元気100教室 エッセイ・オピニオン

緊急連絡先 武智 康子

 6月下旬のある日の夕方、私は、いつものように散歩に出かけた。今日は、久しぶりに夫と一緒によく立ち寄った氏神様の春日神社に、先ずお参りをした。そして、いつもの散歩道に戻ろうと西門を出て2、3歩、歩いた時だ。

 5メートル程前を杖をついて歩いていたお婆さんが、突然崩れるように倒れ込んだ。脇道ゆえに辺りには誰もいなかったので、私は、慌てて駆け寄り声をかけた。

「大丈夫ですか」何度か声をかけたが応答がない。

 私は、咄嗟に救急車を呼ぼうとスマホを出したが、この場所の正確な住所がわからない。指標は神社のみだ。私は、数メートル先の表通りの角の電気屋に助けを求めて駆け込んだ。

2021.10.10.kukusha.jpg 顔見知りの店主は、救急車を呼びながら現場に急いでくれた。そして、倒れている人の顔を覗き込むと、

「熊田さんのおばあちゃんではないか」と言って、店員に町内会の電話帳を持って来させ、すぐ電話で知らせた。

 そうこうするうちに、遠くから「ピーポー、ピーポー」の音が聞こえてきた。店員が、表通りに出て救急車に合図を送った。

 その間も私は、何度か声をかけてみたが反応はなかった。そして到着した隊員に私は、倒れ込んだ時の様子を話した。 

 あと二人の隊員は、お婆さんに応急処置をしながら、救急車に運び込んだ。その時、熊田さんのご主人が駆けつけて、母親であることを確認し、一緒に乗り込んだ。


 救急車が去ったあと、店主に「貴女がいなかったら、もっと大変なことになっていたかもしれない」と言われ、たまたま通りかかっただけの私は、恐縮した。

 しかし、同時に一人暮らしの私は、「もし、このことが自分だったら~~」と思うと身震いが起きた。そして、十五年程前のことを思い出した。


 それは、やはり6月のある土曜日だった。夫は、その道の専門家会議に出席するため、学士会館に出かけた。夫が出かけて一時間ほど経った時、私は、突然、御茶ノ水署のムカイ氏から電話を受けた。

 警察と聞いて私は、一瞬、ドキリとした。しかし相手は「マエダトシオさんをご存じですか」と言った。

 私は、何だか夫から聞いたことがある名前だったので、その旨伝えた。すると、「マエダさんは、先ほど電車内で倒れて、御茶ノ水の順天堂大学病院に運ばれて治療しているが、持ち物の中の手帳の中にこの電話番号があったので連絡している」とのことだった。

 私は、すぐ夫に連絡する旨伝えて、その後の連絡先を聞いた。
 私は、会議は始まっているかもしれないが、とにかく夫の携帯にかけた。やはり出ない。私は、学士会館に電話して、緊急事態なので会議室の武智に繋いでほしいと頼み込んだ。間もなく電話口に出た夫にマエダさんのことを伝えた。

 驚いた夫は「わかった。それでマエダ先生が来られないのだ」一瞬、会議室に緊張が走った様子が電話口の私にも伝わった。続けて夫は「同じ大学の中園先生に、連絡してもらう。有難う」と言って電話は切れた。私は、連絡がついたことでほっとしたが、落ち着かなかった。


 夕方、帰宅した夫の話によると順天堂大学病院に連絡した中園先生は、前田先生の容体が思わしくないことを知って、ご家族に連絡し、中園先生も会議を失礼されたそうだ。
 そこで夫と私は話し合った。「私達も高齢だ。いつどこで倒れるやもしれない。夫婦間の連絡先だけでなく、二人の息子達やその嫁たちの携帯、会社、自宅などの緊急連絡先の一覧表を作っておこう」と決めた。そして常時持ち歩く財布や名刺入れに入れて置くことにした。


 今、私は一覧表の一番目にあった夫の番号が消えて、最後に、成人した孫たちの番号も加えた。私に何かあった時には、誰かには連絡がつくだろうという希望の光の緊急連絡先である。

 後日談だが、7月初め熊田さんの奥様が、電気屋さんの店主と一緒に私宅を訪ねて来られた。そしてお婆さんは、手当てが早かったので、病院で意識を回復されて、今は膝の骨に入ったヒビの治療とリハビリに励んでおられることを聞いて、私は、とても嬉しかった。


 次の日、私は散歩の折に神社にお参りして、報告させていただいた。

 6下旬のある日の夕方、私は、いつものように散歩に出かけた。今日は、久しぶりに夫と一緒によく立ち寄った氏神様の春日神社に、先ずお参りをした。そして、いつもの散歩道に戻ろうと西門を出て二、三歩、歩いた時だ。

 5メートル程前を杖をついて歩いていたお婆さんが、突然崩れるように倒れ込んだ。脇道ゆえに辺りには誰もいなかったので、私は、慌てて駆け寄り声をかけた。

「大丈夫ですか」何度か声をかけたが応答がない。私は、咄嗟に救急車を呼ぼうとスマホを出したが、この場所の正確な住所がわからない。指標は神社のみだ。

 私は、数メートル先の表通りの角の電気屋に助けを求めて駆け込んだ。顔見知りの店主は、救急車を呼びながら現場に急いでくれた。

 そして、倒れている人の顔を覗き込むと「熊田さんのおばあちゃんではないか」と言って、店員に町内会の電話帳を持って来させ、すぐ電話で知らせた。

 そうこうするうちに、遠くから「ピーポー、ピーポー」の音が聞こえてきた。店員が、表通りに出て救急車に合図を送った。その間も私は、何度か声をかけてみたが反応はなかった。そして到着した隊員に私は、倒れ込んだ時の様子を話した。あと二人の隊員は、お婆さんに応急処置をしながら、救急車に運び込んだ。その時、熊田さんのご主人が駆けつけて、母親であることを確認し、一緒に乗り込んだ。


