元気100教室 エッセイ・オピニオン

まどさんと美智子さま 桑田 冨三子

 1980年代の後半、私は大学時代の友人タヨの誘いに応じて、子どもに良い本を渡す運動に加わるようになっていた。国際児童図書評議会IBBYである。

 世界中の国、特に途上国において、優れた子どもの本の出版や普及を奨励する民間組織である。隔年に一度、子どもの本に貢献する作家の全業績にたいして「国際アンデルセン賞」を授与している。その選考水準は高く「小さなノーベル賞」とも呼ばれ、児童文学の発展に大きく寄与している。


 1989年、IBBYの日本支部は詩人・まどみちおさんをこの「国際アンデルセン賞」候補に推薦することに決めた。

「まどみちお」本名・石田道夫は1909年に徳山で生まれたが、5歳時のある朝、目が覚めたら母と兄妹の姿がなかった。
 自分一人だけが置いて行かれたと気づく。お爺さんに育てられるが、その頃の寂しさと孤独、また、豊かな自然や人々のあたたかさが、多感な時期のまどさんの感性をつちかい、詩を作る原点になったという。

 土木技師として働きながら詩を作り続ける中、25歳の時に、まど・みちおというペンネームで投稿した詩が北原白秋に見いだされる。以来、本格的に詩に取組む様になった。1951年に「ぞうさん」を発表する。翌年これが、団伊久麿の曲でラジオ放送され、大ヒットとなる。その後も詩と童謡の創作に専念し、1968年に最初の詩集「てんぷらぴりぴり」を出版し、第6回野間児童文芸賞を受賞した。

 話は友人・タヨに戻る。IBBYの日本支部会長がタヨに、まどさんの詩を英訳する人を探すよう依頼した。
 まどさんの詩は日本語である。審査会に提出するには英語に直さねばならない。詩の翻訳とは、通常の翻訳とは異なる。詩の心がわかる詩人でないと、まどさんの世界観が伝わる翻訳にはならない。
 ……、 ふとタヨの頭に浮かんできたのが当時の皇后・美智子さまの存在であった。

 美智子さまは歌人として注目されている。言葉一つに託されている思いが非常に大きいから、素晴らしい歌を詠まれる。
 また、人の心の琴線を揺らす詩人・長瀬清子の「あけがたにくる人よ」を、皇太子妃時代に英訳されている。
 児童文学作家・新見南吉の詩の翻訳も手描けられたことも、タヨは知っていた。詩の翻訳は地味で困難を伴う仕事である。

(美智子さまにはきっと、まどさんの世界観がお解りになる)

 タヨはそう思ったにちがいない。そばにいる私もそう思う。けれども一体、どうやって皇后様にお願いできるの? いつものことながら、突拍子もない彼女の思い付きに私はあきれていた。
 しかしタヨはそれを巧みに実行に移した。
「この話は、私がひとりでやる。他の誰にも手伝ってもらわない。」
 そう宣言したタヨは、本当にひとりで美智子さまに電話をかけ、説得したらしい。お答えは「いくつか訳してみますけど、どうぞ、ほかの方にもお願いしてみてくださいね。」であった。

 しかし、タヨは他に人を探すことをしなかった。そんな顛末があって暫く経った。或る日、日本支部には『The Animals  どうぶつたち」と題した手作りの小冊子が届く。それは、美智子さまが数多いまどさんの詩から20編を選び、原詩の形式を変えることなく、子どもにもわかりやすい英語に訳された詩集であった。

 宇宙詩人と言われ、地上のあらゆる存在に敬意を払うまどさんの思いがよく伝わるものであった。本は見開きの横書きで、左頁にまどさん、右頁には英語というしゃれたレイアウトでできている。翻訳についてまどさんは、「英語は分からない」とおっしゃったが、美智子さまは原詩の音とイメージをそこなわないよう再現した翻訳文を朗読し、テープに吹き込み、まどさんはそのリズムを確認出来た、という話だ。

 美智子さまは詩人であり翻訳者であり、優れた編集者である。
 IBBYには、この20編のまどさんの詩が美智子さまの翻訳とともに提出された。惜しくも国際アンデルセン賞は逃したが、1922年『The Animals  どうぶつたち』は日米で出版された。私はアメリカ側の出版社と、宮内庁、まどさんとの間で印税などの出版契約をする経理担当として関わった。

 一方、美智子さまはご公務の間を縫って、ずっとまどさんの詩を読み続けられた。出来上がったのが、60篇の詩の翻訳、『にじ』、『けしゴム』、『不思議なポケット』の小冊子3冊であった。

IBBY日本支部では、再び、まどみちおさんを国際アンデルセン賞候補に挙げた。その時、タヨは日本支部ではなくIBBYの世界会長に選ばれていた。
 1994年、選考結果を緊張して待っていた日本支部に、日本人審査員の松岡京子さんから電話が入った。「まどみちおさんの電話番号を、お知らせください。」
 この電話によって、まどさんの受賞を心待ちにしていた日本のみんなは、まどさんの受賞を確信したのである。
 不思議なめぐりあわせでによってあまり縁のなかった詩の世界で私が出会った二人の詩人の話である。

  イラスト:Googleイラスト・フリーより

【エッセイ】 運動公園を歩く =  青山 貴文

 私は毎日、少なくとも5キロ歩くようにしている。

 この十数年、雨天などで歩かない日は、何か落ち着かない。歩く場所は、『熊谷さくら運動公園』に決めている。我家から車で10分くらいのところにある。
 足腰に優しいクッション素材を舗装した一周1キロの遊歩道が敷設されている。

