元気100教室 エッセイ・オピニオン

緑の歓談 = 青山貴文

 梅雨の晴れ間に広がる青空に、白い雲がわずかに浮かんでいる。久しぶりの上天気だ。おまけに、この時期には考えられない、高原を吹くような乾いた風が肌に心地よい。

 玄関の呼び鈴で出てみると、大手証券会社の高木耕輔君で、20歳代の若者だ。数日前に、きょうの来意の連絡があった。

 私は数年前から、異分野の若い方と、いろいろ話す機会を意図的に作ってきた。わが家にやってくる営業マンの中から、元気で馬の合いそうな数人の方に、
「私は技術屋ですが、現役のころ営業にでていたんです。営業マンは、止まり木をつくるとよいと先輩から教わり、当時から、時間ができると、気軽に訪問できる顧客を作るように心がけていたものです。会社を辞めても、止まり木だった方々との付き合いが長く、いまもってメール交換などしているんですよ」
「止まり木ですか」
「そうです。その止まり木の一つに、わたしを考えてください」
 なにかにつけて、そんな風に話している。

 そんな経緯もあって、数人の男女の若い営業マンが折を見て、わが家にやってくる。むろん、私にすれば、居ながらにして、最新事情を聴ける情報網となる。
 高木君にたいしても、
「金融界にいる方と話すと、活字を読まなくても、いろいろのことがわかり、すごく勉強になります。夏の暑い日や冬の寒い日には、あるいは困ったことがあったら、わが家に立ち寄りなさい。お茶でも飲んで、語らいましょう」
 と事あるごとに誘ってきた。

 きょうの高木君は大きな鞄をさげ、力なく肩をおとしていた。高木君は、このところの株安で、苦しい立場にあるらしい。お客から、きっと、いろいろ苦言をいわれているのであろう。株など、また上がってくるものだ。
 そう言いたいところだが、彼の顔の表情からしても、きょうはこの話題をしないことにきめた。

 ひとまず、わが家の南向きの客間に案内する。軒下近く植えた楓の樹が、大きく成長して、葉影を伸ばし、6畳間の客間はわりにうす暗い。
(高木君を元気づけるには相応しくないな)
 そう思った私は、障子戸を開け、さらにガラス戸も開けた。すると、網戸から光とさわやかな風が室内に入ってきた。
 
 ある考えが浮かんだ。

「きょうは残念ながら、話好きの妻が出かけていませんから、庭のキャンピングといきましょうか。この縁側から下駄を履いて、あの楓のそばの、椅子に腰かけて待っていてください」
 と芝庭の丸テーブルを指した。
 彼はすなおに踏み台の下駄を履いていた。

 私は、2階の書斎にある登山リュックから、携帯ガスボンベと取手のついた小さなポットを取りだした。その上で、水を入れた2リットル容器を階下におろす。片や、インスタントコーヒー瓶や2つのカップ、スプーンなども、お盆に載せて庭のテーブルに運んだ。

 ガスボンベに火をつけてから、ポットに水を注ぎ、湯を沸かしはじめた。この間に、台所の冷蔵庫からチョコレートを持ってきて、彼に勧めた。そして、2つのカップには、好みを訊いてインスタントコーヒを入れ、お湯を注ぐ。
「コーヒーには、チョコレートがあうんですよ」
 緑の濃淡の庭園で、ふたりして午後の陽射しをたのしむ。狭い庭だけれど、きょうの高木君にはきっと心休まる場所だろう。

 コーヒーを飲む一方で、時折り、椅子の背板ごとふんぞり返り、空を仰ぎみる。青い空、白い雲などがまぶしい。
「ここは、最高に気持ちがよいですね」
 彼は上着を脱ぎ、手足を伸ばし、周囲に目をやっている。
 楓の緑葉が陽光に当り、輝いている。それにも、こころを止めているようだ。


 若い頃、私はヨーロッパで、複写機用マグロールという磁石製品を拡販し、ヨーロッパ全土をくまなく飛び回っていた。

 顧客の中に、ディベロップ社という中堅複写機メーカーが南ドイツミュンヘンの郊外にあった。その副社長兼技術部長の家に、私はなんどか招ねかれたものだ。副社長だから、大邸宅かと思いきや、わが家の狭い庭とほぼ同じ広さだった。
 そこで、副社長は携帯ボンベでお湯をわかし、歓待してくれた。その奥様も語らいに加わっていた。いまとなれば、仕事の話などはすっかり忘れたが、歓談の光景だけは鮮明におぼえている。

 私は、高木君に、その体験談をゆっくり話して聞かせた。
「ヨーロッパのひとたちは、仕事もさることながら、生活を楽しんでいます。豪華なレストランに招かれるよりも、家族との歓談を考えてくれる顧客の方がうれしかった。いつか、あなたも海外にいくことがあるでしょう。私に似た体験もきっとするでしょう」
 こんな将来の話が、高木君の心にひびいたのか、彼の顔には、なにかふっきれた晴れやかさが戻ってきた。 