 救急車が去ったあと、店主に「貴女がいなかったら、もっと大変なことになっていたかもしれない」と言われ、たまたま通りかかっただけの私は、恐縮した。しかし、同時に一人暮らしの私は、「もし、このことが自分だったら~~」と思うと身震いが起きた。そして、15年程前のことを思い出した。
 それは、やはり6月のある土曜日だった。夫は、その道の専門家会議に出席するため、学士会館に出かけた。夫が出かけて一時間ほど経った時、私は、突然、御茶ノ水署のムカイ氏から電話を受けた。警察と聞いて私は、一瞬、ドキリとした。しかし相手は「マエダトシオさんをご存じですか」と言った。
私は、何だか夫から聞いたことがある名前だったので、その旨伝えた。すると、「マエダさんは、先ほど電車内で倒れて、御茶ノ水の順天堂大学病院に運ばれて治療しているが、持ち物の中の手帳の中にこの電話番号があったので連絡している」とのことだった。私は、すぐ夫に連絡する旨伝えて、その後の連絡先を聞いた。


 私は、会議は始まっているかもしれないが、とにかく夫の携帯にかけた。やはり出ない。私は、学士会館に電話して、緊急事態なので会議室の武智に繋いでほしいと頼み込んだ。間もなく電話口に出た夫にマエダさんのことを伝えた。驚いた夫は「わかった。それでマエダ先生が来られないのだ」

 一瞬、会議室に緊張が走った様子が電話口の私にも伝わった。続けて夫は「同じ大学の中園先生に、連絡してもらう。有難う」と言って電話は切れた。私は、連絡がついたことでほっとしたが、落ち着かなかった。

 夕方、帰宅した夫の話によると順天堂大学病院に連絡した中園先生は、前田先生の容体が思わしくないことを知って、ご家族に連絡し、中園先生も会議を失礼されたそうだ。
 そこで夫と私は話し合った。「私達も高齢だ。いつどこで倒れるやもしれない。夫婦間の連絡先だけでなく、二人の息子達やその嫁たちの携帯、会社、自宅などの緊急連絡先の一覧表を作っておこう」と決めた。そして常時持ち歩く財布や名刺入れに入れて置くことにした。

 今、私は一覧表の一番目にあった夫の番号が消えて、最後に、成人した孫たちの番号も加えた。私に何かあった時には、誰かには連絡がつくだろうという希望の光の緊急連絡先である。
 後日談だが、7月初め熊田さんの奥様が、電気屋さんの店主と一緒に私宅を訪ねて来られた。そしてお婆さんは、手当てが早かったので、病院で意識を回復されて、今は膝の骨に入ったヒビの治療とリハビリに励んでおられることを聞いて、私は、とても嬉しかった。
 次の日、私は散歩の折に神社にお参りして、報告させていただいた。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

カーナビ 筒井 隆一

 私たちの車は、調布から稲城に抜ける鶴川街道を、南に進んでいる。
 助手席の家内が、運転している私に指示を出した。
「この先が、地図で調べた若葉台への分岐みたい。専用レーンがある筈だから左に寄って下さい」
 家内を、幼いころから大変可愛がってくれた叔父が亡くなり、その葬儀に参列のため、二人で斎場に向かっている。
 いつもは運転する私に遠慮なく、助手席で居眠りをしている家内だが、今日はナビゲーター役だ。前日に、にわか勉強した道路地図を広げ、少々緊張した様子でガイドを続けている。目指すは、横浜市青葉区の緑山霊園だ。

 東京二十三区の西北のはずれ、大泉学園の我が家から、真南に三十数キロメートル。多摩丘陵にあるこの霊園は、東京都町田市、横浜市緑区・青葉区、川崎市麻生区・多摩区が入り組んだ高台の、かなりややこしい場所に位置している。鉄道利用も考えたが、JR、東急、小田急、京王などを乗り継いで、二時間以上かかりそうな、不便なところだ。しかも今まで行ったことのない不慣れな場所だ。コロナの感染が心配な公共交通機関は避け、家内をナビゲーターに仕立て、ナビの案内を頼りに車で出かけることにした。

 最近私は、運転に対する情熱が少々失せてきたのか、車も勝手知ったところに行く時にしか、利用しなくなった。
 ゴルフのホームコースへの往復、孫たちへ採れたての野菜のお届け、家内の園芸関係の買い物でホームセンターにお供、そして、両親の墓参りくらいにしか使わない。
 加えて、10年乗っている車の車検が年末12月に切れ、運転免許の更新も来年8月にある。そろそろ免許証を返納して車を手放す時期かな、と考えていた。

 今回もナビに緑山霊園を入れておき、それを目的地として運転すればよいのだが、ナビ本体が10年前の機器であり、車購入以来データも全く更新していない。そのため、新しく開通した道路は、私のナビの経路案内の対象にならないのだ。


 最近は車載用だけでなく、携帯可能な個人用ナビゲーションも現れているが、今更最新の機器に入れ替えて走り回る考えもない。

 葬儀は、とどこおりなく終った。親族にお悔みを申し述べ、家内と二人帰路についた。

 往きは、沿線の主たる目標、案内標識などを頼りに、充分ゆとりをもって、霊園に到着できた。家内の素人ガイドも、地図を見ながら早め早めに道案内してくれたおかげで、カーナビに劣らず正確にルートをたどることができた。
 帰路は、ナビの「自宅に戻る」にセットして、それに従ってみることにした。往きに地図を見ながら来た道が、はたしてナビの案内と一致しているか、確認するのも面白い。

 霊園を出て、来た道を北に向かって走る。新しく開発された大きな住宅団地が、あちこちに広がっているが、道は昔からの古い街道なのだろう。特に問題なく車は進む。ナビのガイドも、こちらの進路を手直しするような指示は無く、
多摩川にかかる「多摩川原橋」を渡るまでは、順調に来た。

 橋を渡り切って、国道二十号線を横断する地点から「武蔵境通り」に入る。ここ数年で大々的に整備され、ごく最近全線開通した幹線道路である。神奈川、山梨方面にゴルフに行くときには、調布ICから中央高速道を利用するが、我が家からICまで、この道路建設の進捗状況を確認しながら通ったものである。

 早速女性の声で、ナビのガイドが始まった。

「およそ200メートル先、左方向です」
 半年ほど前に通った時には、建設中の道路のど真ん中に、まだ立ち退かない民家があった。そこが解決したんだな、と思いながら、ガイドを無視して開通したての道を直進した。

