元気100教室 エッセイ・オピニオン

やってみて分かったこと 吉田 年男

 静かな部屋の中にかすかな墨の香りが漂う。教室にしている六畳間の私の机の上に、何枚かの半紙作品が並んでいる。各々自宅で書いて、我が家のポストに入れてもらったものだ。

 今までなら、可愛い眼差しで筆を持ち、手本と睨めっこしている子供たちや、私と一緒に 「書」をたしなんでいる大人の方たちの姿が目の前にあった。今はだれもいない。

 この度、二度目の緊急事態宣言が出て一か月延長になった。書道教室も、人との密着を極力避けるために、「ポストイン方式」の添削に切り代えさせてもらっている。教室に見えている方の大部分がご近所の人たちなので、この方法ができているのかなと感謝している。

 毎月一回、課題の手本を書いて茶封筒に入れ、各家庭のポストにお届けをする。家で作品を書いて、仕上げた清書二枚を我が家のポストに入れてもらう。
 受けとった清書作品は、一枚を連盟提出用としてとりあえず保管をして、あとの一枚は添削をして、各家庭のポストへ投函という形でお返しをしている。このポストイン方式を月に三回繰り返している。


 昨年、四月に緊急事態宣言が出たときに、この方法でやったことがあった。今回は、とても手際よくできている。
 お稽古日には、コロナ禍で、玄関での検温、アルコール消毒、常時マスクの着用など、今まで経験したことのないことばかりで、何か一つをするにも時間がかかり面倒くさくなる。というより、生活そのものが様変わりしてしまった。

 ポストイン式のやり方も、最初は自信がなくて半信半疑であったが、やってみると今までは気付かなかったことや、見えていなかったことが、不思議にわかってきた。
 それは、従来の対面式のやり方では、いくら長く続けていても分からないことであったので、とても新鮮に思えた。

 今迄のお稽古日での添削は、作品を一緒に見ながら、構図のよしあしや、筆の使い方など伝える対面しながらのやりかたなので、確かに利点もあった。
 直接、言葉で伝えられるし、書かれた本人も納得もできるところは納得し、納得できなければ、その場で質問できるので、双方向のやり取りがとてもスムーズで、一枚の添削からも、それなりに得られるものが多い。

 しかし、今回のように、書かれた本人が目の前にいなくて、ポストに入ってきた作品のみを前にすると、全く作品に対する感覚が違う。不思議なことに、まず作品から何か語りかけてくるものを感じる。それは書いている本人をより一層イメージしやすいし、その時の心の動きや、姿勢、筆使いなどが垣間見えてくるようで楽しい。

 毛筆での作品は、頭で理解しようとしてもわからないところもある。むしろ、気持ちをできるだけ解放させて、ただながめているときに、作品のほうから何かを無言で語りかけてくるといわれる。

 ポストに入ってくる毛筆作品は、引かれた一本の線、点画などに、気とか精神面の何か? が包含されているのだと思う。
 あどけない顔の子供たちの作品にも、鉛筆や、ボールペンで書かれた作品と違って、よしあしは頭で理解するものではなく、あくまでも感じとるものだということを、添削しながら改めて見直すことができたことは大きい。

                        【了】

器用貧乏(八十点人生) 武智 康子

 昭和19年7月中旬、私は、国民学校(現、小学校)1年生の一学期の通信簿を先生から渡された。
 通信簿の成績は、全部(優)だった。国語、算数、道徳、鍛錬等々すべて優だったのだ。私は、人生で初めて頂いた通信簿に小躍りするほど嬉しかったが、当時は戦時下で行動で表現することは出来なかった。
 下校時間になると、私は、30分ほどの道を走って帰った。帰り着くなり、家にいた祖父母と母に報告した。「おめでとう。よく頑張ったね」と3人から言われ、初めて小躍りした。そして、私を可愛がってくれた祖父が
「康ちゃんは、器用だから小学校の先生になるといいね」と言った。
 しかし、当時の私は、学校に入ったばかりで、祖父の言葉の意味はわからなかった。
 そして、戦後の学校教育は、180度変わって、成績の評価も五段階評価の(五~一)などの点数評価が多く使われるようになった。
だが、よく考えると、時と場合にもよるが百点法にすると、五は90点以上、四は80点台、三は79点から60点など、それぞれにかなりの幅があることになる。

 私は、中学校や高校では、大体3点以上の評価だったが、そんなにずば抜けている方ではなかったので、平均点は80点位だったのだろう。ただ、運動会では、リレーの選手になり、学芸会ではドイツ歌曲を独唱したり、書道や絵画の展覧会で入賞したりもした。先生から言われると大体何でもこなしたのだ。
 だから、ある時、母から祖父と同じ言葉をかけられた。それは
「康ちゃんは、何でも器用にこなすが、百点ではなく80点どまりだね。小学校の先生がいいね」と。小学校の先生は、一人で殆どの教科を教えるので、特徴あるものがなくてもいいのである。私は、納得はしたものの、結局別の道を選んだ。

 それは、高校1年生の時の担任の化学の先生の講義で、人間の体は、高分子の蛋白質で構成されていることを知った時だった。それまでは、蛋白質とは栄養素の一つだとだけ思っていたので、興味深く感じたのだった。
 そこで私は、大学で生化学を専攻し学んだ。そして、昭和35年卒業と同時に、日本で初めて大学病院内にできた検査部に就職し、生化学検査に従事した。3か月後に行われた衛生検査技師の第一回国家試験にも合格できて、仕事も順調だった。