 秋から春にかけては、午後1時ごろから歩き出す。夏は涼しさを求めて、午前5時半ごろから歩くようにしている。この半年ほど前から、近くに住んでいる長女が、一緒に歩くようになった。彼女の目的は、気分転換と、中年太りを避けたいらしい。

 多くの人は、この遊歩道を左回り(俯瞰すると、時計の針と反対の向き)に歩いている。
 私も皆に習って大抵左まわりで歩く。時たま、反対方向から歩いてくる人がいる。なんとへそ曲がりな人だろう。だが世の中にはいろいろの人がいるから、面白いのだと思っていた。


 数年まえ、右回りで歩いてみた。体幹がわずかに右傾していることに気が付いた。いつも左傾していたためか、足腰に加わる力が異なりはなはだ気持ちがよい。この運動公園の遊歩道は、ほぼ大きな楕円形であるが、ゆるやかな曲線なので、体幹が傾かないと思っていた。
 しかし、ところどころ歪曲し、小さなコーナー部分ではどうしても体幹が傾斜するようだ。

 さらに目に入ってくる景色が、同じところを歩いているのだが、歩く向きを変えると大きく変化し、気分転換になる。この公園は遊歩道の内側に、広いゆるやかな起伏のある芝生が敷き詰められている。
 その広い芝生の中に、小径があり、用水路が通っている。その傍らに日本庭園がある。さらに四阿屋風の休憩所が二カ所あり、それぞれ木陰のなかに佇んでいる。その建物の風情が歩く向によって微妙に変わる。
 その上、一周すると対向者がどのような顔の人たちか、あるいは、およそ何人位の人が歩いているかがわかる。それゆえ、一か月に数度は、右回りをして、気分を一新している。

 私は、若い頃から歩く速度は速いほうであった。前を歩く人を追い抜くことに快感を覚えたものだ。昨年、傘寿を過ぎた頃から、歩く速度を少し緩めた。なかなか書けないエッセイの構想などを考えながら歩くようにしている。

 それでも、同年配以上と思われる人には抜かされないが、時たま抜かされるようになってきた。そのたびに、(自分は有酸素運動をしているのだ)とか、(そんなに急いで歩くこともなかろう)と達観するようにしている。

 一方で、競歩まがいの人、あるいは若い人は、ジョギングをしている方が多い。こういう若い人は、はつらつとしていて、元気をくれるようだ。
 時には、犬を連れてゆったり歩いている人、車椅子の人、あるいは杖を突いて足を引きずっているひとなどいろいろだ。


 実は2年前、私は社交ダンスの練習で転んで左足の筋を痛めた。翌日は休まず、左足を引きずってやっと1周した。次の日は2周し、3日目は3周と徐々に歩く距離を伸ばし、速度も速めて正常に歩けるようになった。この遊歩道は私の身体の矯正を担ってくれる大切な場所でもある。

 公園の芝生はいつも短く刈り込まれ、鳩やツグミやセキレイなどの野鳥の群れがエサをついばんでいる。秋には赤とんぼの群れが飛び交う。若い頃、デュセルドルフの事務所に勤めていた。その街中の公園にすごく似ており、毎日歩くたびに、異国での若い頃を、想いださせてくれる。

 また、游歩道の内側に沿って、クスノキ、クヌギ、ケヤキやユリの木などの大木が、ところどころに植えられて木陰を作っている。外側にはカリン、モミジ、サンゴジュ、マンサク、レンギョウなどの中小の木々が植えられている。
 
 それらの遠方には野球場(3カ所)、サッカー場やテニスコート(18面)があり、多くの老若男女が練習試合をしていて、歓声や軽快な球音が聞こえる。

 四月になると、これらの樹々が一斉に芽吹きはじめ、目映いばかりだ。今年は三月半ば過ぎに満開になったソメイヨシノの桜花が、わずかな風で散り始めた。


 ここ数日は、花吹雪の中を長女と歩いている。
 彼女が言うには、「お父さんと歩くようになって、体脂肪が俄然減ったのよ」、「一緒に話しながら歩くと、あっという間に5周歩いてしまうわ」とか、「なんと言っても、気分が明るくなるのよ」といいことずくめらしい。

 長女は、歩くのが速い。私は、彼女と歩くときは、良く聞こえる右の耳側に彼女を立たせる。そして、左回りで私の外側を歩かせ、少しでも彼女より歩く距離を短くし、彼女に遅れをとらないように工夫している。

 私は、この樹々で囲まれた遊歩道から日々元気を貰っている。

                         了

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【エッセイ】 文字の獲得 =  廣川登志男

 両目と両手とを失った「高野さん」と名乗る人がテレビに映し出されていた。戦後一年が経過していた小学校二年のときに失ったという。
 しかし、映し出された姿は、大学生たちを前にした82歳の講師としての姿だった。

 柳田邦男がナレーターをしていたNHKの番組「文字の獲得は光の獲得でした」を見ていたときのことだ。

 高野さんは、拾った鉄のパイプを弟と持て遊んでいたときに、突然爆発し被災した。不発弾だったのだ。弟は即死した。それからの12年間は、面倒を見てもらっていた病院の看護師とも喧嘩するほどの、自暴自棄に近い無為の生活だったという。
 転機が訪れたのは19歳のとき。看護師が読んでくれた一冊の本「いのちの初夜」との出会いだった。