「新しいルートに変更します」
 途端に元の道に戻るよう、ガイドで何回も指示がくる。私の10年前のナビでは、直進道路ではなく、行き止まりで、左折迂回するようになっていたのだ。
 そのような道案内を何回か繰り返したが、無事帰宅できた。
 今日一日、家内と車で走り、カーナビは夫婦のコミュニケーションを図るのに、きわめて有効な手段だと気が付いた。

 最近我家の主導権は、家内に移行しつつある。亭主を立てながら、大切なポイントは自分が押さえている感じだ。家内と二人の日常生活も、カーナビに似ている。
 この歳になれば、時間だけは十分ある。渋滞を避け、安全確実に目的地にたどり着くためには、どうすればよいか。
新しく開通した道を通るか、通い慣れた従来の道を行くか、決めるのはカーナビの家内、それについていくのは運転の私、というパターンが定着しつつある。

               
      イラスト:Googleイラスト・フリーより

変化する蓼科の生活 石川 通敬

 30数年前、蓼科に小さい小屋を兄弟三人で建てた。

 それは相談の結果、まず、夫婦とその家族が利用できる程度の小規模なものし、利用状況を見て必要があれば増築をしようと考えたからだ。
 当初は、兄弟たちの子供も幼くちょうどよかった。


 しかしその後、友人を招くようになると、ゲストの部屋を用意する必要が出てきた。
 その時、われわれは増築ではなく、ゲスト用に同じ敷地内にある東急ハーベストクラブを利用することにした。
 そのお陰で、この家の利用価値も上がり、毎年親しい友人達を招くことのが、我が家の年中行事になった。


 その一例を紹介したい。それはアメリカの友人ライト君夫妻と、彼らの息子の友人ケイリ―君を招いたケースだ。彼らが我が家に着いたとき、
「どう。このコテッジは」
 と私が感想を聞くと、茶目っ気豊かな彼は、ニタッと笑い、
「オオ、ノー。イッツ キャビン(小屋)」
 と言ったのだ。

 小ささから我々の家は、コテッジの範疇かと思っていたが、まさか小屋とよばれるとは思っていなかった。カルチャーショックだった。
 冒頭に小さな小屋と書いたのは、こうしたやりとりがあった結果だ。


 その日の夕食は、しゃぶしゃぶにした。実は、この日のため赤坂の有名店で作り方を教えてもらい、肉は但馬牛を福知山から取り寄せて置いたのだ。
 食事を挟んで、ケイリー君の話を聞いて驚いた。なんと彼はアメリカ空軍の現役パイロットで、韓国に駐留しているとのこと。
 しかも、その日の朝、自分の戦闘機で基地を飛び立ち、横田基地経由、我が家の夕食に駆け付けたという身軽さだ。韓国―横田と横田―蓼科間の移動時間はほぼ同じだったらしい。

 翌日は諏訪大社と中仙道の旧宿場町にある博物館を案内した。そこは昔本陣の屋敷と立派な日本庭園だ。皆さんお喜びで見学してくれたのだ。


 その後、ある日うれしい知らせが来た。横田基地の見学会だ。毎年日本人を、招待する日があるそうだが、それに招かれたのだ。
 訪ねるとケイリー君が、大サービスをしてくれた。何より誇らしかったのは、彼の戦闘機を取り囲む見学者を押し分け、我々を直々に案内してくれたのだ。
 どんなスゴイ機体かと想像して近づくと、それは素人には薄っぺらなブリキ作りのように見える意外な外観だった。
 そんな戸惑いを覆され、大感激したのは、彼が、我々二人を、かわるがわる彼の狭い操縦席に座らせてくれたことだ。


 話をもどすと、着席スタイルのお持てなし以上に、フル活用したのが、ベランダでの飲み会とバーべキューだった。
 はじめは質素だったが、だんだんチャレンジ意欲が高揚した。まず当初小さかったベランダを拡張し、水回りも日曜大工で便利にした。その結果、最大20数人のホームパーティができるようになったのだ。


 規模の大きさでは、隔年ごとに三度実施したG女子大学生のゼミの合宿が最大だった。20数人の参加者に、妻がチキンライスとホットドックを用意し、一時間のランチタイムに合わせて提供したこともある。また、ある年には、ベランダにテントを張り、雨の中バーべキューをしたこともある。

 その他、小唄、テニスの合宿、元職場のOB会、ゴルフ会の場も提供した。

 このように、思い出を生き生きとよみがえらせてくれるが、アルバムだ。あるとき私は、パーティーに参加して下さった方々全員に、四季の風景が描かれている蓼科の絵ハガキに、一言コメントとサインすることをお願いした。
 これにその時々の写真を加えたものが今では3冊のアルバムになっているのだ。
 近年、こうした我々夫婦にとって、最大の楽しみの源泉だった蓼科の生活も、転機が偲びよってきたように感じる。
 第一は、加齢による体力の衰えだ。特にベランダでの、大きなパーティーには、室内以上に夫婦が力を合わせて、全力で準備、実行する必要がある。
 一方、無事やり終えたときの達成感は格別だ。パーティーが終わった後で、二人で、良かったこと、反省点を話し合うのを楽しみにしてきた。それをあるとき娘が、彼女の夫に次のように話していた、と聞き私は苦笑した。
「私の両親は変っているのよ。ホームパーティーの後で、大真面目に二人で反省会をするの。笑っちゃうでしょ」と。

 もう一つは、将来への懸念だ。私は気が付かなかったが、別荘に客を呼び、楽しむ我が家を見て、二人の弟は、次のように考えたようだ。
「俺たちは、別荘に家族と寝泊まりするだけで十分だ。客を呼ぶ気はない。それにも関わらず、家の基本的維持費を分担し、兄貴を支えるのは、割が悪い」
と。その結果、一人抜け、二人抜けし、今では我が家が単独で維持している。


 問題はこの先だ。我々が若かった時と違い、昨今の若者は車、ゴルフへ情熱を燃やさない。同じことが蓼科にも生じている。
 ほんの数年前までは、別荘への買い需要が強かったそうだが、近年は逆転売りが急増しているのだそうだ。
 その理由は単純だ。別荘に憧れたのは、今80歳前後の世代だが、50代のその子供の世代は関心がないのだそうだ。
 我が家の小屋も二人の子供達が、利用する気になるのか、気がもめるところだ。