 この青年はいずれ結婚し、子供を持ち、いろいろな体験し、成長していくだろう。やがて、ある日、ふと、きょうの庭の緑陰の風景を思い出すかもしれない。そして、別の方法にしろ、年若い人にたいして、止まり木の場を提供する。そうなってくれると、うれしい。
 私はいつしか彼にそんな期待をしていた。

何時に帰る? = 遠矢 慶子

 今日も私はお出かけだ。
 夫は、月に一回の病院と近くの散歩以外、ほとんど出かけることがない。
 我が家では結婚以来、出かけるときは、お互いに玄関まで見送る習慣がある。
「勝手に出ますから見送らないでください」というのに、玄関までくる。
 女性は、出かけるまでに着ていく洋服で迷い、持つバッグに迷い、やっと玄関に出ると、どの靴にしようかと、またあれこれ迷う。その間、夫は突立って待っている。

 今日もやっと決めて出ようと、玄関のドアーを開けると、さーっと冷たいが爽やかな風が入ってきた。
(外は少し寒そう、やはりショールを持って行こうかな)と、あわてて靴を脱ぎ部屋に取って返す。
「行ってきます」
「何時に帰る?」
「分かりません」
「遅くなる時は電話して」
「‥‥‥」
 夫の現役時代、私も玄関で夫を送るとき必ず
「何時にお帰りですか?」と聞いていた。
「何時になるか分からない!」
 それが夫のセリフだった。


 あの頃、朝は10時か11時に家を出て、帰宅はほとんど日にちが変わる12時過ぎだった。

 私は、学校に子供二人を送り出すので、五時半に起きる。早朝、目覚ましが鳴るとたまらない、心臓によくないと文句を言う。
 一方、夜中の1時、2時に、夫が寝室に入ってきて明かりをつけると、いやでも私は目が覚めてしまう。
 そのまままた寝られればよいが、寝そびれる事も度々で、この時間のずれで、お互いに不機嫌になることもあった。

 30年前に家の建て替えで、夫婦別室にし、やっと解決した。
 それ以来、夜は一人で好きなだけ音楽を聴いたり、本を読んだり、自分だけの時間を堪能できるようになった。
 夫婦別室にすると、ベッドメーキングはそれぞれ自分でするようになり、楽にもなった。
 夫は無頓着で、起きた時の布団をはいだまま、その上にパジャマが片袖は内側に入って、とぐろを巻いて脱ぎ捨ててある。
 もう仕事もない暇な毎日で、私は見て見ぬふりをして、手を貸さないでいる。

 友人夫婦10人でクルージングに行ったとき、大型船のキャビンに入ると、ドーンと大きなダブルベッドが真ん中においてあった。
「大変! ダブルベッドよ、どうする!」
 妻たちは大騒ぎをした。
 慌ててメイドを呼ぶと、ダブルベッドを真ん中から二つに離し、サイドテーブルを両側に置いて、ツインに変えてくれた。
 私たちは口をそろえて、「良かったーどうしようかと思った」

 メイドのいうのには、外国の方たちは、ツインにすると怒り騒ぎます。外国の夫婦の在り方と日本の夫婦の違いをまざまざと知った旅だった。
 昔からタタミとフトンの生活をしてきた日本人は、子供を真ん中に、川の字に寝るのが、幸せな家族の象徴とされてきた。

 今夜は、オペラでも聴きながら、クリムトの画集でも楽しもう。
 隣室の夫は、またテレビをつけっぱなしで、グーグー寝ていることだろう。
 

「ミュゼ・イマジネール」のこと = 桑田 冨三子

 1988年に学生時代の仲間4人で会社をつくった。
 ミュゼ・イマジネール有限会社である。定款の目的には、商業デザインの企画、制作および販売、文学、美術および音楽関係の企画、制作、出版、それらに付帯する一切の事業と届け出た。

 私たちのやりたい子どもの本に関する活動のためには、組織にすることが好都合と考えたからである。
 言い出しっぺの島多代の家の、あまり広い部屋ではないが、古い英国調の応接間を事務所にした。折りたたみドアを引くと、隣の部屋は、天井まで届く本棚が、3方向ぐるりと囲む図書室である。真ん中に4人座りの丸テーブルを置き、これがミュゼの絵本資料室となった。

 本棚には世界から集められた貴重な古い本や絵本が3000冊ほど並んでおり、東ドイツ出版で、クレムケの挿絵のある「デカメロン」や、めったに見られない稀覯本もあった。故辻邦生氏が、これらを懐かしんで、よく読みにみえていた。