 著者の北条民雄さんは、ハンセン病だった青年のときに自らの体験をもとに書いていた。そこには、病気のために目や指を失った人たちが登場する。

 高野さんは、本の中で自分より不幸な人がいることを知り、心が荒れなくなったと述懐している。さらに、その人たちが唇や舌を使って点字を読んでいることも知ることとなり、以降、その練習を始めたという。
 四六時中に近いほど練習したが、なかなか読めるようにはならなかった。
 しかし、「継続は力なり」で、そのうち文字がわかりはじめ、徐々に言葉になり文章になっていったという。
 高野さん自らが執筆した手記『人と時代に恵まれて』に「文字の獲得は光でした」とあるそうだ。番組のタイトルとなっている。

 それからは、勉強に目覚め、無我夢中となって一年後の二十歳のときに、大阪市立盲学校中学部に入学することができた。さらに通信制大学を経て教員免許を取得したが、すぐには教員になれず、非常勤講師として教壇に立った。

 正教員となったのは34歳のときだ。以降30年にわたり盲学校の世界史の教師として活躍した。いまでも、年に一回、教師を目指す大学生のために教壇に立ち、「これからを生きる若者達を照らす光となっている」と、テレビは締めくくっていた。

 番組では、他に3名の方が紹介されていた。重い障害や病気を持った方や、障害を持つ人と接していた美容師の方たちだ。

 この番組は、NHK厚生文化事業団が主催する障害福祉賞に応募した、障害者及び障害者と共に歩んだ人たちの体験記(手記)をもとに制作されている。

 柳田邦男さんは、35年もの間、選考委員の一人として携わってきた。これまでの応募数は1万3000件にも及び、その体験記には、社会に呼びかけるメッセージ性が強く織り込まれており、人間理解の宝庫だと語っていた。
 さらに、次のような言葉も残している。

「作品応募のために自分の体験を書くということは、自分の汚い部分や嫌な部分をさらけ出すことで、それを許容する新しい自分、すなわち自分の心構えや気持ち、人生観を変えていく大事なポイントとなる」

「人間が生きるということは、自分の人生観などをしっかり踏まえながら、自分の人生を開く道をどう見つけ出していくか。人生を開く道は、自分を見つけることからしか生まれない」

 番組を見て、深く考えさせられた。

「自分は恵まれて育ってきた」
「障害者に対して思い上がった誤解をしていた」
「障害者に学ぶべきことは多い」
 などと、胸が締め付けられた。

 7月にはオリンピックが始まる、今までは、障害者のためのパラリンピックに興味が湧かなかったが、今回は真剣に見なければと思う。それに障害者と呼ぶことすら不遜に思えてきた。

 書くという作業の大事さも、今更ながら思い知らされた。通っているエッセイ教室の先生から常日頃言われてきた「汚い自分をさらけ出せ」と、全く同じだ。
 さらに「『人間ってそうだよなー』と、読み手が感じとれる内容を書くことが大事だ」と。これはまさに人間理解の極みだ。
 
 今、このエッセイを書いているときも、「何を書こうか」「ネタが思いつかない」などと愚痴をこぼしていたが、まだまだ自分をさらけ出していないのだろう。「だろう」と書いていること自体が真剣さの欠如だ。
 裸の自分とは何者なのかと、自分を見つけようとする努力の気持ちは大いにあるのだが、どうしたら自分を見つけることが出来るのか、それすらわからない。
 とにかくエッセイを書き続けていこうと、決意を新たにした番組だった。

                           了

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【エッセイ】 幼い手と指先 = 吉田 年男

 コロナ禍のなか、4月になって何人かの新小学一年生との新しい出会いがあった。同時に、あどけない顔の子供が、中学、高校と進級して、すっかりおとなっぽくなった姿での別れもあった。

 その中の、M子さんとの別れが印象に残っている。最初出会ったのは小学一年生の時だった。それから途切れることなく彼女は我が家の書道教室にきていた。この度、高校生になって部活や勉強が忙しくなったのを機に、やむなくやめることになった。


 お子さんをお預かりするのは、小学一年生からにしている。我が家に見えたその日に私と一対一で用具の使い方などに一時間ほど時間をかけている。

 用具の名前を覚えてもらうために、すべての用具をカバンからだして机の上に並べる。そして、机の右端に置いてある水差しの位置を基にして、水差し側に硯と筆を、机の真中に下敷きと文鎮、そして、左側に手本を置く。この配置も用具の名前と一緒に頭に入れてもらう。

 次に筆の持ち方、墨のすり方、正座したときの姿勢、机と身体の間隔などを彼らと一緒にやって覚えてもらう。

 後かたづけは、きわめて大切なので、実際に書くのは1~2枚にして、余った墨の処理、硯の清掃、筆の養生、そして、用具をカバンにしまうまでを一人でできるようにたっぷり時間をかけることにしている。

 子供たちにとっては、初めてのことばかりで大変なことだ。
 ビックリするのは、最初にこれだけのことをしておくと、次回からは、なにも口出ししなくても、子供たちは一人でほぼ間違えなくやり遂げてしまうことだ。吸収力のすごさに毎回驚かされている。幼稚園児ではここまでやることが難しいとおもう。

 この度、別れることになったM子さんは、小学生の高学年になったころに、お正月の書初め作品が、よく選ばれるようになった。中学生なってからは、校内の書初めで展などに選抜されていた。

