元気100教室 エッセイ・オピニオン

働かないアリ  廣川 登志男

 最近、俳優西田敏之さんの代表作である「釣りバカ日誌」を観た。主役のハマちゃん(西田敏之)と、勤め先の社長であるスーさん(三國蓮太郎)のコンビが絶妙で面白い。「フーテンの寅さん」と肩を並べる国民的人情喜劇だ。

 このハマちゃんは、鈴木建設(株)のうだつの上がらないサラリーマンだが社内の雰囲気づくりに欠かせない人物として登場する。
 真面目で、趣味の釣りは名人級。さらに、愛妻や多くの友人に囲まれた幸せ者だ。考えてみると、会社には得てしてこういった人物がいる。
 居るだけで、仕事場が明るくなり、嬉々としてみんなが働く。仕事は二の次だが、何か問題が起こっても持ち前の明るさでいつの間にか解決してしまう。


 普通に給料をもらえるならそういう人間になれたら良いなと、サラリーマンなら一度は憧れたことがあるのではないだろうか。これで給料がもらえるなら万々歳だ。
 しかし、実態として社会に認められるだろうかと心配になる。

 2、3年前だったと思うが、タイトルが「働かないアリに意義がある」という新聞記事があったことを思いだした。
 タイトルの面白さと、「ハマちゃん」から「働かないアリ」を連想したのだろう。記事の内容はあまり覚えていなかったが、何となく興味が湧いてインターネットで調べてみた。

 すると、思いもよらず、新聞記事と同じタイトルの本が見つかった。著者は長谷川英祐氏とある。
 紐解くと、まず、アリやハチは女王を中心とした巣を作り、社会生活を営むとある。こういう昆虫類を「真社会性生物」と記されていた。
 更に読むと、次からが仰天の世界だった。
 なんと、巣のなかにはメスしかいないのだそうだ。

 アリの世界で言えば、女王アリ・働きアリ・兵隊アリはすべてメスだと書いてある。ではオスはどこにいるのだろう。
 子孫を残す役割の女王アリは、オスと交尾して精子をもらわなければならない。驚いたことに、女王アリが交尾をする短い期間にだけオスとして卵から生まれるとある。
 オスの寿命は1ヶ月ほどで、1回の交尾以外は何もしない。
 さらに、女王アリは、長い一生の間にメスの卵を産むのに必要な量の精子を多くのオスから受け取ると交尾を終えてしまう。
 一方、交尾を終えたオスは直ぐ死んでしまうし、まだ交尾をしていないオスは、厄介者として餌も与えられずに巣から追い出され死んでしまうのだそうだ。
 なんと哀れなオスだろうか。アリに産まれなくて良かったと思うのは、私ばかりではないだろう。

 こうして多くの働きアリや兵隊アリが巣の中に棲息する。ある学者が、巣の中で仕事をしているアリの数を調べたら全体の約3割しかいないとの結果を得た。
 すなわち、7割のアリが何もしていない。このデータはある瞬間の状況を調べたものなので、著者らが大変な努力をして観察した結果、1ヶ月以上の期間でも約2割のアリは仕事を一切していないことが判明したという。

 これはどういうことなのだろう。最後まで読んでわかったのだが、「働かないアリ」を字面通りに読んではいけないということのようだ。
 エサ集め、幼虫や女王の世話、巣の修理、あるいは他の働きアリへのエサやりにくわえ、突発的な仕事もある。例えば、セミなどの大きなエサを見つけると多数の運搬アリが必要になるし、他の巣のアリに横取りされないよう早く自分の巣穴に運ぶための動員ということもある。
 
 我々が子供時代にやった、アリの巣穴に土をかけて入り口を塞ぐなどはアリにとって大変な事故で、直ぐに修理するための動員もあるだろう。
 だから、全員が一つのことに対応していたりすると、別の緊急事態が発生しても対処できなくなってしまう。くわえて、アリにも過労死がある。全員が休む間もなく働きすぎると一斉に死んでしまう。だから、適当な余力を持つために、「働かない『働きアリ』」の存在が重要になってくる。


 こんな疑問もある。アリの世界には、指示を出す中管理職という階層がない。それなのに、動いたりじっとしていたりと個体間で差がある。
 実は、ある事態に遭遇すると、どの程度のレベルでそれに反応するかが個々のアリで異なっているということが、昔からの経験でわかっていたらしい。さらに、この反応レベルの差が遺伝子レベルで決まっていると、多くの研究成果からわかってきたと著者らは書いている。

 以上のことは、著書のほんの一部の紹介だが、最終的には「進化論」にまで結びついていた。
 ここまで来ると、私の理解の範疇から大きく外れてしまっていて手に負えない。だが、こういった自然界の生態研究から、今流行りの『組織の多様性(ダイバーシティ)』に繋がってくるから不思議だ。

 ハマちゃんから思い出した「働かないアリ」に関連して多くのことを学んだ。昆虫の世界でも「働かないが重要な存在」があると知り、会社のなかで特別な存在になっている「ハマちゃん」が認められた気がして、ホッとしている。

