元気100教室 エッセイ・オピニオン

ふる里を捨てた人 = 鈴木 晃

 2年前の3月10日から、私の家の仏壇には、友人の遺影が置かれている。
 それは今から41年前のロイヤル・メルボルンゴルフクラブで知り合ったビル・イトウ氏への追悼でもある。
 私は戦時中に田舎に疎開していたので、東京の3月10日は体験しなかった。だが、イトウ氏が味わった東京大空襲の悲劇は、私への「戒め」として書き残したいと思っていた。


 知り合った当時のイトウ氏は、オーストラリアのカンタス航空で営業マンとして働いていた。初対面の時に、彼はビルと名乗り、日本人ばなれした英語を話すので、てっきりオーストリア生まれの二世だと思っていた。すると、日本生まれの、アメリカ育ちだった。
 二世ではなかった。


 彼からゴルフに誘われた時、私のボールが右に左に行くのを見ていたイトウ氏が発した一言が、私の癇(しゃく)に障った。
「スズキさん達、駐在員は『ノン気』にゴルフがやれていいですね」
 という皮肉めいた一言だった。
 こちらは下手なりに一生懸命クラブを振り回しているのに、ノン気だと言われてムカついた私は、
「何か言いました?」
 と彼に突かかったこ。それがイトウ氏の経歴を聞くキッカケだった。


 イトウ氏は71年前の昭和20年3月10日、14歳で旧制の都立七中(現隅田川高校)の2年生だった。

 住まいは下町の向島で、東京大空襲の日は、真夜中にたたき起こされた。防空頭巾を被せられて、両親と妹と隅田川に架かる言問橋に向かって逃げた。
 橋の下に避難してやっと焼夷弾から逃げられたと思ったら、橋の下まで炎が吹き込んできたので居たたまれず、すこし上流の桜橋の方に逃げようと土手に上がった。大勢の逃げ惑う人達の群れに巻き込まれ、気が付いた時には親子四人が散り散りになっていた。

 寒い夜明けだったが、火がおさまったので、早く家族を見つけなければ、と言問橋の方に土手を走っていると、父親は焼夷弾の直撃で即死したらしく、その傍らに母親と妹が重なるように焼死体になっているのを見つけた。
 この時の地獄絵図は目に焼き付いてしまい、一人ぽっちになったという孤独感で泣き喚いたことを覚えている。
 家も焼かれ、それからの2年間ぐらいは、上野の地下道をねぐらにして、来る日も来る日も残飯あさりの毎日だった。
 時には、「ガキはとっとと失せろ」と怒鳴られたり、「ドロボーネコはあっちに行け」と追い立てられたりと、世の中がいかに世知辛いかを嫌というほど思い知らされた。二度と思い出したくない悲惨な日々だったと当時の地獄のような有様を語ってくれた。
 私は墨田出身だったが、聴きながら、2歳年下で疎開していてよかったと思った。


 そんなある日、イトウ少年は食べものをタダでくれる教会が湯島にあるというチラシを拾い、その教会に通うようになった。
 アメリカ人牧師と知り合い、彼の紹介でデンバーの篤志家と養子縁組ができ、15歳でアメリカのデンバーに渡り、大学を卒業するまで養父母に優しく面倒を見てもらった。とこれまでの半生を話してくれた。

 恐らく彼が過ごした50年代のデンバーでは、食べる苦労はしなかったが、人種差別的な嫌がらせなどがあり、一人で生きて行く根性(ガッツ)がなければ、アメリカでは生きていけないと自覚したそうだ。
 そんな時に出会った駐在員の人達は、みんな親方日の丸のノン気な人達ばかりだったそうだ。だから発した彼の一言だった。

