元気100教室 エッセイ・オピニオン

別行動 = 筒井 隆一

 家内の亡父一族の法事を、京都府綾部(あやべ)の生家でとり行うので、ご夫妻でご参加いただきたい、と本家から連絡が入った。
 11月末、紅葉の時期だ。家内はそれに合わせて、一年ぶりに晩秋の奈良、京都を回りたい、と持ちかけてきた。かなり張り切っている。

 あいにく、その時期は、通っている絵画教室の展覧会と重なってしまい、私は動きが取れない。
「残念ながら今回俺は行けないな。年に一度の展覧会だし、受付当番の割り当てもある」
「何とか都合つけられないかしら。この秋は予定したウィーン行きも、難民問題で急きょ取りやめたし、せめて国内旅行を二人で楽しみたかったのに……」

 家内は、私と一緒に出掛けられないのが残念だ、と言いながらも、京都行きの支度を、いそいそと整えている。

 ウィーンを中心としたヨーロッパの旅を、二人でずいぶん楽しんできた。十年ほど前のピーク時には、毎年春秋の年二回出掛け、オペラ、コンサート、美術館巡りなど、思う存分楽しんでいた。
 会話力は二人合わせて半人前くらいだが、私の方向感覚の冴えと、家内の恥ずかしげもない身振り、手ぶりで何とか異国の旅を乗り切り、大きなトラブルもなく過ごしてきた。

 美術館だけは、お互いに観たい絵が違うので、出口での集合時間を入館時に決めておき、好きなだけ別々に楽しむ。絵画鑑賞以外は安全上の問題も考え、全て一緒に動き回るようにしていた。

 私たち夫婦は、ベタベタの仲良しというわけではないが、信頼関係はあるつもりだ。日常生活では大体二人一緒に行動している。家内は、出かけるのが嫌いではないが、外での飲食は好まない。毎日家で手料理を作り、二人でそれを食べている。たまには外で飯でも食おう、と誘っても乗ってこない。考え方によっては、大変ありがたく幸せな日々なのだろう。
 しかし、感謝しつつも、男とすればそれが物足りない。


 家内が何日か出掛け、私一人になる時には、近所の居酒屋で好きなつまみを肴に酒を飲み、思う存分羽を伸ばすのが、今までのパターンだった。
 今回も家内が法事に参加すれば、一人で飲みに行く時間ができる。しばらくご無沙汰した銀座のバーや、小料理屋にも、足を延ばして行ってみたい。家内の京都行きは、久しぶりにめぐってきた、別行動のチャンスだ。

 さて、ワクワクして待っていた、家内不在の三日間になった。ところが、思ってもみなかった気分なのだ。今までは、一緒にいて脇でペチャクチャ喋りかけられるのが煩わしかったが、その相手がいないと、何かもの足りない。寂しいのである。

 今までこんな気分になったことはない。一人で飲み歩くチャンスを待っていた自分は、どこに行ったのだろう。もう歳なのだから、別行動は必要最小限にして、一緒に仲良く過ごせ、というお知らせなのだろうか。


 最近、気力、体力の衰えを、若干感じるようになってきた。それが弱気につながっていたのかもしれない。これをきっかけに、一人で動き回るのが面倒くさく、億劫になり、遊び心、好奇心がズルズル失せてしまうのが恐ろしい。

 さてどうしたものか。

 夫婦で信頼関係を持ちながら別行動を続けるのは、お互い刺激しあって、何時までも若さを保つ秘訣だと信じている。
 常に相手の存在を意識しながら、別行動を大切にしていきたい。

週刊誌に2回ありがとう = 月川りき江

 20代の後半、新聞の下の欄に週刊誌の広告があり、その中に[食べ物による男女の産み分け法]というのが目に入った。

 我が家は第一子が女の子なので、夫が男の子を欲しがっている。私は週刊誌をすぐに買いに行った。それは月の内15日間くらいの食事の選び方だった。男の子希望の場合は夫が肉、魚を食べ、私は野菜、果物を食べる。これなら夫に内緒でも出来ると思った。
 逆に女の子希望の場合は夫に野菜、果物で私が肉類、これは内緒では出来ないし、話しても夫は信じないと思う。私は男児希望だから、信じて食事制限をした。

 夫は私が野菜だけ食べているのを気づいてもいない。
 4か月した頃妊娠の兆候があった。第一子とは違って食べ物の嗜好も全く違う。私は自信をもってお布団もベビー服もすべてブルーを準備した。

 そして月満ちて男児誕生。
「やったー 週刊誌有難う」
 私の蔭の苦労を知らない夫の喜びようは言うまでもない。


 次は、私53歳、夫の転勤で東京に来たばかりの頃だった。また、新聞の週刊誌の広告に、
「十年先は公的年金だけでは足りない、個人年金保険に入るべきだ」
 という記事が目についた。

