漢が待ち受けていようとは思いもしなかったに違いない。

 議事堂に向かって右側に、小さいながらも立派な石造りの洋風建築があった。碑には「日本水準原点標庫」とある。

 全く知らなかったが、ここが日本各地の標高原点だった。さして期待をせずに入った庭園に、思いもかけない場所があって深く感動したことを覚えている。

 水準原点が、なぜこの地に設置されたのか疑問がわいた。家に帰って調べると、この地には、明治時代に陸軍参謀本部陸地測量部があったと記載されている。
 そういえば映画「剱岳 点の記」で、陸軍の陸地測量部が映し出されていたが、それがこの地だったのだろう。ここを起点に、日本全国八十六カ所に基準水準点があり、さらに多くの水準点が設置されて、各地の高度が測量される。


 調べると、さらにいろいろなことを知ることができた。国土地理院の水準点は、全国の主な国道や県道等に沿って約2kmごとに二万二千点ほど設置されている。
 その水準点の高度差を測っていくのだが、2kmの間の高度差を一回で測量するわけではない。短い距離の測量を何十回も積み重ねて測量する。
 どれほどの回数が必要なのかは、専門家でないからわからないが、膨大な労力を要するだろう事は理解できた。また、江戸時代に「大日本沿海輿地全図」を完成させた伊能忠敬の業績や、今後の測量がGPSに取って代わることなども勉強できた。


 このように、散策などで湧いた興味や疑問については、図書館やインターネットで調べることにしている。今回も、日本地図作成に関する多くの知識を得たし、井伊直弼一行の辿ったルートや、襲撃の状況も克明にわかった。そして、襲撃の起こった背景も理解できた。

 これが、史跡や名所、寺社などを訪れる意味合いだろうし、それをエッセイとして紙に書き残す努力が、それらの正確な理解につながり、ひいては日本人としての知見が深まるものと思う。
「故きを温ねる」努力があってこそ、真の日本人たり得るのではないだろうか。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

カジノ 石川 通敬

 政治家の発言や新聞記事に、聞きなれない外国語が最近以前より頻繁に使われるようになった気がする。例えばコロナウイルスで知った「パンデミック」「クラスター」だ。よほど博識の人でないと、ついていくのが大変な世の中だ。「IR」もその一つで、家内に聞くと、早速スマホで検索してくれた。

「それはカジノを含む総合型リゾートを意味するそうよ。」
 という。

 妻は比較的最近PC,スマホを利用するようになったが、私より若いせいか、使いこなし方のスピードが速い。伝統的勉強よりも検索能力のスピードが、大切な時代になったと痛感した出来事である。

 自分も負けてはいられないと、カジノについて検索をした。

 その結果まず思いだしたのが、ロンドンのプライベートクラブ「クロックフォード」だ。同クラブは駐在員時代によく利用したところだ。
 仕事が一段落すると同僚と、近くのパブや日本料理屋で一杯のみ、自宅への帰り道そこによりカジノを楽しむのがお決まりのコースだった。


 それだけではない。当時日本はバブルのピークに近づいておりロンドンもその余波を受けていた。日本から出張してくる国内の顧客のお世話に、大手銀行、証券会社はもちろん、一人、二人の駐在員事務所も押し寄せる人の波への対応に大わらわだった。

 大手銀行、証券会社では、支店長はじめ、数名の次長が手分けして、ロンドンを案内し、英国を満喫してもらう努力をしていた。

 そんな中で、私がよく使ったのが、今述べた「クロックフォード」だった。同クラブは二〇〇年前に設立された伝統あるクラブで、社会的地位のあるものや、大金持ちしかメンバーになれないと言われていた。

 それまでの常識では日本人が入れてもらえるところではなかった。それがバブルの恩恵だったのだろう、その頃は中間管理職の駐在員も大挙メンバーにしてもらえる栄誉に浴し、クラブライフを楽しめる時代になっていたのだ。


 仕事第一の駐在員にとって、そこは日本からの来訪者への最高の接待場所でもあった。と言うのも世界最高級の食事と酒が提供され、優雅な雰囲気でカジノを楽しめる場所を提供していたからだ。
 誇張すると、博物館で見る王宮に迷い込んだと錯覚させる雰囲気だったと言えるかもしれない。
 それ以上に心を奪われたのは、ゲームを取り仕切るディーラーだ。驚くほど素敵な美人たちで、美しいスタイル、目鼻立ちもさることながら、話す英語が澄んだ声で素晴らしかった。