 その後の厚生技官としての格上げの国家試験にも合格したが、夫との結婚によって、実務を離れざるを得なかった。この間の研究論文は一本だけだったが、この時点でこの仕事も未完となり、80点どまりとなった。

 また、40代半ばで資格を得た日本語教師の仕事は、75歳まで約30年間続けたので、これは80点プラスアルファだろうか。


 今年も、十数枚の年賀状が教え子たちから届いた。あの令和の花束をくれた彼女からも、カードとプレゼントが届いた。
 中国の双子の弟で国際弁護士の彼からも、「先生に会えたから、今の僕がある」と書かれた温かい年賀状が届いた。私は、目頭が熱くなった。これは、私の宝物の一つである。
 私は、今までに5分野にわたる9種類の国家資格を持っているが、使わなかった資格もあって、やはり祖父や母が言うように、私の人生は80点どまりの器用貧乏なのかもしれない。
 しかし、私自身は、その時その時には、全力を投球してきたつもりである。


 今、私は、八十路で子供の時から一番苦手だった「文章を書く」ということに挑戦している。一向に腕は上がらないが、80点どまりで終わることがないように、人生最後の仕上げが出来たらよいなあと思っている。無理かなあ?

悩むところだ

 朝5時だ。二月の空は真っ暗だ。朝型なので自然と目覚める。
 書斎の西側に一間幅の窓がある。その前に、2個の机を並べている。電気スタンドとパソコンがある右側の机に向かって座る。同時に、左の机上にある湯沸かし器で湯を沸かし、少し濃い目の緑茶を作る。

 私はお茶を飲みながら、今朝方浮かんだ面白い文章や、数日来あたためていた話などを、パソコンに入れる。
 誤字があろうが、下手な表現のままでも、文脈が噛み合わなくとも、結論は必ず入れて、とりあえず打ち込む。

 打ち込んだ大雑把な文章を類語辞典や諸々の辞書を駆使して、誤字や表現の言い回しを訂正する。不適切な箇所は大胆にカットする。カットしすぎて、また新たな言葉を加える。この文章の継ぎ貼りの作業に没頭する。

 窓外が明るくなっているのも気が付かない。面前の窓に蛇腹のすだれがある。ふと蛇腹の隙間から朝日を浴びた隣家の白壁に気付く。

 急いで立ち上がり、南側のガラス引き戸に近づき、こげ茶色の厚手のカーテンを開く。白いレースのカーテンを通して、朝の陽光が書斎に入ってくる。
(おっと、電気代がもったいない)
 と、天井の蛍光灯のスイッチを慌てて切る。
 現役の会社時代に叩き込まれた「ケチケチ精神」が身に沁みついている。

 真っ赤な暖かい太陽が、雲間から光り輝き全身を包みこむ。精気が身体の隅々に充填される。(今日も、頑張るぞ!)と心に誓う。
 この一瞬がなんとも好きで、一日を力強く生きられる。


 コロナ禍で何処にも行けなくなっても、この推敲の時間があれば幸せなのだから安上がりな人間だ。
 ところが、加齢のためか記憶力が極端に減退し、何かきっかけがないと過ぎ去った想い出が浮かばなくなった。さらに、コロナ禍のため外部の方と接触がなくなり、新たな情報も得られなくなった。そのためか、いい加減な文章もなかなか出てこない。

 一方、いささか古い話だが、昨年4月、私は「孤高のミニは癒やしをくれる」というエッセイをブログに載せた。
 すると、元研究所の所長で、人間味のある人から、次のような感想文を頂いた。

「中高年にとって『ミニ』と言えばミニスカートです。そして『癒される』と有りましたので青山さんにもこんな一面があるのかと思って、ドキドキしながら読み始めました。予想に反し、ミニはウサギの名前でしたね。初めの下司の勘ぐりはどこかへ消え失せて、……」
 とある。やはり、エッセイの題名は、この手の読者を掴むためにも、大切であると痛感した次第だ。
 勘ぐるに、「ミニと来れば、青山さんの好まれるミニスカート」と暗にいっている。はなはだ怪しからんが、確かに嫌いではないから致しかたない。流石、研究所長ともなると、人を見る目が出来ている。

 実を言えば、彼は私とほぼ同年配で、同期入社ではないが熊谷工場内の研究所に勤めていた。頭脳的な仕事をしながら、勤務後は暗くなるまでサッカーに興じていた。脚が長く、筋肉質で性格のサッパリしたスポーツマンだ。

 他方、私は彼より少し背が低く短足で太っていた。性格は短気であったが、カラッとしたところは彼と似ていた。現場の研究係りで、フェライト磁石の性能向上のため、粉体の焼結温度や粉砕粒度の関係を調べていた。いわゆる重労働で体力勝負の仕事をしていた。


 お互い若く、20才代の頃の話だ。週末になると職場の仲間と一杯やり、酔った勢いで熊谷市近郊にある太田劇場に出かけた。

 劇場の暗がりの中で、ライトに照らし出された女体の肌は綺麗だ。舞台に少しでも近づこうと、まわりの人を押し除ける。肩と肩がぶつかり、ほんの数秒向き合った。
 なんと、ぶつかった相手は彼であった。彼は袖を巻くって太い腕をむき出して、やるかと私を睨めつける。(こんな太いゴツイ腕と張り合っても勝ち目がないと)先を譲った。それから、親しくなった。