 中学生までは、お習字という中での勉強で、高校生になると書道として学び方も変わってくる。
 M子さんは、一旦この段階で教室から離れるが、折を見てまた書道としての勉強を続けようと思っているに違いない。私もそうあってほしいと願っている。
 書道となると古典の臨書をする機会にも出会うようになる。今使用している競書雑誌にも、高校生以上のページには臨書の課題が載っている。

 書の研鑽には古典の臨書はとても大切なものと私は思っている。

 コロナ禍で、昨年はやむなく中止になってしまったが、今年七月に上野の都美術館で開催される第65回書宗院展(古典の臨書展)に「智永の千字文」を出品した。

 
 別れるその日に、M子さんに「智永の千字文」を臨書してみることを勧めてみた。
 彼女は初めて臨書に挑戦をした。指先を見ると、きれいなネイルデザインが施されている。12年前に、一対一で用具の使い方を教えたとことを一瞬思い出した。

 あの時の彼女の幼い手と指さきが、いま目の前で臨書作品を書いている。

                   了

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【エッセイ】 寝しなのプログラム = 金田 絢子

 亡夫は、五中(小石川高校)に通っていた時分、親友と北海道へ旅をした。夫が楽しそうにその話をしたのは、私たちが結婚したての頃で、かれこれ六十年の昔になる。

 おしゃべりの夫は、種々語ってくれたにちがいないが、私が覚えているのは友人が旅の途次、正岡子規の短歌を吟じて見せたというくだりだけである。

   真砂なす数なき星の其の中に
   吾に向かひて光る星あり

 私は、子規が名うての歌人であり、俳人であり、漱石が子規の俳句の弟子であるのも知っていたが、なぜか好きになれなかった。

 教科書に載っていた”藤の花”を詠じたものなど、ちっともいいと思わなかったし、芭蕉の「あかあかと日は難面もあきの風」を、子規が評価しなかったというのも気に入らない。

 夫の思い出話から「真砂なす」を知り、大いに感動したものの、直ちに私が子規の礼賛者に変身することはなかった。片意地な私が、長い年月をかけて、ようやっと、子規に素直になれたというのが真相である。
 などと文章を練っているところへ、長女が二階から降りてきた。つい先日のことである。(令和三年三月)そこで、
 
「エッセイに子規のことを書こうと思ってるの」
 と話した。
 すると、娘はコーラスをやっているのだが、ちょうど十年前に舞台で歌った「子規の短歌による合唱組曲」(混声版)の楽譜を上から持ってきてくれた。幸い楽譜には、ごく薄い七ページほどの小冊子「子規の歌の風景」がはさまっていた。

 最初のページに子規の略歴が記され、次に「星の歌」の項がある。
「真砂なす」がまっさきに載っているが、そのあとに星の歌が六首つづく。七首目、おしまいの歌に胸がつまった。

   草つつみ(病にかかる枕詞)病の床に

   寝がへればガラス戸の外に星ひとつ見ゆ

 やがて、子規は寝がへりも打てなくなる。
 肺結核から脊椎カリエス至る凄絶な闘病生活7年、仰臥のまま執筆に励み、死の2日前まで随筆を書いた、右の冊子にこうある。

「亡くなる直前まで俳句、短歌、随筆にと子規の創作意欲は全く衰えなかったが、病臥の姿勢で筆を執るのは困難が伴った。おそらく妹の律か弟子の高浜虚子かに支えられて筆を執ったものと想像される。」
 にわかに、うちの書棚に眠っている「墨汁一滴」「病牀六尺」「仰臥漫録」を読みかえしたくなった。

「仰臥漫録」(ぎょうがまんろく)に次の句がある。

   律土筆取りにさそはれて行けるに、と前書きがあって
   看病や土筆摘むのも何年目

 その少し前の行に
   母と二人いもうとを待つ夜寒かな

 子規は律のいけない点を列挙したりもする。
 頼んだことは律儀にやってくれるが、もう一歩踏みこんで、病人を暖かく包むところがない、と子規は大いに不服である。
 身動きひとつ儘ならない子規にとって、無理からぬ注文ではある。それでも子規が、どんなに妹をいとしいと思いながら書いているかが、読手に伝わってくる。

 子規はこの三冊に俳論、歌論は言うに及ばず、万葉調に徹した歌人、平賀元義の歌など列記し、動けない子規の一番の関心事、食事の内容を詳しく筆にのぼらせる。のみならず、それらと同じページ、次のページにと、わめき、泣き叫ぶ己が姿を赤裸々に写している。

 子規は客人が帰るとき、声をあげて泣いたという。

 ちなみに私はベッドに横になって眠りに就くまで、空で言える短歌を愛誦する。
 万葉集、古今集、(作者と結びつかないのも多々ある)源氏物語、茂吉、西行、あるいは新聞の歌壇に掲載されたものなど数十種に及ぶ。
 たいてい途中から眠気が襲ってきてしどろもどろになる。
 言うまでもないことだが、この私の寝しなのプログラムには、いつのころからか「真砂なす」が加わって精彩を放っている。

                           了
  イラスト:Googleイラスト・フリーより
        

柚子を採る

 庭の南東に柚子の木がある。
「柚子の木って、どこで苗木を買ったんだっけ」と妻に尋ねると「杉並公会堂前の植木市じゃないかしら」との返事が返ってくる。苗木から育ててもう何年になるだろう。高さは、3mほどになった。