イラスト:Googleイラスト・フリーより
                       【了】

住所録  筒井 隆一

 年の瀬が近づくと、年賀状を書く時期になる。私は学生時代に手書きの住所録を整備し、以来それを利用している。
 B-5版で黒いビニールの表紙の付いた住所録は、氏名、郵便番号、住所、電話番号を、一頁に八名分書き込めるようになっており、五十音順に集計されている。
 幼なじみに始まり、学生時代の友、企業人・社会人としてお付き合いいただいた方々、趣味・道楽の仲間まで、およそ1300名分のリストだ。

 また、年賀状をやり取りした結果が一目でわかるよう欄外に、私から葉書を出した相手には○印、賀状を送ってくれた相手には□印を、必ずつけるようにしている。
 スペースの関係で、その記号は3年分しか書き込めないが、送った相手から返事が来ないのが3年も続けば、今後続けて出すかやめるかの判断材料になる。


 近年、コンピューターで住所録を管理するようになってから、イラストの入った挨拶文と宛名書きは、ずいぶん楽になった。反面、頭を悩ませるようになった問題がある。

 自分も高齢化してきたので、年賀状は今回限りとし、以後不要にしてほしい、という連絡が、年々増えている。
 年を取れば、年に一度とは言え、年賀状のやり取りは億劫になる。親しく付き合ってもらっていた友人、知人と縁が切れ、近況を共有できなくなるのは残念だが、トータルで考えて今後は遠慮したい、という気持ちなのだろう。
 決して相手を避けるわけではないのだが、年賀状を毎年貰っているのに、自分が出さないのは失礼で申し訳ない、という気持ちからだと思う。

 こういう人は住所録から削除すればよいが、悩ましいのは逝去の連絡があった人たちへの対応である。
 普通に考えれば、亡くなった人たちはこの世に居ないのだから、住所、氏名の記載を、そのままにしておくのはおかしい、ということで、最初は太い二重線を引いて故人の住所、氏名を削除していた。

 しかし、今まで長い間親しく付き合ってもらった、先輩、仲間の場合は、黒い太線で塗りつぶすのは気が引ける。
 細い二重線を引いて、死去した年月日を記入し、住所、氏名は、そのまま残すことにした。その二重線が、目立って増えてきた。死者たちの住所録になりつつある。

 その様なわけで私の住所録には、死者も生者と同じような位置づけで載っている。本来の住所録とすれば、おかしなものかも知れないが、私自身の感情からすると、一番しっくりくる。

 何年も使っている住所録だが、その変遷を見ていると、面白いことに気付く。最初住所録がスタートした時は、生者だけだった。
 時間が経つとともに、生者は死者に移行する。最初は生者が圧倒的に多かったが、住所録作成の私が老いていくのに合わせ、死者たちが優勢になり、まさに死者たちの住所録だ。

 住所録は、自分の人生の歴史だ。葉書、手紙を書くときに使うだけでなく、たまにパラパラ開いてみてみるとよい。
 目にとまった人物と、どの時代にどのような付き合いをしたのか、その付き合いで何を学んだか、を思い出すとなつかしい。リストの大半は、名前と住所を見れば、いつ頃どこで付き合った人間か、その容貌も性格も解るが、さっぱりわからない人間も増えてきた。

 名前は憶えているが、いつどこで会った相手だろうか。日記のように詳しい情報ではなく、名前と住所だけで思い出そうと努力してみる。
 私たち高齢者にとって、古き良き時代に付き合った懐かしい人物を思い出すのは、一苦労だが、楽しいことだ。

イラスト:Googleイラスト・フリーより
                        【了】

長唄―愛犬バニラのご縁―  石川 通敬

 この1年私は、長唄にはまっている。
 それは我が家の愛犬バニラがもたらしたものである。生きていれば、今年7月で20歳になるが、残念なことに彼女は3年前に死んだ。

 バニラ色のミニチュア・ダックスフンドで、当時人気の犬種だった。その上、彼女はとびっきりの美人で、愛想がよく皆に可愛がられた。

 私が住んでいるのは目黒駅に近い杉野学園の裏だ。学園のメインストリーが「ドレメ通り」と言われ、通学時には、大勢の学生で溢れかえる。

 そんな時間に散歩に連れてゆくと、一斉に「可愛い」と数人の学生たちが駆け寄ってくる。彼女は愛想よく、歓び、仰向けになる。お腹をなぜてもらうのが大好きだった。
 あまりにも皆が「可愛い」と呼ぶので、一時期これが自分の名前と錯覚していたふしがあると思ったほどだ。

 ある時、通りかかった外国人が思わず、「オオ、フレンドリー・ドック」と可愛がってくれたこともあった。


 そんなバニラの大ファンだったのが、昨年来長唄を教えていただいているM先生だ。
 ドレメ通りを挟んで、我が家の反対側に住んでおられる。歩いてゼロ分のご近所だ。バニラへの気に入りぶりは、ご自分もダックスフンドを買われたほどだ。
 そんなご縁がありながら、うかつにも私は長唄を教えていただく機会を長年逸していた。

