元気100教室 エッセイ・オピニオン

「元気100教室・エッセイ」 治験 武智 康子

 令和四年一月四日の夕方、突然、自宅の固定電話が久しぶりに鳴った。電話の相手は、私が、日本語教師として学校で最後に教えた卒業生からだった。

「王健です。先生、明けましておめでとうございます。やっと、僕の研究が実を結びそうです。今朝、事初めの席で部長から報告をいただきました。・・・・・・・・・」
 彼の声は喜びにあふれていた。
「それは素晴らしい。本当によく頑張ったね。・・・・・・・・・」
 私も嬉しかった。


 彼は、二十年前、中国のエリート高校を卒業して十八歳で来日した。初めて会った時は、青年というよりまだ少年のような顔つきだった。
 私は、始めて会った学生には、折を見て個別に面接をしていた。その時の彼は、他の学生と違って顔は少年でも、考えや留学の目的がはっきりしていた。まず、日本語を勉強した後、日本の大学で、医学か薬学を学び、「癌」の治療薬を作りたいという目的を持っていた。それは彼の叔母が白血病で非常に苦しんで亡くなったからだった。

 当時の日本は、アジアの最先進国であり工業技術や医学など科学技術の分野においては、世界に冠たる国であった。

 彼は、非常に真面目で、日本の大学に合格するには、普通は二年かかるところを一年で日本語教育を修了して、信州大学で生命科学を学び、大阪大学の大学院に進学した。そして日本のバイオテクノロジー大手の企業に就職して、研究所で十年越しの白血病の治療薬の研究に勤しみ、やっと治験に辿り着いたのだった。

 今は、三十八歳となり結婚もし、チームのリーダーとして活躍しているそうだ。

 ただ、動物実験に成功したからと言って、必ずしも人で成功するとは限らない。思わぬ副作用が出てくるやもしれない。彼自身も嬉しさの反面、一縷の不安ものぞかせているのは事実だ。
 新薬の臨床試験である「治験」は、厚生省により募集されるが、厳しい健康チェックの後、一、二週間病院に隔離される。もちろん謝礼は払われるが、それをアルバイトにしている人もいるという。

 しかし、治験には危険も付きまとう。大半は安全だが、時に「死」に至った人もあったそうだ。だから、アルバイトではなくボランティアであって、報酬ではなくあくまで協力に対する謝礼であると定義されている。

 一方、彼は、研究中思うようにいかずに、やめたいと思ったこともあったという。動物実験では何匹もの動物の命を奪ってしまった。その時「生命とは何か」を考えたそうだ。その気持ちは、私もよくわかる。
 私自身も学生時代に、人における呼吸酵素の働きを解明するための免疫学の実験で、モルモットやウサギの命を奪った経験がある。その時の気持ちは、今も忘れていない。

 そして、彼は最後に
「やっと治験にたどり着いた今、実験で犠牲になった動物たちに感謝するとともに、これから治験に参加してくれる人達、それが例えアルバイトであっても命を懸けてくれる人たちに感謝したいと思っている。そして、薬が安全で効果があることを証明したいと思っている」
 と話してくれた。

 私は、少年のようだった彼が、単に自分の研究成果だけでなく、研究を通して動物や治験者へも感謝の気持ちを忘れない、立派な一人の人間に成長したことが、何よりも嬉しかった。

 治験が成功すれば、世の中の多くの白血病患者が救われる。誠実な心の持ち主である「王健」の治験の成功を、私は祈らずにはいられない。
 コロナ禍で、心が沈みかけている、令和四年の新春に、この明るいニュースを受けた私の心は、少し華やいだ。
                         了

「元気100教室・エッセイ」 現状維持 金田 絢子

 令和三年十二月、雪の便りも届き、ぐんと寒くなった。ところどころ、一重の椿がしおらしく赤色を覗かせている。

 ある日、買物の帰り狭い歩道にさしかかると、八十三歳の私と同年輩の紳士が向うからやって来た。私を見ると立ちどまり「どうぞ」という風に身をかがめた。
 私が通り易いように、道の端に体を寄せてくれている。私は「ありがとうございます」と丁寧に言って、通りすぎたが、多分、私の歩き方にどこか不安定なものを感じとったのだろう。

 実は、同年十月十五日、私は左脚の付け根から踝にかけて、激しい痛みに襲われ、その場に凍りついた。かかりつけの内科医に紹介してもらい、歩いて十分ほどの総合病院の整形外科に行った。

 レントゲン検査の結果、左の腰骨のゆがみが神経を圧迫しているのだと診断された。痛みどめと胃ぐすり、寝しなに飲む神経をやわらげる薬を処方してもらった。

 痛みは日を追って楽になっていったが、玄関の三和土におりてドアをあける動作は、向こう脛にひびく。歩くのはあきらめて、四、五日外へ出なかった。家の中はかがんで歩いた。

 それまでもよろよろ歩いていたのだが、なおいけなくなった。力を入れても脚が思うように言うことを、聞いてくれない。年よりだから快復は遅いだろうが、歩かなくてはと痛切に思った。
コロナのせいで、月に一度の新橋のエッセイ教室はしばらく通信で行われていた。が、九月から対面でも実施される運びとなった。

 九月はいそいそと出かけたが、十月は生憎、脚の神経痛で参加できなかった。十一月三十日は思い切って出席を決めた。決めたものの落ち着かず、早すぎる時刻に家を出て、地下鉄の都営浅草線に乗り、新橋まで。駅の長い階段をやっとのことでのぼって、教室のあるビルに辿り着いた時には、全身がふるえるほど嬉しかった。


