元気100教室 エッセイ・オピニオン

サソリの話  桑田 冨三子

 先だって、有栖川公園桜見物を口実に家にやってきた友人が、偶然こんなことを口にした。
「『イソップ』にサソリの話があったと思ってね、調べてみたンだけどないンだよネ」
 彼は物知りでいつも私に種々雑多な知識を提供してくれる人だ。
「サソリ...サソリってどんな話?」
「川を渡りたいサソリが居た。泳げないのでカエルに『背中に乗せて川を渡っておくれ』と頼む。カエルはサソリが刺すから「嫌」と断ったが、サソリは『川の中で刺したりしないよ。そんなことしたら二人とも溺れて死んでしまう。』カエルは(なるほど、そうだ)と思い、サソリを背中にのせて川を渡り始めた。しかし、川の中ほどに来るとサソリは、カエルを刺してしまう。死にかけたカエルが『刺さないって言ったじゃないか。何故だ?』と言うと、サソリは『だってぼく、さそりなンだもン』とキッパリ言った、というのだ。」
 この動物を使った寓話が、最近ビジネス界でもてはやされているらしい。
さそり.png
 その心は、ちょっとすぐには理解しにくいが、
「悪質な人々は、自分の利益にならない場合でも、他人を傷つけることに抵抗は出来ない」
という。
「へえ、イソップにそんな話、あったかなア。でもイソップ寓話は旧い国々のいろんな寓話が集まっていて興味津々。私も探してみるね。」
そう言った私には、あるひらめきのヒントがあった。幼いころ、私は悪魔が出て来る絵本がたいそう気に入って何冊か大事に持っていた。黒いトンガリ帽子の悪魔は手の爪を長くのばし、魅惑的にふるまい、脚は長くてエレガント、何しろ格好良かった。いつも優しそうな猫なで声で「悪いことをしなさい」とささやく。私はそんな絵本が大好きだった。昔のことである。
(ひょっとすると、このサソリはトルストイの童話だったのかもしれない。)
そう思った私はいろいろな本棚を歩き廻り、調べてみた。しかし、残念、トルストイの本には、どこにもそんな話はなかった。その代わり、私はこの寓話が最初に出たのが1933年、ドイツ人地区に棲むロシア人・レフ・ニトブルクが書いた小説、ということをウイキぺデイアでみつけた。
(やっぱりロシア人だった。) 

 私は納得がいった。そう、この話、なぜかは知らねどなんとなくロシア人に違いないと私は思っていたようだ。
 この寓話を私なりに解釈してみると、生まれつき他人を傷つけたい悪い性格の人間は、たとえそれが彼の利益にならない時でさえ、傷つけてしまう。本来からその人に自然に備わっている性質には、逆らえないものだ。言ってみれば、人の性(さが)とでもいうのだろうか。
「だってぼくサソリなんだもン」というサソリは約束しようがしなかろうが、  「なんて言ったってサソリはサソリ。サソリには自然に備わっている衝動には抵抗できないようになっているのです。それはぼくの本来の性質だからです。」    この寓話では、カエルもサソリも死んでしまう。
 余談ですが、
(人間てそういうもンだよ。だってぼくサソリなンだもン)プーチンはそんなこと、つぶやいているのかもしれない。

浮遊体験 桑田 冨三子

(あ、浮遊した!)
 とっさに私はそう思った。もんどりうって空中に放り出された瞬間に、である。
それは本当に不思議な気分だった。体が宙に浮いた。海で浮くのとは違う。ブランコで空中高く揚がるのとも異なる。自分の重さがない。

 そんなことってあるのだろうか?

 お尻から、ドサンッとひどい落ちかたをした筈なのにどこも痛くない。マンションのフロアに見事に仰向けになった私は、周りに誰も居ないのを確かめ起きあがろうとする。マンションの玄関はただ広く何も掴る物はない。濡れてツルツルするだけの中を、もがき泳ぎ、手をつき、膝をついて、なんとか立ち上がった。

(あア、助かったんだ!)
 と、はじめて我に返った。
 体が痛いはずなのに、その時私はなんと、「空中浮遊」を経験したと喜んでいた。

 昨年の暮、「新しい年の夢は何」との問に「空を飛んでみたい、飛行機ではなく風を感じながら空中を!」と私は答えている。
 その時は(富良野のトマムあたりで空中パラグライダーの挑戦)を考えていたのに、思わぬところで、思いがけなくい空中浮遊を体験したことになる。

 新年明けて1月6日、その日の東京は、めったにない大雪が降り積もっていた。

 夕方、出してない人からの年賀はがきが7枚届いていた。
(返事をすぐ出す。さもないと、冨三子は居なくなった、と思われる。今、出せば明日届く。)

 そう思った私は雪途を躊躇することなく出かけて行った。途中で見かけた金髪の可愛い女の子が雪だるまを作っていた。胡瓜のヘタの眼は青い。赤い人参が大きな鼻である。

(なるほどね、この外人雪だるまは大賞ものだ。)

2022.3.22.002.jpg 道中、私はゆっくりと注意深く、慎重に小刻みに歩いた。(無事に帰り着いた。)とほっとしてマンションに入ったその時、私は滑った。身体は、まっすぐ平行に、脚が円を描くように跳ね上がった。