 小唄と津軽三味線は長年やっているが、長唄にまで手を広げようとは、考えたこともなかった。
 そんな自分にチャレンジする気を与えてくれたのが、百歳クラブの「邦楽音いろサロン」だ。同サロンは、当初小唄のメンバーを中心にスタートした。が、老人ホームや大学の留学生の忘年会などでボランティア演奏をしていたところ、日本舞踊や長唄に関心を持つメンバーが増えた。
 その影響から、長唄を習うことが私の夢になっていった。

 それが2年前、偶然、実現したのだ。  
 実は我が家では毎年クリスマスツリーを飾ることが恒例となっている。発端は、私が結婚した年に赴任したニューヨーク時代にはじまる。
 当時、アメリカ人社会では、旅行したとき、各地のスプーンを記念に買い集めることが流行っていた。そうした風潮に対し、会社の上司Tさんの奥様が、
「うちでは、スプーンではなく、旅行先のクリスマスオーナメントを買い集めているの。その方が思い出の幅が広がるわよ」
 と教えて下さったのだ。

 我が家もそのアイディアに共感し、以来、半世紀、家族旅行、私の業務出張で気に入った思い出の品々を買い集めてきた。
 これまでに、アメリカ、ヨーロッパ、中国等で買い集めたものは、ゆうに百以上になる。
 毎年これを取り出し、来し方を偲ぶが、それにとどまらず、飾り終わると、親しい友人に見に来ていただくのが、我が家の年中行事になっている。

 その友人の一人が、一昨年の暮れにはじめてお招きする機会ができたM先生だ。その機会をとらえ、長唄を教えてくださいとお願いする機会を得たわけだ。

「石川さんは、大好きだったバニラちゃんのご主人だから、特別にお友達としてお教えします」
 と先生は、快諾してくださった。

 あとで伺ったのだが、習いたいとお願いした曲は、中級以上の人が演奏するもので、普通は許されない例外扱いだったのだ。
 その上、その後バニラのご縁には、大きなおまけがついた。
 お稽古が始まって、しばらくしたある日、目黒駅前のヤマハ音楽教室で、芸大出身の山口先生に、津軽三味線を教えていただいていると、お話ししたところ、
「山口君と言っては失礼になりますが、彼は私が大学の若手教官時代、学生だったのでよく知っています」
 と驚かれたのだ。
  
 山口先生にこうしたことをお話ししたところ、当然M先生を覚えておられ、

「目黒駅周辺という狭いところに、ご縁のある人々が集まっているのは不思議ですね」
 と感慨深げに話された。更に、
「石川さん、M先生は長唄界の名門のお嬢さんで、大学、そのOB会の重鎮です。よくそんな方に教えていただけることになりましたね。常識では、考えられないことです。よくよくバニラに感謝しなければいけませんよ」
 と強調されたのだった。
 山口先生は、10年以上も前からのバニラのファンで、音色サロンの応援者の一人でもある。百歳クラブや品川区の芸術祭でも長唄を演奏する夢があるとM先生にお話ししたところ、
「素人だけで長唄を合奏するのは無理です。山口先生に助けていただきなさい。私からもお願いしてあげます」
 とアドバイスして下さったのだ。
 お粗末ながら、以上が長唄とバニラのご縁の顛末話だ。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

【了】

老いの繰言  

 早朝、手洗いに行きたくて目が覚めたが、左脚が重くて持ちあがらない。痛みもある。明らかに攣っている証拠だ。
 こわばった左脚を何とかほぐし、ベッドから降りた。八十代の私が、朝すんなりと起きあがれなくなったのは、いつ頃からか、分からない。分かりたくもない。日毎脚力が衰える。

 私は、未経験の老いの坂をのぼっているのだと、自分に言い聞かせつつ、ほんのわずかな勾配にもよろけながら歩いている。

 何年も前にご主人を亡くして、一人住まいの友人に電話をした折り、
「よろよろとしか歩けなくなったわ」
 とこぼしたら、
「みんなそうよ」
 あっさり言われてしまった。
 本当にそうだろうか。私なんか散歩の途中で、同年配と思われる人に、度々追い抜かされる。

 先日、歩いて20分ほどかかるスーパーまで行こうと外へ出たら、近所のL夫人に会った。
「おでかけ?」
 と聞かれて
「ちょっとピーコック(スーパー)まで」
 すると目を瞠って
「歩いて?偉いわね。見ならわなくちゃ」
 私はそんな風に返されようとは思ってもいなかったので驚いた。
 Lさんは私と同い年で、ひ弱な(?)私とは違って、町会の仕事もしているし、見た目、とてもパワフルなのだ。彼女は続けてこう言った。
「いなげや(スーパー)の上のクリニックに通ってるけど、パスで行くの」
 いなげやは、目黒と我が家の中間に位置している。

「私は目黒の駅ビルまで(片道30分ほどかかる)往復歩いて行くわ」
 という語を呑みこんだ。
 Lさんの家とうちとは同じ道筋にあり、二分ぐらいしか離れていない。もう長いつき合いで、うちの末娘とLさんの長女とは小学校の同級生である。

 
 思えば、私はこの地に60年以上暮らしている。
 Lさんと我が家は、一方通行路に面し、昭和40年代、子供たちが小さいころ、この細い裏道は、子供達の格好の遊び場であった。時代は移り、車の抜け道に盛んにつかわれるようになって、危なくて、ボール遊びなどさせられない。