 彼は大学を卒業して就職する時に、このままアメリカで暮らそうと思った。だが、両親と妹を殺したアメリカはどうしても好きになれなかった。自分を育ててくれたアメリカ人はやさしく恩があると思い、あれこれ悩んだ末に、養父母に英語を活かせるオーストラリアへ移民(アメリカ籍を抜く)として行きたいと相談したところ、
「これからはあなたの人生だから」
 と快くオーストラリアへ送り出してくれた。
 そんなアメリカ人養父母には、いくら感謝してもしきれない思いがあると、長年、心に秘めていた思いを一気に話してくれた。私も聴きながら一緒に泣けてしまった。
 とても辛い話だったので、それ以上のことは聞けなかった。


 10代という思春期に、心に受けた深い傷は、生涯消えないものだと思い知らされたひと時でもあった。


 彼とは同じ下町育ちだったことと、2歳違いの同世代ということで気が合い、海外生活のイロハをいろいろと教えてもらえる心強い味方になってくれた。
 スカイツリーが完成した時に、ふる里の下町もこんなに変わったから、と声を掛けた。だが、イトウ氏は病に倒れており、残念ながら来日はできなかった。
 
 イトウ氏が亡くなったという知らせを聞いて、私はすぐに飛んで行った。だけど、共同墓地にある四角のプレートに合掌することしかできなかった。
 それが私の3月10日のお焼香になっている。

忘れられない = 吉田 年男

 入り混じった花のかおりで目がさめた。「レオ」の写真がたくさんの花でうずまっている。白を基調にした花は、書道教室に来ている子供たち、散歩仲間(イヌ友)、ご近所の方などから、いただいたものだ。写真のまえは花でいっぱいになっている。愛犬「レオ」は、16歳の誕生日を待たずに死んだ。

 12月初め急に体調を崩した。下痢をする毎日が続いた。見るみる間に痩せた。5キロあった体重は、片手で持ち上げられあるくらいに軽くなってしまった。

 正月三が日は、往診をたのんで点滴を受けた。いっこうによくならない。点滴をすればするほど状態が悪くなった。点滴をやめてみた。レオの表情が変わった。楽になった感じがした。点滴をやめる前は、水も飲めずにいたが、一人で水飲み場に行って、飲めるようになった。

 人間であれば気分の良し悪しは、顔色をみて状況を察し、話をして気持ちを確か会うことができる。しかし、このようなときでも言葉でのコミュニケーションはできない。それがもどかしい。

 それでも直観的に気持ちは通じるものだ。鼻の湿り具合、身体を触った感触、目の表情、毛の艶などで体調が判断ができた。点滴をしている時よりも点滴をやめてからのほうが、確かに体調がよくなっている。レオの「少し楽になった感じ」がなによりうれしかった。

 あと1か月でレオは誕生日を迎える。体調がこのまま順調に回復してくれることを、妻と一緒に願った。近所の公園をしっかりした足取りで歩いていた散歩中のことや、食事を美味しそうにしている時の情景が思い浮かんだ。

 正月明けの夜、事態は急変した。午前1時を少し回っていた。いままで聞いたことのない鳴き声を発した。悲鳴にも似た声であった。
 妻があわてて毛布にくるんで抱きかかえた。手足が小刻みに痙攣をしている。なにが起きたかまったくわからない。

 泣き止まない。泣いているというより、泣き叫んでいるという感じだ。レオを毛布ごと妻から受け取り、赤子をあやすように揺らしながらレオの背中をさすり続けた。寒かったので、急いでジャケット着込んだ。ジャケットの腕の周りがレオのよだれで濡れた。

 敵に襲われてしまうという警戒心から、野生の動物は弱みをみせないという。レオは、野生ではないかもしれない。それでも大声を出して泣き叫んだ状況は、ただ事ではなかった。
 くるしくて苦しくて耐えきれなかったのであろう。痛みが少し治まったのか、明け方になって眠った。それから小康状態が続いたが、誕生日を前に死んでしまった。耐えきれずに泣いた、あの時のレオの声が忘れられない。 