 夫は血圧が高いので毎月払う保険料が高額だ。娘は結婚し、息子も社会人になった今、この生命保険を解約して私の個人年金保険に変えようと思った。

 すぐに私は大手のM生命保険会社に電話をして渋谷支店に行った。もちろん週刊誌を持って。担当は60歳過ぎの女性だった。
「奥さんは専業主婦で未収入だから入れない。ご主人が契約者になり、もし亡くなった場合は、契約者を変更すればいいですよ」
 と言って条件のいい保険を詳しく図に書いて説明してくれた。

 53歳からある期間払い、65歳から死ぬまで毎年◎万円出ますと言う。夫に相談するわけではないが、一応持ち帰って、3日後に担当の女性が我が家に来ることになった。
 75歳になって支出と収入がトントンになるから、これからが積み立て以上の金額の受け取りとなる。

 ところが私が74歳の時、長崎で夫が亡くなった。
 いろいろと死亡に関する手続きをしている時、M保険会社の長崎支店から電話があり、
「契約者であるご主人様が亡くなったので、この保険は終了し、返戻金として、38万円銀行口座に振り込みます」
 という。
「とんでもない、契約の時に主人が亡くなった時には、名義変更をすればいい、と言われたし、生命保険ならいざしらず、これは積立個人年金ですよ、わずかの返戻金で終わるものではない」
 と強く言った。
「常識でお考えください、保険は契約者が死亡したら終わるのですよ」
 と、女性社員が上から目線で、夫に死なれた哀れな寡婦が、お金欲しさに吠えている、と思っているようだ。上司に代わってもらったが同じ事をいう。

 これで引き下がる訳にはいかない、私はクレーマーではない。自信があったので、東京の渋谷支店に詳しい手紙を書いた。
 契約当時の担当者が書いてくれた書類など、すべてコピーして同封した。私も必死だった。嬉しい事に東京には、この保険を解る人がいた。すぐに長崎支店に話が来たらしい。上から目線の長崎支社長が我が家にお詫びに来た。

「申し訳ございません、私どもはこのような保険があったことさえ知りませんでした」
 と畳に頭をすりつけて謝った。
「私を非常識といって笑った、あの女性社員に会わせてください」
「どうぞ許して下さい、合わす顔がないと言っています」
 これで話は終わり、すぐに契約者の名義変更も済み、◎万円の受け取りは続いている。 いつまで生きるのか。
 週刊誌ありがとう。

MRJに想う = 遠矢 慶子

 国産初のジェット旅客機MRJ(ミツビシ・リージョナル・ジェット)が初飛行に成功した。半世紀ぶりの国産ジェット旅客機の開発だ。
 MRJの初飛行をテレビが映し出し、美しくスマートな機体が降り立った時、私は感慨ひとしおだった。

 学校を卒業後、初めて働いたのが航空会社だった。
 その頃、日本の空はダグラス機全盛でDC3,DC7、DC8と大型化して行った。私のいた全日空は、31人乗りのDC3が主流だった。
 海外路線は、日本国有の日本航空の独占で、日本航空のDC8の姿が眩しく、羨ましかった。日本航空の客室乗務員は、身長162センチ以上が必要とされ、残念ながら私は寸足らずだった。

 その頃のパイロットたちは、ほとんどが戦前の戦闘機経験者、いわば特攻隊のパイロットだ。それだけにエマージェンシーの経験は豊富で、瞬時の判断に長けた一流のパイロット達だった。

 全日空は31人乗りのDC3に機長と副操縦士、客室乗務員の3人で、北は北海道から南は鹿児島まで、ローカルを飛んでいた。
 ある時、ベルリンフィルハーモニー交響楽団が来日し、チャーター便2機で仙台空港へ送るフライトが私に回って来た。
 世界でも超有名なベルリンフィル、芸術家は神経質だからと、少々緊張して、
「ウエルカム」と彼らを機内に迎え入れた。
 私の先入観とは裏腹に、陽気で、楽しく、ちょっかいも出してくる人間味のある音楽家たちだった。


 仙台空港で彼らを降ろし、すぐ羽田にとんぼ返りをした。
 復路は、乗客もなく、水平飛行になると、私もコックピットに入って、パイロットの操縦を後ろから見学していた。
「操縦してみないか?」
 機長の突然の言葉に驚いて、
「えー、ほんとにいいんですか?」
 と、いうと同時に、副操縦士が立ち上がり、私に眼で座りなさいと合図をした。

 操縦席に座ると、頭上に、横に、前に、計器やスイッチがやたらと並んでいる。操縦桿を両手で握った。
 丸い人口水平儀が、計器群の真ん中にあり、それで水平を保つように必死で、入れなくても良い力が全身に入る。
 機内と違って、コックピットは、眼の前が180度開けている。