 近年、柚子が豊作のステージに入り、庭木の中でも存在感を増している。

 陽のあたる南側のガラス窓を通して見ると、例年に比べ、今年の柚子は、たわわに実っている。高いところを採るのは私だ。
「もうそろそろ採ってもいいかな」と妻に聞くと、「そうねえ、下の方は私でもとれるけど、上の方は任せるわ」とのこと。


 三箇日をすぎた明くる日、柚子採りに乗り出した。物置から高枝バサミを取り出し、枝幹や葉の付け根にある鋭い棘に刺さらないよう厚手のバラの剪定手袋をはめる。
 2時間ほどの作業で、高いところをほぼ採り終わった。小枝や葉が邪魔をして、ハサミの操作がしづらく、実を切ってしまうこともある。隣家との境目は落とさないよう気をつけているのだが、物置の屋根に、2・3個、ドスン、ドスンと音を立てて落ちてしまった。

 木の周りから角度を変えて実だけを切り離そうとピンポイントで狙うが、実と一緒に付いてくる葉や小枝も少なくない。ハサミの操作が難しい。見上げてばかりの作業を続けていると首が疲れる。もとの姿勢に戻すとフラフラする。


 ひとあたり採り終わると、こんどは、小型の庭バサミで落とした実から葉だけを切り離す。冬の間に溜まった白樺などの枯れ葉と一緒に用意したゴミ袋にまとめる。
 可燃物のゴミ出しの日まで、玄関脇に置いておく。こうした一連の作業を終えると、妻の要求に応えたことになる。
 ちょうど翌日は、燃えるゴミを出す日なのでタイミングが良かった。


 作業を終え、収穫物である柚子の実を玄関に置く。妻が見に来て、「ずいぶんいっぱい採ったわね」と感心する。
(めったに褒めない妻としては、最大限の褒め言葉だ)。
 この反応を聞くと、達成感と満足感が湧いてくる。

 実から葉を切り離す作業をしていて、足の裏に鋭い痛みを感じた。足を持ち上げてゴム靴裏を見ると、柚子の鋭い棘が刺さっている。
 夢中になって作業をしていて気が付かず踏んでしまったようだ。恐る恐るゴム底に刺さった棘を引き抜いた。
(油断もすきもあったものではない)。
 家に戻って妻にこのことを話したら、「葉っぱは棘があるから踏まないようにちゃんと分けておくのか常識よ」と言われてしまった。

 我が家では、成果物である柚子をレーズンとプルーンを赤ワインで煮た夕食後のデザートに、絞った果汁をかける。
 甘い味に柚子の香りと酸味が加わってしあわせな気分になる。
 朝食の米国産の「ビヨンドグリーン」と呼ぶ植物由来の製品を使った特性飲料にもかける。残った皮も、妻は黒いところを取るが、私はもったいないとかじって全て食べてしまう。

 たくさんあるので、妻は、隣家の同じ年の隣家のご主人を亡くしてひとり暮らしの方にお渡しする。
 柚子が大好きで、毎年我が家からの贈り物を待ちかねているという。よろこんでもらえて、収穫した私もやりがいがある。

 西荻句会を紹介してくれた方にもお渡しした。自宅での「ゆず湯」や娘さんに渡したという。有効に使ってもらって
(柚子もさぞ、本望だろう)。


 2度目の柚子採りは、一月末だった。
 木に残っている柚子が気になって仕方がない。
(今日は暖かいし、全部採ってしまえ)と庭に乗り出す。
 
 前と違うのは、新兵器の登場だ。
 高枝鋏でなく、中間や低い場所用のハサミだ。短い分ハンドリングが楽だ。全部取るのはちょっと無理かなと思っていたが、やりだしたら止まらなくて、全て採ってしまった。
 途中、小路をゆく、幼い男の子が「あれなあに」と父親にたずねると「柚子というんだよ」と会話が聞こえる。
(ちょっと誇らしい気持ちになった)
 収穫した成果をスマホ写真に撮ろうと屈んで数ショット。これで全て終了と、やっこらさと立ち上がろうとしたら、立ち上がれない。
(足に来てしまった)
 何回も試みたができない。そうしているうちに、よろよろとスローモーションのように後ろに倒れてしまった。
(脳裏に、ボクシングのノックアウトシーンの映像が浮かんだ) 

 家では消費できないほどで、西荻句会の会員に配ったり、郷土博物館分館の企画展「角川源義コレクション」を一緒に見学した人にプレゼントした。
 後で聞いたら、恵方巻きの酢の代わりに使ったり、柚子の甘煮にしたという。うまい使い方をするものだと感心した。

 
 先日の朝、鳥が騒ぐので、妻に尋ねると、「餌がないからよ。いつも上の柚子は、餌に残すのに、全部採っちゃうから、今年はないと騒いでいるのよ」と。(そうだ。いくつか残さなくちゃいけなかったんだ)言われて初めて気がついた。

 今日も南の窓から、柚子の木を見る。立春を過ぎ、日増しに暖かくなる陽光のなか、ひとまわり小さくなって佇んでいる。
 豊作の柚子は、まだかなり残っている。「男の台所教室」や「おとこのおしゃべり会」でお世話になっている、近所の「ゆうゆう桃井館」の皆さんにお持ちしようかと思っている。


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                           【了】