   イラスト:Googleイラスト・フリーより

送られてきたレターパック 武智 康子

 4月下旬のある日、厳重に封じられたレターパックが届いた。ホンダ自動車の矢野研究員からだった。

 矢野氏とは、夫の学会で何度かお目にかかったことがある。しかし、夫が他界して3年経つのに何だろうと、思いながら封を切った。中からお手紙と共に、丁寧に梱包されたDVDが出てきた。

 手紙の要旨は「今月末で会社を定年退職するにあたり、机の中を整理していたらグラーツの国際会議でご一緒した時の記録が出てきました。グラーツでは、武智先生にいろいろ教えて頂いた上にアドバイスも頂き、そのことが自分のその後の研究課題となりました。そこで、当時の記録を編集しましたので、記念にお送りします」と、書いてあった。

 私は、夫と共にいろいろな都市を訪問したが、グラーツには特別の思い出もあった。

 2010年6月、夫と私は、グラーツ空港に降り立った。出迎えてくれた事務局の方の車で、街の中心部に向かった。
 グラーツは、オーストリア第二の都市であるが、石でできた城門をくぐると石畳の道が続き、街の中心部のホテルに着くと、そこはまるで中世にタイムスリップしたような感じだった。
 街は、中世の建築物に囲まれ、丘の上にはお城が、広場の真ん中には古い大きな時計台があった。ホテルの玄関も木彫りの大きな扉である。
 もちろん中の調度品も中世のものが多い。私は、時代錯誤しそうだった。それもそのはずだ。
 このグラーツの中心部は、歴史地区として1993年、世界遺産に指定されていたのだった。


 翌日、グラーツ工科大学での開会式の後、午後に夫は、未来の自動車の技術開発について講演をした。そして、夕方からのウエルカムパーテイー終了後、同じホテルに泊まっているホンダの研究員矢野氏たちと四人で、ホテルのロビーラウンジでビールやカクテルなどを飲みながら話している時だった。

 どこからか4、5人の日本語が聞こえてきた。
 学会に出席の方かと思って、私が首を伸ばして見回すと、左斜め横の二つ向こうのテーブルの席にいた、サッカーの本田圭佑選手と目が合った。
 私は驚いて「あ、本田選手だ」と小さな声を上げた。と同時に夫たちと先方の3人もお互いにその方向を見た。
 さらに驚いたのは、あとの3人は、長谷部誠、香川真司、吉田麻也選手だった。次の瞬間、本田選手が私達のテーブルに来て、「あなた方は、ここにお住いの方ですか」と言った。夫は「いや、私達は自動車関係の国際会議に参加のため、昨日日本から来た」と話して、ホンダの二人を紹介した。

 サッカーと関係ない日本人に会ったのが久しぶりだったのか、入れ替わり立ち代わり、夫々が話に来てくれた。
 彼らは、日本と世界各地から集まって、ワールドカップのための合宿をしているのだった。城郭の外に立派なスタジアムがあるとのことだった。

 最後に夫が長谷部選手に、中学生の孫がサッカーをしているので、こんな紙で失礼だが、サインを頂けないかと持ち合わせのレポート用紙をだした。皆、快く引き受けてくれた。そして、日本から応援する旨、皆と約束し握手をして別れた。

 私は、香川選手のファンだったので、握手の時にその旨を伝えた。彼は、ニコッと笑ってくれた。私は、彼がどんな時でも前線で反則をしないフェアなプレイが好きだったのだ。

 送られてきたDVDのカバーには、ホテルの玄関前で撮った写真を背景に、「IDDR二〇一〇グラーツ・武智先生ご夫妻」とタイトルが書かれていた。内容は、学会の様子や街の中の様子とともに、サッカースタジアムも入っていた。私は、とても懐かしかった。そして、最後に出てきたのは、夫の講演だった。30分程の講演だが、夫は、まだ70代後半で現役だったので、声にもハリがあり、私にとっては何よりのシーンだった。

 夫は、原稿は持たずに、パワーポイントの画像を見てレーザーポインターで指しながらスピーチをする。
 海外での講演は全て英語だが、声と姿が録音、録画されているものは、殆んど残っていない。現場ではいつも聴いていたが、今となっては、私にとって何よりの記念となった。
 私は、矢野氏に感謝のお礼状を送った。
 今でも時々、淋しくなると夫の生の声を聴いて、元気をもらっている。このDVDは私の大切な宝物になった。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

まどさんと美智子さま 桑田 冨三子

 1980年代の後半、私は大学時代の友人タヨの誘いに応じて、子どもに良い本を渡す運動に加わるようになっていた。国際児童図書評議会IBBYである。

 世界中の国、特に途上国において、優れた子どもの本の出版や普及を奨励する民間組織である。隔年に一度、子どもの本に貢献する作家の全業績にたいして「国際アンデルセン賞」を授与している。その選考水準は高く「小さなノーベル賞」とも呼ばれ、児童文学の発展に大きく寄与している。


 1989年、IBBYの日本支部は詩人・まどみちおさんをこの「国際アンデルセン賞」候補に推薦することに決めた。

「まどみちお」本名・石田道夫は1909年に徳山で生まれたが、5歳時のある朝、目が覚めたら母と兄妹の姿がなかった。
 自分一人だけが置いて行かれたと気づく。お爺さんに育てられるが、その頃の寂しさと孤独、また、豊かな自然や人々のあたたかさが、多感な時期のまどさんの感性をつちかい、詩を作る原点になったという。

 土木技師として働きながら詩を作り続ける中、25歳の時に、まど・みちおというペンネームで投稿した詩が北原白秋に見いだされる。以来、本格的に詩に取組む様になった。1951年に「ぞうさん」を発表する。翌年これが、団伊久麿の曲でラジオ放送され、大ヒットとなる。その後も詩と童謡の創作に専念し、1968年に最初の詩集「てんぷらぴりぴり」を出版し、第6回野間児童文芸賞を受賞した。

 話は友人・タヨに戻る。IBBYの日本支部会長がタヨに、まどさんの詩を英訳する人を探すよう依頼した。
 まどさんの詩は日本語である。審査会に提出するには英語に直さねばならない。詩の翻訳とは、通常の翻訳とは異なる。詩の心がわかる詩人でないと、まどさんの世界観が伝わる翻訳にはならない。
 ……、 ふとタヨの頭に浮かんできたのが当時の皇后・美智子さまの存在であった。