 その瞬間、私は空中浮揚した、と感じたのである。
「大雪の日の夕方なのに、なんでポストまで出かける必要があったの?」
話すたびに、みんなから叱られた。
 整形外科に行った。
「頭と大腿骨は何ともないです。腰椎が4本と、尾てい骨が折れてます。」
(お正月早々ばかなことをやったもんだ)。私は反省した。しかし本音はチョット嬉しい。
「その瞬間に空中浮遊したと感じました。」
 とリハビリの先生に言ったら、
「それは、あなたが転んだ瞬間に(大事にならないように)と必死に願ったからですよ。あなたの命が助かるように、あなたの脳みそが、普段の能力を超えた力を出させたのです。」「えエ、脳みそが私を助けた?いったいそれはどういうことですか?」
「本当ですよ。そういうことは、実際に起き得ることなのです。」
そこで理学療法士の先生はなにやら「心理学のフロー」とかの説明をしてくれた。


 もともと人間には、その人が本来持っている能力(生理的限界)を抑制することによって、その人の筋肉や骨の損傷を防げるように、安全装置がかけられているのです。
 脳がそれを意識的にコントロールします。そのため,何も危険のない通常時には、その人がどんなに力を出して頑張っても、自分の意識の中で限界だと思っているところまでしか(心理的限界という)力を発揮できないのです。

 しかし、ひとたび非常な危険が迫ったり精神的に追い詰められたりした時には、この安全装置が外れて、その人本来に備わっている能力が100%(生理的限界)まで発揮されます。骨や筋肉の損傷を防ぐために脳が働いて、その人が通常時には出せない、とんでもない大きな力が出るのです。ハンマー投げや重量挙げの選手が大会本番に思いがけない自己ベスト記録を出した話など聞いたことがあるでしょう。あれです。いわゆる{火事場の馬鹿力}と言われる現象です。

「あなたは、転んだ瞬間に(大事にならないように)と必死に思ったからです。あなたの命が助かるようにあなたの脳みそが普段の能力を超えた力を出させたのです。」
 先生は同じことをもう一度、繰り返して行ってくれた。この説明を聴いて、あっけにとられて私は、ただ、人体の超自然的な神秘に感動し、感謝するより他のすべはなかった。
とても不思議な体験だった。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

                               了

木霊(こだま)  廣川 登志男

 神社の奥に行くと、樹齢2100年といわれる大楠がドーンと鎮座していた。周りを歩きながらその年月を刻んだようなゴツゴツとした表面に触りつつ、普段はしない「家族の幸せと健康」を祈っていた。昨年お参りした。熱海の来宮神社の大楠だ。幹周りを一周すると寿命が一年延びると言われるように、樹木には、不思議と神の存在を匂わせる雰囲気がある。

 庭木を植える時に思うことは、単に緑が欲しいからといった動機も在るのだろうが、やはり、自然の中で生きる樹に癒やされ守られたいと思うことも大きな理由の一つだと思う。

 40年前に家を建てたとき、家相に詳しい家内は、表・裏の鬼門と玄関周りに邪気除けの樹を庭師に頼んだ。小さいときからお茶・お花に親しんでいたせいもあるのだろう。表鬼門には古木の白梅、裏鬼門には金寿木蓮、玄関は南天を入れた。そして庭には辛夷の樹を頼んだ。やはり、樹の神様に守ってもらいたい一心だったのだろう。


 6年ほど前、家内がバラを趣味にするようになった。庭のウッドデッキを囲むようにL字型のバラ用の柵を作った。高さ約3m、幅14、5mほどある。今ではその柵に、つるローズうららなどが、春に数え切れないほど色とりどりの花を枝びっしりとつけてくれ、暖かい日差しの中で、その華やかな色彩や優しい良い香りに癒やされる。

2022.3.22.001.jpg バラ柵づくりのためには、デッキ周りのカイヅカイブキ15本と裏鬼門に植えていた金寿木蓮を伐り倒す必要があった。長年、我が家を守ってくれていた木々に申し訳ないと、家内は心が痛んだのだろう。

「神主さんを呼んでお祓いをしようか」と、ボソッと言っていた。私は、「そんな大仰なことはせんでも良いよ」と気にもとめず切り倒した。

 しかし、半年ほど後の、秩父三十四観音霊場巡りをしていたときのことだ。八番札所の西善寺で急に心臓が苦しくなった。20分ほどじっとしていたら、幸いにも収まった。何とか運転して家にたどり着いた。
 その後、一ヶ月ほどの間に二回発作が起き、最終的にはカテーテル手術を受けステントなる血管拡張子を二本入れて事なきを得た。
 家内は、しきりにバラ柵造りで切り倒した樹の祟りだと言った。


 木を伐ったことによる災いらしき出来事は他にもある。


 二週間ほど前のことだが、部屋飼いのかわいい小型犬が急性白血病に罹り、あっという間に亡くなってしまった。その三ヶ月前に、玄関横にある邪気払いの南天を切り倒していた。 家内は涙に暮れていたが、ふと、「南天を伐ったのが良くなかったのかしら」と言い出した。
 確かに、今回の件といい、6年前のカイヅカイブキといい、何か不幸があるときには、その少し前に樹の伐採をしていた。