働かないアリ  廣川 登志男

 最近、俳優西田敏之さんの代表作である「釣りバカ日誌」を観た。主役のハマちゃん(西田敏之)と、勤め先の社長であるスーさん(三國蓮太郎)のコンビが絶妙で面白い。「フーテンの寅さん」と肩を並べる国民的人情喜劇だ。

 このハマちゃんは、鈴木建設(株)のうだつの上がらないサラリーマンだが社内の雰囲気づくりに欠かせない人物として登場する。
 真面目で、趣味の釣りは名人級。さらに、愛妻や多くの友人に囲まれた幸せ者だ。考えてみると、会社には得てしてこういった人物がいる。
 居るだけで、仕事場が明るくなり、嬉々としてみんなが働く。仕事は二の次だが、何か問題が起こっても持ち前の明るさでいつの間にか解決してしまう。


 普通に給料をもらえるならそういう人間になれたら良いなと、サラリーマンなら一度は憧れたことがあるのではないだろうか。これで給料がもらえるなら万々歳だ。
 しかし、実態として社会に認められるだろうかと心配になる。

 2、3年前だったと思うが、タイトルが「働かないアリに意義がある」という新聞記事があったことを思いだした。
 タイトルの面白さと、「ハマちゃん」から「働かないアリ」を連想したのだろう。記事の内容はあまり覚えていなかったが、何となく興味が湧いてインターネットで調べてみた。

 すると、思いもよらず、新聞記事と同じタイトルの本が見つかった。著者は長谷川英祐氏とある。
 紐解くと、まず、アリやハチは女王を中心とした巣を作り、社会生活を営むとある。こういう昆虫類を「真社会性生物」と記されていた。
 更に読むと、次からが仰天の世界だった。
 なんと、巣のなかにはメスしかいないのだそうだ。

 アリの世界で言えば、女王アリ・働きアリ・兵隊アリはすべてメスだと書いてある。ではオスはどこにいるのだろう。
 子孫を残す役割の女王アリは、オスと交尾して精子をもらわなければならない。驚いたことに、女王アリが交尾をする短い期間にだけオスとして卵から生まれるとある。
 オスの寿命は1ヶ月ほどで、1回の交尾以外は何もしない。
 さらに、女王アリは、長い一生の間にメスの卵を産むのに必要な量の精子を多くのオスから受け取ると交尾を終えてしまう。
 一方、交尾を終えたオスは直ぐ死んでしまうし、まだ交尾をしていないオスは、厄介者として餌も与えられずに巣から追い出され死んでしまうのだそうだ。
 なんと哀れなオスだろうか。アリに産まれなくて良かったと思うのは、私ばかりではないだろう。

 こうして多くの働きアリや兵隊アリが巣の中に棲息する。ある学者が、巣の中で仕事をしているアリの数を調べたら全体の約3割しかいないとの結果を得た。
 すなわち、7割のアリが何もしていない。このデータはある瞬間の状況を調べたものなので、著者らが大変な努力をして観察した結果、1ヶ月以上の期間でも約2割のアリは仕事を一切していないことが判明したという。

 これはどういうことなのだろう。最後まで読んでわかったのだが、「働かないアリ」を字面通りに読んではいけないということのようだ。
 エサ集め、幼虫や女王の世話、巣の修理、あるいは他の働きアリへのエサやりにくわえ、突発的な仕事もある。例えば、セミなどの大きなエサを見つけると多数の運搬アリが必要になるし、他の巣のアリに横取りされないよう早く自分の巣穴に運ぶための動員ということもある。
 
 我々が子供時代にやった、アリの巣穴に土をかけて入り口を塞ぐなどはアリにとって大変な事故で、直ぐに修理するための動員もあるだろう。
 だから、全員が一つのことに対応していたりすると、別の緊急事態が発生しても対処できなくなってしまう。くわえて、アリにも過労死がある。全員が休む間もなく働きすぎると一斉に死んでしまう。だから、適当な余力を持つために、「働かない『働きアリ』」の存在が重要になってくる。


 こんな疑問もある。アリの世界には、指示を出す中管理職という階層がない。それなのに、動いたりじっとしていたりと個体間で差がある。
 実は、ある事態に遭遇すると、どの程度のレベルでそれに反応するかが個々のアリで異なっているということが、昔からの経験でわかっていたらしい。さらに、この反応レベルの差が遺伝子レベルで決まっていると、多くの研究成果からわかってきたと著者らは書いている。

 以上のことは、著書のほんの一部の紹介だが、最終的には「進化論」にまで結びついていた。
 ここまで来ると、私の理解の範疇から大きく外れてしまっていて手に負えない。だが、こういった自然界の生態研究から、今流行りの『組織の多様性(ダイバーシティ)』に繋がってくるから不思議だ。

 ハマちゃんから思い出した「働かないアリ」に関連して多くのことを学んだ。昆虫の世界でも「働かないが重要な存在」があると知り、会社のなかで特別な存在になっている「ハマちゃん」が認められた気がして、ホッとしている。

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                       【了】

住所録  筒井 隆一

 年の瀬が近づくと、年賀状を書く時期になる。私は学生時代に手書きの住所録を整備し、以来それを利用している。
 B-5版で黒いビニールの表紙の付いた住所録は、氏名、郵便番号、住所、電話番号を、一頁に八名分書き込めるようになっており、五十音順に集計されている。
 幼なじみに始まり、学生時代の友、企業人・社会人としてお付き合いいただいた方々、趣味・道楽の仲間まで、およそ1300名分のリストだ。