 思えば、この日の外出は、私にとって久々の遠出であった。

 世界中が、コロナ騒ぎと縁の切れないまま、年が明けた。寒冷前線が猛威をふるい、北国に大雪をもたらし、六日、東京も雪に見舞われた。

 私は七日の十時に歯科の予約が入っていた。テレビは「凍結に充分注意してお出かけ下さい」とくりかえしている。

 普段は、我が家のわきの坂道を通って三分で行かれるのだか、危険なので迂回することにした。医院の入口まで、娘が付き添ってくれた。娘に言われて傘を杖がわりに持って、決死の覚悟で出発した。ともすれば、つるりとすべりそうになる。傘が役に立った。

 診察を終えて、受付のあたりで、
「あしを痛めてから、脚力がにぶりました。でも歩かなければと自分に言い聞かせて、極力歩いています」
 するとS先生は言葉をかみしめるようにこう、応じられた。
「歩いていれば、よい結果がついてきます」
 私より五つ年下のS先生は、ずっと以前から、長距離歩行をご自身に課して来た人だ。信憑性のあるひとことは、胸にしみた。

 歩みをはじめたばかりの新年を前に、勇気づけられ、爽快な気分で、家路についた。幸い往きも帰りも、転ばすにすんだ。

 今さら完治はのぞめないにしても、何とか現状維持で、この年をのりこえられそうな、嬉しい予感がする。

「元気100教室・エッセイ」文明のあり様を考えよう 桑田 冨三子

 世の中にはたくさんの生き物がいる。宇宙にある無数の星の中で、現在、生き物の存在が判明しているのは地球だけだそうだ。地球には海があり、生き物の祖先となる細胞がそこで生まれた。現存の生物はどれも細胞からできており、皆この先祖細胞から進化してきたとされている。人間もそうである。

 人間の特徴は、二足歩行、大きな脳、自由な手、話ができる喉の構造による言葉である。700万年ほど前、ヒトはアフリカの森に暮らしていた。気候が厳しくなり森が縮小し、食べ物集めが苦しくなった。
 ヒトは森を出て遠くサバンナまで行くようになった。
 そこで果実などを見つけたりすると、ヒトはそれを自分一人で食べずに家族と一緒にと思い、それを手でつかみ、二本の脚で立ち上がり、歩き、離れたところまで、運ぶようになったという。これは他の生き物には見られない素晴らしい能力である。強い共感や想像力、信頼感、それに火を使うようになった人間は、調理をし、きれいな装飾品を造ったりして、豊かな生活を営むようになった。

 自然を利用することを知ったヒトは、言葉を用いて皆で協力しあい、農業をはじめた。生活の基本である食べ物を作るための様々な工夫は、食生活を豊かにし、環境を変えた。「農業革命」である。これは人間が持つ能力を生かして生まれた文明といえよう。

 他の生き物とは違う生活を始めた人間は、次に「産業革命」を起こす。石炭・石油・天然ガスの化石燃料を使って物を大量生産し、自動車や飛行機で移動する社会を作り始めた。科学によって、人間も含めてすべてを機械と見做し、分析によってその構造と機能を知れば、すべてがわかる、という「機械論」がうまれた。

 機械を基本にものを考えると、①効率を上げることがよい。②何にでも正解がある。③すべて数や量できまる。という事になる。速い新幹線は便利だ。洗濯機も電子レンジもありがたい。機械が提供してくれる速さは便利で不可欠である。世のお母さんたちはこどもに「速くしなさい」といつも言う。現代文明は人間を機械として見ている。

 しかし、ここで「速い」ということを、ようく考えてみよう。はたして人間は本当に速さを欲し、望む生き物なのであろうか?


 人は生まれ生きていく、という事は時間を紡ぐことである。心地よく時を紡いで長い人生を送る。これが、人の人らしい生き方ではないのか。

 いまやその人類の、素晴らしい文明が深刻な環境問題を起こしている。工場排ガス、自動車排気ガスなどによる地球温暖化、生態系の崩壊、異常気象、土地の水没、ゴミ問題、海洋汚染、水質汚染、土壌汚染、新型コロナウイルスの感染拡大など、数限りない。

 もちろん、文明そのものを否定することはない。ただ、自然に還ろうと言ったのでは人間の人間らしさがなくなってしまう。


 現代文明をどのように見直すか。


 それが今の我々に与えられたテーマではないだろうか。文明を作り出す能力は人間という生き物だからこそできることなので、それを否定しては意味がない。現代文明だけが文明ではない、という基本を考えるところに我々は置かれている。

 文明の有り様を考えなければならない。

(人間とは何か)
 と問い続けたエマヌエル・カントという哲学者が、七一歳になって書いた本『永遠の平和のために』にはこうある。

「殺したり殺されたりするための用に人を当てるのは、人間を単なる機械あるいは道具として他人(国家)の手にゆだねることであって,人格にもとづく人間の権利と一致しない」

「地球は球体であって、どこまでも果てしなく広がっているわけではなく、限られた土地の中で人間は互いに我慢しあわなければならない」

「永遠平和は空虚な理念ではなく、我々に課された使命である」

                               了

スズメ 廣川 登志男

だいぶ昔のことだと思うが、都会のスズメが姿を消しつつあるとの記事を思い出した。

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私が小さかった頃は電線に鈴なりになるスズメをよく見たし、家の周りに少しは残っていた空き地で、米粒を蒔いて笊籠でスズメを捕ろうという人もいた。品川区の都会育ちではあったが、スズメは身近な鳥だった。

五年ほど前に、家内がバラ園芸を新たに始めた。新しい趣味を始めると、トコトンその道を究めたい性分なので、いろいろと頼まれごとが増えるのは間違いない。しかし、それにうまく付き合うことが夫婦円満の鍵だと、私は思っている。

さっそく、家内から話があった。隣家との境に植えていた、十五本のカイヅカイブキが大きくなりすぎたので、それを伐採して、そのあとにバラの棚を作りたいという。もちろん、それに付き合って、私は根元からの切断を、家内は絡み合った小枝の処理を行う。我が家では、新たに作るような大きな外仕事は夫婦共働で行う。設計や力仕事は私で、多少力が必要でも単純作業なら家内がすることになっている。