 美智子さまは歌人として注目されている。言葉一つに託されている思いが非常に大きいから、素晴らしい歌を詠まれる。
 また、人の心の琴線を揺らす詩人・長瀬清子の「あけがたにくる人よ」を、皇太子妃時代に英訳されている。
 児童文学作家・新見南吉の詩の翻訳も手描けられたことも、タヨは知っていた。詩の翻訳は地味で困難を伴う仕事である。

(美智子さまにはきっと、まどさんの世界観がお解りになる)

 タヨはそう思ったにちがいない。そばにいる私もそう思う。けれども一体、どうやって皇后様にお願いできるの? いつものことながら、突拍子もない彼女の思い付きに私はあきれていた。
 しかしタヨはそれを巧みに実行に移した。
「この話は、私がひとりでやる。他の誰にも手伝ってもらわない。」
 そう宣言したタヨは、本当にひとりで美智子さまに電話をかけ、説得したらしい。お答えは「いくつか訳してみますけど、どうぞ、ほかの方にもお願いしてみてくださいね。」であった。

 しかし、タヨは他に人を探すことをしなかった。そんな顛末があって暫く経った。或る日、日本支部には『The Animals  どうぶつたち」と題した手作りの小冊子が届く。それは、美智子さまが数多いまどさんの詩から20編を選び、原詩の形式を変えることなく、子どもにもわかりやすい英語に訳された詩集であった。

 宇宙詩人と言われ、地上のあらゆる存在に敬意を払うまどさんの思いがよく伝わるものであった。本は見開きの横書きで、左頁にまどさん、右頁には英語というしゃれたレイアウトでできている。翻訳についてまどさんは、「英語は分からない」とおっしゃったが、美智子さまは原詩の音とイメージをそこなわないよう再現した翻訳文を朗読し、テープに吹き込み、まどさんはそのリズムを確認出来た、という話だ。

 美智子さまは詩人であり翻訳者であり、優れた編集者である。
 IBBYには、この20編のまどさんの詩が美智子さまの翻訳とともに提出された。惜しくも国際アンデルセン賞は逃したが、1922年『The Animals  どうぶつたち』は日米で出版された。私はアメリカ側の出版社と、宮内庁、まどさんとの間で印税などの出版契約をする経理担当として関わった。

 一方、美智子さまはご公務の間を縫って、ずっとまどさんの詩を読み続けられた。出来上がったのが、60篇の詩の翻訳、『にじ』、『けしゴム』、『不思議なポケット』の小冊子3冊であった。

IBBY日本支部では、再び、まどみちおさんを国際アンデルセン賞候補に挙げた。その時、タヨは日本支部ではなくIBBYの世界会長に選ばれていた。
 1994年、選考結果を緊張して待っていた日本支部に、日本人審査員の松岡京子さんから電話が入った。「まどみちおさんの電話番号を、お知らせください。」
 この電話によって、まどさんの受賞を心待ちにしていた日本のみんなは、まどさんの受賞を確信したのである。
 不思議なめぐりあわせでによってあまり縁のなかった詩の世界で私が出会った二人の詩人の話である。

  イラスト:Googleイラスト・フリーより

【エッセイ】 運動公園を歩く =  青山 貴文

 私は毎日、少なくとも5キロ歩くようにしている。

 この十数年、雨天などで歩かない日は、何か落ち着かない。歩く場所は、『熊谷さくら運動公園』に決めている。我家から車で10分くらいのところにある。
 足腰に優しいクッション素材を舗装した一周1キロの遊歩道が敷設されている。

 秋から春にかけては、午後1時ごろから歩き出す。夏は涼しさを求めて、午前5時半ごろから歩くようにしている。この半年ほど前から、近くに住んでいる長女が、一緒に歩くようになった。彼女の目的は、気分転換と、中年太りを避けたいらしい。

 多くの人は、この遊歩道を左回り(俯瞰すると、時計の針と反対の向き)に歩いている。
 私も皆に習って大抵左まわりで歩く。時たま、反対方向から歩いてくる人がいる。なんとへそ曲がりな人だろう。だが世の中にはいろいろの人がいるから、面白いのだと思っていた。


 数年まえ、右回りで歩いてみた。体幹がわずかに右傾していることに気が付いた。いつも左傾していたためか、足腰に加わる力が異なりはなはだ気持ちがよい。この運動公園の遊歩道は、ほぼ大きな楕円形であるが、ゆるやかな曲線なので、体幹が傾かないと思っていた。
 しかし、ところどころ歪曲し、小さなコーナー部分ではどうしても体幹が傾斜するようだ。

 さらに目に入ってくる景色が、同じところを歩いているのだが、歩く向きを変えると大きく変化し、気分転換になる。この公園は遊歩道の内側に、広いゆるやかな起伏のある芝生が敷き詰められている。
 その広い芝生の中に、小径があり、用水路が通っている。その傍らに日本庭園がある。さらに四阿屋風の休憩所が二カ所あり、それぞれ木陰のなかに佇んでいる。その建物の風情が歩く向によって微妙に変わる。
 その上、一周すると対向者がどのような顔の人たちか、あるいは、およそ何人位の人が歩いているかがわかる。それゆえ、一か月に数度は、右回りをして、気分を一新している。

 私は、若い頃から歩く速度は速いほうであった。前を歩く人を追い抜くことに快感を覚えたものだ。昨年、傘寿を過ぎた頃から、歩く速度を少し緩めた。なかなか書けないエッセイの構想などを考えながら歩くようにしている。

 それでも、同年配以上と思われる人には抜かされないが、時たま抜かされるようになってきた。そのたびに、(自分は有酸素運動をしているのだ)とか、(そんなに急いで歩くこともなかろう)と達観するようにしている。

 一方で、競歩まがいの人、あるいは若い人は、ジョギングをしている方が多い。こういう若い人は、はつらつとしていて、元気をくれるようだ。
 時には、犬を連れてゆったり歩いている人、車椅子の人、あるいは杖を突いて足を引きずっているひとなどいろいろだ。


 実は2年前、私は社交ダンスの練習で転んで左足の筋を痛めた。翌日は休まず、左足を引きずってやっと1周した。次の日は2周し、3日目は3周と徐々に歩く距離を伸ばし、速度も速めて正常に歩けるようになった。この遊歩道は私の身体の矯正を担ってくれる大切な場所でもある。