ルンバちゃんごくろうさま = 遠矢 慶子

 朝、コーヒーを飲みながら、朝刊を読む。至福の時間だ。
 テーブルの横を、黒い、まんまるい円盤が、静かに、動き回っている。新聞からちらちらと眼だけ、動き回る円盤の行方を追ってしまう。

 私は、今までにどれだけの回数、掃除をして来ただろうか。掃除は機械がするから、簡単なことぐらいにしか思わない男性が多い。毎日の掃除は大変だ。
 ずっと専業主婦で来たので、掃除、洗濯家事全般は、あたりまえの主婦の仕事と思ってきた。
子供たちが巣立ち、夫と二人暮らしになって20年近く経った。夫は、リタイアしてから、私より暇で、うろうろしている。ソファーに座ってテレビを観、掃除機が通ると、足を上げるだけ、時には、ぼんやりと掃除機の動くのをじっと見ていたりされると、情けなくなる。

 二人には広すぎる家は、週一回掃除をすれば済むようになった。それでも重い掃除機をぶらさげて、二階に上がるのは重労働だ。
 「掃除機を二階に持って上がるのは、心臓に負担がかかるから、週一回でも、ヘルパーさんに頼もうかしら」
 と、夫に提案した。
「いいよ、それなら僕がするから」
 簡単に引き受けてくれた。二階は私の受け持ち、下は夫の受け持ちとして掃除機も二台にした。
 夫の掃除は、やたら丁寧で時間をかけ、ソファーを動かし、椅子をどけて、念入りだ。分業で曜日を決めたお蔭で、少し楽になった。

 昨年、終の棲家マンションに越すと、二人の掃除人も、二台の掃除機も必要はない。むしろ掃除機のしまい場所を確保するのが大変だ。

 暮れに、たまたま大型スーパーに行ったとき、自動掃除機のデモンストレーションに出会った。説明していた男性が、興味あり気に近寄った私に、ここぞとばかり、ていねいに説明してくれた。
「これが日経新聞の調査で、一番の人気です。あと二台しか在庫がないです」
 と、残る在庫の箱を指して言う。宣伝員の言葉につられて、買ってしまった。

「元旦の午前中にお届けします」「えー、元旦に?」
 今や、暮れも正月もない商魂たくましい時代には驚いた。
 年が変わると早々に、自動掃除機ルンバが届いた。
 松が取れてから、箱を開け、初運転となった。


 充電器のステーションを決め、まず充電する。リモコンで(自動)を押すと動きだした。35センチの黒い円盤が、左右に六個と、裏に付いたブラシを酷使して、ランダムに部屋を動き回る。壁や家具にぶつかると、方向転換する。
 夫と私は、バカみたいにルンバの後をついて廻っていた。
 我が家は、私の趣味で、置き敷きのキリムがあちこちに敷いてある。そのフリンジがブラシに巻き込まれて、「ピーピー」と助けを求め何か言っている。
 止めて裏のブラシに巻き込んだフリンジを、外してあげた。

 とにかく働きもので、ベッドの下に入ると、隅々まで丹念に動き回り、なかなか出てこない。心配してベッドの下を覗き込むと、ほこりまみれになって出て来た。
 動き回るルンバちゃんの後を、よちよち歩きの赤ちゃんを見守るように二人は、ずっと付いて歩いていた。

 1時間で掃除が終わり、充電器のステーションに戻って来た。
 ここで又すごい!
 2メートル位の所に来ると、くるりと後ろ向きになり、バックオーライで、ステーションに入って来る。何と2回仕切り直しをしてピタリとステーションに入って収まった。
「掃除が終わりました」と、声が知らせた。
 私は車庫入れが苦手で、年中曲がって駐車したりするのに、ルンバちゃんは完璧な駐車をするのに舌を巻いた。