 その闇の中にポツンポツンと灯りが見え、灯の塊が光の島のように広がって延びている。眼を上にすると空は満天の星、星。
 私は、地球と宇宙の間に存在している不思議な世界を実感した。


 「もうやめときます」
 10分か15分の操縦体験は、楽しかったがちょっと恐ろしかった。
 羽田に着くと、後ろに付いて来たもう一機も降りてきた。
 「私、操縦桿持たせてもらった」というと、
 「道理で。後ろについていると、前の機体が左右にユーラユーラ揺れているので、どうしたのかと思ったよ」
 どうやら後の機長には、私がちょっと操縦していたのがばれていたようだ。


 乗客が乗っていないからと言って、無免許で、たとえ10分でも操縦したら、今の時代は大問題になる。機長は始末書を取られる重大事だ。

 まだ空の旅も、ごく一部の人の時代だから出来たのを懐かしく思い出した。

 三年半の乗務で、航空性中耳炎になり、仕事を辞めた。
 DC3の勇姿の写真に、「滞空時間2000時間」と書かれた盾を退社の時、会社から頂いた。そこには、勿論、操縦時間15分は記載されていない。


 日本の技術の高さを内外に示したMRJ、17年には全日空で25機の道入を決めている。私の夢は、あのスマートなMRJの一番機に乗ることだ。
 そして日本のMRJが世界で飛躍することに期待したい。

雨の日、つれづれなるままに: 桑田 冨三子

 毎日、雨が降り続いている。
 今年の梅雨は、いつもと違う。驟雨のような土砂降りが来て、パタッと止む。まるで夏の雨だ。私は、雨が嫌いではない。むかし元気だった頃は、濡れて歩くのが好きだった。髪が顔にへばりついて、毛先から水がしたたるのも面白かった。

 昭和30年頃まで、雨の日は、みな、番傘をさしていたと思う。
 降りしきる夕立のなかを、番傘を持って出かける。傘を開くと、ピンと張った油紙に、雨粒が激しくあたり、心地よい音を立てたものだ。蓑笠(みのかさ)もよい。

 私が、まだ東京にくるまえのことである。百姓家にあずけられていたから、梅雨時など、大人と一緒に、蓑笠をつけて田んぼに入った。

 蓑の内側は網で、萱(かや)が実に上手く編みこまれている。雨が、菅草をつたって、まっすぐ下へ落ちるように出来ている。だから身体は全然ぬれない。萱がたっぷりと重ねてあるから、風も通らない。蓑をきこんでいると、なんとなく温かく、雨の中でも安堵感がある。
 菅笠(すげがさ)は今でも、お遍路さんが使っているが、蓑(みの)の方はもう、ほとんど見かけることはない。

 葛飾北斎の「原」は、雨の富士山である。通行人はみな、菅笠に合羽だ。いそがしい旅人は、もう蓑などは、使わなかったのだろう。しとしとと降る雨には、紺色の「蛇の目」が良く似合う。夜目、遠目、傘のうち、女の人はみな美しい。
 粋な紫紺の、御高祖(おこそ)頭巾などを思い浮かべる。柳腰の、なよなよとした美人を描く竹久夢二の世界だ。
 しかし、それは想像だけだ。そんなものは私の育った田舎には関係なかった。

 ところで、今時の傘は、女のおしゃれ心をくすぐる有効な道具のひとつだ。オレンジと濃紺の布を2枚重ねあわせた傘は、開くとリバーシブルになる。彫刻のある金色の柄が付いている。
「かっこいい」と思う。黒いレース仕立ての、マダム向きパラソルがある。フリルがヒラヒラとなびく、いわゆる「かわいい」ピンクの傘もある。
 しかし、「UVカット」を声高にいうのは趣に欠ける。
 雨の日の方が好い。
 風情があるのは、番傘や蓑笠、御高祖頭巾の[蛇の目]である。

『エッセイ教室20回記念誌』が発行

 06年6月からスタートした、『元気に百歳』クラブのエッセイ教室が、いまや20回を超えた。受講生は熱心で、頑張っているなと、ある種の感慨を持った。同メンバーは合計19人である。病気、所用などで欠席者が出ることから、作品提出・参加者は13~15人くらいだ。開催場所は、新橋区民センターである。

 森田さん、中村さん、二上さんの世話役の下で、同教室の運用がなされている。講師の私は添削と講評に徹することができるので、ありがたい。
 

 このたび、『エッセイ教室20回記念誌』が発行された。掲載された数は122作品だ。前回の「10号記念誌」(07年5月発行)は94作品であり、28点も増えている。
 作品が提出されても、やむを得ない事情でエッセイ教室を欠席すると、相互に評論する機会をなくす。それらの未掲載作品が4点あった 
 『エッセイ教室20回記念誌』の発行で、最もおどろいたのスピードの速さだ。発案から、1ヵ月以内で、それを作り上げたのだ。

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