 すっかり年をとって、機械オンチの私は右往左往している。老いが、初めて辿る苦難の道ならば、思いがけない現代の騒々しい世の中もまた、体が思うように撓ってくれない私にとって、まっこと苦々しい。

 高名な哲学者が「老い以上の悲しみはこの世にない」と言っている。将に真理である。

 後期高齢者、認知症といった、身も蓋もない用語に腹を立てている私だが、詩的な言いまわしにしたところで、どうなるものでもあるまい。
 だんだん諦めの境地だが、老いを通して、私の気性がいくらか柔軟になったからではない。相変わらず現代の批判ばかりしている私に、娘たちはあきれかえっている。

 それはそれとして、頭と体のバランスがとれない悩みを抱えて、余生をいかに生くべきか、朝に夕に、模索中なのである。

                       【了】

やってみて分かったこと 吉田 年男

 静かな部屋の中にかすかな墨の香りが漂う。教室にしている六畳間の私の机の上に、何枚かの半紙作品が並んでいる。各々自宅で書いて、我が家のポストに入れてもらったものだ。

 今までなら、可愛い眼差しで筆を持ち、手本と睨めっこしている子供たちや、私と一緒に 「書」をたしなんでいる大人の方たちの姿が目の前にあった。今はだれもいない。

 この度、二度目の緊急事態宣言が出て一か月延長になった。書道教室も、人との密着を極力避けるために、「ポストイン方式」の添削に切り代えさせてもらっている。教室に見えている方の大部分がご近所の人たちなので、この方法ができているのかなと感謝している。

 毎月一回、課題の手本を書いて茶封筒に入れ、各家庭のポストにお届けをする。家で作品を書いて、仕上げた清書二枚を我が家のポストに入れてもらう。
 受けとった清書作品は、一枚を連盟提出用としてとりあえず保管をして、あとの一枚は添削をして、各家庭のポストへ投函という形でお返しをしている。このポストイン方式を月に三回繰り返している。


 昨年、四月に緊急事態宣言が出たときに、この方法でやったことがあった。今回は、とても手際よくできている。
 お稽古日には、コロナ禍で、玄関での検温、アルコール消毒、常時マスクの着用など、今まで経験したことのないことばかりで、何か一つをするにも時間がかかり面倒くさくなる。というより、生活そのものが様変わりしてしまった。

 ポストイン式のやり方も、最初は自信がなくて半信半疑であったが、やってみると今までは気付かなかったことや、見えていなかったことが、不思議にわかってきた。
 それは、従来の対面式のやり方では、いくら長く続けていても分からないことであったので、とても新鮮に思えた。

 今迄のお稽古日での添削は、作品を一緒に見ながら、構図のよしあしや、筆の使い方など伝える対面しながらのやりかたなので、確かに利点もあった。
 直接、言葉で伝えられるし、書かれた本人も納得もできるところは納得し、納得できなければ、その場で質問できるので、双方向のやり取りがとてもスムーズで、一枚の添削からも、それなりに得られるものが多い。

 しかし、今回のように、書かれた本人が目の前にいなくて、ポストに入ってきた作品のみを前にすると、全く作品に対する感覚が違う。不思議なことに、まず作品から何か語りかけてくるものを感じる。それは書いている本人をより一層イメージしやすいし、その時の心の動きや、姿勢、筆使いなどが垣間見えてくるようで楽しい。

 毛筆での作品は、頭で理解しようとしてもわからないところもある。むしろ、気持ちをできるだけ解放させて、ただながめているときに、作品のほうから何かを無言で語りかけてくるといわれる。

 ポストに入ってくる毛筆作品は、引かれた一本の線、点画などに、気とか精神面の何か? が包含されているのだと思う。
 あどけない顔の子供たちの作品にも、鉛筆や、ボールペンで書かれた作品と違って、よしあしは頭で理解するものではなく、あくまでも感じとるものだということを、添削しながら改めて見直すことができたことは大きい。

                        【了】

器用貧乏(八十点人生) 武智 康子

 昭和19年7月中旬、私は、国民学校(現、小学校)1年生の一学期の通信簿を先生から渡された。
 通信簿の成績は、全部(優)だった。国語、算数、道徳、鍛錬等々すべて優だったのだ。私は、人生で初めて頂いた通信簿に小躍りするほど嬉しかったが、当時は戦時下で行動で表現することは出来なかった。
 下校時間になると、私は、30分ほどの道を走って帰った。帰り着くなり、家にいた祖父母と母に報告した。「おめでとう。よく頑張ったね」と3人から言われ、初めて小躍りした。そして、私を可愛がってくれた祖父が
「康ちゃんは、器用だから小学校の先生になるといいね」と言った。
 しかし、当時の私は、学校に入ったばかりで、祖父の言葉の意味はわからなかった。
 そして、戦後の学校教育は、180度変わって、成績の評価も五段階評価の(五~一)などの点数評価が多く使われるようになった。
だが、よく考えると、時と場合にもよるが百点法にすると、五は90点以上、四は80点台、三は79点から60点など、それぞれにかなりの幅があることになる。