 私たちはそこで、子供の本の歴史をたどり、研究しながら、さまざまな企画を考え、実行してきた。
 思い出深いのは、1992年にベルリンで開かれた国際児童図書評議会に参加した時である。東ドイツ開催が決まっていたのに、思いがけなく1990年に東西ドイツが統一された。長い間、分離されていた東と西のドイツが共に、会を主宰することになった。

 政治的には、西が、東を吸収する形だったが、文化的には、オリンピック選手の体力の差が顕著だったように、本の世界にも政府が大きく力を注いだ東が、圧倒的に優位だったのである。
 崩れたベルリンの壁を越えて、東と西を行き来した私たちは、日本にいては、とてもわからない東西のわだかまりを強く感じた。

 ベルリンの、元日本大使館だった建物が日独センターになっていた。そこで日独の児童文学シンポジウムが行われ、両国の専門家の報告があり、詩の朗読などがあった。
 日本からは、詩人で作家の阪田寛夫氏や、画家の小野かおる氏、児童文学者の猪熊葉子氏なども参加されていた。

 そのほか、印象に残っている事業は、ミュゼの昔の本「マザー・グース」を使って、港区の小学校で低学年の英語教室を開いたり、ベルリンの日独センターで日本の絵本展を開くなど、いろいろな試みをした。
 良い絵本には、画家が丹精を込めて描いた絵がある。子どもは、その絵の素晴らしさをちゃんと見分ける力を持っている。

 絵本の歴史を辿りながら、ミュゼの本の中にある魅力的な絵を抜き出して、解説付きのカレンダーをつくり、毎年、財団法人東京子ども図書館から販売するようになった。
 これがそのまま絵本の歴史書として役に立つから、読聞かせをするお母さん達の間でたいそう好評になり、年末には売り切れるほどになった。

 このカレンダーの2011年度版は、ゲルトルート・カスパーリの「小さな子供のための面白絵本」と決まった。


 カスパーリは1873年にドイツ東部で生まれ、1948年ドレスデン郊外で生涯を終えた女流画家である。
 子ども向け絵葉書デザインを皮切りに、子どもの生活環境を丹念に描き、人気が出て50冊以上の絵本を描いた。詩や昔話、教科書、工作や絵の手引書を描き、ドイツの大人、子どもに広く親しまれた人である。

 カスパーリは、子どもを一人の人間として観察し、子どもが見つけたものを創造的な営みへと導き、教条主義からこどもを解放して、20世紀の新しい教育の始まりとなった。カスパーリの絵は明るい灰色、薄茶、又は乳白色のフラットな背景で、遠近法を用いずに、くっきりとした輪郭に澄んだ色で描かれ、世紀末のひとつの典型である。

 絵本がドイツ語であるから翻訳は私の役目となった。
 言葉は、子ども向けだから易しく、詩のように短い。難しかったのは文字の解読であった。出版は1907年で、文字は現在のドイツでは使わない、ユーゲント・シュティール風の格好いい装飾文字である。
 現代の、そう若くもないドイツ人に見せても、両手を広げて首をすくめるだけで、すんなり読める人はほとんどいない。日本でいえば、巻紙に変体仮名でしたためた優雅な文字のごとく、簡単には読むことができなかった。
 正直言って翻訳より、この字を読み解くほうがずっとむつかしかった。


 ミュゼ・イマジネール有限会は、今年5月で終わりにした。28年間だった。すべてのものには終わりがある。世の習いだ。
 でも、ミュゼの本たちに会いたくなったなら、ネットの「絵本ギャラリー国会図書館国際子ども図書館」を開けばよい。
「不思議な国のアリス」の初版本(1865年)でも「ホーンブック」でも、全ページが姿を現してくれる。

子供の善意 = 奥田 和美

 社会教育館の窓口に、小学4~5年生の女の子が二人やって来た。もじもじしながら、
「どっちが言う?」
「あたし? あんたが言いなよ」
「じゃあ、一緒に言おうか。せーの」
「スズメが車に轢かれて血だらけになっています」
「あら、そう。どこですか?」
 私はビニール手袋をして、トイレットペーパーと箒とチリ取りを持って外に出た。

 社会教育館は区の施設で、会議や勉強会、体操やダンスなどの会場を提供している。子供たちは、ここの人ならなんとかしてくれると思ったのだろう。二人は自転車に乗って、
「こっちです」
 とスイスイ先を行く。

(えっ、すぐそばじゃないの?)
 私は走って追いかける。この建物の目の前の出来事かと思っていたのだ。一ブロック先の信号のあるところで止まった。
「ここです」
 見ると、スズメはぺちゃんこにつぶれていて、延し烏賊のようになっていた。何の鳥だかわからない。尾羽だけが形を残していた。
 血は乾いていて地面に染みついている。