 以前より、「木には精霊が取り憑く」との話は知っていた。「木」に「霊」と書き、「こだま」と読む。インターネットで調べると、「でじかん」氏のブログ「木霊と樹木神」に詳述されていた。

 要約すると、
『木霊とは樹木の生命と一体になった精霊のことであり、樹木神とは樹木から自由に抜け出すことの出来る精霊をいう。木が伐採されると木霊は死んでしまう。何かの用に役立てようと木を伐採するときは「ヨキタテ」なる儀式を行って木の神の許可を得る。許可が得られなければ、伐採を諦めねばならない。これらの儀式は、伊勢神宮の式年遷宮でも行われている』
 むやみやたらに木を伐るのではない時でさえ、神の許しを乞う習慣があるのだ。

 今回の我が家の伐採は、「邪魔になったから伐り倒そう」という不純な動機だった。なるほど、木の神様のご機嫌を損ねたということだったのか。

 しかし、「祟り」というような不幸な出来事ばかりではない気がする。

 家を建てた時に植えた辛夷の樹だ。まだ若い樹だったが、幹の直径は二十センチもあろうかという立派な樹だ。植えた翌年には白い花を見事に咲かせてくれた。その翌年も見事なものだった。その夏、幼い長男に木登りはこうやってやるのだぞと、辛夷の木に登って見せた。するとどうだろう、なんと秋には枯れてしまった。
 当時、35歳の働き盛りにあった私の周りでは、大病で会社を休んだり、大怪我をしたりする同年代の人がいた。今にして考えてみると、「あの時の辛夷の木は、私が大病などせずに生きながらえるようにと、私に命をくれたのだろう」と思うようになった。

 樹に宿る「木霊」が、私たちの身の回りでいかに大きな影響をもっているかに、改めて気付くことができた。自然界はまだまだ大きな存在だ。樹と言わず、小さな雑草ひとつにも、謙虚かつ尊敬の念を持って生きていかねばならないと、強く思い知らされた。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

                         了

拡がる趣味の世界 石川 通敬 

「百歳クラブ」内のスマホ同好会に入会して間もなく一年になる。

 初参加に際し、会のホストから説明されたのは、「ZOOMの背景は何にしますか。好きなものを使ってください」だ。

 予備知識がなかった私は、あわてて手持ちのアルバムから目についた写真を3枚取り出して、これまで使ってきた。
 この先、何事にも凝る性分の私は、段々背景を定期的に入れ替えたいとの思いが募っていった。そんななかで思いだしたのが、エッセイ作品で取り上げた「癒し系 趣味―鳥」だ。

 まず考えたのは、写真のイメージだ。次の二点を反映させたものにすること。
 その一つは、美しさ、面白さなど見て楽しいもの。それには、どんな鳥を狙うのがよいかだ。

 これまで我が家の庭に飛来した野鳥は19種だ。その中で毎日押し寄せる常連は、スズメ、シジュウカラ、メジロとワカケインコ(正式名 ワカケホンセイインコ)の4種。これらが候補だ。
次に取り入れたいのが、鳥が集まってくる場所だ。

2022.3.22.004.jpg これは30年ほど前に、「庭に小鳥を」という小冊子を、散歩の途中で見つけたことが発端となり作られたものだ。
 その冊子は、我が家の近くにあった鳥獣保護財団の売店にあった。現在の環境は同書のアドバイスに沿って作られている。
 それに加え運がよかったのは、その店に、英国から輸入された赤い屋根がついているかわいらしいえさ台といかにもイギリスを彷彿とさせる濃いグリーン色の鳥かごが売りに出されていたことだ。

 私はこの3点を買い、小さい庭の片すみに、野鳥がやってくる場所を作ったという歴史がある。
 こんなイメージをもって庭にでると、写真撮影は簡単でないとすぐわかった。鳥たちは群がり、争って夢中でそれぞれ好みのえさをつついていたが、私の動きを察知すると、パッと一斉に飛び立ち、なかなか戻ってこない。
 そこで一計を案じ駐車している車に乗り、彼らが気付かないところまで近づき、スマホのレンズを最大限望遠に設定して待つことにした。
 
 撮影場所の環境は、日当たりもよく、えさ台の赤い屋根と濃い緑色の鳥かごが庭木を背景にうまく収まっている。環境は申し分なく美しい。
 問題はどの集団を撮るかだ。しばらく観察するうち狙いが定まった。それはワカケインコだ。スズメ、シジュウカラ、メジロは警戒心が強く、私が庭に出たあと姿を消したきりだ。よく考えると、仮に運よく撮影のチャンスが見つかっても、個体が小さく、スマホのカメラの性能では迫力ある写真は撮れないはずだと気が付いた。


 そんなことを考えながら待っていると、ワカケが戻ってきた。この鳥は、もともと中国南部からインドに生息するものだが、日本にはペットとして輸入されてきた。それが野生化し、大田区の東京工大あたりを中心に大きな群れになっているそうだ。体長は4〇センチと大きく、首回りに細い茶色の輪があり、目の周りが黄色、全身が鮮やかな明るい緑色、長い尾が水色と美しい。