高さ3m、幅13mのバラ棚も共働で作った。立派なものが完成し、今では、七十数本のバラの木が育って、玄関までのアプローチとデッキ以外はバラ一色になっている。盛期には、色とりどりの花が咲き誇り、庭中が良い香りで満ちるまでになった。

昨年、家内が、棚に這わせているツルバラの剪定を終え、枝だけになった棚の隙間に針金製の四角い受け台を取り付けた。そこに、二つに割ったミカンなどを入れている。野鳥をおびき寄せようとしたのだろう。

昔の庭は和風だったが、小鳥がよく来て囀っていた。家内はそれを思い出したのかもしれない。もともと、鳥の趣味もあって、メジロやヒヨドリ、それにムクドリやシジュウカラが来ていると、結構、鳥博士になって楽しんでいた。しかし、バラの木を植えてからは、美味しい実のなる果樹木がなくなってしまい、小鳥を見かけなくなっていた。

ミカンの効果が効いたのか、少し大きく灰色のヒヨドリがミカンを啄みにくるようになった。四,五月はヒヨドリの繁殖期だが、この時期は縄張り争いが激しく、他のヒヨドリやメジロなどが近づくと激しい攻撃で追い払う。そんなヒヨドリだが、繁殖期を過ぎた五月頃からピタッと来なくなる。あれほどうるさく鳴いていたのが嘘のように静かになってしまう。

小鳥と言えば、私にはせっかく懐いていたスズメを追いやった苦い思い出がある。

四年前だったか。二階の書斎にある北側の換気口にスズメが巣を作った。年に三,四回、卵を産み、子育てをする。ヒナが孵り飛び立つ前までチュンチュンとうるさくさえずるが、普段はほとんど気にならない。それどころか、ツガイの親が隣のベランダに飛来して巣を眺めているのが窓から見える。ヒナが心配で見張っていたのだろう。子を案ずる親心が感じられ、気持ちがほぐされたのを覚えている。

しかし、鳥の巣に虫が湧くことを知り、枯れ草が敷き詰められた巣を、昨年二月にきれいに掃除した。それでも、春になると、たまに二羽のスズメが隣家のベランダに来てこちらを窺っていたが、しばらくすると来なくなった。考えてみれば、親スズメが子育てに利用していた巣を無残にも取り壊してしまったのだ。「かわいそうなことをした」と、心が痛んだが仕方が無い。


小鳥たちは果物では寄って来ないと家内は悟り、今年になってから別の場所に直径20cmのエサ台をセットし、古い無洗米をそこに入れた。すると、ほとんど来なかったスズメが、古米の匂いを敏感に察知したのだろう。翌朝、裏の家の軒に、エサ台に向いて鈴なりに並んだスズメがいた。
さらに、多くのスズメが台周りに陣取り、五,六羽がエサ台に入り、満員状態でエサを啄むようになった。以来、よく見ていると、面白い行動をしているのに気がついた。

 空になった台に新たにエサを入れると、暫くしてその匂いで、一羽が裏の家の軒先にやってくる。徐々に増えていくが、警戒心が勝るようですぐには台に近づかない。

そのうち、一羽が台近くのバラ棚に降り立つ。辺りをキョロキョロした後、安全だと納得したのか、台に飛び込みエサを啄み始める。すると、残りの多くのスズメも安全を確信したようで、我先にと台の中に入ってエサの取り合いが始まる。

その一団が十分食べたと思われる頃合いに一羽が飛び立つ。すると一斉に、その一団が飛び去ってしまう。程なく、先ほどと同様に一羽が先着し、さらに十数羽となってエサをむさぼる。どうも、群れはいくつもあるらしく、それらが順次同じ行動をするようだ。これほど多くのスズメがどこに隠れていたのだろう。

スズメの巣を取り壊したことへの後悔や、都会のスズメが少なくなった記事に胸を痛めていたが、思いがけず鈴なりのスズメを見たり、さえずりを聞いたりしたことで、ありがたいことに、何かホッとした気分に浸れるように、今はなっている。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

駅のそば 筒井 隆一

 新聞に折り込まれてくる、土地、建物など、不動産販売の広告チラシには、必ず駅から徒歩何分、と書かれている。不動産の価値は、立地、用途によってもいろいろ違うが、便利な場所にあるのが、第一条件だからだろう。

 私は小中学校時代、練馬区東部の江古田に住んでいた。池袋から西武池袋線で三つ目、江古田駅から北に歩いて五分の、とても便利で住みやすいところだった。
 学生生活を終え就職した昭和四十年に、同じ練馬区の西北のはずれ、現在の大泉学園町に、一家で移り住んだ。そこは、両親がいずれ住み着くつもりで、求めておいた土地だった。周囲には麦畑、キャベツ畑が拡がり、雑木林の緑も多く、豊かな自然環境に恵まれていた。地目もまだ山林だったので、地目変更の手続きをして家を建てたのを覚えている。
 また、この地区は、開発者である西武鉄道グループが、一橋大学を誘致する構想で、学園と名前を付けたそうだ。大学キャンパスと高級分譲住宅との融合を目指して、整然と区画された宅地が続いていた。

 一方、私の偏見かもしれないが、自然が豊かということは、環境を守るために開発を規制した結果、文化的、社会的な発展が遅れることにもつながるような気がする。私たちの住いも、当時の風致地区の規制で、建ぺい率一割、隣地との間隔一・五mなどの制約を受けた。そして何よりの難点は、駅から遠いことだった。


 路線バスは、成増、朝霞、新座方面行きが、大泉学園駅から数分おきに走っており、乗れば十数分で自宅前の停留所に着く。深夜も西武池袋線の終電まで深夜バスが接続しており、バスの便は大変便利だ。
しかし近年、道路の渋滞が目立つようになり、常時ノロノロ運転が続き、目的地への出発、到着の予定が立てられなくなってきた。