 私は、中学校や高校では、大体3点以上の評価だったが、そんなにずば抜けている方ではなかったので、平均点は80点位だったのだろう。ただ、運動会では、リレーの選手になり、学芸会ではドイツ歌曲を独唱したり、書道や絵画の展覧会で入賞したりもした。先生から言われると大体何でもこなしたのだ。
 だから、ある時、母から祖父と同じ言葉をかけられた。それは
「康ちゃんは、何でも器用にこなすが、百点ではなく80点どまりだね。小学校の先生がいいね」と。小学校の先生は、一人で殆どの教科を教えるので、特徴あるものがなくてもいいのである。私は、納得はしたものの、結局別の道を選んだ。

 それは、高校1年生の時の担任の化学の先生の講義で、人間の体は、高分子の蛋白質で構成されていることを知った時だった。それまでは、蛋白質とは栄養素の一つだとだけ思っていたので、興味深く感じたのだった。
 そこで私は、大学で生化学を専攻し学んだ。そして、昭和35年卒業と同時に、日本で初めて大学病院内にできた検査部に就職し、生化学検査に従事した。3か月後に行われた衛生検査技師の第一回国家試験にも合格できて、仕事も順調だった。

 その後の厚生技官としての格上げの国家試験にも合格したが、夫との結婚によって、実務を離れざるを得なかった。この間の研究論文は一本だけだったが、この時点でこの仕事も未完となり、80点どまりとなった。

 また、40代半ばで資格を得た日本語教師の仕事は、75歳まで約30年間続けたので、これは80点プラスアルファだろうか。


 今年も、十数枚の年賀状が教え子たちから届いた。あの令和の花束をくれた彼女からも、カードとプレゼントが届いた。
 中国の双子の弟で国際弁護士の彼からも、「先生に会えたから、今の僕がある」と書かれた温かい年賀状が届いた。私は、目頭が熱くなった。これは、私の宝物の一つである。
 私は、今までに5分野にわたる9種類の国家資格を持っているが、使わなかった資格もあって、やはり祖父や母が言うように、私の人生は80点どまりの器用貧乏なのかもしれない。
 しかし、私自身は、その時その時には、全力を投球してきたつもりである。


 今、私は、八十路で子供の時から一番苦手だった「文章を書く」ということに挑戦している。一向に腕は上がらないが、80点どまりで終わることがないように、人生最後の仕上げが出来たらよいなあと思っている。無理かなあ?

悩むところだ

 朝5時だ。二月の空は真っ暗だ。朝型なので自然と目覚める。
 書斎の西側に一間幅の窓がある。その前に、2個の机を並べている。電気スタンドとパソコンがある右側の机に向かって座る。同時に、左の机上にある湯沸かし器で湯を沸かし、少し濃い目の緑茶を作る。

 私はお茶を飲みながら、今朝方浮かんだ面白い文章や、数日来あたためていた話などを、パソコンに入れる。
 誤字があろうが、下手な表現のままでも、文脈が噛み合わなくとも、結論は必ず入れて、とりあえず打ち込む。

 打ち込んだ大雑把な文章を類語辞典や諸々の辞書を駆使して、誤字や表現の言い回しを訂正する。不適切な箇所は大胆にカットする。カットしすぎて、また新たな言葉を加える。この文章の継ぎ貼りの作業に没頭する。

 窓外が明るくなっているのも気が付かない。面前の窓に蛇腹のすだれがある。ふと蛇腹の隙間から朝日を浴びた隣家の白壁に気付く。

 急いで立ち上がり、南側のガラス引き戸に近づき、こげ茶色の厚手のカーテンを開く。白いレースのカーテンを通して、朝の陽光が書斎に入ってくる。
(おっと、電気代がもったいない)
 と、天井の蛍光灯のスイッチを慌てて切る。
 現役の会社時代に叩き込まれた「ケチケチ精神」が身に沁みついている。

 真っ赤な暖かい太陽が、雲間から光り輝き全身を包みこむ。精気が身体の隅々に充填される。(今日も、頑張るぞ!)と心に誓う。
 この一瞬がなんとも好きで、一日を力強く生きられる。


 コロナ禍で何処にも行けなくなっても、この推敲の時間があれば幸せなのだから安上がりな人間だ。
 ところが、加齢のためか記憶力が極端に減退し、何かきっかけがないと過ぎ去った想い出が浮かばなくなった。さらに、コロナ禍のため外部の方と接触がなくなり、新たな情報も得られなくなった。そのためか、いい加減な文章もなかなか出てこない。

 一方、いささか古い話だが、昨年4月、私は「孤高のミニは癒やしをくれる」というエッセイをブログに載せた。
 すると、元研究所の所長で、人間味のある人から、次のような感想文を頂いた。

「中高年にとって『ミニ』と言えばミニスカートです。そして『癒される』と有りましたので青山さんにもこんな一面があるのかと思って、ドキドキしながら読み始めました。予想に反し、ミニはウサギの名前でしたね。初めの下司の勘ぐりはどこかへ消え失せて、……」
 とある。やはり、エッセイの題名は、この手の読者を掴むためにも、大切であると痛感した次第だ。
 勘ぐるに、「ミニと来れば、青山さんの好まれるミニスカート」と暗にいっている。はなはだ怪しからんが、確かに嫌いではないから致しかたない。流石、研究所長ともなると、人を見る目が出来ている。