 私はトイレットペーパーを丸めて、道路にひっついた死骸をこすり取る。気持ち良いものではない。子供たちは、
「バイクにやられたんだよね、きっと」
「車じゃない? かわいそう」
 片付け終わって、
「これでよし。知らせてくれてありがとう。気をつけて帰ってね」
 私は心とは裏腹な言葉を言っていた。


 以前、車を運転する人に聞いたことがある。
「道路で犬や猫が轢かれると、一時間ぐらいして帰りに見ると、カラカラになっているよ。カラカラ」
 そうなのだ。結局、埃になってしまうのだ。
夜、娘にこの話をしたら、
「その子たちにちゃんと話せばよかったじゃない。どうせゴミ箱に捨てたんでしょう?」
「そうだけど、放っておけないでしょう。あの子たちは善意で言ってきたのだから。好いことをしたと思っているのよ」
 社会教育館の同僚も私と同じ意見だった。
 車に轢かれた鳥はもう助からない。でも、子供たちの善意を無下に断るわけにはいかなかった。

箸と私 = 遠矢 慶子

 夕食の用意をし、皿小鉢をテーブルに並べていた。
 箸、スプーン、フォークを入れた細長いかごの中から、いつものように二人の箸を取り出す。なぜか私の箸が片一方しかない。
「私の箸、知りません?」
「そんなもの知るわけないよ」と、夫はそっけなかった。

 流しの周りを探すが見当たらない。食事もさめるし、他の箸を使い、探すのをやめ食事にした。使い慣れた箸がないと、食事の味まで違って美味しくない。
 食後もあちこちの引き出しを開けて、探し回ったが、見当たらない。


 生まれて百日目に、お食い初めのお茶碗と箸を揃えてもらう。一生ごはんを食べ続けて行けるようにと念ずる、切なる親心というものか。この時から箸との付き合いが始まった。
 一方、子供のころ、親から箸の持ち方を度々注意され、うっとうしく思った覚えもある。食事のしつけとして、箸の持ち方、使い方とうるさかったが、それも慣れるとこんな便利で単純なものはない。

 一番強く叱られたのは、姉とひとつのものを同時に箸でつまんで挟みあうことだった。お葬式のとき、二人で挟みあって骨を拾う習わしが、家庭の食事でそれをすると、エンギが悪いという。
 日本伝統の箸のしきたりは、感心することがなんと多いことか。

 菜箸、盛り付け箸、柳橋、割りばし、利久箸、さまざまの考えから材料も選ばれ、形が決められている。
 10年以上も前、絵を描く仲間と一泊のスケッチ旅行に湯河原へ行った。帰る日の朝、宿の売店で手作りの箸が十膳ばかり置いてあるのが目についた。
 四角にカットされた黒い地に、茶色い線が流れるように所々に入った、折れそうなほど極端に細い。多分、煤竹で作ったものではないか。

 少し高かったが、何故かその地味で華奢な箸に惹かれ、自分用に一膳買った。
 その細さのゆえか、箸を持つ指まで、上のほうを持って品よく優雅に食べるようになったと思う。箸によってこんなに動作から味まで変わるとは思ってもいなかった。箸さばきも良く、野菜やお魚を楽に切ることができる。


 箸の紛失から10日も経ち、やはりあの箸の美味しさに代わるものはないので、また湯河原へ買いに行こうと思った。
 そんなある日
「食器戸棚と壁の間に箸らしいものがあるよ」
 と、夫が懐中電灯を持って隙間を照らした。長い菜箸で細い隙間を手前にかくと、ほこりまみれの黒い棒が一本出てきた。
「あった!大事な箸が!」
 綺麗に洗い、大事にとってあったもう片方とやっと揃い、ほっとした。

 便利さと清潔さを備えた日本の箸の文化は、今や世界に普及してきた。最近は、日本人顔負けの、箸を達者に使う外国人を見かける。そんな外国人に対して、何故かぐっと親しみを持つ。半面、箸の持ち方、食べ方を知らない日本の若者をテレビで見ると、親のしつけを疑いたくなる。

 箸は、敏感な口のどこにもさわらずに、適量の食べ物を巧妙に口に運んでくれる。ごはんひとつぶ、豆ひとつぶでも、容易に口に入れてくれる。これは箸以外では出来ない技だ。
 食事は命につながる大事なことだが、加えて、いかにおいしく食べるかが最大の楽しみだ。箸の使命は大きい。

 何十年と続けてきた箸を持つ毎日の生活、私にとって箸は道具というより手の一部となっている。
今日も、あつあつの湯気の上る白いごはんを、ふんわりとお茶わんに盛って、愛用の箸を使う。もぐもぐと嚙むと、甘い香りが口いっぱいに広がった。