 東急ハンズでは、ペットとして一羽3万から5万円で売られているものだ。それがタダで自宅の庭に来てくれるのだから有難い話だ。

 スズメ、メジロ等の小鳥に比べるとずば抜けて大きく、ワカケがくると彼らは追い出される。気が付くと、この日はえさ台に2羽、鳥かごに2羽ずつ仲良く湯然としてえさを啄んでいた。
 周囲にはスズメも目白もいない。シジュウカラも影を潜めている。しかも車内からではあるが、私が撮影を始めても慌てて逃げないのがうれしい。


 私は夢中で30数枚ほど写真を撮った。撮影がすむと早速書斎に戻りZOOMの背景に使える写真を探した。
 結果は上々イメージ通りの写真が数枚見つかった。後はこの中から一枚選び、これをパソコンにインストールする作業だけとなった。
 しかしこれが問題だった。スマホ同好会の皆さんは、簡単に自分で出来ると言っておられたが、物の数分で私にはできない作業であることがわかった。

 こうした難問に遭遇した時の助っ人が、私の場合NTTのサポートセンターだ。
 今回も早速NTTに電話して助けてもらった。写真の最終処理を含めプロでも二時間以上の時間がかかったが、イメージ通りの画像を無事インストールされた。突然の思い付きだったが、この試みは大成功裏に終わった。

 背景写真作成案の立案、撮影からパソコンへのインストール完了までには、合計丸一日もかかった。しかし次のスマホ同好会で、新しい背景を皆さんに披露できることになった達成感と歓びはひとしおだ。

 それ以上にうれしいのは、これまでほとんど取り扱いに関心がなかったスマホを活用した写真の扱いに大いに興味がわいたことだ。
 写真撮影とその加工・処理が自分の趣味の一つに加わると遅ればせながら人生の楽しみが一つ加わることになる。

             イラスト:Googleイラスト・フリーより     

                           了

「元気100教室・エッセイ」 治験 武智 康子

 令和四年一月四日の夕方、突然、自宅の固定電話が久しぶりに鳴った。電話の相手は、私が、日本語教師として学校で最後に教えた卒業生からだった。

「王健です。先生、明けましておめでとうございます。やっと、僕の研究が実を結びそうです。今朝、事初めの席で部長から報告をいただきました。・・・・・・・・・」
 彼の声は喜びにあふれていた。
「それは素晴らしい。本当によく頑張ったね。・・・・・・・・・」
 私も嬉しかった。


 彼は、二十年前、中国のエリート高校を卒業して十八歳で来日した。初めて会った時は、青年というよりまだ少年のような顔つきだった。
 私は、始めて会った学生には、折を見て個別に面接をしていた。その時の彼は、他の学生と違って顔は少年でも、考えや留学の目的がはっきりしていた。まず、日本語を勉強した後、日本の大学で、医学か薬学を学び、「癌」の治療薬を作りたいという目的を持っていた。それは彼の叔母が白血病で非常に苦しんで亡くなったからだった。

 当時の日本は、アジアの最先進国であり工業技術や医学など科学技術の分野においては、世界に冠たる国であった。

 彼は、非常に真面目で、日本の大学に合格するには、普通は二年かかるところを一年で日本語教育を修了して、信州大学で生命科学を学び、大阪大学の大学院に進学した。そして日本のバイオテクノロジー大手の企業に就職して、研究所で十年越しの白血病の治療薬の研究に勤しみ、やっと治験に辿り着いたのだった。

 今は、三十八歳となり結婚もし、チームのリーダーとして活躍しているそうだ。

 ただ、動物実験に成功したからと言って、必ずしも人で成功するとは限らない。思わぬ副作用が出てくるやもしれない。彼自身も嬉しさの反面、一縷の不安ものぞかせているのは事実だ。
 新薬の臨床試験である「治験」は、厚生省により募集されるが、厳しい健康チェックの後、一、二週間病院に隔離される。もちろん謝礼は払われるが、それをアルバイトにしている人もいるという。

 しかし、治験には危険も付きまとう。大半は安全だが、時に「死」に至った人もあったそうだ。だから、アルバイトではなくボランティアであって、報酬ではなくあくまで協力に対する謝礼であると定義されている。

 一方、彼は、研究中思うようにいかずに、やめたいと思ったこともあったという。動物実験では何匹もの動物の命を奪ってしまった。その時「生命とは何か」を考えたそうだ。その気持ちは、私もよくわかる。
 私自身も学生時代に、人における呼吸酵素の働きを解明するための免疫学の実験で、モルモットやウサギの命を奪った経験がある。その時の気持ちは、今も忘れていない。

 そして、彼は最後に
「やっと治験にたどり着いた今、実験で犠牲になった動物たちに感謝するとともに、これから治験に参加してくれる人達、それが例えアルバイトであっても命を懸けてくれる人たちに感謝したいと思っている。そして、薬が安全で効果があることを証明したいと思っている」
 と話してくれた。

 私は、少年のようだった彼が、単に自分の研究成果だけでなく、研究を通して動物や治験者へも感謝の気持ちを忘れない、立派な一人の人間に成長したことが、何よりも嬉しかった。

