ふる里を捨てた人 = 鈴木 晃
2年前の3月10日から、私の家の仏壇には、友人の遺影が置かれている。
それは今から41年前のロイヤル・メルボルンゴルフクラブで知り合ったビル・イトウ氏への追悼でもある。
私は戦時中に田舎に疎開していたので、東京の3月10日は体験しなかった。だが、イトウ氏が味わった東京大空襲の悲劇は、私への「戒め」として書き残したいと思っていた。
知り合った当時のイトウ氏は、オーストラリアのカンタス航空で営業マンとして働いていた。初対面の時に、彼はビルと名乗り、日本人ばなれした英語を話すので、てっきりオーストリア生まれの二世だと思っていた。すると、日本生まれの、アメリカ育ちだった。
二世ではなかった。
彼からゴルフに誘われた時、私のボールが右に左に行くのを見ていたイトウ氏が発した一言が、私の癇(しゃく)に障った。
「スズキさん達、駐在員は『ノン気』にゴルフがやれていいですね」
という皮肉めいた一言だった。
こちらは下手なりに一生懸命クラブを振り回しているのに、ノン気だと言われてムカついた私は、
「何か言いました?」
と彼に突かかったこ。それがイトウ氏の経歴を聞くキッカケだった。
イトウ氏は71年前の昭和20年3月10日、14歳で旧制の都立七中(現隅田川高校)の2年生だった。
住まいは下町の向島で、東京大空襲の日は、真夜中にたたき起こされた。防空頭巾を被せられて、両親と妹と隅田川に架かる言問橋に向かって逃げた。
橋の下に避難してやっと焼夷弾から逃げられたと思ったら、橋の下まで炎が吹き込んできたので居たたまれず、すこし上流の桜橋の方に逃げようと土手に上がった。大勢の逃げ惑う人達の群れに巻き込まれ、気が付いた時には親子四人が散り散りになっていた。
寒い夜明けだったが、火がおさまったので、早く家族を見つけなければ、と言問橋の方に土手を走っていると、父親は焼夷弾の直撃で即死したらしく、その傍らに母親と妹が重なるように焼死体になっているのを見つけた。
この時の地獄絵図は目に焼き付いてしまい、一人ぽっちになったという孤独感で泣き喚いたことを覚えている。
家も焼かれ、それからの2年間ぐらいは、上野の地下道をねぐらにして、来る日も来る日も残飯あさりの毎日だった。
時には、「ガキはとっとと失せろ」と怒鳴られたり、「ドロボーネコはあっちに行け」と追い立てられたりと、世の中がいかに世知辛いかを嫌というほど思い知らされた。二度と思い出したくない悲惨な日々だったと当時の地獄のような有様を語ってくれた。
私は墨田出身だったが、聴きながら、2歳年下で疎開していてよかったと思った。
そんなある日、イトウ少年は食べものをタダでくれる教会が湯島にあるというチラシを拾い、その教会に通うようになった。
アメリカ人牧師と知り合い、彼の紹介でデンバーの篤志家と養子縁組ができ、15歳でアメリカのデンバーに渡り、大学を卒業するまで養父母に優しく面倒を見てもらった。とこれまでの半生を話してくれた。
恐らく彼が過ごした50年代のデンバーでは、食べる苦労はしなかったが、人種差別的な嫌がらせなどがあり、一人で生きて行く根性(ガッツ)がなければ、アメリカでは生きていけないと自覚したそうだ。
そんな時に出会った駐在員の人達は、みんな親方日の丸のノン気な人達ばかりだったそうだ。だから発した彼の一言だった。
彼は大学を卒業して就職する時に、このままアメリカで暮らそうと思った。だが、両親と妹を殺したアメリカはどうしても好きになれなかった。自分を育ててくれたアメリカ人はやさしく恩があると思い、あれこれ悩んだ末に、養父母に英語を活かせるオーストラリアへ移民(アメリカ籍を抜く)として行きたいと相談したところ、
「これからはあなたの人生だから」
と快くオーストラリアへ送り出してくれた。
そんなアメリカ人養父母には、いくら感謝してもしきれない思いがあると、長年、心に秘めていた思いを一気に話してくれた。私も聴きながら一緒に泣けてしまった。
とても辛い話だったので、それ以上のことは聞けなかった。
10代という思春期に、心に受けた深い傷は、生涯消えないものだと思い知らされたひと時でもあった。
彼とは同じ下町育ちだったことと、2歳違いの同世代ということで気が合い、海外生活のイロハをいろいろと教えてもらえる心強い味方になってくれた。
スカイツリーが完成した時に、ふる里の下町もこんなに変わったから、と声を掛けた。だが、イトウ氏は病に倒れており、残念ながら来日はできなかった。
イトウ氏が亡くなったという知らせを聞いて、私はすぐに飛んで行った。だけど、共同墓地にある四角のプレートに合掌することしかできなかった。
それが私の3月10日のお焼香になっている。