 実を言えば、彼は私とほぼ同年配で、同期入社ではないが熊谷工場内の研究所に勤めていた。頭脳的な仕事をしながら、勤務後は暗くなるまでサッカーに興じていた。脚が長く、筋肉質で性格のサッパリしたスポーツマンだ。

 他方、私は彼より少し背が低く短足で太っていた。性格は短気であったが、カラッとしたところは彼と似ていた。現場の研究係りで、フェライト磁石の性能向上のため、粉体の焼結温度や粉砕粒度の関係を調べていた。いわゆる重労働で体力勝負の仕事をしていた。


 お互い若く、20才代の頃の話だ。週末になると職場の仲間と一杯やり、酔った勢いで熊谷市近郊にある太田劇場に出かけた。

 劇場の暗がりの中で、ライトに照らし出された女体の肌は綺麗だ。舞台に少しでも近づこうと、まわりの人を押し除ける。肩と肩がぶつかり、ほんの数秒向き合った。
 なんと、ぶつかった相手は彼であった。彼は袖を巻くって太い腕をむき出して、やるかと私を睨めつける。(こんな太いゴツイ腕と張り合っても勝ち目がないと)先を譲った。それから、親しくなった。

 時は移り、二人とも太田劇場にも興味がなくなり、紳士となった。
(うむー。この辺のことを、読者は待っているかもしれない)
 自分を偽らず、少し品性が落ちるが、自分とはいかなる人間かを描こうと思う。

 しかしながら、妻は、品性が落ちるようなことを書くと機嫌が悪い。
 同年配の読者の期待に応えるべきか、あるいは長年苦労を共にした妻の機嫌をとるべきか、悩むところだ。

私の散策メニュー 桑田 冨三子

 普段は、あまり考えもしなかったことだが、これといった目的もなしに近所を歩きまわるようになった。家にじっとしているのは健康的でないといわれたからである。
 まず気が付いたのは、ここら辺はとても坂が多い。台地と谷地が入り組んだ複雑な地形である。家を出て通りへ抜けると、そこは「木下坂」である。坂の片側は、ずっと、緑深い有栖川宮記念公園に面している。公園に沿って、低めの白い塀が造る緩やかなカーブと、なだらかな勾配は、歩くものにとってこよなく優しい。



 登り切ったところは交差点で、角には「盛岡町・交番」がある。昔、有栖川公園に盛岡藩・南部家の屋敷があったとかで、そんな名前になっていると聞いた。

 交差点を左に行くと、「北条坂」である。けっこう嶮しい下り坂で「鉄砲坂」とも呼ばれる。坂の途中、左側には以前、辻井 喬(つじい たかし)と名乗った詩人・小説家の屋敷があった。セゾングループを築いた実業家、西武デパートの堤 清二さんである。
 いつも開いている門の向こうに見えるのは、赤く咲き誇るバラ、ピンクの小さいバラ、輝くような白いバラなど、眺めてあきない豪華な薔薇の饗宴が、坂道を通る人の目をひいていた。それが時代が移った今では、ぜんぜん関係のなさそうな人が住む大きなマンションに変容している。


 盛岡町交番を右へ曲がるとテニスコートがある。野球場があって、仙台坂の上に出る。一方通行の出口だが、左に曲がると下り坂、そこは「暗闇坂」(くらやみざか)である。
 なんで、暗闇坂なんていう気味の悪い名前にしたんだろうか。由来は、昼間でも暗いほど鬱蒼と樹木が生茂って、狭い坂道に覆いかぶさっていたからだという。

 そういえば、夜など遅くなって地下鉄・麻布十番駅からタクシーで帰るときなど、この坂を登り通ることになる。怖い。明治のころの「人切り以蔵」の名が浮かんできたりする。確か、坂の途中、左側にオーストリー大使館があるはず。けれども真っ暗で人の気配はまったくしない。小さい灯りがぼんやり、ポツンと見えるだけ。

(運転手さん、お願い。スピード出して速く通り抜けて。)

 話を仙台坂上に戻す。仙台坂をまっすぐ下ると、途中、左側にまことに面白い形の高層マンションが見えてくる。頭デッカチで下は細く、まるで伸び過ぎた、つくしんぼうの態だ。有名なカルロス・ゴーンさんが住んでいたらしい。彼はそこから近くのホテルまで歩いて行った。そこには二人のアメリカ人が待っていて、品川駅から関西空港へと首尾よく日本を出国して行った、のだという。

 ここで、ゴーンさんの名誉のためにあえて言っておきたい。
「世界の子供たちに良い絵本を届ける活動」をする私たち(IBBY)にとって、彼は多大な寄付支援をしてくれた慈愛深いところもある素敵な人だったことを。


 最後にもうひとつ、私の散歩メニューの中には、秘かに大事な坂がある。

 家を出るとすぐレンガ色の私道になる。坂の名前はまだない。バブルが崩壊する寸前、いくつかの木造家屋の取り壊しが続いた。そして住んでいた人々が皆、いなくなった。その後、登場してきたのが、このレンガ色の坂道である。

