6月下旬のある日の夕方、私は、いつものように散歩に出かけた。今日は、久しぶりに夫と一緒によく立ち寄った氏神様の春日神社に、先ずお参りをした。そして、いつもの散歩道に戻ろうと西門を出て2、3歩、歩いた時だ。
5メートル程前を杖をついて歩いていたお婆さんが、突然崩れるように倒れ込んだ。脇道ゆえに辺りには誰もいなかったので、私は、慌てて駆け寄り声をかけた。
「大丈夫ですか」何度か声をかけたが応答がない。
私は、咄嗟に救急車を呼ぼうとスマホを出したが、この場所の正確な住所がわからない。指標は神社のみだ。私は、数メートル先の表通りの角の電気屋に助けを求めて駆け込んだ。
顔見知りの店主は、救急車を呼びながら現場に急いでくれた。そして、倒れている人の顔を覗き込むと、
「熊田さんのおばあちゃんではないか」と言って、店員に町内会の電話帳を持って来させ、すぐ電話で知らせた。
そうこうするうちに、遠くから「ピーポー、ピーポー」の音が聞こえてきた。店員が、表通りに出て救急車に合図を送った。
その間も私は、何度か声をかけてみたが反応はなかった。そして到着した隊員に私は、倒れ込んだ時の様子を話した。
あと二人の隊員は、お婆さんに応急処置をしながら、救急車に運び込んだ。その時、熊田さんのご主人が駆けつけて、母親であることを確認し、一緒に乗り込んだ。
救急車が去ったあと、店主に「貴女がいなかったら、もっと大変なことになっていたかもしれない」と言われ、たまたま通りかかっただけの私は、恐縮した。
しかし、同時に一人暮らしの私は、「もし、このことが自分だったら~~」と思うと身震いが起きた。そして、十五年程前のことを思い出した。
それは、やはり6月のある土曜日だった。夫は、その道の専門家会議に出席するため、学士会館に出かけた。夫が出かけて一時間ほど経った時、私は、突然、御茶ノ水署のムカイ氏から電話を受けた。
警察と聞いて私は、一瞬、ドキリとした。しかし相手は「マエダトシオさんをご存じですか」と言った。
私は、何だか夫から聞いたことがある名前だったので、その旨伝えた。すると、「マエダさんは、先ほど電車内で倒れて、御茶ノ水の順天堂大学病院に運ばれて治療しているが、持ち物の中の手帳の中にこの電話番号があったので連絡している」とのことだった。
私は、すぐ夫に連絡する旨伝えて、その後の連絡先を聞いた。
私は、会議は始まっているかもしれないが、とにかく夫の携帯にかけた。やはり出ない。私は、学士会館に電話して、緊急事態なので会議室の武智に繋いでほしいと頼み込んだ。間もなく電話口に出た夫にマエダさんのことを伝えた。
驚いた夫は「わかった。それでマエダ先生が来られないのだ」一瞬、会議室に緊張が走った様子が電話口の私にも伝わった。続けて夫は「同じ大学の中園先生に、連絡してもらう。有難う」と言って電話は切れた。私は、連絡がついたことでほっとしたが、落ち着かなかった。
夕方、帰宅した夫の話によると順天堂大学病院に連絡した中園先生は、前田先生の容体が思わしくないことを知って、ご家族に連絡し、中園先生も会議を失礼されたそうだ。
そこで夫と私は話し合った。「私達も高齢だ。いつどこで倒れるやもしれない。夫婦間の連絡先だけでなく、二人の息子達やその嫁たちの携帯、会社、自宅などの緊急連絡先の一覧表を作っておこう」と決めた。そして常時持ち歩く財布や名刺入れに入れて置くことにした。
今、私は一覧表の一番目にあった夫の番号が消えて、最後に、成人した孫たちの番号も加えた。私に何かあった時には、誰かには連絡がつくだろうという希望の光の緊急連絡先である。
後日談だが、7月初め熊田さんの奥様が、電気屋さんの店主と一緒に私宅を訪ねて来られた。そしてお婆さんは、手当てが早かったので、病院で意識を回復されて、今は膝の骨に入ったヒビの治療とリハビリに励んでおられることを聞いて、私は、とても嬉しかった。
次の日、私は散歩の折に神社にお参りして、報告させていただいた。