 時は移り、二人とも太田劇場にも興味がなくなり、紳士となった。
(うむー。この辺のことを、読者は待っているかもしれない)
 自分を偽らず、少し品性が落ちるが、自分とはいかなる人間かを描こうと思う。

 しかしながら、妻は、品性が落ちるようなことを書くと機嫌が悪い。
 同年配の読者の期待に応えるべきか、あるいは長年苦労を共にした妻の機嫌をとるべきか、悩むところだ。

私の散策メニュー 桑田 冨三子

 普段は、あまり考えもしなかったことだが、これといった目的もなしに近所を歩きまわるようになった。家にじっとしているのは健康的でないといわれたからである。
 まず気が付いたのは、ここら辺はとても坂が多い。台地と谷地が入り組んだ複雑な地形である。家を出て通りへ抜けると、そこは「木下坂」である。坂の片側は、ずっと、緑深い有栖川宮記念公園に面している。公園に沿って、低めの白い塀が造る緩やかなカーブと、なだらかな勾配は、歩くものにとってこよなく優しい。



 登り切ったところは交差点で、角には「盛岡町・交番」がある。昔、有栖川公園に盛岡藩・南部家の屋敷があったとかで、そんな名前になっていると聞いた。

 交差点を左に行くと、「北条坂」である。けっこう嶮しい下り坂で「鉄砲坂」とも呼ばれる。坂の途中、左側には以前、辻井 喬(つじい たかし)と名乗った詩人・小説家の屋敷があった。セゾングループを築いた実業家、西武デパートの堤 清二さんである。
 いつも開いている門の向こうに見えるのは、赤く咲き誇るバラ、ピンクの小さいバラ、輝くような白いバラなど、眺めてあきない豪華な薔薇の饗宴が、坂道を通る人の目をひいていた。それが時代が移った今では、ぜんぜん関係のなさそうな人が住む大きなマンションに変容している。


 盛岡町交番を右へ曲がるとテニスコートがある。野球場があって、仙台坂の上に出る。一方通行の出口だが、左に曲がると下り坂、そこは「暗闇坂」(くらやみざか)である。
 なんで、暗闇坂なんていう気味の悪い名前にしたんだろうか。由来は、昼間でも暗いほど鬱蒼と樹木が生茂って、狭い坂道に覆いかぶさっていたからだという。

 そういえば、夜など遅くなって地下鉄・麻布十番駅からタクシーで帰るときなど、この坂を登り通ることになる。怖い。明治のころの「人切り以蔵」の名が浮かんできたりする。確か、坂の途中、左側にオーストリー大使館があるはず。けれども真っ暗で人の気配はまったくしない。小さい灯りがぼんやり、ポツンと見えるだけ。

(運転手さん、お願い。スピード出して速く通り抜けて。)

 話を仙台坂上に戻す。仙台坂をまっすぐ下ると、途中、左側にまことに面白い形の高層マンションが見えてくる。頭デッカチで下は細く、まるで伸び過ぎた、つくしんぼうの態だ。有名なカルロス・ゴーンさんが住んでいたらしい。彼はそこから近くのホテルまで歩いて行った。そこには二人のアメリカ人が待っていて、品川駅から関西空港へと首尾よく日本を出国して行った、のだという。

 ここで、ゴーンさんの名誉のためにあえて言っておきたい。
「世界の子供たちに良い絵本を届ける活動」をする私たち(IBBY)にとって、彼は多大な寄付支援をしてくれた慈愛深いところもある素敵な人だったことを。


 最後にもうひとつ、私の散歩メニューの中には、秘かに大事な坂がある。

 家を出るとすぐレンガ色の私道になる。坂の名前はまだない。バブルが崩壊する寸前、いくつかの木造家屋の取り壊しが続いた。そして住んでいた人々が皆、いなくなった。その後、登場してきたのが、このレンガ色の坂道である。

 この坂をおりていくと、大きな鳥が居る邸宅に突き当る。鳥はものすごく大きい。羽を広げると2メートル位にはなるだろう。鳥籠なんていうものではとても間に合わない。家にはドーム型の屋根が造られている。
 バルコニー風のテーブルのある庭園があって、そこには木や植物が沢山生えている。なんとなく薄暗い。まわりは塀のように高くぐるりと、しっかりした金網が張り巡らされて、その網はドームの屋根にまで届いている。空は閉じられている。
 そこに大きな鳥が棲んでいるのだ。

 以前は、この家のガレージから出てくる白い乗用車の後部座席に、いつも豹が乗っていた。生きている豹である。しかし、だいぶ前から豹の姿を見かけなくなった。

(きっと豹がいなくなったから、今度は、鷲にしたのだろう。)

 私はそう思って居た。
「いやア、あれは鷲なんかじゃないよ。トンビだ。トンビに違いない。それにしても金色のトンビなんて、とっても珍しい。」
 一緒に鳥に会った人が教えてくれた。だからきっとトンビなのだろう。