 また、年賀状をやり取りした結果が一目でわかるよう欄外に、私から葉書を出した相手には○印、賀状を送ってくれた相手には□印を、必ずつけるようにしている。
 スペースの関係で、その記号は3年分しか書き込めないが、送った相手から返事が来ないのが3年も続けば、今後続けて出すかやめるかの判断材料になる。


 近年、コンピューターで住所録を管理するようになってから、イラストの入った挨拶文と宛名書きは、ずいぶん楽になった。反面、頭を悩ませるようになった問題がある。

 自分も高齢化してきたので、年賀状は今回限りとし、以後不要にしてほしい、という連絡が、年々増えている。
 年を取れば、年に一度とは言え、年賀状のやり取りは億劫になる。親しく付き合ってもらっていた友人、知人と縁が切れ、近況を共有できなくなるのは残念だが、トータルで考えて今後は遠慮したい、という気持ちなのだろう。
 決して相手を避けるわけではないのだが、年賀状を毎年貰っているのに、自分が出さないのは失礼で申し訳ない、という気持ちからだと思う。

 こういう人は住所録から削除すればよいが、悩ましいのは逝去の連絡があった人たちへの対応である。
 普通に考えれば、亡くなった人たちはこの世に居ないのだから、住所、氏名の記載を、そのままにしておくのはおかしい、ということで、最初は太い二重線を引いて故人の住所、氏名を削除していた。

 しかし、今まで長い間親しく付き合ってもらった、先輩、仲間の場合は、黒い太線で塗りつぶすのは気が引ける。
 細い二重線を引いて、死去した年月日を記入し、住所、氏名は、そのまま残すことにした。その二重線が、目立って増えてきた。死者たちの住所録になりつつある。

 その様なわけで私の住所録には、死者も生者と同じような位置づけで載っている。本来の住所録とすれば、おかしなものかも知れないが、私自身の感情からすると、一番しっくりくる。

 何年も使っている住所録だが、その変遷を見ていると、面白いことに気付く。最初住所録がスタートした時は、生者だけだった。
 時間が経つとともに、生者は死者に移行する。最初は生者が圧倒的に多かったが、住所録作成の私が老いていくのに合わせ、死者たちが優勢になり、まさに死者たちの住所録だ。

 住所録は、自分の人生の歴史だ。葉書、手紙を書くときに使うだけでなく、たまにパラパラ開いてみてみるとよい。
 目にとまった人物と、どの時代にどのような付き合いをしたのか、その付き合いで何を学んだか、を思い出すとなつかしい。リストの大半は、名前と住所を見れば、いつ頃どこで付き合った人間か、その容貌も性格も解るが、さっぱりわからない人間も増えてきた。

 名前は憶えているが、いつどこで会った相手だろうか。日記のように詳しい情報ではなく、名前と住所だけで思い出そうと努力してみる。
 私たち高齢者にとって、古き良き時代に付き合った懐かしい人物を思い出すのは、一苦労だが、楽しいことだ。

イラスト:Googleイラスト・フリーより
                        【了】

長唄―愛犬バニラのご縁―  石川 通敬

 この1年私は、長唄にはまっている。
 それは我が家の愛犬バニラがもたらしたものである。生きていれば、今年7月で20歳になるが、残念なことに彼女は3年前に死んだ。

 バニラ色のミニチュア・ダックスフンドで、当時人気の犬種だった。その上、彼女はとびっきりの美人で、愛想がよく皆に可愛がられた。

 私が住んでいるのは目黒駅に近い杉野学園の裏だ。学園のメインストリーが「ドレメ通り」と言われ、通学時には、大勢の学生で溢れかえる。

 そんな時間に散歩に連れてゆくと、一斉に「可愛い」と数人の学生たちが駆け寄ってくる。彼女は愛想よく、歓び、仰向けになる。お腹をなぜてもらうのが大好きだった。
 あまりにも皆が「可愛い」と呼ぶので、一時期これが自分の名前と錯覚していたふしがあると思ったほどだ。

 ある時、通りかかった外国人が思わず、「オオ、フレンドリー・ドック」と可愛がってくれたこともあった。


 そんなバニラの大ファンだったのが、昨年来長唄を教えていただいているM先生だ。
 ドレメ通りを挟んで、我が家の反対側に住んでおられる。歩いてゼロ分のご近所だ。バニラへの気に入りぶりは、ご自分もダックスフンドを買われたほどだ。
 そんなご縁がありながら、うかつにも私は長唄を教えていただく機会を長年逸していた。

 小唄と津軽三味線は長年やっているが、長唄にまで手を広げようとは、考えたこともなかった。
 そんな自分にチャレンジする気を与えてくれたのが、百歳クラブの「邦楽音いろサロン」だ。同サロンは、当初小唄のメンバーを中心にスタートした。が、老人ホームや大学の留学生の忘年会などでボランティア演奏をしていたところ、日本舞踊や長唄に関心を持つメンバーが増えた。
 その影響から、長唄を習うことが私の夢になっていった。

 それが2年前、偶然、実現したのだ。  
 実は我が家では毎年クリスマスツリーを飾ることが恒例となっている。発端は、私が結婚した年に赴任したニューヨーク時代にはじまる。
 当時、アメリカ人社会では、旅行したとき、各地のスプーンを記念に買い集めることが流行っていた。そうした風潮に対し、会社の上司Tさんの奥様が、
「うちでは、スプーンではなく、旅行先のクリスマスオーナメントを買い集めているの。その方が思い出の幅が広がるわよ」
 と教えて下さったのだ。