 仕事で出会う大柄で、どすの聞いた低い声で話すアメリカンイングリッシュの女性達と仕事をする日本のビジネスマンにとって、その出会いはオアシスのように感じられたものだ。
 案内した人々も同じ印象をもったのだろう、


「素晴らしいところですね。ロンドンの良い思い出になりました」
 と一様に驚き、お礼を言われるとき、メンバーになっていてよかったと喜んだものだ。その意味で同クラブは、ロンドン時代の宝物だった。


 私がカジノを初めて体験したのは、ロンドンに駐在する十年ほど前で、職場の同期の連中と、マカオに行ったときのことだ。
 当時マカオは、宗主国ポルトガル自身が発展途上国レベルで低迷しており、その植民地マカオの街はゴミだらけだった。
 カジノの施設も汚く、働いているスタッフも粗野で、何となく恐怖心を覚えた。もしロンドンで、カジノに出会わなければ、私のカジノ観も違っていたと思う。


 ロンドンでのカジノの出会いに刺激され、その後狂ったように、ヨーロッでは出張や家族旅行の折、モナコ、スイス、ストックフォルム等手あたり次第覗いてみた。しかし、どこも退屈な場所だった。

 アメリカに駐在するようになってからは、本場ラスベガスやカナダを訪ねたが、大衆的で、大型のパチンコ屋的雰囲気で馴染めなかった。
 豪華客船クリスタルハーモニーの見学会にもロサンゼルスでは招かれた。韓国にも行ったが、どちらも魅力を感じなかった。

 こうした結果私のカジノ熱は冷め、思い出も忘却の彼方に消えていた。


 今回の検索は、自分がいかに勉強しない、滑稽な田舎者だったかという事実を気づかせてくれた。
 クラブの歴史も、英国社会の評価も知らず、日本人仲間の風評と雰囲気だけを聞きかじり、有難がっていた自分が恥ずかしい限りだと悟ったのだ。
 同クラブは、歴史も古くお金持ちや身分の高い人が出入りしたらしいが、ウィキペディアによれば、「そこは耳障りで、下卑た場所」と紹介してある。所有者も次々代変わりしているのだ。
 変わらないのは最高級レベルのシェフが美味しい料理を出すのが伝統で、私が出入りしていた当時同クラブは、日産のゴーンさんで最近脚光を浴びたレバノン人の手に亘った時期だった。それでも料理はレバノン風フレンチでとてもおいしかった。


 2016年に「カジノを含む総合リゾート」(IR)法案が成立し、日本でもカジノを観光のため品揃えするつもりのようだ。

 日本のカジノはどんなものになるのだろうか。カジノの語源はイタリー語で小邸宅。そこにおいしい料理と酒、美女をそろえたプライベートクラブ風がクロックフォードだ。ラスベガスタイプの大型パチンコ屋風を目指すのだろうか。気になるところだ。

コロナ禍にあって 井上 清彦

 朝食を済ませていつものようにパソコンの前に座ると、南側のガラス窓を通して、暖かな日差しがまぶしいくらいに降り注いでくる。ときは春だ。浮き立つような気持ちになる季節なのに、気持ちがついてこない。

 中国・武漢から始まった、新型コロナウィルスが、世界中に蔓延して、世界保健機関が、ついに「パンデミック」を宣言するに至った。

 今朝、テレビが、ニューヨークダウが3千ドル近くの暴落を記録したと告げている。人の移動が制限され、実態経済にも大きな影響を及ぼし始めた。


 私自身も、楽しみにしていた芝居やピアノコンサートはもとより、所属クラブの俳句、スケッチなどの活動も、軒並み中止に追い込まれた。私が幹事を務める4月初めの高校クラス会も延期とした。出席予定だった熊本在住の山男は、早割航空券が無駄になったとぼやいていた。

 我が家では、妻が、一日中テレビの新型コロナウィルス番組を追いかけ「怖い、怖い」を連発している。厳しい検疫官である妻の承認を得ないと、外出もままならない。
 月2回の仕事、入院中のひとり暮らしの弟対応と通院以外は原則外出禁止だ。「あなたは危機意識が足りない」と妻に言われ、このところほとんど家での「巣ごもり生活」を余儀なくされている。


 東京にみぞれ混じりの雪が降り、桜の開花が宣言された翌日の朝は、打って変わって風もなく良い天気だった。毎年、桜見物サイクリングを楽しむ「善福寺川」を散歩の目的地に決め、一人で自宅から歩き始めた。 