 私は外へ出る時はいつもその鳥が居るかどうか、とても気にしている。金網越しに鳥がこちらを向いている時には、ホットする。
(ああ、よかった、元気なんだ。)
 しかしこの頃、鳥は姿を見せない日が多くなった。そんな日は、とても心配になる。
(きっと年寄りなんだ。)
 なるべく長く生きてほしい。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

ひるのいこい    石川 通敬

 私の好きな曲の一つが「ひるのいこい」である。
 それは1952年から69年間も続く昼休み時に流れるラジオ番組のテーマ曲だ。現役時代から、ドライブを楽しむときによく聞いていた。番組では、全国各地の農林水産通信員(現在のふるさと通信員)からの四季折々の話題が伝えられる。

 年金生活に入った今も昼時気が付くとよく聞いている。
 それは、これが心に残る懐かしい原日本の風景と郷愁を刺激するからだ。

 私の思い出は、小学五年生の遠足の情景だ。場所は大阪の郊外。季節は初夏。田んぼには、緑鮮やかに稲が元気よく育っている。
 稲田の水は透明に澄み、ドジョウが泳いでいた。のどが渇いていた私は、思わずその田んぼに流れこむ湧水を飲んだことを、いつも鮮明に思いだす。


 長年誰の曲かも知らずに聞いてきたが、あるときそれが、古関裕而の作曲であることを偶然知った。
 うれしさのあまりNHKに電話し、CDかテープを入手できないか聞いたが、回答は素っ気なかった。
「これはラジオ番組のための伴奏曲です。曲だけ独立したものでないのでお売りできません」と言われたのだ。残念だったが、自宅で聞く夢をあきらめた。

     
 ところが最近、新聞広告を見て目を疑がった。
「生誕100年記念 国民的作曲家 古関裕而全集」という広告が、目に飛び込んできたのだ。CD7枚全139曲が収録されている大全集だ。

 私は先ず「ひるのいこい」を探した。「あった、あった!」のだ。第五巻の最後に、NHKラジオテーマ音楽と載っている。
 直ぐ注文したかったが、躊躇した。たった一曲のため全集を丸ごと買うのは、道楽が過ぎるのではないかと思ったからだ。
 そこで迷ったときよく使うパターンだが、妻に意見を聞いた。
「そんなお金の使い方をするから、あなたにはお金が残らないのよ」
といつも言われているからだ。ところが今回は、
「いいんじゃないの」
 と意外にも、あっさり賛同の返事が返ってきた。


 予想より早く通販の注文の品は届き、早速「ひるのいこい」を聞いてみた。それはドライブ中に聞く、雑音交じりの音とは全く違う、澄んだ美しいもので大いに満足した。
 もう一つうれしかったのが、彼女がすんなり私の問いかけに応諾したわけが直ぐ分かったことだ。
 実は昨年来妻はテレビドラマを見て、「古関裕而」ファンになっていた。そこで甲子園の高校野球の応援歌をはじめ、「長崎の鐘」など彼女のお気に入りの曲を多数彼が作曲していたのを再確認していたからだろう。
 その上意外にも妻はこの曲にまつわる思い出話をしたのだ。


「テレビドラマを見るまで、古関裕而の曲と知らなかったものが多かったけど、『ひるのいこい』もその一つよ。小学生のとき、土曜日のお昼に学校から帰ると、ラジオで「ひるのいこい」が始まっていたのが懐かしいわ。

『今、お昼のお弁当を、田んぼのあぜ道で、ご家族で召し上がっていらっしゃる皆さん』と語りかけるアナウンサーの声が、東京しか知らない私には、羨ましい程、暖かさを感じる言葉だったの」というコメントに私は驚いた。


 感激の連続の中、私は次々と彼の曲を聞きながら、いろいろ考えた。その一つが、「国民的作曲家」という彼への総括だ。
 そういう目で目次を見ると、彼の作品は、昭和時代の日本人がたどった苦楽の歴史を写している。全集の第一巻は西洋への憧れと日本古来の庶民の心情を反映して生まれた大正ロマンの唄だ。
 それがいつの間にか、軍事大国へ突き進み、国民を鼓舞する軍歌にシフトしている。もし私がその時代に生きていれば、きっと大感激したと思うのが「若い血潮の『予科練』」をはじめとする数々の軍歌だ。


 それが敗戦と同時に劇的に、平和志向の明るい希望の唄に代わるのだ。古関は戦争に加担した自分に嫌悪感を後にもっていたそうだが、戦後はそれを償いたいと思ったのか、国民を慰め、元気づける数々の名曲を創出している。

「長崎の鐘」もそうだが、私には「とんがり帽子」が耳に残っている。彼は一生日本人の苦楽に寄り添い、共に生き、喜び、悲しみ、慰め合う唄を作ってきた人だった。彼の曲は、日本人の昭和史そのものだと私は思った。


 もう一つ意外な発見は、全集の中にあった「ひるのいこい」に対する寸評だ。
「古関メロディーのDNAが、『国民的ヒット、北国の春、寅さんのテーマ』に色濃く流れている」と書いてあったのだ。
 日本生れの芸術で、世界に受け入れられたものは数多くある。古くは浮世絵、近年では黒沢の映画、最近では「鬼滅の刃」のアニメなど枚挙にいとまがない。
 音楽部門では、「上を向いて歩こう」が広く知られているが、「北国の春」は中国のカラオケ店で人気があるそうだ。ドラマでは「おしん」、アニメでは「ドラえもん」がタイで共感を得ていたようだ。