                              了

和服を着た西暦 = 金田 絢子

 先日、『志ん生のいる風景』(文春文庫、矢野誠一著)を読んだ。
 殊にメディアで、事件・事柄を示すのに、西暦を使う風潮を好まない私は、冒頭の一節に違和感を覚えた。
「古今亭志ん生が逝った一九七三年(昭和48)九月十一日、僕は、早めの昼食をとって家を出た」
“一九七三年”と漢数字で記し、括弧して“昭和48”とは何ぞや。志ん生を語るのに、なぜ西暦か。

 全編を通して「西暦(年号)」の方式がとられている。苛立ちながらも、筆者が熱っぽく語るのに引き込まれて読み切った。中でも、火焔太鼓についての考察は、志ん生の語り口の見事さを伝え、繰り返し読みたくなる。

 何と志ん生は、明治四十三年から昭和十四年にかけて、十六回も芸名を変えている。十六行にわたる改名年表は「一九一〇 明43」「一九二七 昭2」と、例のスタイルを簡略化したものになっている。
 あの世で志ん生さん
「このごろはてえと、西洋のこよみをつかうおかた(……)が多いようでござんすなあ。あたしなんざあ、ちんぷんかんぷんで。何しろ、西も東もわからない若輩でして」
 なんて、満座を沸かしていることだろう。

「志ん生」を読んだ同じころ新聞に、加地伸行氏(立命館大学フェロー)の、西暦をテーマにした文章が載った。
「世界は西暦だけで動いてはいない。キリスト教の暦は、西欧キリスト教諸国がアジアを侵略して広めて来たもの。自分はキリスト教徒ではないから、年号をつかう。このごろでは、まず西暦で示すのが普通になってきているが、これでいいのか」
 といった内容である。
 同感だが、時流はいかんともし難く、今や日本は、西暦に侵略されつつある。それにしてもキリスト教の暦をいとも簡単に受け入れ、死ぬと誰もが“天国とやら”へ行くらしい日本て、おかしな国だと思う。

 少なくとも「志ん生のいる風景」の筆者は、文中一切“芸”を用いず“藝”に徹するダンディズムの人である。たとい括弧つきでも、年号が記されてあるのは、粋なはからいと見るのが妥当だろう。
 絶妙な間と、独特の語り口で人々を魅了する噺家志ん生は、明治・大正・昭和を生き、生涯洋服というもの(……)を着なかった。
 くどいようだが、西暦でものを考えたりもしなかったと私は思う。
 身のまわりのことは元より、マネージャーとして志ん生を支えた、娘の美津子さんが、いつも和服だったという。何がなし、いい話である。
 このあたりで、厄介な「西暦」にはお引き取り願って、今夜も『火焔太鼓』に酔い痴れようか。

ふる里を捨てた人 = 鈴木 晃

 2年前の3月10日から、私の家の仏壇には、友人の遺影が置かれている。
 それは今から41年前のロイヤル・メルボルンゴルフクラブで知り合ったビル・イトウ氏への追悼でもある。
 私は戦時中に田舎に疎開していたので、東京の3月10日は体験しなかった。だが、イトウ氏が味わった東京大空襲の悲劇は、私への「戒め」として書き残したいと思っていた。


 知り合った当時のイトウ氏は、オーストラリアのカンタス航空で営業マンとして働いていた。初対面の時に、彼はビルと名乗り、日本人ばなれした英語を話すので、てっきりオーストリア生まれの二世だと思っていた。すると、日本生まれの、アメリカ育ちだった。
 二世ではなかった。


 彼からゴルフに誘われた時、私のボールが右に左に行くのを見ていたイトウ氏が発した一言が、私の癇(しゃく)に障った。
「スズキさん達、駐在員は『ノン気』にゴルフがやれていいですね」
 という皮肉めいた一言だった。
 こちらは下手なりに一生懸命クラブを振り回しているのに、ノン気だと言われてムカついた私は、
「何か言いました?」
 と彼に突かかったこ。それがイトウ氏の経歴を聞くキッカケだった。


 イトウ氏は71年前の昭和20年3月10日、14歳で旧制の都立七中(現隅田川高校)の2年生だった。

 住まいは下町の向島で、東京大空襲の日は、真夜中にたたき起こされた。防空頭巾を被せられて、両親と妹と隅田川に架かる言問橋に向かって逃げた。
 橋の下に避難してやっと焼夷弾から逃げられたと思ったら、橋の下まで炎が吹き込んできたので居たたまれず、すこし上流の桜橋の方に逃げようと土手に上がった。大勢の逃げ惑う人達の群れに巻き込まれ、気が付いた時には親子四人が散り散りになっていた。