 治験が成功すれば、世の中の多くの白血病患者が救われる。誠実な心の持ち主である「王健」の治験の成功を、私は祈らずにはいられない。
 コロナ禍で、心が沈みかけている、令和四年の新春に、この明るいニュースを受けた私の心は、少し華やいだ。
                         了

「元気100教室・エッセイ」 現状維持 金田 絢子

 令和三年十二月、雪の便りも届き、ぐんと寒くなった。ところどころ、一重の椿がしおらしく赤色を覗かせている。

 ある日、買物の帰り狭い歩道にさしかかると、八十三歳の私と同年輩の紳士が向うからやって来た。私を見ると立ちどまり「どうぞ」という風に身をかがめた。
 私が通り易いように、道の端に体を寄せてくれている。私は「ありがとうございます」と丁寧に言って、通りすぎたが、多分、私の歩き方にどこか不安定なものを感じとったのだろう。

 実は、同年十月十五日、私は左脚の付け根から踝にかけて、激しい痛みに襲われ、その場に凍りついた。かかりつけの内科医に紹介してもらい、歩いて十分ほどの総合病院の整形外科に行った。

 レントゲン検査の結果、左の腰骨のゆがみが神経を圧迫しているのだと診断された。痛みどめと胃ぐすり、寝しなに飲む神経をやわらげる薬を処方してもらった。

 痛みは日を追って楽になっていったが、玄関の三和土におりてドアをあける動作は、向こう脛にひびく。歩くのはあきらめて、四、五日外へ出なかった。家の中はかがんで歩いた。

 それまでもよろよろ歩いていたのだが、なおいけなくなった。力を入れても脚が思うように言うことを、聞いてくれない。年よりだから快復は遅いだろうが、歩かなくてはと痛切に思った。
コロナのせいで、月に一度の新橋のエッセイ教室はしばらく通信で行われていた。が、九月から対面でも実施される運びとなった。

 九月はいそいそと出かけたが、十月は生憎、脚の神経痛で参加できなかった。十一月三十日は思い切って出席を決めた。決めたものの落ち着かず、早すぎる時刻に家を出て、地下鉄の都営浅草線に乗り、新橋まで。駅の長い階段をやっとのことでのぼって、教室のあるビルに辿り着いた時には、全身がふるえるほど嬉しかった。


 思えば、この日の外出は、私にとって久々の遠出であった。

 世界中が、コロナ騒ぎと縁の切れないまま、年が明けた。寒冷前線が猛威をふるい、北国に大雪をもたらし、六日、東京も雪に見舞われた。

 私は七日の十時に歯科の予約が入っていた。テレビは「凍結に充分注意してお出かけ下さい」とくりかえしている。

 普段は、我が家のわきの坂道を通って三分で行かれるのだか、危険なので迂回することにした。医院の入口まで、娘が付き添ってくれた。娘に言われて傘を杖がわりに持って、決死の覚悟で出発した。ともすれば、つるりとすべりそうになる。傘が役に立った。

 診察を終えて、受付のあたりで、
「あしを痛めてから、脚力がにぶりました。でも歩かなければと自分に言い聞かせて、極力歩いています」
 するとS先生は言葉をかみしめるようにこう、応じられた。
「歩いていれば、よい結果がついてきます」
 私より五つ年下のS先生は、ずっと以前から、長距離歩行をご自身に課して来た人だ。信憑性のあるひとことは、胸にしみた。

 歩みをはじめたばかりの新年を前に、勇気づけられ、爽快な気分で、家路についた。幸い往きも帰りも、転ばすにすんだ。

 今さら完治はのぞめないにしても、何とか現状維持で、この年をのりこえられそうな、嬉しい予感がする。

「元気100教室・エッセイ」文明のあり様を考えよう 桑田 冨三子

 世の中にはたくさんの生き物がいる。宇宙にある無数の星の中で、現在、生き物の存在が判明しているのは地球だけだそうだ。地球には海があり、生き物の祖先となる細胞がそこで生まれた。現存の生物はどれも細胞からできており、皆この先祖細胞から進化してきたとされている。人間もそうである。

 人間の特徴は、二足歩行、大きな脳、自由な手、話ができる喉の構造による言葉である。700万年ほど前、ヒトはアフリカの森に暮らしていた。気候が厳しくなり森が縮小し、食べ物集めが苦しくなった。
 ヒトは森を出て遠くサバンナまで行くようになった。
 そこで果実などを見つけたりすると、ヒトはそれを自分一人で食べずに家族と一緒にと思い、それを手でつかみ、二本の脚で立ち上がり、歩き、離れたところまで、運ぶようになったという。これは他の生き物には見られない素晴らしい能力である。強い共感や想像力、信頼感、それに火を使うようになった人間は、調理をし、きれいな装飾品を造ったりして、豊かな生活を営むようになった。

 自然を利用することを知ったヒトは、言葉を用いて皆で協力しあい、農業をはじめた。生活の基本である食べ物を作るための様々な工夫は、食生活を豊かにし、環境を変えた。「農業革命」である。これは人間が持つ能力を生かして生まれた文明といえよう。

 他の生き物とは違う生活を始めた人間は、次に「産業革命」を起こす。石炭・石油・天然ガスの化石燃料を使って物を大量生産し、自動車や飛行機で移動する社会を作り始めた。科学によって、人間も含めてすべてを機械と見做し、分析によってその構造と機能を知れば、すべてがわかる、という「機械論」がうまれた。

 機械を基本にものを考えると、①効率を上げることがよい。②何にでも正解がある。③すべて数や量できまる。という事になる。速い新幹線は便利だ。洗濯機も電子レンジもありがたい。機械が提供してくれる速さは便利で不可欠である。世のお母さんたちはこどもに「速くしなさい」といつも言う。現代文明は人間を機械として見ている。

 しかし、ここで「速い」ということを、ようく考えてみよう。はたして人間は本当に速さを欲し、望む生き物なのであろうか?