6下旬のある日の夕方、私は、いつものように散歩に出かけた。今日は、久しぶりに夫と一緒によく立ち寄った氏神様の春日神社に、先ずお参りをした。そして、いつもの散歩道に戻ろうと西門を出て二、三歩、歩いた時だ。
5メートル程前を杖をついて歩いていたお婆さんが、突然崩れるように倒れ込んだ。脇道ゆえに辺りには誰もいなかったので、私は、慌てて駆け寄り声をかけた。
「大丈夫ですか」何度か声をかけたが応答がない。私は、咄嗟に救急車を呼ぼうとスマホを出したが、この場所の正確な住所がわからない。指標は神社のみだ。
私は、数メートル先の表通りの角の電気屋に助けを求めて駆け込んだ。顔見知りの店主は、救急車を呼びながら現場に急いでくれた。
そして、倒れている人の顔を覗き込むと「熊田さんのおばあちゃんではないか」と言って、店員に町内会の電話帳を持って来させ、すぐ電話で知らせた。
そうこうするうちに、遠くから「ピーポー、ピーポー」の音が聞こえてきた。店員が、表通りに出て救急車に合図を送った。その間も私は、何度か声をかけてみたが反応はなかった。そして到着した隊員に私は、倒れ込んだ時の様子を話した。あと二人の隊員は、お婆さんに応急処置をしながら、救急車に運び込んだ。その時、熊田さんのご主人が駆けつけて、母親であることを確認し、一緒に乗り込んだ。
救急車が去ったあと、店主に「貴女がいなかったら、もっと大変なことになっていたかもしれない」と言われ、たまたま通りかかっただけの私は、恐縮した。しかし、同時に一人暮らしの私は、「もし、このことが自分だったら~~」と思うと身震いが起きた。そして、15年程前のことを思い出した。
それは、やはり6月のある土曜日だった。夫は、その道の専門家会議に出席するため、学士会館に出かけた。夫が出かけて一時間ほど経った時、私は、突然、御茶ノ水署のムカイ氏から電話を受けた。警察と聞いて私は、一瞬、ドキリとした。しかし相手は「マエダトシオさんをご存じですか」と言った。
私は、何だか夫から聞いたことがある名前だったので、その旨伝えた。すると、「マエダさんは、先ほど電車内で倒れて、御茶ノ水の順天堂大学病院に運ばれて治療しているが、持ち物の中の手帳の中にこの電話番号があったので連絡している」とのことだった。私は、すぐ夫に連絡する旨伝えて、その後の連絡先を聞いた。
私は、会議は始まっているかもしれないが、とにかく夫の携帯にかけた。やはり出ない。私は、学士会館に電話して、緊急事態なので会議室の武智に繋いでほしいと頼み込んだ。間もなく電話口に出た夫にマエダさんのことを伝えた。驚いた夫は「わかった。それでマエダ先生が来られないのだ」
一瞬、会議室に緊張が走った様子が電話口の私にも伝わった。続けて夫は「同じ大学の中園先生に、連絡してもらう。有難う」と言って電話は切れた。私は、連絡がついたことでほっとしたが、落ち着かなかった。
夕方、帰宅した夫の話によると順天堂大学病院に連絡した中園先生は、前田先生の容体が思わしくないことを知って、ご家族に連絡し、中園先生も会議を失礼されたそうだ。
そこで夫と私は話し合った。「私達も高齢だ。いつどこで倒れるやもしれない。夫婦間の連絡先だけでなく、二人の息子達やその嫁たちの携帯、会社、自宅などの緊急連絡先の一覧表を作っておこう」と決めた。そして常時持ち歩く財布や名刺入れに入れて置くことにした。
今、私は一覧表の一番目にあった夫の番号が消えて、最後に、成人した孫たちの番号も加えた。私に何かあった時には、誰かには連絡がつくだろうという希望の光の緊急連絡先である。
後日談だが、7月初め熊田さんの奥様が、電気屋さんの店主と一緒に私宅を訪ねて来られた。そしてお婆さんは、手当てが早かったので、病院で意識を回復されて、今は膝の骨に入ったヒビの治療とリハビリに励んでおられることを聞いて、私は、とても嬉しかった。
次の日、私は散歩の折に神社にお参りして、報告させていただいた。
イラスト:Googleイラスト・フリーより