 荻窪駅南口に出て、「荻外荘の道」をたどって善福寺川に着いた。ここから川沿いの道を歩く。自転車でやっと通れる道幅だが、歩きだと気にならない。
 マラソンで行き交う人たちに道を譲りながら歩を進める。大勢の小さい子どもたちが、大声を出しながら遊んでいる姿が目立った。

 犬を連れた人たちも多い。ソメイヨシノのツボミがところどころほころんでいる。「陽光」という名前の桜は満開だった。白モクレンも彩りを添えている。昼食後に出かけ、目的地の「尾崎橋」に着いて、付近の椅子に座って缶コーヒーを飲んで休憩する。

 まだ満開には早いので、桜の木々も目立たない。夕食の時間までに戻るため、早々に帰路につく。花々や、コサギの姿をカメラに収めながら、もと来た道を足早に戻る。帰宅して万歩計を見ると1万6000步を記録していた。
 妻は午後一人でのびのび出来たせいか、機嫌が良い。


 3日後は、二人でお彼岸のお墓参りだ。東西線「早稲田駅」から徒歩で、牛込弁天町の「草間彌生美術館」前にあるお寺に着く。受付で住職の奥様は「コロナの影響らしくて、いつもよりお参りの人は少ないです」と言う。墓前でコロナの早期の収束と家族の安寧を願って頭を垂れる。

 帰路、環状八号線・四面道近くのお気に入りの小さなフレンチレストランで昼食だ。店内の客は我々だけで、静かな音楽が流れている。食事前にトイレふで、手を入念に洗い、持参したアルコールを含ませたティシュでナイフとフォークをシェフに見えないように拭う。

 食べ終わるまで1時間ほどだったが、だれも客は入ってこない。メニューは、前菜とハンガリー産の鴨肉、新鮮果物のタルトのデザートとコーヒーだ。約1ヶ月ぶりの外食に舌鼓をうった。

 30歳代後半の、一人で切り盛りするシェフに、「コロナで大変ですね」と声をかけると、「昼は、高齢者客が敬遠してさっぱりだけど、夜は、そこそこ入っているので、何とかなっている」との返事に、ちょっと安心した。コロナ禍のなか、若者を応援したい気持ちもあって、ここを訪れた。


 私が編集長を務める所属クラブの季刊誌春号は、編集グループ全員が集まる最終読みあわせを3月1日に予定していたが、急遽、テレワークに切り替えた。メールのやり取りでまとめ、3月3日零時過ぎに、ネット入稿して一息ついた。

 地域の会では、ホームページ委員会に属している。3月末の委員会は、開催できないので、テレワークで対応するとの連絡が委員長からあった。最近メンバーに加わった大学の名誉教授の木村さんから、「『スカイプ』を使ったらどうか」との提案があったが、時期尚早と見送りになった。

 私は、『スカイプ』に興味があったので、木村さんに連絡を取り、懇切丁寧な指導を受け、なんとか使えるようになった。
 パソコン画面で、相手のしゃべっている声が聞こえ、姿が見れる。お互いのデスクトップの画面も見られる。彼の属している学会では、これを駆使して、最近八人の会議を開いたという。
『スカイプ』がつながったとき、私は嬉しくて、世界が広がった感覚があり気持ちの高ぶりを感じた。


 大学同期や、地元の「おとこのおしゃべり会」仲間などと、メールで「新型コロナ」や「巣ごもり生活」を話題に連絡をとりあっている。時には、声を聞きたくて、通話料金を気にしながら長電話をする機会も増えてきた。

「巣ごもり生活」を余儀なくされる環境にあって、本を読んだり、絵を描いたり音楽を聴いたり、断舎離を実行したりして、楽しんで行きたい。飽きたら、散歩とか、お気に入りのレストランの食事で気晴らしもいい。

 収束までしばらくかかりそうな「コロナ禍」にあって「巣ごもり生活」を味わって行きたい。
 

ジャーナリスト
小説家
カメラマン
登山家
「幕末藝州広島藩研究会」広報室だより
歴史の旅・真実とロマンをもとめて
元気100教室 エッセイ・オピニオン
寄稿・みんなの作品
かつしかPPクラブ
インフォメーション
フクシマ(小説)・浜通り取材ノート
3.11(小説)取材ノート
東京下町の情緒100景
TOKYO美人と、東京100ストーリー
ランナー
リンク集