 人は生まれ生きていく、という事は時間を紡ぐことである。心地よく時を紡いで長い人生を送る。これが、人の人らしい生き方ではないのか。

 いまやその人類の、素晴らしい文明が深刻な環境問題を起こしている。工場排ガス、自動車排気ガスなどによる地球温暖化、生態系の崩壊、異常気象、土地の水没、ゴミ問題、海洋汚染、水質汚染、土壌汚染、新型コロナウイルスの感染拡大など、数限りない。

 もちろん、文明そのものを否定することはない。ただ、自然に還ろうと言ったのでは人間の人間らしさがなくなってしまう。


 現代文明をどのように見直すか。


 それが今の我々に与えられたテーマではないだろうか。文明を作り出す能力は人間という生き物だからこそできることなので、それを否定しては意味がない。現代文明だけが文明ではない、という基本を考えるところに我々は置かれている。

 文明の有り様を考えなければならない。

(人間とは何か)
 と問い続けたエマヌエル・カントという哲学者が、七一歳になって書いた本『永遠の平和のために』にはこうある。

「殺したり殺されたりするための用に人を当てるのは、人間を単なる機械あるいは道具として他人(国家)の手にゆだねることであって,人格にもとづく人間の権利と一致しない」

「地球は球体であって、どこまでも果てしなく広がっているわけではなく、限られた土地の中で人間は互いに我慢しあわなければならない」

「永遠平和は空虚な理念ではなく、我々に課された使命である」

                               了

スズメ 廣川 登志男

だいぶ昔のことだと思うが、都会のスズメが姿を消しつつあるとの記事を思い出した。

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私が小さかった頃は電線に鈴なりになるスズメをよく見たし、家の周りに少しは残っていた空き地で、米粒を蒔いて笊籠でスズメを捕ろうという人もいた。品川区の都会育ちではあったが、スズメは身近な鳥だった。

五年ほど前に、家内がバラ園芸を新たに始めた。新しい趣味を始めると、トコトンその道を究めたい性分なので、いろいろと頼まれごとが増えるのは間違いない。しかし、それにうまく付き合うことが夫婦円満の鍵だと、私は思っている。

さっそく、家内から話があった。隣家との境に植えていた、十五本のカイヅカイブキが大きくなりすぎたので、それを伐採して、そのあとにバラの棚を作りたいという。もちろん、それに付き合って、私は根元からの切断を、家内は絡み合った小枝の処理を行う。我が家では、新たに作るような大きな外仕事は夫婦共働で行う。設計や力仕事は私で、多少力が必要でも単純作業なら家内がすることになっている。

高さ3m、幅13mのバラ棚も共働で作った。立派なものが完成し、今では、七十数本のバラの木が育って、玄関までのアプローチとデッキ以外はバラ一色になっている。盛期には、色とりどりの花が咲き誇り、庭中が良い香りで満ちるまでになった。

昨年、家内が、棚に這わせているツルバラの剪定を終え、枝だけになった棚の隙間に針金製の四角い受け台を取り付けた。そこに、二つに割ったミカンなどを入れている。野鳥をおびき寄せようとしたのだろう。

昔の庭は和風だったが、小鳥がよく来て囀っていた。家内はそれを思い出したのかもしれない。もともと、鳥の趣味もあって、メジロやヒヨドリ、それにムクドリやシジュウカラが来ていると、結構、鳥博士になって楽しんでいた。しかし、バラの木を植えてからは、美味しい実のなる果樹木がなくなってしまい、小鳥を見かけなくなっていた。

ミカンの効果が効いたのか、少し大きく灰色のヒヨドリがミカンを啄みにくるようになった。四,五月はヒヨドリの繁殖期だが、この時期は縄張り争いが激しく、他のヒヨドリやメジロなどが近づくと激しい攻撃で追い払う。そんなヒヨドリだが、繁殖期を過ぎた五月頃からピタッと来なくなる。あれほどうるさく鳴いていたのが嘘のように静かになってしまう。

小鳥と言えば、私にはせっかく懐いていたスズメを追いやった苦い思い出がある。

四年前だったか。二階の書斎にある北側の換気口にスズメが巣を作った。年に三,四回、卵を産み、子育てをする。ヒナが孵り飛び立つ前までチュンチュンとうるさくさえずるが、普段はほとんど気にならない。それどころか、ツガイの親が隣のベランダに飛来して巣を眺めているのが窓から見える。ヒナが心配で見張っていたのだろう。子を案ずる親心が感じられ、気持ちがほぐされたのを覚えている。

