フラワームーンの庭 井上 清彦
「今朝、ヒメウツギが咲いていたのよ。白い小さな花、きれいでしょう」
と早起きの妻が、摘んだ切り花を、私に見せる。居間に飾るためだ。
我が家は、南北に細長い敷地に建っている。築26年になる。東側は小径ギリギリだ。多少土地に余裕がある南には、樹木が植わっている。
数年前、母が亡くなり、住んでいた母屋を取り壊し、弟妹が相続で売却した地続きの隣地に、三軒の家が建った。子供がいる若い家族が住んでいる。
相続で、我が家の西側に細長い土地が加わった。この土地を放っておけないと、木や花が植えられるよう、私は、汗水たらして石を取り除き、土を耕して整地した。こうして生まれた土地を「ウエスト・ガーデン」と名付け、一人で悦にいっている。
南の庭には、我が家のシンボルツリーである白樺の他、ツツジ、どうだん、梅、ゆず、金木犀などの樹木が植わっている。
西の新しい庭には、二人の好みのオリーブ、ミモザ、月桂樹など外来の木々を植えた。更に、季節の花も楽しみたいと、春と秋に種を播き、球根を植えた。
植木屋は、一年に一回入るが、それ以外は妻と私の二人で庭仕事をする。整地、施肥、まとまた雑草取り、種播き・球根植えは私の仕事で、妻は、早朝の小径沿いなどの掃除や、水やりなど日常管理の仕事を分担している。
妻の仕事は、雨が降った時を除いて、毎日だ。時々辛くなるのか、癇癪を起こして、私に当たってくる。
「敷地が細長くて、小径沿いの生け垣の葉が落ちて、毎日掃除が大変よ。庭の管理も、雑草を取ったり、落葉をまとめたりで苦労するわ」。更に「あなたは、花を見たり、写真を撮ったりするだけで、何にもしないわね」と畳み掛けてくる。
私は、起き抜けに一方的に言われ、へそを曲げ「へー、そーお、何にもしてないよ」と応える。内心では、(生い茂った雑草取りや、種や球根植えをやっているのに)と思いつつ、口答えは火に油と、じっと我慢して、嵐の通り過ぎるのを待つ。
確かに、毎日の管理は大変だと思う。妻から「これから、ますます大変になって、続けられないわよ。そうなったらどうするの」とも責めたてられる。確かに、今年に入って妻は古希を迎え、私は先月、後期高齢者入りだ。
隣の母屋に住んでいた父は、私が幼かった頃から、道具を揃え、脚立に乗って、庭木の手入れを続けていた。
「植木屋さんに間違われ、通りがかりの人から、道を聞かれたよ」
と父がこぼしていたことを、思い出す。それを知っている妻から、
「あなたは、お父さんと違って、庭仕事が嫌いなのね」
と時々嫌味を言われる。
家を建てた際、女性建築士が書いた『エクステリア』の本を読んで構想を膨らませた。その後もヘルマン・ヘッセ『庭仕事の愉しみ』の本も読んだ。本など頭から入って、行動がともなわないのは、私の悪い癖だ。もう少し、妻の側に寄り添って、庭仕事をやらねばとは思っている。いつになるのやら。そのうち、こちらのほうも草臥れてくる。
ラジオで別所哲也の「おはよう・モーニング」を聞いている。今朝、アメリカン・ネイティブは、月々の満月を呼ぶ言葉があると放送が流れてきた。
四月は、「シーズムーン(種の月)」、五月は、「フラワームーン」と呼ぶそうだ。春を迎えて、我が家の庭にも、秋に植えた球根や蒔いた種から、次々に花々が咲いてくる。一年中で、一番の花盛りの時だ。
白い「梅」の花を皮切りに、「ミモザ」の黄色い小さな花、隣家の女の子が好きな「チューリップ」は、色とりどりの花を咲かせる。近所で見かけ、気に入って植えた古代バラの「ナニワイバラ」は、今年も大輪の清楚な白い花を咲かせ、眼を楽しませてくれる。奈良の旅で気に入り、昨秋、種を蒔いた「レンゲ」もきれいに咲いてきた。
去年は「スミレ」、今年は「忘れな草」の花盛りだ。
もともと、花の名前がわからず、聞いても忘れる私には名前の知らない花々が、次々に咲いてくる。
「ウツギ」は、冬の間は、枯れ木で、枯れたのかと思っていると、春を迎えて、瑞々しい葉が伸び、可憐な花を咲かせる。植物の生命力の強さを感じる。
子供が小さい時、泊まった戸隠のペンションで、苗木をもらって植えた「白樺」は、大きく育って我が家のシンボルツリーになった。この木を見ながら四季の移ろいを感じる。庭から採れる果実は、ジャムや貴重なビタミン源になる。
「ゴーヤ」は緑のカーテンとサラダになる。四季折々の植物は、食卓を豊かにし、見る人に豊かな感情を与えてくれる。我が家の庭もそうだ。
庭も人生と同じ、愛でているばかりでなく、種を蒔いたり球根を植えたり、水やり、雑草取りなど、日々の管理が欠かせない。
やがて春が過ぎ、夏の花々が咲き、秋には秋の花が、そして冬が来る。四季の庭の花々を見ながら、自然の営みを人生になぞらえて、ふと物思いにふける。
写真:Google写真・フリーより