 この坂をおりていくと、大きな鳥が居る邸宅に突き当る。鳥はものすごく大きい。羽を広げると2メートル位にはなるだろう。鳥籠なんていうものではとても間に合わない。家にはドーム型の屋根が造られている。
 バルコニー風のテーブルのある庭園があって、そこには木や植物が沢山生えている。なんとなく薄暗い。まわりは塀のように高くぐるりと、しっかりした金網が張り巡らされて、その網はドームの屋根にまで届いている。空は閉じられている。
 そこに大きな鳥が棲んでいるのだ。

 以前は、この家のガレージから出てくる白い乗用車の後部座席に、いつも豹が乗っていた。生きている豹である。しかし、だいぶ前から豹の姿を見かけなくなった。

(きっと豹がいなくなったから、今度は、鷲にしたのだろう。)

 私はそう思って居た。
「いやア、あれは鷲なんかじゃないよ。トンビだ。トンビに違いない。それにしても金色のトンビなんて、とっても珍しい。」
 一緒に鳥に会った人が教えてくれた。だからきっとトンビなのだろう。

 私は外へ出る時はいつもその鳥が居るかどうか、とても気にしている。金網越しに鳥がこちらを向いている時には、ホットする。
(ああ、よかった、元気なんだ。)
 しかしこの頃、鳥は姿を見せない日が多くなった。そんな日は、とても心配になる。
(きっと年寄りなんだ。)
 なるべく長く生きてほしい。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

ひるのいこい    石川 通敬

 私の好きな曲の一つが「ひるのいこい」である。
 それは1952年から69年間も続く昼休み時に流れるラジオ番組のテーマ曲だ。現役時代から、ドライブを楽しむときによく聞いていた。番組では、全国各地の農林水産通信員(現在のふるさと通信員)からの四季折々の話題が伝えられる。

 年金生活に入った今も昼時気が付くとよく聞いている。
 それは、これが心に残る懐かしい原日本の風景と郷愁を刺激するからだ。

 私の思い出は、小学五年生の遠足の情景だ。場所は大阪の郊外。季節は初夏。田んぼには、緑鮮やかに稲が元気よく育っている。
 稲田の水は透明に澄み、ドジョウが泳いでいた。のどが渇いていた私は、思わずその田んぼに流れこむ湧水を飲んだことを、いつも鮮明に思いだす。


 長年誰の曲かも知らずに聞いてきたが、あるときそれが、古関裕而の作曲であることを偶然知った。
 うれしさのあまりNHKに電話し、CDかテープを入手できないか聞いたが、回答は素っ気なかった。
「これはラジオ番組のための伴奏曲です。曲だけ独立したものでないのでお売りできません」と言われたのだ。残念だったが、自宅で聞く夢をあきらめた。

     
 ところが最近、新聞広告を見て目を疑がった。
「生誕100年記念 国民的作曲家 古関裕而全集」という広告が、目に飛び込んできたのだ。CD7枚全139曲が収録されている大全集だ。

 私は先ず「ひるのいこい」を探した。「あった、あった!」のだ。第五巻の最後に、NHKラジオテーマ音楽と載っている。
 直ぐ注文したかったが、躊躇した。たった一曲のため全集を丸ごと買うのは、道楽が過ぎるのではないかと思ったからだ。
 そこで迷ったときよく使うパターンだが、妻に意見を聞いた。
「そんなお金の使い方をするから、あなたにはお金が残らないのよ」
といつも言われているからだ。ところが今回は、
「いいんじゃないの」
 と意外にも、あっさり賛同の返事が返ってきた。


 予想より早く通販の注文の品は届き、早速「ひるのいこい」を聞いてみた。それはドライブ中に聞く、雑音交じりの音とは全く違う、澄んだ美しいもので大いに満足した。
 もう一つうれしかったのが、彼女がすんなり私の問いかけに応諾したわけが直ぐ分かったことだ。
 実は昨年来妻はテレビドラマを見て、「古関裕而」ファンになっていた。そこで甲子園の高校野球の応援歌をはじめ、「長崎の鐘」など彼女のお気に入りの曲を多数彼が作曲していたのを再確認していたからだろう。
 その上意外にも妻はこの曲にまつわる思い出話をしたのだ。


「テレビドラマを見るまで、古関裕而の曲と知らなかったものが多かったけど、『ひるのいこい』もその一つよ。小学生のとき、土曜日のお昼に学校から帰ると、ラジオで「ひるのいこい」が始まっていたのが懐かしいわ。

『今、お昼のお弁当を、田んぼのあぜ道で、ご家族で召し上がっていらっしゃる皆さん』と語りかけるアナウンサーの声が、東京しか知らない私には、羨ましい程、暖かさを感じる言葉だったの」というコメントに私は驚いた。


 感激の連続の中、私は次々と彼の曲を聞きながら、いろいろ考えた。その一つが、「国民的作曲家」という彼への総括だ。
 そういう目で目次を見ると、彼の作品は、昭和時代の日本人がたどった苦楽の歴史を写している。全集の第一巻は西洋への憧れと日本古来の庶民の心情を反映して生まれた大正ロマンの唄だ。
 それがいつの間にか、軍事大国へ突き進み、国民を鼓舞する軍歌にシフトしている。もし私がその時代に生きていれば、きっと大感激したと思うのが「若い血潮の『予科練』」をはじめとする数々の軍歌だ。