 大泉学園駅まで歩くとなれば、私の足で四十分はかかる。歩くことは自力に頼っているので、目的地まで自分のペースを守れる移動手段である。最も信頼できる一方、限度がある。若くて元気のよい時、さらに時間に余裕のある時には、自身の健康増進も考えて、駅まで気軽に歩いたものだ。

 しかし、年を取ったり病気になれば、数分歩くのもつらくなり、老後に遠方に出かけるには他力に頼らざるをえない。車の運転は余計な神経を使い、最近は高齢者の事故が多いので、できれば避けたい。ある程度歩けることができるうちは、自分の足に頼り、併せ公共の交通機関を、利用するのが現実的である。そうなると老後は、電車や地下鉄の駅から近いところ、いわゆる「駅のそば」に住めば、行動範囲を安全に拡大することができる。

2021.10.10.tachiguisoba.jpeg そのようなことを考えていたら、「駅のそば」が、向こうから転がり込んできた。

 新宿の都庁前から6の字に都内を回り、練馬の光が丘まで走っている都営地下鉄大江戸線が、光が丘から大泉に向かって延伸されるという事業計画が、正式に動きだしたのだ。新しく、土支田(どしだ)、大泉町、大泉学園町の三駅が新設され、終点となる大泉学園町駅は、我が家から徒歩五分の所に計画されている。二〇二一年春現在、ルートとなる補助230号の用地取得は八割がた完了しており、数年後には新しい大泉学園町駅から都心まで、三十分程度で出られることになりそうだ。

 昨年十二月発表の「住みやすい街大賞21」(どれだけ権威のある賞か知らないが)で、埼玉川口に次ぎ、大泉学園町が二位に選ばれていた。住環境で五点満点のほか、発展性、教育・文化環境、コストパフォーマンスなどが、いずれも高得点だった。

 新しい駅ができれば、その交通機関を利用する利便性が上がるだけでなく、周辺の商店街も充実するだろう。

 今の大泉学園町も、私は大好きな街だが、駅が近くにできれば、美味しいレストラン、お洒落な珈琲ショップなどできて、さらに楽しく賑やかな街になっていくだろう。
 大江戸線延伸まで、元気に頑張りたい。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

近所の小さな本屋 井上 清彦

数年前に、我が家から歩いて5分ほどの青梅街道沿いに、小さな本屋ができた。当時、新しい本屋ができるらしいとの情報は、地元の「おとこのおしゃべり会」仲間で話題になっていた。

オープンし早速見にゆくと、入り口の上の濃紺のテントに「本屋 Title」と白いロゴの横書きで店名が書いてある。色もロゴも洒落ている、間口2間弱のこじんまりした本屋だ。

2021.10.10.honya.png当時、開店までの経緯を店主がブログで書いていた。彼は大手の書店に勤務していたが、「こんな本屋が近くにあったらいいな」とのコンセプトで、色々探し、荻窪駅から歩いて10分ほどの青梅街道沿いの古民家を選んで改装し開店に至ったという。
2階もあって、急勾配の階段を登ると展示会を開けるスペースがある。1階の本屋の奥には、小さなカフェも設けられてある。コンパクトながら魅力ある間取りだ。

近所の青梅街道沿いには、物心着いた頃から、2軒の小さな本屋があり、文芸書や学習参考書を買っていた。
その後、荻窪駅の再開発があり、戦後のマーケット街が「タウンセブン」の大型ビルに変身し、更にと駅ビル「ルミネ」の大型施設が誕生した。
それぞれ、ビル内に大型書店が入った。この影響をもろに受け、私が通いなれた2つの個人書店は姿を消してしまった。
書籍販売は、大型書店やアマゾンなどのネット販売への流れに抗して、小さな書店に注目が集まり、全国アチラコチラに誕生しているという。私の行動範囲では、歩いて数分の本屋「タイトル」がそうだ。

置いてある書籍は、店主の意向が色濃く出ている。マンガ本や風俗週刊誌のたぐいは置いていない。文学は詩歌や評論・哲学・思想関係が翻訳本を含めて目につく。
名著はもちろんのこと、近刊の書籍も置いてある。もちろん、文庫本もハードカバー本と同じ傾向で、限られたスペースの中でうまく揃えている。

コロナ禍を反映して、身の回りのこと、住まいや暮らしに関連する雑誌なども取り込んでいる。しかも店主自ら本を3冊ほど出版している。今日「タイトル」のホームページを訪問したら、店主の著書『本屋、はじめました』が文庫本に加わったという。

はっきり言って、私の好みの書籍を集めた心地よい空間だ。外出の際には、つい立ち寄りたくなり、ぐるりと一周りして、新しい書籍が入っていないかチェックしたりする魅力の空間であり、至福の時間だ。大型書店では、ついぞお目にかかれない、小冊子やスケッチ集も置いてあり、つい手にとってページを開いてしまう。
私のすきな登山や紀行本もさりげなく置いてあって、満足度が高い。


本屋への寄り道で、帰宅するのが少し遅くなることがある。毎月第1木曜日午前9時から開催される「西荻句会」は、昼前に終わるので、自転車での帰り道に、つい立ち寄ってしまう。

滞在時間が長引くと、決まって妻から「午前中に終わるのに、遅いわね。どこ行っていたの」と問われるが、(デートをしているわけでもないのに)「ううん」とか言ってなんとなくはぐらかしてしまう。

駅ビルの大型書店で買える値の張る本や置いていない本は、「タイトル」に頼んで取り寄せる。その背景には40歳台半ばあたりの「タイトル」店主を応援したい気持ちがある。彼は、キャッシャーに座って、いつも横に置いたパソコンに向かってキーを叩いている。

昨日、関東地方や東北地方が、今日は、近畿や東海地方が梅雨開けした。とたんに暑くなって、クーラーの出番だ。東京は、週初めから4回目の「緊急事態宣言」がでた。不要不況の外出は避けよとのいつものお達しだ。