 寒い夜明けだったが、火がおさまったので、早く家族を見つけなければ、と言問橋の方に土手を走っていると、父親は焼夷弾の直撃で即死したらしく、その傍らに母親と妹が重なるように焼死体になっているのを見つけた。
 この時の地獄絵図は目に焼き付いてしまい、一人ぽっちになったという孤独感で泣き喚いたことを覚えている。
 家も焼かれ、それからの2年間ぐらいは、上野の地下道をねぐらにして、来る日も来る日も残飯あさりの毎日だった。
 時には、「ガキはとっとと失せろ」と怒鳴られたり、「ドロボーネコはあっちに行け」と追い立てられたりと、世の中がいかに世知辛いかを嫌というほど思い知らされた。二度と思い出したくない悲惨な日々だったと当時の地獄のような有様を語ってくれた。
 私は墨田出身だったが、聴きながら、2歳年下で疎開していてよかったと思った。


 そんなある日、イトウ少年は食べものをタダでくれる教会が湯島にあるというチラシを拾い、その教会に通うようになった。
 アメリカ人牧師と知り合い、彼の紹介でデンバーの篤志家と養子縁組ができ、15歳でアメリカのデンバーに渡り、大学を卒業するまで養父母に優しく面倒を見てもらった。とこれまでの半生を話してくれた。

 恐らく彼が過ごした50年代のデンバーでは、食べる苦労はしなかったが、人種差別的な嫌がらせなどがあり、一人で生きて行く根性(ガッツ)がなければ、アメリカでは生きていけないと自覚したそうだ。
 そんな時に出会った駐在員の人達は、みんな親方日の丸のノン気な人達ばかりだったそうだ。だから発した彼の一言だった。

 彼は大学を卒業して就職する時に、このままアメリカで暮らそうと思った。だが、両親と妹を殺したアメリカはどうしても好きになれなかった。自分を育ててくれたアメリカ人はやさしく恩があると思い、あれこれ悩んだ末に、養父母に英語を活かせるオーストラリアへ移民(アメリカ籍を抜く)として行きたいと相談したところ、
「これからはあなたの人生だから」
 と快くオーストラリアへ送り出してくれた。
 そんなアメリカ人養父母には、いくら感謝してもしきれない思いがあると、長年、心に秘めていた思いを一気に話してくれた。私も聴きながら一緒に泣けてしまった。
 とても辛い話だったので、それ以上のことは聞けなかった。


 10代という思春期に、心に受けた深い傷は、生涯消えないものだと思い知らされたひと時でもあった。


 彼とは同じ下町育ちだったことと、2歳違いの同世代ということで気が合い、海外生活のイロハをいろいろと教えてもらえる心強い味方になってくれた。
 スカイツリーが完成した時に、ふる里の下町もこんなに変わったから、と声を掛けた。だが、イトウ氏は病に倒れており、残念ながら来日はできなかった。
 
 イトウ氏が亡くなったという知らせを聞いて、私はすぐに飛んで行った。だけど、共同墓地にある四角のプレートに合掌することしかできなかった。
 それが私の3月10日のお焼香になっている。

忘れられない = 吉田 年男

 入り混じった花のかおりで目がさめた。「レオ」の写真がたくさんの花でうずまっている。白を基調にした花は、書道教室に来ている子供たち、散歩仲間(イヌ友)、ご近所の方などから、いただいたものだ。写真のまえは花でいっぱいになっている。愛犬「レオ」は、16歳の誕生日を待たずに死んだ。

 12月初め急に体調を崩した。下痢をする毎日が続いた。見るみる間に痩せた。5キロあった体重は、片手で持ち上げられあるくらいに軽くなってしまった。

 正月三が日は、往診をたのんで点滴を受けた。いっこうによくならない。点滴をすればするほど状態が悪くなった。点滴をやめてみた。レオの表情が変わった。楽になった感じがした。点滴をやめる前は、水も飲めずにいたが、一人で水飲み場に行って、飲めるようになった。

 人間であれば気分の良し悪しは、顔色をみて状況を察し、話をして気持ちを確か会うことができる。しかし、このようなときでも言葉でのコミュニケーションはできない。それがもどかしい。

 それでも直観的に気持ちは通じるものだ。鼻の湿り具合、身体を触った感触、目の表情、毛の艶などで体調が判断ができた。点滴をしている時よりも点滴をやめてからのほうが、確かに体調がよくなっている。レオの「少し楽になった感じ」がなによりうれしかった。

 あと1か月でレオは誕生日を迎える。体調がこのまま順調に回復してくれることを、妻と一緒に願った。近所の公園をしっかりした足取りで歩いていた散歩中のことや、食事を美味しそうにしている時の情景が思い浮かんだ。

 正月明けの夜、事態は急変した。午前1時を少し回っていた。いままで聞いたことのない鳴き声を発した。悲鳴にも似た声であった。
 妻があわてて毛布にくるんで抱きかかえた。手足が小刻みに痙攣をしている。なにが起きたかまったくわからない。

 泣き止まない。泣いているというより、泣き叫んでいるという感じだ。レオを毛布ごと妻から受け取り、赤子をあやすように揺らしながらレオの背中をさすり続けた。寒かったので、急いでジャケット着込んだ。ジャケットの腕の周りがレオのよだれで濡れた。