 将来「ひるのいこい」のDNAをもつ交響曲を作る作曲家が現われれば、その曲が醸し出す日本の田園風景に、アジアの稲作文化圏の人々が、共感を抱いてくれるに違いないと想像した次第だ。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

わすれられない   吉田 年男

 写真の整理していた時だ。姉と二人で写っているキャビネ版の写真が出てきた。セピア色の古ぼけたものだ。姉は三人いたが写真は一番下の姉で、私とは七歳離れている。

 姉たちから、私が小学生のころ怪我をすることが多くて、母が育てるのに戸惑っていたと聞かされていた。写真の姉は歳が一番近いせいもあってよく面倒を見てもらった。

 写真を見ていたら、指先の出血で大泣きをして母を困らせたときのことを思い出した。


 終戦の年に、疎開先の茨城で小学一年生であった私は、二年生のときに、東京の小学校に転校した。
 転校先の杉並区立和田小学校は、戦争で校舎の大部分が焼かれていた。和田小の生徒たちは、同じ区内の方南町駅に近い、大宮小学校の校舎を借りていた。大宮小まで歩いて通った。子供の足ではかなり遠く感じたことを覚えている。

 東京での生活は、戦後間もないころで特に食糧事情が悪くて大変だったと思う。小学生だったわたしは、そんな時代であっても、さほどひもじい思いをしないで過ごせたのは、母や姉たちのおかげだと感謝している。

 焼け跡が区内のあちこちにあった。印象に残っているのは、銭湯の焼け跡で、白いタイルや洗い場のカランがそのまま残っていた。
 そこはほかの焼け跡より広くて、三角ベースなど野球をする子供たちの恰好な遊び場だった。
 当時、米国からシールス軍が来日して、日米野球を見に後楽園球場へ姉に連れて行ってもらった。遊びの中心は野球であった。善福寺川での水遊び、ケンダマ、メンコ、ビー玉、縁台将棋など、暗くなって周りが見えなくなるまで家には戻ることはなかった。

 
 ある時、路地の暗がりで友達とメンコに夢中になっていた。丸メン(ボール紙の厚手の丸いメンコ)を持った右手を強く振り下ろした。地面に指先が当たった。
「痛い」と思ったとき、中指の爪の間に土が少し入り込んでいた。
 その時は友達には何でもないふりをしていた。夜になって痛みはだんだんひどくなってきた。ほったらかしにしていたら、数日後には中指の太さが、倍ほどに膨れ上がっていた。あまりの指の変貌と痛さに、母に頼るしかなかった。一部始終を話した。母は慌てて、近くの診療所へ連れてくれた。

 診療所は、狭くて薄暗かった。先生が軍医だったことも知らなかった。
 当時はそういう診療所しかなかったのかもしれない。先生に「手を洗ってこい」といわれた。痛みをこらえながら、腫れあがった手を洗った。そして、何をされるのかわからず、恐る恐る洗った手を先生の前に出した。

 先生は、何も言わずにいきなり指先をハサミのようなもので切った。そして、膿を絞り出すように強く握った。周りに膿が飛び散った。先生の白衣に赤黒い膿がべっとりと付いている。指さきのきり口にきいろい薬のついたガーゼを詰め込んだ。ひどい荒業治療は終わった。

 しばらくは驚きの放心状態。強烈な痛みは母と一緒に診療所をでて、しばらくしてからおそってきた。
 麻酔もしないで指先を切られたので、痛みは半端ではなかった。たまらず地面に座ったまま大泣きをしてしまった。
 母の前で大泣きをしたのは、後にも先のもこの時だけだと思う。母も姉たちも、今はもういない。
 あの時の困りはてた母の顔は、何年たっても忘れることができない。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

対話   筒井 隆一

 コロナ騒ぎが始まって以来、外出の機会が激減した。今まで、いかに不要不急の外出を続けていたか、あらためて気付かされた。また、普段出歩いている私が家に居るので、思いがけず夫と妻との対話の機会が増えた。
 家内は、読書、編み物、脳トレパズルなどをやったり、庭での花作りが好きで、家に居ることが多い。

 一方の私は、飲み会、ゴルフ、コンサート、絵画展など、趣味、道楽の集まり、催しには積極的というより節操なく参加し、週の半分は都心に出ていた。声がかかると、断らない付き合いの良さが自慢だ。日常の生活スタイルが、かなり異なるその二人が家に籠り、一日の大半を、顔突き合わせて過ごすようになった。


「最近分かったけれど、あなたは怒りっぽくて、威張るわね」
「そんなことないよ。我々年代の男なんて、こんなものさ」 
 家内は、結婚即同居で気丈な姑に仕え、二人の息子を育てた。今は息子の嫁さんたちとも仲良く付き合いながら、三人の孫を可愛がっている。今さら好きだ、愛している、という関係ではないが、世間並み以上に信頼関係は強い夫婦だと思って感謝してきた。