我が家の厳しいコロナ対策ファーストである妻から「パソコンに向かってばかりだと、そのうち歩けなくなるわよ」と口を酸っぱく言われている。大谷選手の大活躍の大リーグも再開し、東京オリンピックは来週開幕する。
自宅観戦のステイホームの中でも、コロナだけでなく、熱中症に注意して本屋「タイトル」を訪れよう。そして、書籍の魅力的な「タイトル」を眺めながら、「本の世界」に浸ろう。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

緊急連絡先 武智 康子

 6月下旬のある日の夕方、私は、いつものように散歩に出かけた。今日は、久しぶりに夫と一緒によく立ち寄った氏神様の春日神社に、先ずお参りをした。そして、いつもの散歩道に戻ろうと西門を出て2、3歩、歩いた時だ。

 5メートル程前を杖をついて歩いていたお婆さんが、突然崩れるように倒れ込んだ。脇道ゆえに辺りには誰もいなかったので、私は、慌てて駆け寄り声をかけた。

「大丈夫ですか」何度か声をかけたが応答がない。

 私は、咄嗟に救急車を呼ぼうとスマホを出したが、この場所の正確な住所がわからない。指標は神社のみだ。私は、数メートル先の表通りの角の電気屋に助けを求めて駆け込んだ。

2021.10.10.kukusha.jpg 顔見知りの店主は、救急車を呼びながら現場に急いでくれた。そして、倒れている人の顔を覗き込むと、

「熊田さんのおばあちゃんではないか」と言って、店員に町内会の電話帳を持って来させ、すぐ電話で知らせた。

 そうこうするうちに、遠くから「ピーポー、ピーポー」の音が聞こえてきた。店員が、表通りに出て救急車に合図を送った。

 その間も私は、何度か声をかけてみたが反応はなかった。そして到着した隊員に私は、倒れ込んだ時の様子を話した。 

 あと二人の隊員は、お婆さんに応急処置をしながら、救急車に運び込んだ。その時、熊田さんのご主人が駆けつけて、母親であることを確認し、一緒に乗り込んだ。


 救急車が去ったあと、店主に「貴女がいなかったら、もっと大変なことになっていたかもしれない」と言われ、たまたま通りかかっただけの私は、恐縮した。

 しかし、同時に一人暮らしの私は、「もし、このことが自分だったら~~」と思うと身震いが起きた。そして、十五年程前のことを思い出した。


 それは、やはり6月のある土曜日だった。夫は、その道の専門家会議に出席するため、学士会館に出かけた。夫が出かけて一時間ほど経った時、私は、突然、御茶ノ水署のムカイ氏から電話を受けた。

 警察と聞いて私は、一瞬、ドキリとした。しかし相手は「マエダトシオさんをご存じですか」と言った。

 私は、何だか夫から聞いたことがある名前だったので、その旨伝えた。すると、「マエダさんは、先ほど電車内で倒れて、御茶ノ水の順天堂大学病院に運ばれて治療しているが、持ち物の中の手帳の中にこの電話番号があったので連絡している」とのことだった。

 私は、すぐ夫に連絡する旨伝えて、その後の連絡先を聞いた。
 私は、会議は始まっているかもしれないが、とにかく夫の携帯にかけた。やはり出ない。私は、学士会館に電話して、緊急事態なので会議室の武智に繋いでほしいと頼み込んだ。間もなく電話口に出た夫にマエダさんのことを伝えた。

 驚いた夫は「わかった。それでマエダ先生が来られないのだ」一瞬、会議室に緊張が走った様子が電話口の私にも伝わった。続けて夫は「同じ大学の中園先生に、連絡してもらう。有難う」と言って電話は切れた。私は、連絡がついたことでほっとしたが、落ち着かなかった。


 夕方、帰宅した夫の話によると順天堂大学病院に連絡した中園先生は、前田先生の容体が思わしくないことを知って、ご家族に連絡し、中園先生も会議を失礼されたそうだ。
 そこで夫と私は話し合った。「私達も高齢だ。いつどこで倒れるやもしれない。夫婦間の連絡先だけでなく、二人の息子達やその嫁たちの携帯、会社、自宅などの緊急連絡先の一覧表を作っておこう」と決めた。そして常時持ち歩く財布や名刺入れに入れて置くことにした。


 今、私は一覧表の一番目にあった夫の番号が消えて、最後に、成人した孫たちの番号も加えた。私に何かあった時には、誰かには連絡がつくだろうという希望の光の緊急連絡先である。

 後日談だが、7月初め熊田さんの奥様が、電気屋さんの店主と一緒に私宅を訪ねて来られた。そしてお婆さんは、手当てが早かったので、病院で意識を回復されて、今は膝の骨に入ったヒビの治療とリハビリに励んでおられることを聞いて、私は、とても嬉しかった。


 次の日、私は散歩の折に神社にお参りして、報告させていただいた。

 6下旬のある日の夕方、私は、いつものように散歩に出かけた。今日は、久しぶりに夫と一緒によく立ち寄った氏神様の春日神社に、先ずお参りをした。そして、いつもの散歩道に戻ろうと西門を出て二、三歩、歩いた時だ。

 5メートル程前を杖をついて歩いていたお婆さんが、突然崩れるように倒れ込んだ。脇道ゆえに辺りには誰もいなかったので、私は、慌てて駆け寄り声をかけた。

「大丈夫ですか」何度か声をかけたが応答がない。私は、咄嗟に救急車を呼ぼうとスマホを出したが、この場所の正確な住所がわからない。指標は神社のみだ。

 私は、数メートル先の表通りの角の電気屋に助けを求めて駆け込んだ。顔見知りの店主は、救急車を呼びながら現場に急いでくれた。

 そして、倒れている人の顔を覗き込むと「熊田さんのおばあちゃんではないか」と言って、店員に町内会の電話帳を持って来させ、すぐ電話で知らせた。

 そうこうするうちに、遠くから「ピーポー、ピーポー」の音が聞こえてきた。店員が、表通りに出て救急車に合図を送った。その間も私は、何度か声をかけてみたが反応はなかった。そして到着した隊員に私は、倒れ込んだ時の様子を話した。あと二人の隊員は、お婆さんに応急処置をしながら、救急車に運び込んだ。その時、熊田さんのご主人が駆けつけて、母親であることを確認し、一緒に乗り込んだ。


