ハウス・トホター制度 桑田 冨三子
ドイツのライン河のほとりにボンという街がある。ベートーベンの生地として有名だ。
まだドイツ統一の成る前の話だから、ベルリンが連合国とソ連に分割統治され、当時の西ドイツのアデナウアー首相の地元であるボンが西ドイツの首都になっていた。
ボンは小さな町だった。当時の西ドイツ人は、ボンのことを、首都ではなくブンデスドルフ(首都の村)とよんだ。
1963年、25歳の私はそこに10カ月ほど住んだ。ドイツ語を覚えるためだった。
ドイツには、ドイツ語を習得するのにハウス・トホター(家の娘)という習わしがある。日本の家事見習い女中奉公みたいなものだが、トホター(娘)というのが重要で、雇い主はハウス・トホターに仕事をさせるが、家族だから給料は払わない。そのかわり、なにがしかの小遣いをくれる。
つまり、女中や運転手の使用人ではなく、身分はその家の娘として扱われる。だから食事は家族と共にテーブルにつき、同じものを食べる。一家団らんの席にも加わる。
誕生日が来るとパーテイを開き、友人を招いてくれる。
ボンのワルダーゼー伯爵家での私の仕事は、4人のこどもの世話であった。長男のベルンハルトは5年生、次男ゲオルグは4年生、長女イザベルが2年生、1歳の赤んぼうのメラニーだった。
ベルンハルトは聡明な子だった。算数が得意で、ラテン語とギリシャ語を学んでいたが、体が弱く、よく学校を休んだ。
ゲオルグは暴れん坊で、ふざけるのが大好き、いつも学校から洋服を汚して帰ってきた。金髪の可愛いイザベルは、あまえっこの泣き虫、末っ子のメラニーは、いつも機嫌のいい健康な赤ちゃんで、ミルクを調合し、飲ませて、おしめを取り換えるのが私の仕事だった。
ユルゲン・ワルダーゼ―伯爵は40代の格好いい人で、博士号を持つドイツ財務省の役人だった。気のいい、やさしいお父さんだったが、ギゼラ夫人にはとても、気を遣っているように見えた。
高校の同級生だったというギゼラ伯爵夫人は、背が高く、やせ型で、アデナウーアー首相の姪に当たる人だったが、なるほど、なんとなくアデナウアー首相に姿が似ていると思った。
小児科の医者で、家の中でいつも白衣を着ていた。大変な清潔好きで、子どもたちは、いつも手洗いや、うがいをしないと叱られていた。
子どもたちはドイツ語に慣れていない私なのに、容赦ないはやくちのドイツ語でしゃべりたてる。私は、彼らの表情や、声のトーンに、勘を働かせて、何とか対応し、その場をしのいだ。それでも上手くいかないことがあった。
そのときは、前掛けのポケットにしのばせてあるコンサイス辞典の助けを借りた。ベルンハルトは私の顔をみてニヤニヤしながら、私の解らなかったドイツ語の綴りを紙に書いてくれる。こうして殆どはクイズ・ゲームのような形で平和におさまった。
私がもらった小遣いは100マルクだった。日本の1万円ほどである。
夕方になると仕事を解放された私は、ボン大学の夜学講座に通った。大学は無料だったから助かった。ドイツ語もだいぶ上達したようで、友達もできた。
楽しい10ヶ月は瞬く間に過ぎた。
帰国の日には、ギゼラ伯爵夫人から、金色と紺色のワルデルゼー家紋章付きの修了書をもらった。それには、我が家に10カ月滞在し、ドイツ語を習得したことを証明する。話すことはほぼ良好、聞き取りは大変良い、と書いて署名がしてあった。
この証明書は帰国後の私の就職に絶大な効果を発揮した。東京オリンピックを控えていたドイツ航空会社にすぐ採用された。
航空会社に職を得たおかげで、私はドイツに出かけることも多く、ワルダーゼー家をしばしば訪問した。夏休みには、キールにあるエヴァスドルフ城に行った。
そこは、彼らの何代か前のおじいさんにあたえられた城だそうで、いずれはベルンハルトが受け継ぐと聞いた。
1899年、清国に義和団の乱(北清事変)が発生した時、ドイツのウイルヘルム2世は、彼らのおじいさんに当たるアルフレート・フォン・ワルダーゼー伯爵元帥のひきいる遠征軍をはるばる清まで派遣した。ワルダーゼーは、列強8か国連合軍全体の最高司令官として北京を占領したと、世界史の本に書いてあった。
ボンの家にいた往年の聡明な少年・ベルンハルトは今、在アルゼンチン・ドイツ大使だそうだ。赤ちゃんだったあのメラニーはドクターになって、今、デュッセルドルフで小児科の医院を開いている。
ドイツのハウス・トホター制度は、私の人生にあざやかな彩を添えてくれたと、ほのぼの嬉しく思っている。
イラスト:Googleイラスト・フリーより