 それが、怒りっぽくて威張る亭主、とは何だろう。相手の性格を見直し、残り少ない人生を理解し合って暮らす、そのきっかけをつくる時が来たのかも知れない。


 よくよく考えてみると、家内は私が新聞を読んでいたり、テレビを見ていても、突然話しかけてきて、一方的にしゃべりだす。話の内容もくるくる変わって付いていけない。
 私は元々企業人として慣らされたせいか、普段の会話でも先ず結論を述べ、それに至った経緯、今後の対応などを、相手が理解しやすいように順序よく説明しているつもりだが、家内は違う。

「急に話し出すとびっくりするじゃないか。おまけに話があちこちに飛ぶから、何を言いたくて、結論が何なのか、分からないよ」
「私が話しかけたら、『うん、そうだね』と合鎚を打ったり、『そこをもう少し分かりやすく説明してくれよ』など言って下されば、話が滑らかにつながるんじゃないかしら」
「そんなこと言われなくてもやっているよ」

 私は話がかみ合わないと、ブスっとして口をきかなくなる。
 会話の作り方、まとめ方が家内とは違うので、いちいち逆らっているより黙っていた方が上手く収まると思い、口をつぐんでしまう。決して怒っているのではないのだが、そのように取られるのだろう。


 巣ごもり生活の対話で、自己反省点が、ひとつ明らかになった。
 一方、家内との対話で、彼女の話かけをじっくり観察して分かったことがある。ひとことで言うと、私を試しながら対話をしているように感じられるのだ。

「試す」という言葉は、あまり聞こえが良くない。自分の喋ったことが、相手に聞こえているのか、また、相手がそれを理解できているのか、疑いを持ちながら伝わりを確認しているのである。


 八十歳直前になれば、聴力も落ちてくる。聞き違いもあるだろう。また、周りの同世代の老人が、物忘れで失敗した話を聞けば、家内はそれを自分の亭主に置き換えて、考える時もあるのだろう。
 決して悪意の問いかけ、確認ではなく、心配、思いやりからくるもの、と善意に解釈しているが、少々気になる。

 年明けに、ウィーン・フィルハーモニーのニューイヤーコンサートを、家内と二人でテレビのライブで聴いた。
「今年の指揮者リッカルド・ムーティ―、よかったわね」
「うん。ムーティ―は二年前にウィーンに行った時に、ウィーンフィルの定期演奏会で聴いたよね」
「あの時は何を演奏したかしら」
 それとなくお試し、聞き取りが始まる。
「直前に運よくチケットが取れて、一番後ろの壁際の席で聴いたのは覚えているけれど、曲目は何だったっけ」
 咄嗟に言われても、すぐ出てこない。
「確かモーツァルトのフルート協奏曲と、ブルックナーの交響曲との組み合わせだったわ」
 そういえば主席のシュッツが独奏者だった、と思い出した。


 相手の記憶を、物忘れしているのか、と勘繰らず、二人の認識を共有しようとする家内の問いかけだと思いたい。
 また、我々の年代になれば、老化の進行を確認するのは必要だと思う。
 コロナがきっかけで、夫と妻の対話が復活し、残された限りある人生を充実して過ごせれば、何よりである。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

寒さ対策 吉田 年男

 新潟県北蒲原郡中条町(現在の胎内市)に家族と一緒に生活を始めたときのことだ。十一月末には、雪下ろしの雷が鳴り、雪が降りだす。そして、翌年の四月末までは、太陽にお目にかかれない。
 ベランダまわりには、しっかりと雪囲いをして、洗濯物などはその中に干す。出入り口の雪かきは毎日欠かせない。
 本当の寒さを知らなかった東京生まれのわたしには、仕事の関係とはいえ、寒さの中での生活は、話には聞いていたがそれ以上に厳しく感じた。


 しかし、この経験は、半世紀以上も前のこと。今は懐かしくて、よい思い出に代わっている。(つらかったことは忘れる)は、実感としてわかるような気がする。
 東京の生活では、雪国のように寒さに対して身構えをえてしてまで、これといった対策はしてはいないと思う。

 私の場合、強いて言えば、鉢植えの植物を家の中に取り込むことくらいか。
 それはウッドデッキにおいてある、生前父が可愛がっていた三鉢のクンシランとサボテン一鉢を防寒のために家の中に入れることだ。


 クンシランとサボテンは、毎年五月ごろに花がさき、特にクンシラは、オレンジ色の壮大な気品がある花を見せてくれる。
 そして、花が終わるのを待って、クンシランとサボテンの古い土を廃棄して、腐葉土、赤玉などを混ぜ合わせた新しい土と入れ替えをする。

 その後、寒さに弱い彼らのために、四つの鉢をきれいに拭いて家になかに取り込む。
  取り込む作業は、毎年11月の初めに、「よしやるぞ」と気合を入れて取り掛かかることにしている。気合を入れなくてならない理由は、土の入った鉢は意外と重い。ウットデッキから部屋までの距離が5~6メートルはある。
 そして、途中に物置やら自転車などが置いてあり、通路が狭いために自転車を別な場所に一時的に移動し、四つ鉢の運搬にはことのほか時間がかかる。

 これらを無事にやり終えるには、安易な気持ちではできない。

 さらに、部屋の中にとりこむ準備もある。鉢を床にじかに置くわけにはいかない。そのため鉢をおくスペースを確保したうえで、あらかじめダンボールを折りたたんで置き、その上にビニールシートを敷いて準備をしておかなくてはならない。