 敵に襲われてしまうという警戒心から、野生の動物は弱みをみせないという。レオは、野生ではないかもしれない。それでも大声を出して泣き叫んだ状況は、ただ事ではなかった。
 くるしくて苦しくて耐えきれなかったのであろう。痛みが少し治まったのか、明け方になって眠った。それから小康状態が続いたが、誕生日を前に死んでしまった。耐えきれずに泣いた、あの時のレオの声が忘れられない。 

ルンバちゃんごくろうさま = 遠矢 慶子

 朝、コーヒーを飲みながら、朝刊を読む。至福の時間だ。
 テーブルの横を、黒い、まんまるい円盤が、静かに、動き回っている。新聞からちらちらと眼だけ、動き回る円盤の行方を追ってしまう。

 私は、今までにどれだけの回数、掃除をして来ただろうか。掃除は機械がするから、簡単なことぐらいにしか思わない男性が多い。毎日の掃除は大変だ。
 ずっと専業主婦で来たので、掃除、洗濯家事全般は、あたりまえの主婦の仕事と思ってきた。
子供たちが巣立ち、夫と二人暮らしになって20年近く経った。夫は、リタイアしてから、私より暇で、うろうろしている。ソファーに座ってテレビを観、掃除機が通ると、足を上げるだけ、時には、ぼんやりと掃除機の動くのをじっと見ていたりされると、情けなくなる。

 二人には広すぎる家は、週一回掃除をすれば済むようになった。それでも重い掃除機をぶらさげて、二階に上がるのは重労働だ。
 「掃除機を二階に持って上がるのは、心臓に負担がかかるから、週一回でも、ヘルパーさんに頼もうかしら」
 と、夫に提案した。
「いいよ、それなら僕がするから」
 簡単に引き受けてくれた。二階は私の受け持ち、下は夫の受け持ちとして掃除機も二台にした。
 夫の掃除は、やたら丁寧で時間をかけ、ソファーを動かし、椅子をどけて、念入りだ。分業で曜日を決めたお蔭で、少し楽になった。

 昨年、終の棲家マンションに越すと、二人の掃除人も、二台の掃除機も必要はない。むしろ掃除機のしまい場所を確保するのが大変だ。

 暮れに、たまたま大型スーパーに行ったとき、自動掃除機のデモンストレーションに出会った。説明していた男性が、興味あり気に近寄った私に、ここぞとばかり、ていねいに説明してくれた。
「これが日経新聞の調査で、一番の人気です。あと二台しか在庫がないです」
 と、残る在庫の箱を指して言う。宣伝員の言葉につられて、買ってしまった。

「元旦の午前中にお届けします」「えー、元旦に?」
 今や、暮れも正月もない商魂たくましい時代には驚いた。
 年が変わると早々に、自動掃除機ルンバが届いた。
 松が取れてから、箱を開け、初運転となった。


 充電器のステーションを決め、まず充電する。リモコンで(自動)を押すと動きだした。35センチの黒い円盤が、左右に六個と、裏に付いたブラシを酷使して、ランダムに部屋を動き回る。壁や家具にぶつかると、方向転換する。
 夫と私は、バカみたいにルンバの後をついて廻っていた。
 我が家は、私の趣味で、置き敷きのキリムがあちこちに敷いてある。そのフリンジがブラシに巻き込まれて、「ピーピー」と助けを求め何か言っている。
 止めて裏のブラシに巻き込んだフリンジを、外してあげた。

 とにかく働きもので、ベッドの下に入ると、隅々まで丹念に動き回り、なかなか出てこない。心配してベッドの下を覗き込むと、ほこりまみれになって出て来た。
 動き回るルンバちゃんの後を、よちよち歩きの赤ちゃんを見守るように二人は、ずっと付いて歩いていた。

 1時間で掃除が終わり、充電器のステーションに戻って来た。
 ここで又すごい!
 2メートル位の所に来ると、くるりと後ろ向きになり、バックオーライで、ステーションに入って来る。何と2回仕切り直しをしてピタリとステーションに入って収まった。
「掃除が終わりました」と、声が知らせた。
 私は車庫入れが苦手で、年中曲がって駐車したりするのに、ルンバちゃんは完璧な駐車をするのに舌を巻いた。

 今までは週1回の掃除が、ルンバの動くのが可愛く、面白く、1日おきに掃除をしてもらっている。 
ずっと前に、近所に住んでいたアメリカ人に英語を習っていたことがある。
 そのミセスが、(私は掃除や家事は嫌いで、下手だからしたことがない。嫌なことを無理してやって時間を無駄にするより、プロに任せ、私は働いてプロをやとっている)と言っていた。彼女はハーバード大学出身の大学教授だった。

