元気100教室 エッセイ・オピニオン

ハウス・トホター制度 桑田 冨三子

 ドイツのライン河のほとりにボンという街がある。ベートーベンの生地として有名だ。

 まだドイツ統一の成る前の話だから、ベルリンが連合国とソ連に分割統治され、当時の西ドイツのアデナウアー首相の地元であるボンが西ドイツの首都になっていた。
 ボンは小さな町だった。当時の西ドイツ人は、ボンのことを、首都ではなくブンデスドルフ(首都の村)とよんだ。


 1963年、25歳の私はそこに10カ月ほど住んだ。ドイツ語を覚えるためだった。
 ドイツには、ドイツ語を習得するのにハウス・トホター(家の娘)という習わしがある。日本の家事見習い女中奉公みたいなものだが、トホター(娘)というのが重要で、雇い主はハウス・トホターに仕事をさせるが、家族だから給料は払わない。そのかわり、なにがしかの小遣いをくれる。

 つまり、女中や運転手の使用人ではなく、身分はその家の娘として扱われる。だから食事は家族と共にテーブルにつき、同じものを食べる。一家団らんの席にも加わる。
 誕生日が来るとパーテイを開き、友人を招いてくれる。


 ボンのワルダーゼー伯爵家での私の仕事は、4人のこどもの世話であった。長男のベルンハルトは5年生、次男ゲオルグは4年生、長女イザベルが2年生、1歳の赤んぼうのメラニーだった。
 ベルンハルトは聡明な子だった。算数が得意で、ラテン語とギリシャ語を学んでいたが、体が弱く、よく学校を休んだ。
 ゲオルグは暴れん坊で、ふざけるのが大好き、いつも学校から洋服を汚して帰ってきた。金髪の可愛いイザベルは、あまえっこの泣き虫、末っ子のメラニーは、いつも機嫌のいい健康な赤ちゃんで、ミルクを調合し、飲ませて、おしめを取り換えるのが私の仕事だった。

 ユルゲン・ワルダーゼ―伯爵は40代の格好いい人で、博士号を持つドイツ財務省の役人だった。気のいい、やさしいお父さんだったが、ギゼラ夫人にはとても、気を遣っているように見えた。

 
 高校の同級生だったというギゼラ伯爵夫人は、背が高く、やせ型で、アデナウーアー首相の姪に当たる人だったが、なるほど、なんとなくアデナウアー首相に姿が似ていると思った。
 小児科の医者で、家の中でいつも白衣を着ていた。大変な清潔好きで、子どもたちは、いつも手洗いや、うがいをしないと叱られていた。

 子どもたちはドイツ語に慣れていない私なのに、容赦ないはやくちのドイツ語でしゃべりたてる。私は、彼らの表情や、声のトーンに、勘を働かせて、何とか対応し、その場をしのいだ。それでも上手くいかないことがあった。
 そのときは、前掛けのポケットにしのばせてあるコンサイス辞典の助けを借りた。ベルンハルトは私の顔をみてニヤニヤしながら、私の解らなかったドイツ語の綴りを紙に書いてくれる。こうして殆どはクイズ・ゲームのような形で平和におさまった。

 私がもらった小遣いは100マルクだった。日本の1万円ほどである。

 夕方になると仕事を解放された私は、ボン大学の夜学講座に通った。大学は無料だったから助かった。ドイツ語もだいぶ上達したようで、友達もできた。


 楽しい10ヶ月は瞬く間に過ぎた。
 帰国の日には、ギゼラ伯爵夫人から、金色と紺色のワルデルゼー家紋章付きの修了書をもらった。それには、我が家に10カ月滞在し、ドイツ語を習得したことを証明する。話すことはほぼ良好、聞き取りは大変良い、と書いて署名がしてあった。

 この証明書は帰国後の私の就職に絶大な効果を発揮した。東京オリンピックを控えていたドイツ航空会社にすぐ採用された。
 航空会社に職を得たおかげで、私はドイツに出かけることも多く、ワルダーゼー家をしばしば訪問した。夏休みには、キールにあるエヴァスドルフ城に行った。

 そこは、彼らの何代か前のおじいさんにあたえられた城だそうで、いずれはベルンハルトが受け継ぐと聞いた。
 1899年、清国に義和団の乱(北清事変)が発生した時、ドイツのウイルヘルム2世は、彼らのおじいさんに当たるアルフレート・フォン・ワルダーゼー伯爵元帥のひきいる遠征軍をはるばる清まで派遣した。ワルダーゼーは、列強8か国連合軍全体の最高司令官として北京を占領したと、世界史の本に書いてあった。


 ボンの家にいた往年の聡明な少年・ベルンハルトは今、在アルゼンチン・ドイツ大使だそうだ。赤ちゃんだったあのメラニーはドクターになって、今、デュッセルドルフで小児科の医院を開いている。
ドイツのハウス・トホター制度は、私の人生にあざやかな彩を添えてくれたと、ほのぼの嬉しく思っている。