 公園の芝生はいつも短く刈り込まれ、鳩やツグミやセキレイなどの野鳥の群れがエサをついばんでいる。秋には赤とんぼの群れが飛び交う。若い頃、デュセルドルフの事務所に勤めていた。その街中の公園にすごく似ており、毎日歩くたびに、異国での若い頃を、想いださせてくれる。

 また、游歩道の内側に沿って、クスノキ、クヌギ、ケヤキやユリの木などの大木が、ところどころに植えられて木陰を作っている。外側にはカリン、モミジ、サンゴジュ、マンサク、レンギョウなどの中小の木々が植えられている。
 
 それらの遠方には野球場(3カ所)、サッカー場やテニスコート(18面)があり、多くの老若男女が練習試合をしていて、歓声や軽快な球音が聞こえる。

 四月になると、これらの樹々が一斉に芽吹きはじめ、目映いばかりだ。今年は三月半ば過ぎに満開になったソメイヨシノの桜花が、わずかな風で散り始めた。


 ここ数日は、花吹雪の中を長女と歩いている。
 彼女が言うには、「お父さんと歩くようになって、体脂肪が俄然減ったのよ」、「一緒に話しながら歩くと、あっという間に5周歩いてしまうわ」とか、「なんと言っても、気分が明るくなるのよ」といいことずくめらしい。

 長女は、歩くのが速い。私は、彼女と歩くときは、良く聞こえる右の耳側に彼女を立たせる。そして、左回りで私の外側を歩かせ、少しでも彼女より歩く距離を短くし、彼女に遅れをとらないように工夫している。

 私は、この樹々で囲まれた遊歩道から日々元気を貰っている。

                         了

  イラスト:Googleイラスト・フリーより

【エッセイ】 文字の獲得 =  廣川登志男

 両目と両手とを失った「高野さん」と名乗る人がテレビに映し出されていた。戦後一年が経過していた小学校二年のときに失ったという。
 しかし、映し出された姿は、大学生たちを前にした82歳の講師としての姿だった。

 柳田邦男がナレーターをしていたNHKの番組「文字の獲得は光の獲得でした」を見ていたときのことだ。

 高野さんは、拾った鉄のパイプを弟と持て遊んでいたときに、突然爆発し被災した。不発弾だったのだ。弟は即死した。それからの12年間は、面倒を見てもらっていた病院の看護師とも喧嘩するほどの、自暴自棄に近い無為の生活だったという。
 転機が訪れたのは19歳のとき。看護師が読んでくれた一冊の本「いのちの初夜」との出会いだった。


 著者の北条民雄さんは、ハンセン病だった青年のときに自らの体験をもとに書いていた。そこには、病気のために目や指を失った人たちが登場する。

 高野さんは、本の中で自分より不幸な人がいることを知り、心が荒れなくなったと述懐している。さらに、その人たちが唇や舌を使って点字を読んでいることも知ることとなり、以降、その練習を始めたという。
 四六時中に近いほど練習したが、なかなか読めるようにはならなかった。
 しかし、「継続は力なり」で、そのうち文字がわかりはじめ、徐々に言葉になり文章になっていったという。
 高野さん自らが執筆した手記『人と時代に恵まれて』に「文字の獲得は光でした」とあるそうだ。番組のタイトルとなっている。

 それからは、勉強に目覚め、無我夢中となって一年後の二十歳のときに、大阪市立盲学校中学部に入学することができた。さらに通信制大学を経て教員免許を取得したが、すぐには教員になれず、非常勤講師として教壇に立った。

 正教員となったのは34歳のときだ。以降30年にわたり盲学校の世界史の教師として活躍した。いまでも、年に一回、教師を目指す大学生のために教壇に立ち、「これからを生きる若者達を照らす光となっている」と、テレビは締めくくっていた。

 番組では、他に3名の方が紹介されていた。重い障害や病気を持った方や、障害を持つ人と接していた美容師の方たちだ。

 この番組は、NHK厚生文化事業団が主催する障害福祉賞に応募した、障害者及び障害者と共に歩んだ人たちの体験記(手記)をもとに制作されている。

 柳田邦男さんは、35年もの間、選考委員の一人として携わってきた。これまでの応募数は1万3000件にも及び、その体験記には、社会に呼びかけるメッセージ性が強く織り込まれており、人間理解の宝庫だと語っていた。
 さらに、次のような言葉も残している。

「作品応募のために自分の体験を書くということは、自分の汚い部分や嫌な部分をさらけ出すことで、それを許容する新しい自分、すなわち自分の心構えや気持ち、人生観を変えていく大事なポイントとなる」

「人間が生きるということは、自分の人生観などをしっかり踏まえながら、自分の人生を開く道をどう見つけ出していくか。人生を開く道は、自分を見つけることからしか生まれない」

 番組を見て、深く考えさせられた。

「自分は恵まれて育ってきた」
「障害者に対して思い上がった誤解をしていた」
「障害者に学ぶべきことは多い」
 などと、胸が締め付けられた。

 7月にはオリンピックが始まる、今までは、障害者のためのパラリンピックに興味が湧かなかったが、今回は真剣に見なければと思う。それに障害者と呼ぶことすら不遜に思えてきた。

 書くという作業の大事さも、今更ながら思い知らされた。通っているエッセイ教室の先生から常日頃言われてきた「汚い自分をさらけ出せ」と、全く同じだ。
 さらに「『人間ってそうだよなー』と、読み手が感じとれる内容を書くことが大事だ」と。これはまさに人間理解の極みだ。
 
 今、このエッセイを書いているときも、「何を書こうか」「ネタが思いつかない」などと愚痴をこぼしていたが、まだまだ自分をさらけ出していないのだろう。「だろう」と書いていること自体が真剣さの欠如だ。
 裸の自分とは何者なのかと、自分を見つけようとする努力の気持ちは大いにあるのだが、どうしたら自分を見つけることが出来るのか、それすらわからない。
 とにかくエッセイを書き続けていこうと、決意を新たにした番組だった。

                           了

イラスト:Googleイラスト・フリーより

                  