 我が家もそのアイディアに共感し、以来、半世紀、家族旅行、私の業務出張で気に入った思い出の品々を買い集めてきた。
 これまでに、アメリカ、ヨーロッパ、中国等で買い集めたものは、ゆうに百以上になる。
 毎年これを取り出し、来し方を偲ぶが、それにとどまらず、飾り終わると、親しい友人に見に来ていただくのが、我が家の年中行事になっている。

 その友人の一人が、一昨年の暮れにはじめてお招きする機会ができたM先生だ。その機会をとらえ、長唄を教えてくださいとお願いする機会を得たわけだ。

「石川さんは、大好きだったバニラちゃんのご主人だから、特別にお友達としてお教えします」
 と先生は、快諾してくださった。

 あとで伺ったのだが、習いたいとお願いした曲は、中級以上の人が演奏するもので、普通は許されない例外扱いだったのだ。
 その上、その後バニラのご縁には、大きなおまけがついた。
 お稽古が始まって、しばらくしたある日、目黒駅前のヤマハ音楽教室で、芸大出身の山口先生に、津軽三味線を教えていただいていると、お話ししたところ、
「山口君と言っては失礼になりますが、彼は私が大学の若手教官時代、学生だったのでよく知っています」
 と驚かれたのだ。
  
 山口先生にこうしたことをお話ししたところ、当然M先生を覚えておられ、

「目黒駅周辺という狭いところに、ご縁のある人々が集まっているのは不思議ですね」
 と感慨深げに話された。更に、
「石川さん、M先生は長唄界の名門のお嬢さんで、大学、そのOB会の重鎮です。よくそんな方に教えていただけることになりましたね。常識では、考えられないことです。よくよくバニラに感謝しなければいけませんよ」
 と強調されたのだった。
 山口先生は、10年以上も前からのバニラのファンで、音色サロンの応援者の一人でもある。百歳クラブや品川区の芸術祭でも長唄を演奏する夢があるとM先生にお話ししたところ、
「素人だけで長唄を合奏するのは無理です。山口先生に助けていただきなさい。私からもお願いしてあげます」
 とアドバイスして下さったのだ。
 お粗末ながら、以上が長唄とバニラのご縁の顛末話だ。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

【了】

老いの繰言  

 早朝、手洗いに行きたくて目が覚めたが、左脚が重くて持ちあがらない。痛みもある。明らかに攣っている証拠だ。
 こわばった左脚を何とかほぐし、ベッドから降りた。八十代の私が、朝すんなりと起きあがれなくなったのは、いつ頃からか、分からない。分かりたくもない。日毎脚力が衰える。

 私は、未経験の老いの坂をのぼっているのだと、自分に言い聞かせつつ、ほんのわずかな勾配にもよろけながら歩いている。

 何年も前にご主人を亡くして、一人住まいの友人に電話をした折り、
「よろよろとしか歩けなくなったわ」
 とこぼしたら、
「みんなそうよ」
 あっさり言われてしまった。
 本当にそうだろうか。私なんか散歩の途中で、同年配と思われる人に、度々追い抜かされる。

 先日、歩いて20分ほどかかるスーパーまで行こうと外へ出たら、近所のL夫人に会った。
「おでかけ?」
 と聞かれて
「ちょっとピーコック(スーパー)まで」
 すると目を瞠って
「歩いて?偉いわね。見ならわなくちゃ」
 私はそんな風に返されようとは思ってもいなかったので驚いた。
 Lさんは私と同い年で、ひ弱な(?)私とは違って、町会の仕事もしているし、見た目、とてもパワフルなのだ。彼女は続けてこう言った。
「いなげや(スーパー)の上のクリニックに通ってるけど、パスで行くの」
 いなげやは、目黒と我が家の中間に位置している。

「私は目黒の駅ビルまで(片道30分ほどかかる)往復歩いて行くわ」
 という語を呑みこんだ。
 Lさんの家とうちとは同じ道筋にあり、二分ぐらいしか離れていない。もう長いつき合いで、うちの末娘とLさんの長女とは小学校の同級生である。

 
 思えば、私はこの地に60年以上暮らしている。
 Lさんと我が家は、一方通行路に面し、昭和40年代、子供たちが小さいころ、この細い裏道は、子供達の格好の遊び場であった。時代は移り、車の抜け道に盛んにつかわれるようになって、危なくて、ボール遊びなどさせられない。

 すっかり年をとって、機械オンチの私は右往左往している。老いが、初めて辿る苦難の道ならば、思いがけない現代の騒々しい世の中もまた、体が思うように撓ってくれない私にとって、まっこと苦々しい。

 高名な哲学者が「老い以上の悲しみはこの世にない」と言っている。将に真理である。

 後期高齢者、認知症といった、身も蓋もない用語に腹を立てている私だが、詩的な言いまわしにしたところで、どうなるものでもあるまい。
 だんだん諦めの境地だが、老いを通して、私の気性がいくらか柔軟になったからではない。相変わらず現代の批判ばかりしている私に、娘たちはあきれかえっている。

 それはそれとして、頭と体のバランスがとれない悩みを抱えて、余生をいかに生くべきか、朝に夕に、模索中なのである。

                       【了】

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