 ボタン一つで、機械が掃除をしてくれる時代だ。元気に百歳を目指すなら、老体にムチ打たなくても、そろそろ楽をさせてもらっても良いだろう。
 ルンバちゃん、今日もご苦労様、本当に助かるわ。
 

冴えてきた妻 = 青山貴文

 師走の朝陽が、食堂兼居間の奥に差し込んでいる。朝食後はソファに座り、お茶を飲みながらTVの天気予報を見る。風もなく暖かな一日になりそうだ。
「今日は、ガラス拭きをするぞ」
 私はあえて大声で宣言する。
「わたしは、今日は出かけるからだめよ」
 妻は、食卓を片付けながら即答する。タイミングが悪かった。

 この十数年間、わたしたち夫婦の年末の慣例行事になったガラス拭きだ。妻と私でアルミサッシのガラス引き戸を挟んで、家の内と外から、ぬれ雑巾と乾いた布で磨く。
「しかたがないな。自分ひとりでやるか」
 と言いながら、NHKのTV『あさが来た』を見ていると、
「はい、ここに置いとくわよ」
 と、妻は洗剤と古いタオル数枚を私の前におく。
「人の使い方が巧いな。女社長になって、小さな会社を興せば成功するよ」
 と、半分は本気で言うと、
「善は急げよ」
 と言いながら、自分はさっさと外出の準備をして出かけて行く。
 私が、現役の頃良くやった言動だ。どうも攻守交代したようである。


 バケツにお湯を7分目ほど入れ、洗剤を加えて溶かす。ゴム手袋をして、洗剤液に浸したタオルを軽く絞り、片面のガラスを拭く。
 次には乾いたタオルで磨く。反対の面も同じ要領で磨く。一階の家周りを、小さな脚立を動かしながら、上履きになったり、下足に履きかえたりする。

 どうも記憶力が弱くなったので確心できないが、昨年も一人でやったような気がする。2人だったら、こんな無駄な動きは不要だ。

 私は毎日1~2時間くらいの散策以外に運動らしい運動はしない。よって、窓拭きのような手足や背筋・腰などを動かす全身運動は滅多にしない。この際は、普段使わない筋肉を鍛えてやれとばかりに、12個の引き戸のガラスの両面を精力的に磨く。

 次に2階の窓ガラスだ。窓ワクに腰かけて上半身を外に出し、重心はあくまで室内側に置いて、10個のガラス戸をなんとか磨きおわる。
 夕方帰宅した妻に、胸を張って、
「綺麗になっただろう」
 と自慢げに言うと、妻は居間のアルミサッシに近づいて、
「網戸はやらなかったの?」
「いや、やってないよ。今年はやらないことにしたよ」
「何か、中途半端ね」
(小癪なことをいうやつだ)
 と思いながら、翌日は網戸を外している自分がいる。

 最近、妻は人を動かすのが巧妙になってきた。というより、私が使われやすい好々爺になりさがったのか。
 ネジまわしで、網戸の上部にある金具を緩めて、敷居から1枚ずつ外し、芝生の上に運んで庭の木々に立てかける。洗剤をいれた湯に浸したモップで網の部分をこすり、水道水のホースで洗剤を洗い流す。そして、自然乾燥させる。

 2階の網戸は、狭い階段を手で持って降りなければならず一苦労だ。
 南西隅の書斎の網戸をベランダに出てはずしていると、近所のおばさん達5~6人が話しながら通りかかった。昼の忘年会の帰りらしい。
「この家は、いつも大掃除がはやいのよ。あら、ご主人がんばってるわね」
 と言って手を振っている。その中には、私のエッセイを読んでくれている人達もいる。私も呼応して手を振る。

 乾いた網戸を2階に持ち上げるのが億劫だなと思っていると、妻が帰宅してきた。彼女が芝生からベランダ越しに網戸を手渡してくれる。はなはだ効率が良い。夫婦のありがたさを一瞬感じる。こんなことで幸せを感じるのは老いた証拠なのか。


 翌日の午後3時頃、読書に飽いて家の外周りの不要物を処分した。人間、一カ所が綺麗になると、汚れているところが気になるものだ。
 南に面した3部屋の出入り口の軒下には、数十年前にわたしが作った高さ30×巾180×奥行き60センチくらいの木製の敷台がある。
 それらの下や傍には、割れた植木鉢、使用途中の肥料や腐葉土の袋などが乱雑に置いてある。また、枯れ枝や枯れ葉など1年間のごみがたまっている。軍手をはめて、それらを片付ける。


 この3日間、わたしは屋内外を一人で大掃除したことになる。自分もまだまだすてたものではない。
「自治会館の大掃除に行ったら、皆があなたは良く働くって言ってたわよ」
 人使いが冴えてきた妻は、数日後にして、あとのフォローも忘れない。
                            
                          

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