 救急車が去ったあと、店主に「貴女がいなかったら、もっと大変なことになっていたかもしれない」と言われ、たまたま通りかかっただけの私は、恐縮した。しかし、同時に一人暮らしの私は、「もし、このことが自分だったら~~」と思うと身震いが起きた。そして、15年程前のことを思い出した。
 それは、やはり6月のある土曜日だった。夫は、その道の専門家会議に出席するため、学士会館に出かけた。夫が出かけて一時間ほど経った時、私は、突然、御茶ノ水署のムカイ氏から電話を受けた。警察と聞いて私は、一瞬、ドキリとした。しかし相手は「マエダトシオさんをご存じですか」と言った。
私は、何だか夫から聞いたことがある名前だったので、その旨伝えた。すると、「マエダさんは、先ほど電車内で倒れて、御茶ノ水の順天堂大学病院に運ばれて治療しているが、持ち物の中の手帳の中にこの電話番号があったので連絡している」とのことだった。私は、すぐ夫に連絡する旨伝えて、その後の連絡先を聞いた。


 私は、会議は始まっているかもしれないが、とにかく夫の携帯にかけた。やはり出ない。私は、学士会館に電話して、緊急事態なので会議室の武智に繋いでほしいと頼み込んだ。間もなく電話口に出た夫にマエダさんのことを伝えた。驚いた夫は「わかった。それでマエダ先生が来られないのだ」

 一瞬、会議室に緊張が走った様子が電話口の私にも伝わった。続けて夫は「同じ大学の中園先生に、連絡してもらう。有難う」と言って電話は切れた。私は、連絡がついたことでほっとしたが、落ち着かなかった。

 夕方、帰宅した夫の話によると順天堂大学病院に連絡した中園先生は、前田先生の容体が思わしくないことを知って、ご家族に連絡し、中園先生も会議を失礼されたそうだ。
 そこで夫と私は話し合った。「私達も高齢だ。いつどこで倒れるやもしれない。夫婦間の連絡先だけでなく、二人の息子達やその嫁たちの携帯、会社、自宅などの緊急連絡先の一覧表を作っておこう」と決めた。そして常時持ち歩く財布や名刺入れに入れて置くことにした。

 今、私は一覧表の一番目にあった夫の番号が消えて、最後に、成人した孫たちの番号も加えた。私に何かあった時には、誰かには連絡がつくだろうという希望の光の緊急連絡先である。
 後日談だが、7月初め熊田さんの奥様が、電気屋さんの店主と一緒に私宅を訪ねて来られた。そしてお婆さんは、手当てが早かったので、病院で意識を回復されて、今は膝の骨に入ったヒビの治療とリハビリに励んでおられることを聞いて、私は、とても嬉しかった。
 次の日、私は散歩の折に神社にお参りして、報告させていただいた。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

カーナビ 筒井 隆一

 私たちの車は、調布から稲城に抜ける鶴川街道を、南に進んでいる。
 助手席の家内が、運転している私に指示を出した。
「この先が、地図で調べた若葉台への分岐みたい。専用レーンがある筈だから左に寄って下さい」
 家内を、幼いころから大変可愛がってくれた叔父が亡くなり、その葬儀に参列のため、二人で斎場に向かっている。
 いつもは運転する私に遠慮なく、助手席で居眠りをしている家内だが、今日はナビゲーター役だ。前日に、にわか勉強した道路地図を広げ、少々緊張した様子でガイドを続けている。目指すは、横浜市青葉区の緑山霊園だ。

 東京二十三区の西北のはずれ、大泉学園の我が家から、真南に三十数キロメートル。多摩丘陵にあるこの霊園は、東京都町田市、横浜市緑区・青葉区、川崎市麻生区・多摩区が入り組んだ高台の、かなりややこしい場所に位置している。鉄道利用も考えたが、JR、東急、小田急、京王などを乗り継いで、二時間以上かかりそうな、不便なところだ。しかも今まで行ったことのない不慣れな場所だ。コロナの感染が心配な公共交通機関は避け、家内をナビゲーターに仕立て、ナビの案内を頼りに車で出かけることにした。

 最近私は、運転に対する情熱が少々失せてきたのか、車も勝手知ったところに行く時にしか、利用しなくなった。
 ゴルフのホームコースへの往復、孫たちへ採れたての野菜のお届け、家内の園芸関係の買い物でホームセンターにお供、そして、両親の墓参りくらいにしか使わない。
 加えて、10年乗っている車の車検が年末12月に切れ、運転免許の更新も来年8月にある。そろそろ免許証を返納して車を手放す時期かな、と考えていた。

 今回もナビに緑山霊園を入れておき、それを目的地として運転すればよいのだが、ナビ本体が10年前の機器であり、車購入以来データも全く更新していない。そのため、新しく開通した道路は、私のナビの経路案内の対象にならないのだ。


 最近は車載用だけでなく、携帯可能な個人用ナビゲーションも現れているが、今更最新の機器に入れ替えて走り回る考えもない。

 葬儀は、とどこおりなく終った。親族にお悔みを申し述べ、家内と二人帰路についた。

 往きは、沿線の主たる目標、案内標識などを頼りに、充分ゆとりをもって、霊園に到着できた。家内の素人ガイドも、地図を見ながら早め早めに道案内してくれたおかげで、カーナビに劣らず正確にルートをたどることができた。
 帰路は、ナビの「自宅に戻る」にセットして、それに従ってみることにした。往きに地図を見ながら来た道が、はたしてナビの案内と一致しているか、確認するのも面白い。

