テル先生 遠矢 慶子
ごっとん、ゴトゴト、ゴトゴト。飛行機は、深夜の羽田空港に着陸した。
隣に座っているテル女史先生をそっと見る。ほっとした表情、やっと日本に戻って来られたという10年の疲れと安堵が顔にも表れている。 二人分の荷物をカートに載せ、車椅子のテル先生とタクシー乗り場へ急いだ。最終便で人影もまばらの空港待合室。テル先生が八十二歳で急にオーストラリアに移住して、ちょうど十年が経っていた。
私は、学友たち4人でブリスベンの友人所有のコンドミニアムに長期滞在をしていた。毎日ゴルフにショッピングと遊びまわっていた。
少々飽きてきて、やっとアデレードに住む先生に電話をかけてみた。
「とにかく1日でも2日でもいいから、アデレードに来てちょうだい」
一人異国で住むテル先生に会わずに帰国するわけにもいかず、懇願されて、西オーストラリアのアデレードに飛んだ。
7年ぶりに会う先生は、外国人のように体いっぱいに喜びを表し、両手を広げてハグされた。
毎日、車椅子を押して一緒に街を歩き、いつも厳しい表情の凛とした先生が、信じられないほど優しい。
「お願いがあるの。私に日本に帰るチケットを買ってきてくれない?慶子さんと一緒に帰りたいから」
弱音を吐いたことのない、いつもと違う表情で訴える眼差しに、私も
「分かりました」と、一人でダウンタウンのJALのオフィイスに行った。
東京行きは満員で、大阪行きがやっと取れ、大阪から国内線で羽田へ飛ぶことにした。 帰国当日の朝、小さなバッグを持ったテル先生は、広いコンドミニアムに何もかも残して、急に帰ることに何の未練もない様子だった。
私が45年前、葉山に越した時、母に「先輩が葉山に住んでるから、一度訪ねてごらんなさい」と言われた。
一色海岸を見下ろす高台のテル先生の家を初めて訪問した。ちょうど先生は、主婦たちに英会話を教えていた。即、私も入会させられた。
佐藤テル先生は1904年生まれ、英語学校を出て、その頃としては珍しい職業婦人で、日本進出のフォード社で働いた。
戦後は磨きのかかった英語力で駐留軍の司法政治の顧問、教科書の翻訳とキャリアウーマンとして活躍した。
その間、登山に目覚めニュージランドへ女性五人の遠征隊の隊長として最高峰クック山に登る。得意の語学力で、ヒラリー郷やノーマン・ハーデイと交流を深め、その頃、女性アルピニストとして一世を風靡した。
世界的な登山家というと、がっちりした体格の真っ黒に日焼けした体育系の女性を想像する。テル先生は原節子そっくりの色白で、鼻が高く美人で外国人のようだ。そのうえおっしゃれで、白髪に紫色がトレードマークだ。
葉山国際交流協会、湘南ウイメンズクラブとつぎつぎと国際的組織を作り、その行動力と企画力には感心する。
そんなテル先生が急に思い立って、82歳でオーストラリアに移住するという。移住先は、何回も訪れたニュージランドでも、2年留学したアメリカでもなく、訪れたことのないオーストラリアで更に驚いた。世界の経済を考えてのことだった。
その後、テル先生の住む町と葉山町は姉妹都市となり、賑々しく市長、議員らが大勢アデレードに集い、私も公費で、初めて参加させてもらった。
その時が、テル先生の人生最後のハイライトで、その後、両市とも不景気で、学生の交換も途絶えている。
私に付いて帰国してから、テル先生は元気を取り戻し、ネイビーの婦人たちとの会、山岳協会の名誉会員としての会合に、私はよく運転手をしてあげた。
時々おのせした車のシートがしめっていることがあり、誰からともなく会員に
「テル先生、時々おもらしすることがあるので、横須賀ベースの家に行くときは、当番が必ず先生のために座布団を持参するように」と、申し伝えが来た。
ある時、東京の山岳クラブの会合に出かけるテル先生を、逗子駅に送った。
「お気を付けて、いってらっしゃい」と、車から降り改札口に向かうテル先生の後ろ姿に声をかけ、思わず
「あっ! 大変、どうしよう」
スカートのお尻の辺りが丸く大きく、濡れているのがありありと分かる。
自分のことのように狼狽してもどうすることも出来なかった。
歳をとることの残酷さを見て、何とも悲しく、おそろしくなった。
92歳でオーストラリアから帰国して8年、先生は、100歳の時久里浜のホームに入られ、102歳で、波乱万丈の輝かしい生涯を終えた、
私の最も尊敬する女性、佐藤テル先生、天は頭脳、行動力、語学力、健康とすべてのものを与えてくださったが、子供もなく、最後は一人だ。
どんな人も、人知れない苦しみを背負って生きている。
【了】
イラスト:Googleイラスト・フリーより