しかし、鳥の巣に虫が湧くことを知り、枯れ草が敷き詰められた巣を、昨年二月にきれいに掃除した。それでも、春になると、たまに二羽のスズメが隣家のベランダに来てこちらを窺っていたが、しばらくすると来なくなった。考えてみれば、親スズメが子育てに利用していた巣を無残にも取り壊してしまったのだ。「かわいそうなことをした」と、心が痛んだが仕方が無い。


小鳥たちは果物では寄って来ないと家内は悟り、今年になってから別の場所に直径20cmのエサ台をセットし、古い無洗米をそこに入れた。すると、ほとんど来なかったスズメが、古米の匂いを敏感に察知したのだろう。翌朝、裏の家の軒に、エサ台に向いて鈴なりに並んだスズメがいた。
さらに、多くのスズメが台周りに陣取り、五,六羽がエサ台に入り、満員状態でエサを啄むようになった。以来、よく見ていると、面白い行動をしているのに気がついた。

 空になった台に新たにエサを入れると、暫くしてその匂いで、一羽が裏の家の軒先にやってくる。徐々に増えていくが、警戒心が勝るようですぐには台に近づかない。

そのうち、一羽が台近くのバラ棚に降り立つ。辺りをキョロキョロした後、安全だと納得したのか、台に飛び込みエサを啄み始める。すると、残りの多くのスズメも安全を確信したようで、我先にと台の中に入ってエサの取り合いが始まる。

その一団が十分食べたと思われる頃合いに一羽が飛び立つ。すると一斉に、その一団が飛び去ってしまう。程なく、先ほどと同様に一羽が先着し、さらに十数羽となってエサをむさぼる。どうも、群れはいくつもあるらしく、それらが順次同じ行動をするようだ。これほど多くのスズメがどこに隠れていたのだろう。

スズメの巣を取り壊したことへの後悔や、都会のスズメが少なくなった記事に胸を痛めていたが、思いがけず鈴なりのスズメを見たり、さえずりを聞いたりしたことで、ありがたいことに、何かホッとした気分に浸れるように、今はなっている。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

駅のそば 筒井 隆一

 新聞に折り込まれてくる、土地、建物など、不動産販売の広告チラシには、必ず駅から徒歩何分、と書かれている。不動産の価値は、立地、用途によってもいろいろ違うが、便利な場所にあるのが、第一条件だからだろう。

 私は小中学校時代、練馬区東部の江古田に住んでいた。池袋から西武池袋線で三つ目、江古田駅から北に歩いて五分の、とても便利で住みやすいところだった。
 学生生活を終え就職した昭和四十年に、同じ練馬区の西北のはずれ、現在の大泉学園町に、一家で移り住んだ。そこは、両親がいずれ住み着くつもりで、求めておいた土地だった。周囲には麦畑、キャベツ畑が拡がり、雑木林の緑も多く、豊かな自然環境に恵まれていた。地目もまだ山林だったので、地目変更の手続きをして家を建てたのを覚えている。
 また、この地区は、開発者である西武鉄道グループが、一橋大学を誘致する構想で、学園と名前を付けたそうだ。大学キャンパスと高級分譲住宅との融合を目指して、整然と区画された宅地が続いていた。

 一方、私の偏見かもしれないが、自然が豊かということは、環境を守るために開発を規制した結果、文化的、社会的な発展が遅れることにもつながるような気がする。私たちの住いも、当時の風致地区の規制で、建ぺい率一割、隣地との間隔一・五mなどの制約を受けた。そして何よりの難点は、駅から遠いことだった。


 路線バスは、成増、朝霞、新座方面行きが、大泉学園駅から数分おきに走っており、乗れば十数分で自宅前の停留所に着く。深夜も西武池袋線の終電まで深夜バスが接続しており、バスの便は大変便利だ。
しかし近年、道路の渋滞が目立つようになり、常時ノロノロ運転が続き、目的地への出発、到着の予定が立てられなくなってきた。

 大泉学園駅まで歩くとなれば、私の足で四十分はかかる。歩くことは自力に頼っているので、目的地まで自分のペースを守れる移動手段である。最も信頼できる一方、限度がある。若くて元気のよい時、さらに時間に余裕のある時には、自身の健康増進も考えて、駅まで気軽に歩いたものだ。

 しかし、年を取ったり病気になれば、数分歩くのもつらくなり、老後に遠方に出かけるには他力に頼らざるをえない。車の運転は余計な神経を使い、最近は高齢者の事故が多いので、できれば避けたい。ある程度歩けることができるうちは、自分の足に頼り、併せ公共の交通機関を、利用するのが現実的である。そうなると老後は、電車や地下鉄の駅から近いところ、いわゆる「駅のそば」に住めば、行動範囲を安全に拡大することができる。

2021.10.10.tachiguisoba.jpeg そのようなことを考えていたら、「駅のそば」が、向こうから転がり込んできた。

 新宿の都庁前から6の字に都内を回り、練馬の光が丘まで走っている都営地下鉄大江戸線が、光が丘から大泉に向かって延伸されるという事業計画が、正式に動きだしたのだ。新しく、土支田(どしだ)、大泉町、大泉学園町の三駅が新設され、終点となる大泉学園町駅は、我が家から徒歩五分の所に計画されている。二〇二一年春現在、ルートとなる補助230号の用地取得は八割がた完了しており、数年後には新しい大泉学園町駅から都心まで、三十分程度で出られることになりそうだ。