 霊園を出て、来た道を北に向かって走る。新しく開発された大きな住宅団地が、あちこちに広がっているが、道は昔からの古い街道なのだろう。特に問題なく車は進む。ナビのガイドも、こちらの進路を手直しするような指示は無く、
多摩川にかかる「多摩川原橋」を渡るまでは、順調に来た。

 橋を渡り切って、国道二十号線を横断する地点から「武蔵境通り」に入る。ここ数年で大々的に整備され、ごく最近全線開通した幹線道路である。神奈川、山梨方面にゴルフに行くときには、調布ICから中央高速道を利用するが、我が家からICまで、この道路建設の進捗状況を確認しながら通ったものである。

 早速女性の声で、ナビのガイドが始まった。

「およそ200メートル先、左方向です」
 半年ほど前に通った時には、建設中の道路のど真ん中に、まだ立ち退かない民家があった。そこが解決したんだな、と思いながら、ガイドを無視して開通したての道を直進した。

「新しいルートに変更します」
 途端に元の道に戻るよう、ガイドで何回も指示がくる。私の10年前のナビでは、直進道路ではなく、行き止まりで、左折迂回するようになっていたのだ。
 そのような道案内を何回か繰り返したが、無事帰宅できた。
 今日一日、家内と車で走り、カーナビは夫婦のコミュニケーションを図るのに、きわめて有効な手段だと気が付いた。

 最近我家の主導権は、家内に移行しつつある。亭主を立てながら、大切なポイントは自分が押さえている感じだ。家内と二人の日常生活も、カーナビに似ている。
 この歳になれば、時間だけは十分ある。渋滞を避け、安全確実に目的地にたどり着くためには、どうすればよいか。
新しく開通した道を通るか、通い慣れた従来の道を行くか、決めるのはカーナビの家内、それについていくのは運転の私、というパターンが定着しつつある。

               
      イラスト:Googleイラスト・フリーより

変化する蓼科の生活 石川 通敬

 30数年前、蓼科に小さい小屋を兄弟三人で建てた。

 それは相談の結果、まず、夫婦とその家族が利用できる程度の小規模なものし、利用状況を見て必要があれば増築をしようと考えたからだ。
 当初は、兄弟たちの子供も幼くちょうどよかった。


 しかしその後、友人を招くようになると、ゲストの部屋を用意する必要が出てきた。
 その時、われわれは増築ではなく、ゲスト用に同じ敷地内にある東急ハーベストクラブを利用することにした。
 そのお陰で、この家の利用価値も上がり、毎年親しい友人達を招くことのが、我が家の年中行事になった。


 その一例を紹介したい。それはアメリカの友人ライト君夫妻と、彼らの息子の友人ケイリ―君を招いたケースだ。彼らが我が家に着いたとき、
「どう。このコテッジは」
 と私が感想を聞くと、茶目っ気豊かな彼は、ニタッと笑い、
「オオ、ノー。イッツ キャビン(小屋)」
 と言ったのだ。

 小ささから我々の家は、コテッジの範疇かと思っていたが、まさか小屋とよばれるとは思っていなかった。カルチャーショックだった。
 冒頭に小さな小屋と書いたのは、こうしたやりとりがあった結果だ。


 その日の夕食は、しゃぶしゃぶにした。実は、この日のため赤坂の有名店で作り方を教えてもらい、肉は但馬牛を福知山から取り寄せて置いたのだ。
 食事を挟んで、ケイリー君の話を聞いて驚いた。なんと彼はアメリカ空軍の現役パイロットで、韓国に駐留しているとのこと。
 しかも、その日の朝、自分の戦闘機で基地を飛び立ち、横田基地経由、我が家の夕食に駆け付けたという身軽さだ。韓国―横田と横田―蓼科間の移動時間はほぼ同じだったらしい。

 翌日は諏訪大社と中仙道の旧宿場町にある博物館を案内した。そこは昔本陣の屋敷と立派な日本庭園だ。皆さんお喜びで見学してくれたのだ。


 その後、ある日うれしい知らせが来た。横田基地の見学会だ。毎年日本人を、招待する日があるそうだが、それに招かれたのだ。
 訪ねるとケイリー君が、大サービスをしてくれた。何より誇らしかったのは、彼の戦闘機を取り囲む見学者を押し分け、我々を直々に案内してくれたのだ。
 どんなスゴイ機体かと想像して近づくと、それは素人には薄っぺらなブリキ作りのように見える意外な外観だった。
 そんな戸惑いを覆され、大感激したのは、彼が、我々二人を、かわるがわる彼の狭い操縦席に座らせてくれたことだ。


 話をもどすと、着席スタイルのお持てなし以上に、フル活用したのが、ベランダでの飲み会とバーべキューだった。
 はじめは質素だったが、だんだんチャレンジ意欲が高揚した。まず当初小さかったベランダを拡張し、水回りも日曜大工で便利にした。その結果、最大20数人のホームパーティができるようになったのだ。


 規模の大きさでは、隔年ごとに三度実施したG女子大学生のゼミの合宿が最大だった。20数人の参加者に、妻がチキンライスとホットドックを用意し、一時間のランチタイムに合わせて提供したこともある。また、ある年には、ベランダにテントを張り、雨の中バーべキューをしたこともある。

 その他、小唄、テニスの合宿、元職場のOB会、ゴルフ会の場も提供した。

 このように、思い出を生き生きとよみがえらせてくれるが、アルバムだ。あるとき私は、パーティーに参加して下さった方々全員に、四季の風景が描かれている蓼科の絵ハガキに、一言コメントとサインすることをお願いした。
 これにその時々の写真を加えたものが今では3冊のアルバムになっているのだ。
 近年、こうした我々夫婦にとって、最大の楽しみの源泉だった蓼科の生活も、転機が偲びよってきたように感じる。
 第一は、加齢による体力の衰えだ。特にベランダでの、大きなパーティーには、室内以上に夫婦が力を合わせて、全力で準備、実行する必要がある。
 一方、無事やり終えたときの達成感は格別だ。パーティーが終わった後で、二人で、良かったこと、反省点を話し合うのを楽しみにしてきた。それをあるとき娘が、彼女の夫に次のように話していた、と聞き私は苦笑した。
「私の両親は変っているのよ。ホームパーティーの後で、大真面目に二人で反省会をするの。笑っちゃうでしょ」と。