【エッセイ】 幼い手と指先 = 吉田 年男

 コロナ禍のなか、4月になって何人かの新小学一年生との新しい出会いがあった。同時に、あどけない顔の子供が、中学、高校と進級して、すっかりおとなっぽくなった姿での別れもあった。

 その中の、M子さんとの別れが印象に残っている。最初出会ったのは小学一年生の時だった。それから途切れることなく彼女は我が家の書道教室にきていた。この度、高校生になって部活や勉強が忙しくなったのを機に、やむなくやめることになった。


 お子さんをお預かりするのは、小学一年生からにしている。我が家に見えたその日に私と一対一で用具の使い方などに一時間ほど時間をかけている。

 用具の名前を覚えてもらうために、すべての用具をカバンからだして机の上に並べる。そして、机の右端に置いてある水差しの位置を基にして、水差し側に硯と筆を、机の真中に下敷きと文鎮、そして、左側に手本を置く。この配置も用具の名前と一緒に頭に入れてもらう。

 次に筆の持ち方、墨のすり方、正座したときの姿勢、机と身体の間隔などを彼らと一緒にやって覚えてもらう。

 後かたづけは、きわめて大切なので、実際に書くのは1~2枚にして、余った墨の処理、硯の清掃、筆の養生、そして、用具をカバンにしまうまでを一人でできるようにたっぷり時間をかけることにしている。

 子供たちにとっては、初めてのことばかりで大変なことだ。
 ビックリするのは、最初にこれだけのことをしておくと、次回からは、なにも口出ししなくても、子供たちは一人でほぼ間違えなくやり遂げてしまうことだ。吸収力のすごさに毎回驚かされている。幼稚園児ではここまでやることが難しいとおもう。

 この度、別れることになったM子さんは、小学生の高学年になったころに、お正月の書初め作品が、よく選ばれるようになった。中学生なってからは、校内の書初めで展などに選抜されていた。

 中学生までは、お習字という中での勉強で、高校生になると書道として学び方も変わってくる。
 M子さんは、一旦この段階で教室から離れるが、折を見てまた書道としての勉強を続けようと思っているに違いない。私もそうあってほしいと願っている。
 書道となると古典の臨書をする機会にも出会うようになる。今使用している競書雑誌にも、高校生以上のページには臨書の課題が載っている。

 書の研鑽には古典の臨書はとても大切なものと私は思っている。

 コロナ禍で、昨年はやむなく中止になってしまったが、今年七月に上野の都美術館で開催される第65回書宗院展(古典の臨書展)に「智永の千字文」を出品した。

 
 別れるその日に、M子さんに「智永の千字文」を臨書してみることを勧めてみた。
 彼女は初めて臨書に挑戦をした。指先を見ると、きれいなネイルデザインが施されている。12年前に、一対一で用具の使い方を教えたとことを一瞬思い出した。

 あの時の彼女の幼い手と指さきが、いま目の前で臨書作品を書いている。

                   了

    イラスト:Googleイラスト・フリーより

【エッセイ】 寝しなのプログラム = 金田 絢子

 亡夫は、五中(小石川高校)に通っていた時分、親友と北海道へ旅をした。夫が楽しそうにその話をしたのは、私たちが結婚したての頃で、かれこれ六十年の昔になる。

 おしゃべりの夫は、種々語ってくれたにちがいないが、私が覚えているのは友人が旅の途次、正岡子規の短歌を吟じて見せたというくだりだけである。

   真砂なす数なき星の其の中に
   吾に向かひて光る星あり

 私は、子規が名うての歌人であり、俳人であり、漱石が子規の俳句の弟子であるのも知っていたが、なぜか好きになれなかった。

 教科書に載っていた”藤の花”を詠じたものなど、ちっともいいと思わなかったし、芭蕉の「あかあかと日は難面もあきの風」を、子規が評価しなかったというのも気に入らない。

 夫の思い出話から「真砂なす」を知り、大いに感動したものの、直ちに私が子規の礼賛者に変身することはなかった。片意地な私が、長い年月をかけて、ようやっと、子規に素直になれたというのが真相である。
 などと文章を練っているところへ、長女が二階から降りてきた。つい先日のことである。(令和三年三月)そこで、
 
「エッセイに子規のことを書こうと思ってるの」
 と話した。
 すると、娘はコーラスをやっているのだが、ちょうど十年前に舞台で歌った「子規の短歌による合唱組曲」(混声版)の楽譜を上から持ってきてくれた。幸い楽譜には、ごく薄い七ページほどの小冊子「子規の歌の風景」がはさまっていた。

 最初のページに子規の略歴が記され、次に「星の歌」の項がある。
「真砂なす」がまっさきに載っているが、そのあとに星の歌が六首つづく。七首目、おしまいの歌に胸がつまった。

   草つつみ(病にかかる枕詞)病の床に

   寝がへればガラス戸の外に星ひとつ見ゆ

 やがて、子規は寝がへりも打てなくなる。
 肺結核から脊椎カリエス至る凄絶な闘病生活7年、仰臥のまま執筆に励み、死の2日前まで随筆を書いた、右の冊子にこうある。

「亡くなる直前まで俳句、短歌、随筆にと子規の創作意欲は全く衰えなかったが、病臥の姿勢で筆を執るのは困難が伴った。おそらく妹の律か弟子の高浜虚子かに支えられて筆を執ったものと想像される。」
 にわかに、うちの書棚に眠っている「墨汁一滴」「病牀六尺」「仰臥漫録」を読みかえしたくなった。

「仰臥漫録」(ぎょうがまんろく)に次の句がある。

   律土筆取りにさそはれて行けるに、と前書きがあって
   看病や土筆摘むのも何年目

 その少し前の行に
   母と二人いもうとを待つ夜寒かな

 子規は律のいけない点を列挙したりもする。
 頼んだことは律儀にやってくれるが、もう一歩踏みこんで、病人を暖かく包むところがない、と子規は大いに不服である。
 身動きひとつ儘ならない子規にとって、無理からぬ注文ではある。それでも子規が、どんなに妹をいとしいと思いながら書いているかが、読手に伝わってくる。

 子規はこの三冊に俳論、歌論は言うに及ばず、万葉調に徹した歌人、平賀元義の歌など列記し、動けない子規の一番の関心事、食事の内容を詳しく筆にのぼらせる。のみならず、それらと同じページ、次のページにと、わめき、泣き叫ぶ己が姿を赤裸々に写している。