 全部をやり終えるには、3~4時間はかかる。端で見ているより80歳を過ぎた私にはキツイ作業だ。
 毎年どうしてそこまでして4つの鉢を家の中に取り込むことに拘るのか。
 時々わからなくなる。

 寒さに弱い植物を守ってあげたい気持ちがそうさせるのか? 毎年、鉢内の土を新しいものに取り換えることで、裏切らずにきれいな花をみせてくれることが、ことのほかうれしいのか? 両方考えられる。

 いや、自分が父の亡くなった歳をこえた今、こころの隅に親父との思い出をひとつでも多くとどめておきたい。
 これが本音かもしれない。

利庵(としあん) 石川 通敬

 夕方目黒駅からバスで白金のオルガニック鶏料理店に妻と出かけた。そこはテニス仲間が経営している店で、一度は顔を出したいと思っていた。
 ところが中に入ると、
「石川さん申し訳ないけど今日は予約で満席です」
 とすまながる。妻に、
「どうしようか」と聞くと、
「いつも行く目黒のおそば屋さんに行きましょう」

 店の前はバス停だ。しかし時刻表を見ると、運悪く三十分近く待たねばならない。仕方なく目黒駅に歩いて戻ることにした。
 しばらくすると、ふと思いだしたのが、プラチナ通りにある「利庵」という店だ。その通りは外苑西通りの一部だが、都内屈指の美しいイチョウ並木になっている。今の季節は真黄色の紅葉が楽しめ、歩道には銀杏が転がっている。樹が大きいため、街路灯があるにもかかわらず歩道はうす暗い。


「利庵」は昭和六十年の創業だ。建物は、木造の昭和時代様式の古民家風だ。開業直後からそばの美味しい店として人気化し、いつも行列が絶えなかった。
 我が家も、早い時期から家族でよく利用していた。しかし江戸時代風をよしと考えていたのだろう、夕方五時近くになると、ぶっきらぼうに「閉店です」と客を追い出す。それが面白くなく、私はいつしか利用しなくなっていた。

「閉店時間が早かったと思う。もう七時だから無理かもしれないよ」
 と私が言うと、妻は
「味は間違いなくいいと思うわ。それに時代の変化もあり五時に閉めることはないかもしれないから、急いでゆきましょう。まだ七時過ぎよ」
 と小走りに歩き出す。

 しばらくすると、薄暗い歩道の遠方に、ボーっと電球の明かりがあり、目を凝らすと、その下に人影らしいものが見えてきた。
 まだ間に合うだろうと、思わず二人で駆けだした。着くと三人の女性が、入り口の外で並んでいる。我々を見ると、その中の年長らしい人が話しかけてきた。
「閉店は七時半です。私達が入れる最終の客だろうと店の人は言ってます。でもまだ十五分あるので、お店にお願いしてみたらどうでしょう」
 と親切に教えてくれる。そんな言葉に勇気づけられ、希望もって待つこと十分。

「テーブルの関係で、お二人を先にご案内します」
 と担当女性が現れた。アドバイスをしてくれた三人の女性に、
「順番が逆になり恐縮です。」
 と心よりお礼を言って席に着いた。

 店内は、驚いたことに、雰囲気が依然と比べ、ガラッと変わっていた。
 家具が古民家風になっている。品ぞろえも、小さな高級小料理屋以上で、店内の壁には所狭しと、お勧めの品々が紙に書かれ張ってある。手元には多くの料理名が書かれたお品書きが置いてある。
 もう一つ感心したのは、料理、酒、そばを前に、楽し気に談笑する客の様まだ。隣には、入り口で待っている時から見えていた若い夫婦が座っている。若い男性は升酒を、ずっと何杯も気持ちよさそうにお代わりしている。
 その飲み姿を羨ましく見ていたが、彼はいつしか升をもったまま首をたれ寝始めたのだ。奥さんは心配して、おろおろしている。私も大丈夫かと思っていた。

 その矢先、突然元気な中年の男性が現れ、若い男を後ろから抱き抱え、店員に氷をビニールの袋に入れて持ってこさせた。そして、それを首筋の上、後頭部に当てたのだ。それでも若い男は、目覚めない。すると今度は両脚の間に手を入れ、組んでいる足をほぐしたのだ。

 その作業を見ながら、私は二人の食べ残しのままになっている天丼を見て、
「もったいないから、持ち帰りをお店に頼んだらいいですよ」
 と奥さんにすすめていた。
 ところが、組んだ足がほぐされた途端、若い男はパッチリ目を開き、突然
「全部私が食べますからご心配なく」
 と言い放ち、あっけにとられる速さで、ぺろりと食べたのだ。


 私は助っ人の男性が、短時間で処置をする素早い技に大いに感心し、
「このお店は、看護師も置いているのですか」
 と店の人に聞いた。すると突然大活躍をした助っ人の男性が現れ、大きな声で、
「違います。違います。今やったのは私です。こうした処理専門の医者です。さっきからずっと見ていたのですが、これは危ないと思い飛び出したのです。東京で働く妻に会うため九州から、今日上京していたのです」という。