 もう一つは、将来への懸念だ。私は気が付かなかったが、別荘に客を呼び、楽しむ我が家を見て、二人の弟は、次のように考えたようだ。
「俺たちは、別荘に家族と寝泊まりするだけで十分だ。客を呼ぶ気はない。それにも関わらず、家の基本的維持費を分担し、兄貴を支えるのは、割が悪い」
と。その結果、一人抜け、二人抜けし、今では我が家が単独で維持している。


 問題はこの先だ。我々が若かった時と違い、昨今の若者は車、ゴルフへ情熱を燃やさない。同じことが蓼科にも生じている。
 ほんの数年前までは、別荘への買い需要が強かったそうだが、近年は逆転売りが急増しているのだそうだ。
 その理由は単純だ。別荘に憧れたのは、今80歳前後の世代だが、50代のその子供の世代は関心がないのだそうだ。
 我が家の小屋も二人の子供達が、利用する気になるのか、気がもめるところだ。

   イラスト:Googleイラスト・フリーより

送られてきたレターパック 武智 康子

 4月下旬のある日、厳重に封じられたレターパックが届いた。ホンダ自動車の矢野研究員からだった。

 矢野氏とは、夫の学会で何度かお目にかかったことがある。しかし、夫が他界して3年経つのに何だろうと、思いながら封を切った。中からお手紙と共に、丁寧に梱包されたDVDが出てきた。

 手紙の要旨は「今月末で会社を定年退職するにあたり、机の中を整理していたらグラーツの国際会議でご一緒した時の記録が出てきました。グラーツでは、武智先生にいろいろ教えて頂いた上にアドバイスも頂き、そのことが自分のその後の研究課題となりました。そこで、当時の記録を編集しましたので、記念にお送りします」と、書いてあった。

 私は、夫と共にいろいろな都市を訪問したが、グラーツには特別の思い出もあった。

 2010年6月、夫と私は、グラーツ空港に降り立った。出迎えてくれた事務局の方の車で、街の中心部に向かった。
 グラーツは、オーストリア第二の都市であるが、石でできた城門をくぐると石畳の道が続き、街の中心部のホテルに着くと、そこはまるで中世にタイムスリップしたような感じだった。
 街は、中世の建築物に囲まれ、丘の上にはお城が、広場の真ん中には古い大きな時計台があった。ホテルの玄関も木彫りの大きな扉である。
 もちろん中の調度品も中世のものが多い。私は、時代錯誤しそうだった。それもそのはずだ。
 このグラーツの中心部は、歴史地区として1993年、世界遺産に指定されていたのだった。


 翌日、グラーツ工科大学での開会式の後、午後に夫は、未来の自動車の技術開発について講演をした。そして、夕方からのウエルカムパーテイー終了後、同じホテルに泊まっているホンダの研究員矢野氏たちと四人で、ホテルのロビーラウンジでビールやカクテルなどを飲みながら話している時だった。

 どこからか4、5人の日本語が聞こえてきた。
 学会に出席の方かと思って、私が首を伸ばして見回すと、左斜め横の二つ向こうのテーブルの席にいた、サッカーの本田圭佑選手と目が合った。
 私は驚いて「あ、本田選手だ」と小さな声を上げた。と同時に夫たちと先方の3人もお互いにその方向を見た。
 さらに驚いたのは、あとの3人は、長谷部誠、香川真司、吉田麻也選手だった。次の瞬間、本田選手が私達のテーブルに来て、「あなた方は、ここにお住いの方ですか」と言った。夫は「いや、私達は自動車関係の国際会議に参加のため、昨日日本から来た」と話して、ホンダの二人を紹介した。

 サッカーと関係ない日本人に会ったのが久しぶりだったのか、入れ替わり立ち代わり、夫々が話に来てくれた。
 彼らは、日本と世界各地から集まって、ワールドカップのための合宿をしているのだった。城郭の外に立派なスタジアムがあるとのことだった。

 最後に夫が長谷部選手に、中学生の孫がサッカーをしているので、こんな紙で失礼だが、サインを頂けないかと持ち合わせのレポート用紙をだした。皆、快く引き受けてくれた。そして、日本から応援する旨、皆と約束し握手をして別れた。

 私は、香川選手のファンだったので、握手の時にその旨を伝えた。彼は、ニコッと笑ってくれた。私は、彼がどんな時でも前線で反則をしないフェアなプレイが好きだったのだ。

 送られてきたDVDのカバーには、ホテルの玄関前で撮った写真を背景に、「IDDR二〇一〇グラーツ・武智先生ご夫妻」とタイトルが書かれていた。内容は、学会の様子や街の中の様子とともに、サッカースタジアムも入っていた。私は、とても懐かしかった。そして、最後に出てきたのは、夫の講演だった。30分程の講演だが、夫は、まだ70代後半で現役だったので、声にもハリがあり、私にとっては何よりのシーンだった。

 夫は、原稿は持たずに、パワーポイントの画像を見てレーザーポインターで指しながらスピーチをする。
 海外での講演は全て英語だが、声と姿が録音、録画されているものは、殆んど残っていない。現場ではいつも聴いていたが、今となっては、私にとって何よりの記念となった。
 私は、矢野氏に感謝のお礼状を送った。
 今でも時々、淋しくなると夫の生の声を聴いて、元気をもらっている。このDVDは私の大切な宝物になった。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

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