忖度の今昔 = 鈴木 晃
昭和世代の私は、忖度(SONTAKU)を「気配り」と理解していた。それも日本人的妥協文化だと思って行動してきた。
例えば、オーストラリア五州のステートマネイジャーたちに、会社への忠誠心を上げてもらう手段として、英語ではうまく言えなかったので、マネイジャーの奥さんの誕生日に豪華な花のプレゼントを考えた。
たまたまこれが当たり、海外子会社で、初めて配当金を払える会社にすることが出来た。
巨人軍の四番打者だった松井選手が、ニューヨーク・ヤンキースに行って、「フォア・ザ・テイーム」をモットーに活躍したのも、日本人的な忖度だと思っていた。
森友学園問題で、忖度という日本語が、「気配り「」という解釈でいいのか、と不安だった時に、英国のフィナンシャル・タイムスに、
「まだ出されていない命令に、先回りして、懐柔的(自分の思い通りに従わせること)に従うこと」
と特派員が、無理に注釈をつけていた。
日本に住んでいても、外国人には難しいニューアンスの日本語だと思った。
広辞苑では、「他人の心中をおしはかること」としか出ていない。そこで、「忖度の由来」をインターネットで調べてみたが、すっきりできる解釈がなかった。
こんどは、図書館で調べてみた。
「新釈漢文大系」の『詩経』編(中)に節南山が「巧言」という詩の中で、「他人心有らば、予(ワレ)之を忖度す」(351頁)とある。
意味は「他の人に悪心があれば、私はそれを吟味する」とあった。
これが「忖度」の由来になるようだ。
由来からすると、物事を念入りに調べる「吟味」が元の意味だった。
しかし、戦国時代では、秀吉の出世のキッカケになった伝説の『信長の草履を懐で温めていた』行為のことを、私は「忖度」だと思っていた。
江戸時代末期に、篤姫が徳川家の存続を願う手紙を西郷に送ったという話も、私は「忖度」だと思っていた。
平成時代になると、忖度には「いい忖度」と「悪い忖度」の二つがあるという。
それは、「忖度はないと言い張るお役人の忖度」と、「神風が吹いたと証言する忖度」で、喧々囂々(けんけんごうごう)の騒動になっている。
日本社会を歴史的に眺めてみると、日本民族には、世界のルールがどうあれ、忖度はなくならない社会だと思っていた。
ところが、他国の大統領が代ると真っ先に駆けつけて、金のゴルフパターを贈る行為は、忖度とは言わず、単なるゴマスリだと感じるのは、昭和世代の私だけだろうか。
アメリカ金融資本のビジネス・ルールを押し付け、アメリカの巨大な多国籍企業だけが儲かる仕組みのTPPを、トランプ氏に再認識させる。
そう意気込む姿には、敗戦後70年以上経っているのに、ノモンハン事件以降、ミッドウエー、ガダルカナル、インパール、レイテ作戦などの失敗を分析した『失敗の本質』(中公文庫)から見ると、「悪い忖度」をしたとしか思えない。
なぜなら、ユニクロの柳井社長は、もしトランプ氏がアメリカで生産せよとうなら、アメリカの大都市50か所で展開する店を撤退すると明言した。
アメリカの言うことに盲従する政治家などとは違い、自分の金で損得を冷静にみている経営者は、政治家より広い視野で、世界情勢の変化を見ている、と私には感じられた。
イラスト:Googleイラスト・フリーより