 これらの出来事が、妻も楽しかったのだろう、いろいろな料理を満喫していた。私もいつになく酒をのみ過ごす結果となった。帰りがけに、
「お店の雰囲気がガラッと変わり、楽しくなりましたね」
 と話すと、
「リーマンショックのとき、経営危機になりました。その時これではいけないと、皆で店の経営を見直した結果です」と話してくれた。
 コロナの影響で、数多くのお店がつらい思いをしている昨今だ。はじめに訪ねた鶏料理店も、このそば屋も、この時期満席の賑わいだ。多分勝ち組だろうと推測した。
 天災、人災を克服し生き延びるには、経営者、従業員の持つ知恵と努力が不可欠なのだとつくづく思った次第だ。

人間の良さ  廣川 登志男

「ハエ取り紙って何? おじいちゃん」

 1ヶ月ほど前の10月半ばだったように記憶している。テレビにハエ取り紙が映っていて、遊びに来ていた孫娘から思いがけず問いかけられた。

「そうだねー。昔、ジイジが小学生の頃にはたくさんのハエが家の中を飛んでいたんだよ。お便所などで育って、汚いバイ菌を足にくっつけては、食べ物にたかっていたんだ。ハエ取り紙は、そんなハエをくっつけて退治するために天井からぶら下げていたんだよ」
「へー、そうなの。うちのトイレには、ハエなんかいないよ」
 私が小学校の時というと、ほぼ60年前になる。その当時は水洗トイレではなくボットン便所だった。
 ハエなどそこら中にいて、食事時など大変だった。
 ところが、今の時代、一匹のハエでも見つけようものなら、追い払うのに大騒ぎだ。たった60年前の話なのだが、その歳月の重さに驚いてしまう。

 60年前というと昭和35年の頃だ。前年には、明仁親王(現上皇)のご成婚中継放送があった。我家には、すでに白黒テレビがあったので、家族に加え近所の友達やその親御さんなどが我家に集まってテレビを見ていた。
 それに、プロレスの力道山、巨人の長嶋や王なども友達と見ていた。昭和三十九年の東京オリンピックのときは、カラーテレビに替わっていた。たった五年なのに、白黒テレビからカラーテレビに進化した。

 当時、クーラーや自動車を含めた「新三種の神器」が世の中に出回っていたが、今思えば、随分と時代遅れの製品だ。
 クーラーはエアコンに替わり、自動車は電気で走るようになり、もうすぐ自動運転になろうとしている。ボットン便所は、60年たった今では水洗トイレ・ウォッシュレットになっている。

 私が大学生の時は計算尺だったが、今ではパソコンにインターネットと、生活がどんどん便利になった。もう60年前には戻りようがない。

 これが大昔の時代となるとどうなのだろう。最近の私は、遺跡や土偶に興味を持ち、木更津の金鈴塚古墳を訪ねたり、講演会に参加したりしている。千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館へは7、8回訪れている。土偶や埴輪を眺め、古代の歴史も勉強したが、当時の実生活などは、当たり前だが想像できない。


 今年8月、八ヶ岳ふもとに尖石(とがりいし)遺跡があることを知った。国の特別史跡だという。縄文時代のもので、実際に訪れると、尖った石(尖石)が、地面から顔を出している。高さ一メートルほどの三角錐の形をしている。肩部に樋状の溝があり磨かれているので、石器を研いだ砥石だろうといわれている。地下にどれくらい埋まっているのかは調べられないそうだ。付近には竪穴式住居跡が33ヶ所見つかっている。

 尖石考古館には、いずれも国宝の「縄文のビーナス」と「仮面の女神」の土偶が展示されている。現在、国宝の土偶は、全国で5体あり、そのうちの二体がここ尖石にある。何回も訪れている八ヶ岳だが、このような遺跡があることにどうして気づかなかったのか、不思議でならない。

 縄文時代は、BC1万年からBC300年までの約1万年の長きにわたる。この時代の特徴は、氷期が終り、現代の自然環境と基本的に同じであり、日本列島も形成されていた。

 マンモスやナウマンゾウなどの大型獣は絶滅し、中・小型獣が主となり、広葉樹林も形成された。現在よりも温かく、四季もあり、争いごとのない住みやすい環境だったと、遺跡などの調査で判明している。

 確かに、縄文以前の石器時代と比べると、服を編む技術を会得し、匙や皿をつくり、10畳くらいの広さに家族四人ほどが暮らせる屋根付きの竪穴式住居を建てるなど、長い年月をかけて進化してきたが、その実生活は、現代の我々には想像の域を超えて、大変な生活だったろうと思う。

 しかし、よく考えなければならない。我々は、過去の時代の生活レベルをみて大変だったろうと同情するが、実は、その時代の人たちは「今ほど幸せなときはない」と思っていたのではないだろうか。

 いつの時代もそうだと思うが、その時代を生きている人にとって、「素晴らしいかも知れない未来の生活」を実感として感じることはできない。
 逆に、すでに自らが実感してきた「ひと昔まえの生活」と比べることで、現在は幸福な良い時代だと感じているのに違いない。私自身、そう思ってきた。

 過去を振り返って不便だとか、そんな生活は耐えられないと言うのは、今を生きる自分たちの驕りだ。先人達は、一歩一歩地道な努力をして今の生活レベルに進化させてきた。まさに、先人達の努力に敬意を払わなければ罰が当たる。

 縄文時代の人たちも「自分たちはこんなに良い時代を過ごさせてもらっている」と、その時代に感謝し、さらに改善の努力をしてきたのだろう。
 それが、動物とは違う「人間の良さ」なのだと思う。

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