 今までは週1回の掃除が、ルンバの動くのが可愛く、面白く、1日おきに掃除をしてもらっている。 
ずっと前に、近所に住んでいたアメリカ人に英語を習っていたことがある。
 そのミセスが、(私は掃除や家事は嫌いで、下手だからしたことがない。嫌なことを無理してやって時間を無駄にするより、プロに任せ、私は働いてプロをやとっている)と言っていた。彼女はハーバード大学出身の大学教授だった。

 ボタン一つで、機械が掃除をしてくれる時代だ。元気に百歳を目指すなら、老体にムチ打たなくても、そろそろ楽をさせてもらっても良いだろう。
 ルンバちゃん、今日もご苦労様、本当に助かるわ。
 

冴えてきた妻 = 青山貴文

 師走の朝陽が、食堂兼居間の奥に差し込んでいる。朝食後はソファに座り、お茶を飲みながらTVの天気予報を見る。風もなく暖かな一日になりそうだ。
「今日は、ガラス拭きをするぞ」
 私はあえて大声で宣言する。
「わたしは、今日は出かけるからだめよ」
 妻は、食卓を片付けながら即答する。タイミングが悪かった。

 この十数年間、わたしたち夫婦の年末の慣例行事になったガラス拭きだ。妻と私でアルミサッシのガラス引き戸を挟んで、家の内と外から、ぬれ雑巾と乾いた布で磨く。
「しかたがないな。自分ひとりでやるか」
 と言いながら、NHKのTV『あさが来た』を見ていると、
「はい、ここに置いとくわよ」
 と、妻は洗剤と古いタオル数枚を私の前におく。
「人の使い方が巧いな。女社長になって、小さな会社を興せば成功するよ」
 と、半分は本気で言うと、
「善は急げよ」
 と言いながら、自分はさっさと外出の準備をして出かけて行く。
 私が、現役の頃良くやった言動だ。どうも攻守交代したようである。


 バケツにお湯を7分目ほど入れ、洗剤を加えて溶かす。ゴム手袋をして、洗剤液に浸したタオルを軽く絞り、片面のガラスを拭く。
 次には乾いたタオルで磨く。反対の面も同じ要領で磨く。一階の家周りを、小さな脚立を動かしながら、上履きになったり、下足に履きかえたりする。

 どうも記憶力が弱くなったので確心できないが、昨年も一人でやったような気がする。2人だったら、こんな無駄な動きは不要だ。

 私は毎日1~2時間くらいの散策以外に運動らしい運動はしない。よって、窓拭きのような手足や背筋・腰などを動かす全身運動は滅多にしない。この際は、普段使わない筋肉を鍛えてやれとばかりに、12個の引き戸のガラスの両面を精力的に磨く。

 次に2階の窓ガラスだ。窓ワクに腰かけて上半身を外に出し、重心はあくまで室内側に置いて、10個のガラス戸をなんとか磨きおわる。
 夕方帰宅した妻に、胸を張って、
「綺麗になっただろう」
 と自慢げに言うと、妻は居間のアルミサッシに近づいて、
「網戸はやらなかったの?」
「いや、やってないよ。今年はやらないことにしたよ」
「何か、中途半端ね」
(小癪なことをいうやつだ)
 と思いながら、翌日は網戸を外している自分がいる。

 最近、妻は人を動かすのが巧妙になってきた。というより、私が使われやすい好々爺になりさがったのか。
 ネジまわしで、網戸の上部にある金具を緩めて、敷居から1枚ずつ外し、芝生の上に運んで庭の木々に立てかける。洗剤をいれた湯に浸したモップで網の部分をこすり、水道水のホースで洗剤を洗い流す。そして、自然乾燥させる。

 2階の網戸は、狭い階段を手で持って降りなければならず一苦労だ。
 南西隅の書斎の網戸をベランダに出てはずしていると、近所のおばさん達5~6人が話しながら通りかかった。昼の忘年会の帰りらしい。
「この家は、いつも大掃除がはやいのよ。あら、ご主人がんばってるわね」
 と言って手を振っている。その中には、私のエッセイを読んでくれている人達もいる。私も呼応して手を振る。