 昨年十二月発表の「住みやすい街大賞21」(どれだけ権威のある賞か知らないが)で、埼玉川口に次ぎ、大泉学園町が二位に選ばれていた。住環境で五点満点のほか、発展性、教育・文化環境、コストパフォーマンスなどが、いずれも高得点だった。

 新しい駅ができれば、その交通機関を利用する利便性が上がるだけでなく、周辺の商店街も充実するだろう。

 今の大泉学園町も、私は大好きな街だが、駅が近くにできれば、美味しいレストラン、お洒落な珈琲ショップなどできて、さらに楽しく賑やかな街になっていくだろう。
 大江戸線延伸まで、元気に頑張りたい。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

近所の小さな本屋 井上 清彦

数年前に、我が家から歩いて5分ほどの青梅街道沿いに、小さな本屋ができた。当時、新しい本屋ができるらしいとの情報は、地元の「おとこのおしゃべり会」仲間で話題になっていた。

オープンし早速見にゆくと、入り口の上の濃紺のテントに「本屋 Title」と白いロゴの横書きで店名が書いてある。色もロゴも洒落ている、間口2間弱のこじんまりした本屋だ。

2021.10.10.honya.png当時、開店までの経緯を店主がブログで書いていた。彼は大手の書店に勤務していたが、「こんな本屋が近くにあったらいいな」とのコンセプトで、色々探し、荻窪駅から歩いて10分ほどの青梅街道沿いの古民家を選んで改装し開店に至ったという。
2階もあって、急勾配の階段を登ると展示会を開けるスペースがある。1階の本屋の奥には、小さなカフェも設けられてある。コンパクトながら魅力ある間取りだ。

近所の青梅街道沿いには、物心着いた頃から、2軒の小さな本屋があり、文芸書や学習参考書を買っていた。
その後、荻窪駅の再開発があり、戦後のマーケット街が「タウンセブン」の大型ビルに変身し、更にと駅ビル「ルミネ」の大型施設が誕生した。
それぞれ、ビル内に大型書店が入った。この影響をもろに受け、私が通いなれた2つの個人書店は姿を消してしまった。
書籍販売は、大型書店やアマゾンなどのネット販売への流れに抗して、小さな書店に注目が集まり、全国アチラコチラに誕生しているという。私の行動範囲では、歩いて数分の本屋「タイトル」がそうだ。

置いてある書籍は、店主の意向が色濃く出ている。マンガ本や風俗週刊誌のたぐいは置いていない。文学は詩歌や評論・哲学・思想関係が翻訳本を含めて目につく。
名著はもちろんのこと、近刊の書籍も置いてある。もちろん、文庫本もハードカバー本と同じ傾向で、限られたスペースの中でうまく揃えている。

コロナ禍を反映して、身の回りのこと、住まいや暮らしに関連する雑誌なども取り込んでいる。しかも店主自ら本を3冊ほど出版している。今日「タイトル」のホームページを訪問したら、店主の著書『本屋、はじめました』が文庫本に加わったという。

はっきり言って、私の好みの書籍を集めた心地よい空間だ。外出の際には、つい立ち寄りたくなり、ぐるりと一周りして、新しい書籍が入っていないかチェックしたりする魅力の空間であり、至福の時間だ。大型書店では、ついぞお目にかかれない、小冊子やスケッチ集も置いてあり、つい手にとってページを開いてしまう。
私のすきな登山や紀行本もさりげなく置いてあって、満足度が高い。


本屋への寄り道で、帰宅するのが少し遅くなることがある。毎月第1木曜日午前9時から開催される「西荻句会」は、昼前に終わるので、自転車での帰り道に、つい立ち寄ってしまう。

滞在時間が長引くと、決まって妻から「午前中に終わるのに、遅いわね。どこ行っていたの」と問われるが、(デートをしているわけでもないのに)「ううん」とか言ってなんとなくはぐらかしてしまう。

駅ビルの大型書店で買える値の張る本や置いていない本は、「タイトル」に頼んで取り寄せる。その背景には40歳台半ばあたりの「タイトル」店主を応援したい気持ちがある。彼は、キャッシャーに座って、いつも横に置いたパソコンに向かってキーを叩いている。

昨日、関東地方や東北地方が、今日は、近畿や東海地方が梅雨開けした。とたんに暑くなって、クーラーの出番だ。東京は、週初めから4回目の「緊急事態宣言」がでた。不要不況の外出は避けよとのいつものお達しだ。

我が家の厳しいコロナ対策ファーストである妻から「パソコンに向かってばかりだと、そのうち歩けなくなるわよ」と口を酸っぱく言われている。大谷選手の大活躍の大リーグも再開し、東京オリンピックは来週開幕する。
自宅観戦のステイホームの中でも、コロナだけでなく、熱中症に注意して本屋「タイトル」を訪れよう。そして、書籍の魅力的な「タイトル」を眺めながら、「本の世界」に浸ろう。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

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