 子規は客人が帰るとき、声をあげて泣いたという。

 ちなみに私はベッドに横になって眠りに就くまで、空で言える短歌を愛誦する。
 万葉集、古今集、(作者と結びつかないのも多々ある)源氏物語、茂吉、西行、あるいは新聞の歌壇に掲載されたものなど数十種に及ぶ。
 たいてい途中から眠気が襲ってきてしどろもどろになる。
 言うまでもないことだが、この私の寝しなのプログラムには、いつのころからか「真砂なす」が加わって精彩を放っている。

                           了
  イラスト:Googleイラスト・フリーより
        

柚子を採る

 庭の南東に柚子の木がある。
「柚子の木って、どこで苗木を買ったんだっけ」と妻に尋ねると「杉並公会堂前の植木市じゃないかしら」との返事が返ってくる。苗木から育ててもう何年になるだろう。高さは、3mほどになった。

 近年、柚子が豊作のステージに入り、庭木の中でも存在感を増している。

 陽のあたる南側のガラス窓を通して見ると、例年に比べ、今年の柚子は、たわわに実っている。高いところを採るのは私だ。
「もうそろそろ採ってもいいかな」と妻に聞くと、「そうねえ、下の方は私でもとれるけど、上の方は任せるわ」とのこと。


 三箇日をすぎた明くる日、柚子採りに乗り出した。物置から高枝バサミを取り出し、枝幹や葉の付け根にある鋭い棘に刺さらないよう厚手のバラの剪定手袋をはめる。
 2時間ほどの作業で、高いところをほぼ採り終わった。小枝や葉が邪魔をして、ハサミの操作がしづらく、実を切ってしまうこともある。隣家との境目は落とさないよう気をつけているのだが、物置の屋根に、2・3個、ドスン、ドスンと音を立てて落ちてしまった。

 木の周りから角度を変えて実だけを切り離そうとピンポイントで狙うが、実と一緒に付いてくる葉や小枝も少なくない。ハサミの操作が難しい。見上げてばかりの作業を続けていると首が疲れる。もとの姿勢に戻すとフラフラする。


 ひとあたり採り終わると、こんどは、小型の庭バサミで落とした実から葉だけを切り離す。冬の間に溜まった白樺などの枯れ葉と一緒に用意したゴミ袋にまとめる。
 可燃物のゴミ出しの日まで、玄関脇に置いておく。こうした一連の作業を終えると、妻の要求に応えたことになる。
 ちょうど翌日は、燃えるゴミを出す日なのでタイミングが良かった。


 作業を終え、収穫物である柚子の実を玄関に置く。妻が見に来て、「ずいぶんいっぱい採ったわね」と感心する。
(めったに褒めない妻としては、最大限の褒め言葉だ)。
 この反応を聞くと、達成感と満足感が湧いてくる。

 実から葉を切り離す作業をしていて、足の裏に鋭い痛みを感じた。足を持ち上げてゴム靴裏を見ると、柚子の鋭い棘が刺さっている。
 夢中になって作業をしていて気が付かず踏んでしまったようだ。恐る恐るゴム底に刺さった棘を引き抜いた。
(油断もすきもあったものではない)。
 家に戻って妻にこのことを話したら、「葉っぱは棘があるから踏まないようにちゃんと分けておくのか常識よ」と言われてしまった。

 我が家では、成果物である柚子をレーズンとプルーンを赤ワインで煮た夕食後のデザートに、絞った果汁をかける。
 甘い味に柚子の香りと酸味が加わってしあわせな気分になる。
 朝食の米国産の「ビヨンドグリーン」と呼ぶ植物由来の製品を使った特性飲料にもかける。残った皮も、妻は黒いところを取るが、私はもったいないとかじって全て食べてしまう。

 たくさんあるので、妻は、隣家の同じ年の隣家のご主人を亡くしてひとり暮らしの方にお渡しする。
 柚子が大好きで、毎年我が家からの贈り物を待ちかねているという。よろこんでもらえて、収穫した私もやりがいがある。

 西荻句会を紹介してくれた方にもお渡しした。自宅での「ゆず湯」や娘さんに渡したという。有効に使ってもらって
(柚子もさぞ、本望だろう)。


 2度目の柚子採りは、一月末だった。
 木に残っている柚子が気になって仕方がない。
(今日は暖かいし、全部採ってしまえ)と庭に乗り出す。
 
 前と違うのは、新兵器の登場だ。
 高枝鋏でなく、中間や低い場所用のハサミだ。短い分ハンドリングが楽だ。全部取るのはちょっと無理かなと思っていたが、やりだしたら止まらなくて、全て採ってしまった。
 途中、小路をゆく、幼い男の子が「あれなあに」と父親にたずねると「柚子というんだよ」と会話が聞こえる。
(ちょっと誇らしい気持ちになった)
 収穫した成果をスマホ写真に撮ろうと屈んで数ショット。これで全て終了と、やっこらさと立ち上がろうとしたら、立ち上がれない。
(足に来てしまった)
 何回も試みたができない。そうしているうちに、よろよろとスローモーションのように後ろに倒れてしまった。
(脳裏に、ボクシングのノックアウトシーンの映像が浮かんだ) 

 家では消費できないほどで、西荻句会の会員に配ったり、郷土博物館分館の企画展「角川源義コレクション」を一緒に見学した人にプレゼントした。
 後で聞いたら、恵方巻きの酢の代わりに使ったり、柚子の甘煮にしたという。うまい使い方をするものだと感心した。

 
 先日の朝、鳥が騒ぐので、妻に尋ねると、「餌がないからよ。いつも上の柚子は、餌に残すのに、全部採っちゃうから、今年はないと騒いでいるのよ」と。(そうだ。いくつか残さなくちゃいけなかったんだ)言われて初めて気がついた。

 今日も南の窓から、柚子の木を見る。立春を過ぎ、日増しに暖かくなる陽光のなか、ひとまわり小さくなって佇んでいる。
 豊作の柚子は、まだかなり残っている。「男の台所教室」や「おとこのおしゃべり会」でお世話になっている、近所の「ゆうゆう桃井館」の皆さんにお持ちしようかと思っている。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

                           【了】

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