 乾いた網戸を2階に持ち上げるのが億劫だなと思っていると、妻が帰宅してきた。彼女が芝生からベランダ越しに網戸を手渡してくれる。はなはだ効率が良い。夫婦のありがたさを一瞬感じる。こんなことで幸せを感じるのは老いた証拠なのか。


 翌日の午後3時頃、読書に飽いて家の外周りの不要物を処分した。人間、一カ所が綺麗になると、汚れているところが気になるものだ。
 南に面した3部屋の出入り口の軒下には、数十年前にわたしが作った高さ30×巾180×奥行き60センチくらいの木製の敷台がある。
 それらの下や傍には、割れた植木鉢、使用途中の肥料や腐葉土の袋などが乱雑に置いてある。また、枯れ枝や枯れ葉など1年間のごみがたまっている。軍手をはめて、それらを片付ける。


 この3日間、わたしは屋内外を一人で大掃除したことになる。自分もまだまだすてたものではない。
「自治会館の大掃除に行ったら、皆があなたは良く働くって言ってたわよ」
 人使いが冴えてきた妻は、数日後にして、あとのフォローも忘れない。
                            
                          

別行動 = 筒井 隆一

 家内の亡父一族の法事を、京都府綾部(あやべ)の生家でとり行うので、ご夫妻でご参加いただきたい、と本家から連絡が入った。
 11月末、紅葉の時期だ。家内はそれに合わせて、一年ぶりに晩秋の奈良、京都を回りたい、と持ちかけてきた。かなり張り切っている。

 あいにく、その時期は、通っている絵画教室の展覧会と重なってしまい、私は動きが取れない。
「残念ながら今回俺は行けないな。年に一度の展覧会だし、受付当番の割り当てもある」
「何とか都合つけられないかしら。この秋は予定したウィーン行きも、難民問題で急きょ取りやめたし、せめて国内旅行を二人で楽しみたかったのに……」

 家内は、私と一緒に出掛けられないのが残念だ、と言いながらも、京都行きの支度を、いそいそと整えている。

 ウィーンを中心としたヨーロッパの旅を、二人でずいぶん楽しんできた。十年ほど前のピーク時には、毎年春秋の年二回出掛け、オペラ、コンサート、美術館巡りなど、思う存分楽しんでいた。
 会話力は二人合わせて半人前くらいだが、私の方向感覚の冴えと、家内の恥ずかしげもない身振り、手ぶりで何とか異国の旅を乗り切り、大きなトラブルもなく過ごしてきた。

 美術館だけは、お互いに観たい絵が違うので、出口での集合時間を入館時に決めておき、好きなだけ別々に楽しむ。絵画鑑賞以外は安全上の問題も考え、全て一緒に動き回るようにしていた。

 私たち夫婦は、ベタベタの仲良しというわけではないが、信頼関係はあるつもりだ。日常生活では大体二人一緒に行動している。家内は、出かけるのが嫌いではないが、外での飲食は好まない。毎日家で手料理を作り、二人でそれを食べている。たまには外で飯でも食おう、と誘っても乗ってこない。考え方によっては、大変ありがたく幸せな日々なのだろう。
 しかし、感謝しつつも、男とすればそれが物足りない。


 家内が何日か出掛け、私一人になる時には、近所の居酒屋で好きなつまみを肴に酒を飲み、思う存分羽を伸ばすのが、今までのパターンだった。
 今回も家内が法事に参加すれば、一人で飲みに行く時間ができる。しばらくご無沙汰した銀座のバーや、小料理屋にも、足を延ばして行ってみたい。家内の京都行きは、久しぶりにめぐってきた、別行動のチャンスだ。

 さて、ワクワクして待っていた、家内不在の三日間になった。ところが、思ってもみなかった気分なのだ。今までは、一緒にいて脇でペチャクチャ喋りかけられるのが煩わしかったが、その相手がいないと、何かもの足りない。寂しいのである。