 それが敗戦と同時に劇的に、平和志向の明るい希望の唄に代わるのだ。古関は戦争に加担した自分に嫌悪感を後にもっていたそうだが、戦後はそれを償いたいと思ったのか、国民を慰め、元気づける数々の名曲を創出している。

「長崎の鐘」もそうだが、私には「とんがり帽子」が耳に残っている。彼は一生日本人の苦楽に寄り添い、共に生き、喜び、悲しみ、慰め合う唄を作ってきた人だった。彼の曲は、日本人の昭和史そのものだと私は思った。


 もう一つ意外な発見は、全集の中にあった「ひるのいこい」に対する寸評だ。
「古関メロディーのDNAが、『国民的ヒット、北国の春、寅さんのテーマ』に色濃く流れている」と書いてあったのだ。
 日本生れの芸術で、世界に受け入れられたものは数多くある。古くは浮世絵、近年では黒沢の映画、最近では「鬼滅の刃」のアニメなど枚挙にいとまがない。
 音楽部門では、「上を向いて歩こう」が広く知られているが、「北国の春」は中国のカラオケ店で人気があるそうだ。ドラマでは「おしん」、アニメでは「ドラえもん」がタイで共感を得ていたようだ。

 将来「ひるのいこい」のDNAをもつ交響曲を作る作曲家が現われれば、その曲が醸し出す日本の田園風景に、アジアの稲作文化圏の人々が、共感を抱いてくれるに違いないと想像した次第だ。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

わすれられない   吉田 年男

 写真の整理していた時だ。姉と二人で写っているキャビネ版の写真が出てきた。セピア色の古ぼけたものだ。姉は三人いたが写真は一番下の姉で、私とは七歳離れている。

 姉たちから、私が小学生のころ怪我をすることが多くて、母が育てるのに戸惑っていたと聞かされていた。写真の姉は歳が一番近いせいもあってよく面倒を見てもらった。

 写真を見ていたら、指先の出血で大泣きをして母を困らせたときのことを思い出した。


 終戦の年に、疎開先の茨城で小学一年生であった私は、二年生のときに、東京の小学校に転校した。
 転校先の杉並区立和田小学校は、戦争で校舎の大部分が焼かれていた。和田小の生徒たちは、同じ区内の方南町駅に近い、大宮小学校の校舎を借りていた。大宮小まで歩いて通った。子供の足ではかなり遠く感じたことを覚えている。

 東京での生活は、戦後間もないころで特に食糧事情が悪くて大変だったと思う。小学生だったわたしは、そんな時代であっても、さほどひもじい思いをしないで過ごせたのは、母や姉たちのおかげだと感謝している。

 焼け跡が区内のあちこちにあった。印象に残っているのは、銭湯の焼け跡で、白いタイルや洗い場のカランがそのまま残っていた。
 そこはほかの焼け跡より広くて、三角ベースなど野球をする子供たちの恰好な遊び場だった。
 当時、米国からシールス軍が来日して、日米野球を見に後楽園球場へ姉に連れて行ってもらった。遊びの中心は野球であった。善福寺川での水遊び、ケンダマ、メンコ、ビー玉、縁台将棋など、暗くなって周りが見えなくなるまで家には戻ることはなかった。

 
 ある時、路地の暗がりで友達とメンコに夢中になっていた。丸メン(ボール紙の厚手の丸いメンコ)を持った右手を強く振り下ろした。地面に指先が当たった。
「痛い」と思ったとき、中指の爪の間に土が少し入り込んでいた。
 その時は友達には何でもないふりをしていた。夜になって痛みはだんだんひどくなってきた。ほったらかしにしていたら、数日後には中指の太さが、倍ほどに膨れ上がっていた。あまりの指の変貌と痛さに、母に頼るしかなかった。一部始終を話した。母は慌てて、近くの診療所へ連れてくれた。

 診療所は、狭くて薄暗かった。先生が軍医だったことも知らなかった。
 当時はそういう診療所しかなかったのかもしれない。先生に「手を洗ってこい」といわれた。痛みをこらえながら、腫れあがった手を洗った。そして、何をされるのかわからず、恐る恐る洗った手を先生の前に出した。

 先生は、何も言わずにいきなり指先をハサミのようなもので切った。そして、膿を絞り出すように強く握った。周りに膿が飛び散った。先生の白衣に赤黒い膿がべっとりと付いている。指さきのきり口にきいろい薬のついたガーゼを詰め込んだ。ひどい荒業治療は終わった。

 しばらくは驚きの放心状態。強烈な痛みは母と一緒に診療所をでて、しばらくしてからおそってきた。
 麻酔もしないで指先を切られたので、痛みは半端ではなかった。たまらず地面に座ったまま大泣きをしてしまった。
 母の前で大泣きをしたのは、後にも先のもこの時だけだと思う。母も姉たちも、今はもういない。
 あの時の困りはてた母の顔は、何年たっても忘れることができない。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

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