 今までこんな気分になったことはない。一人で飲み歩くチャンスを待っていた自分は、どこに行ったのだろう。もう歳なのだから、別行動は必要最小限にして、一緒に仲良く過ごせ、というお知らせなのだろうか。


 最近、気力、体力の衰えを、若干感じるようになってきた。それが弱気につながっていたのかもしれない。これをきっかけに、一人で動き回るのが面倒くさく、億劫になり、遊び心、好奇心がズルズル失せてしまうのが恐ろしい。

 さてどうしたものか。

 夫婦で信頼関係を持ちながら別行動を続けるのは、お互い刺激しあって、何時までも若さを保つ秘訣だと信じている。
 常に相手の存在を意識しながら、別行動を大切にしていきたい。

週刊誌に2回ありがとう = 月川りき江

 20代の後半、新聞の下の欄に週刊誌の広告があり、その中に[食べ物による男女の産み分け法]というのが目に入った。

 我が家は第一子が女の子なので、夫が男の子を欲しがっている。私は週刊誌をすぐに買いに行った。それは月の内15日間くらいの食事の選び方だった。男の子希望の場合は夫が肉、魚を食べ、私は野菜、果物を食べる。これなら夫に内緒でも出来ると思った。
 逆に女の子希望の場合は夫に野菜、果物で私が肉類、これは内緒では出来ないし、話しても夫は信じないと思う。私は男児希望だから、信じて食事制限をした。

 夫は私が野菜だけ食べているのを気づいてもいない。
 4か月した頃妊娠の兆候があった。第一子とは違って食べ物の嗜好も全く違う。私は自信をもってお布団もベビー服もすべてブルーを準備した。

 そして月満ちて男児誕生。
「やったー 週刊誌有難う」
 私の蔭の苦労を知らない夫の喜びようは言うまでもない。


 次は、私53歳、夫の転勤で東京に来たばかりの頃だった。また、新聞の週刊誌の広告に、
「十年先は公的年金だけでは足りない、個人年金保険に入るべきだ」
 という記事が目についた。

 夫は血圧が高いので毎月払う保険料が高額だ。娘は結婚し、息子も社会人になった今、この生命保険を解約して私の個人年金保険に変えようと思った。

 すぐに私は大手のM生命保険会社に電話をして渋谷支店に行った。もちろん週刊誌を持って。担当は60歳過ぎの女性だった。
「奥さんは専業主婦で未収入だから入れない。ご主人が契約者になり、もし亡くなった場合は、契約者を変更すればいいですよ」
 と言って条件のいい保険を詳しく図に書いて説明してくれた。

 53歳からある期間払い、65歳から死ぬまで毎年◎万円出ますと言う。夫に相談するわけではないが、一応持ち帰って、3日後に担当の女性が我が家に来ることになった。
 75歳になって支出と収入がトントンになるから、これからが積み立て以上の金額の受け取りとなる。

 ところが私が74歳の時、長崎で夫が亡くなった。
 いろいろと死亡に関する手続きをしている時、M保険会社の長崎支店から電話があり、
「契約者であるご主人様が亡くなったので、この保険は終了し、返戻金として、38万円銀行口座に振り込みます」
 という。
「とんでもない、契約の時に主人が亡くなった時には、名義変更をすればいい、と言われたし、生命保険ならいざしらず、これは積立個人年金ですよ、わずかの返戻金で終わるものではない」
 と強く言った。
「常識でお考えください、保険は契約者が死亡したら終わるのですよ」
 と、女性社員が上から目線で、夫に死なれた哀れな寡婦が、お金欲しさに吠えている、と思っているようだ。上司に代わってもらったが同じ事をいう。

 これで引き下がる訳にはいかない、私はクレーマーではない。自信があったので、東京の渋谷支店に詳しい手紙を書いた。
 契約当時の担当者が書いてくれた書類など、すべてコピーして同封した。私も必死だった。嬉しい事に東京には、この保険を解る人がいた。すぐに長崎支店に話が来たらしい。上から目線の長崎支社長が我が家にお詫びに来た。

「申し訳ございません、私どもはこのような保険があったことさえ知りませんでした」
 と畳に頭をすりつけて謝った。
「私を非常識といって笑った、あの女性社員に会わせてください」
「どうぞ許して下さい、合わす顔がないと言っています」
 これで話は終わり、すぐに契約者の名義変更も済み、◎万円の受け取りは続いている。 いつまで生きるのか。
 週刊誌ありがとう。

MRJに想う = 遠矢 慶子

 国産初のジェット旅客機MRJ(ミツビシ・リージョナル・ジェット)が初飛行に成功した。半世紀ぶりの国産ジェット旅客機の開発だ。
 MRJの初飛行をテレビが映し出し、美しくスマートな機体が降り立った時、私は感慨ひとしおだった。

 学校を卒業後、初めて働いたのが航空会社だった。
 その頃、日本の空はダグラス機全盛でDC3,DC7、DC8と大型化して行った。私のいた全日空は、31人乗りのDC3が主流だった。
 海外路線は、日本国有の日本航空の独占で、日本航空のDC8の姿が眩しく、羨ましかった。日本航空の客室乗務員は、身長162センチ以上が必要とされ、残念ながら私は寸足らずだった。

 その頃のパイロットたちは、ほとんどが戦前の戦闘機経験者、いわば特攻隊のパイロットだ。それだけにエマージェンシーの経験は豊富で、瞬時の判断に長けた一流のパイロット達だった。

 全日空は31人乗りのDC3に機長と副操縦士、客室乗務員の3人で、北は北海道から南は鹿児島まで、ローカルを飛んでいた。
 ある時、ベルリンフィルハーモニー交響楽団が来日し、チャーター便2機で仙台空港へ送るフライトが私に回って来た。
 世界でも超有名なベルリンフィル、芸術家は神経質だからと、少々緊張して、
「ウエルカム」と彼らを機内に迎え入れた。
 私の先入観とは裏腹に、陽気で、楽しく、ちょっかいも出してくる人間味のある音楽家たちだった。


 仙台空港で彼らを降ろし、すぐ羽田にとんぼ返りをした。
 復路は、乗客もなく、水平飛行になると、私もコックピットに入って、パイロットの操縦を後ろから見学していた。
「操縦してみないか?」
 機長の突然の言葉に驚いて、
「えー、ほんとにいいんですか?」
 と、いうと同時に、副操縦士が立ち上がり、私に眼で座りなさいと合図をした。

 操縦席に座ると、頭上に、横に、前に、計器やスイッチがやたらと並んでいる。操縦桿を両手で握った。
 丸い人口水平儀が、計器群の真ん中にあり、それで水平を保つように必死で、入れなくても良い力が全身に入る。
 機内と違って、コックピットは、眼の前が180度開けている。

 その闇の中にポツンポツンと灯りが見え、灯の塊が光の島のように広がって延びている。眼を上にすると空は満天の星、星。
 私は、地球と宇宙の間に存在している不思議な世界を実感した。


 「もうやめときます」
 10分か15分の操縦体験は、楽しかったがちょっと恐ろしかった。
 羽田に着くと、後ろに付いて来たもう一機も降りてきた。
 「私、操縦桿持たせてもらった」というと、
 「道理で。後ろについていると、前の機体が左右にユーラユーラ揺れているので、どうしたのかと思ったよ」
 どうやら後の機長には、私がちょっと操縦していたのがばれていたようだ。


 乗客が乗っていないからと言って、無免許で、たとえ10分でも操縦したら、今の時代は大問題になる。機長は始末書を取られる重大事だ。

 まだ空の旅も、ごく一部の人の時代だから出来たのを懐かしく思い出した。

 三年半の乗務で、航空性中耳炎になり、仕事を辞めた。
 DC3の勇姿の写真に、「滞空時間2000時間」と書かれた盾を退社の時、会社から頂いた。そこには、勿論、操縦時間15分は記載されていない。


 日本の技術の高さを内外に示したMRJ、17年には全日空で25機の道入を決めている。私の夢は、あのスマートなMRJの一番機に乗ることだ。
 そして日本のMRJが世界で飛躍することに期待したい。

雨の日、つれづれなるままに: 桑田 冨三子

 毎日、雨が降り続いている。
 今年の梅雨は、いつもと違う。驟雨のような土砂降りが来て、パタッと止む。まるで夏の雨だ。私は、雨が嫌いではない。むかし元気だった頃は、濡れて歩くのが好きだった。髪が顔にへばりついて、毛先から水がしたたるのも面白かった。

 昭和30年頃まで、雨の日は、みな、番傘をさしていたと思う。
 降りしきる夕立のなかを、番傘を持って出かける。傘を開くと、ピンと張った油紙に、雨粒が激しくあたり、心地よい音を立てたものだ。蓑笠(みのかさ)もよい。

 私が、まだ東京にくるまえのことである。百姓家にあずけられていたから、梅雨時など、大人と一緒に、蓑笠をつけて田んぼに入った。

 蓑の内側は網で、萱(かや)が実に上手く編みこまれている。雨が、菅草をつたって、まっすぐ下へ落ちるように出来ている。だから身体は全然ぬれない。萱がたっぷりと重ねてあるから、風も通らない。蓑をきこんでいると、なんとなく温かく、雨の中でも安堵感がある。
 菅笠(すげがさ)は今でも、お遍路さんが使っているが、蓑(みの)の方はもう、ほとんど見かけることはない。

 葛飾北斎の「原」は、雨の富士山である。通行人はみな、菅笠に合羽だ。いそがしい旅人は、もう蓑などは、使わなかったのだろう。しとしとと降る雨には、紺色の「蛇の目」が良く似合う。夜目、遠目、傘のうち、女の人はみな美しい。
 粋な紫紺の、御高祖(おこそ)頭巾などを思い浮かべる。柳腰の、なよなよとした美人を描く竹久夢二の世界だ。
 しかし、それは想像だけだ。そんなものは私の育った田舎には関係なかった。

 ところで、今時の傘は、女のおしゃれ心をくすぐる有効な道具のひとつだ。オレンジと濃紺の布を2枚重ねあわせた傘は、開くとリバーシブルになる。彫刻のある金色の柄が付いている。
「かっこいい」と思う。黒いレース仕立ての、マダム向きパラソルがある。フリルがヒラヒラとなびく、いわゆる「かわいい」ピンクの傘もある。
 しかし、「UVカット」を声高にいうのは趣に欠ける。
 雨の日の方が好い。
 風情があるのは、番傘や蓑笠、御高祖頭巾の[蛇の目]である。

『エッセイ教室20回記念誌』が発行

 06年6月からスタートした、『元気に百歳』クラブのエッセイ教室が、いまや20回を超えた。受講生は熱心で、頑張っているなと、ある種の感慨を持った。同メンバーは合計19人である。病気、所用などで欠席者が出ることから、作品提出・参加者は13~15人くらいだ。開催場所は、新橋区民センターである。

 森田さん、中村さん、二上さんの世話役の下で、同教室の運用がなされている。講師の私は添削と講評に徹することができるので、ありがたい。
 

 このたび、『エッセイ教室20回記念誌』が発行された。掲載された数は122作品だ。前回の「10号記念誌」(07年5月発行)は94作品であり、28点も増えている。
 作品が提出されても、やむを得ない事情でエッセイ教室を欠席すると、相互に評論する機会をなくす。それらの未掲載作品が4点あった 
 『エッセイ教室20回記念誌』の発行で、最もおどろいたのスピードの速さだ。発案から、1ヵ月以内で、それを作り上げたのだ。

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