 イラスト:Googleイラスト・フリーより

ごきげんよう 月川 りき江

 長崎に住んでいる二つ上の姉が認知症らしい、と妹からの電話で知った。
 他人の話しは気軽に聞いていたが、やはり身内になると少々寂しくなった。


 先週、出かけた時、東中野のバス停で隣合わせた女性と、雑談をかわして別れる時、その女性が「ごきげんよう」と言った。歳はたぶん六十歳前半かなと思った。この「ごきげんよう」の言葉で六十数年前の姉のことを思い出した。

 長崎市内から離れた田舎に住んでいた私達は、九州で一番都会だと思う博多に、行くことは夢であり、楽しいことだった。
 音楽会も美術展も観劇もすべて博多だけなので、年に一、二回、姉と二人で行って楽しい日を過ごしていた。博多には昔から親しくしている家庭があるので、いつも泊めてもらった。そこには同じ歳頃の娘さんが二人いるので好都合だった。

 ある日、母がきれいなピンクのスーツケースを買ってきて、
「仲良く交替で使いなさい」と言った。

 その頃、博多で杉村春子の舞台公演があることを知り、姉と二人で行くことになった。前夜、旅行の準備をする時、お土産などもあり、スーツケースだけでは入らなくなった。
 今のようなお店のしゃれた紙のバックなどはなかったので、残りの荷物は風呂敷に包んだ。姉が
「重いものはスーツケースに入れたから、あなたはこの軽い方の風呂敷を持ちなさいね」
 と優しく言う。私だって重くてもいいからスーツケースの方がいい。と言いたいが言えない。最初から不平いっぱいの思いで出かけた。


 博多では泊めていただく家の、娘さん二人と一緒に観劇を楽しみ、おしゃれなレストランで食事をして、夜の博多を堪能した。翌日、帰りにはお土産も加わり風呂敷包みが大きくなった。右手にはしゃれた小型のハンドバックを持ち、片方には大きな風呂敷包みを持つ、なんともみじめな姿だった。
 博多駅では娘さん二人が見送りにきてくれた。

 今は列車の窓は絶対に開けられないが、当時は自分達で開け閉めができるので、発車するまで窓をあけてホームの人とおしゃべりをしていた。
 いよいよ発車のベルがなり、窓を閉める時、友人も私も、
「さようなら」と言った。その時、姉が
「ごきげんよう」
 と言って窓を閉めた。私はびっくりして姉の顔を見た。

(なにをカッコつけてるのよ)
 と言いたかったが何も言わず、二人並んで席に座った。

 座席は四人掛けなので、私達の前には中年の女性二人が座っている。
 その時、その女性が、
「上方(かみがた)のお方ですか?」と姉に聞かれた。「ごきげんよう」の言葉を聞き、おそらく東京の人だと思ったのだろう、と感じた。

 姉は、笑みを浮かべただけで(はい)とも(いいえ)とも言わない。
 そして私に近寄り耳元で、
「私に話しかけてはだめよ」
 と言う。
 私が長崎弁の方言まるだしでおしゃべりしては(上方のお方)が台無しになってしまうと思ったのだろう。
 私だって馬鹿ではない。
「おばさま達はどこまで行かれるのですか?」
 と丁寧に聞いた。
「私達は諫早ですよ」の返事。

 ウエ~ッ。最悪。諫早は長崎駅の一つ手前の駅だ。
 これでは二時間半、無言でいなければならない。諦めてバックから文庫本を取り出した。しかし読んでいても、字を追うだけで、風呂敷包みの不満と「ごきげんよう」のカッコつけで、腹がたち、頭にはいらなかった。


 今でも妹と話すが、「あの頃のお姉ちゃんは強かったね。長女の特権かしら」と二人で笑う。
 秋には、年に二回と決めている長崎へ行く。認知症が始まったという姉に、
「ごきげんよう」と言ってみよう。認知症の初期は、直近のことは忘れても、昔のことは覚えている、という。何と答えるだろうか。

 おそらく笑みをたたえるだけで、フフフというだろう。

Googleイラスト・フリーより

レバー料理 武智 康子

 先月中旬、久しぶりに上京してきた主人の弟夫妻を迎え、都内在住の妹も含めて、お台場のあるホテルの三十五階にある、鉄板焼きのレストランで会食をした。


 ちょうど天候にも恵まれ、東京湾に沈む太陽を見た後、レストランに入った私達は窓越しに見える夕暮れの東京の街を見ながら、お互いの元気な姿にビールで乾杯、そして食事に入った。

 前菜に続いて、いよいよ本番の鉄板焼きに入ろうとした時、四種類の「垂れ」がだされた。
 丁度、私の後ろに立っていた料理長が、その「垂れ」について説明を始めた。

 最初は、一般的なポン酢に胡麻垂れ、三番目はトマトを細かく刻んだものをオリーブオイルなどの調味料で和えたイタリア風の「垂れ」、そして最後の「垂れ」の説明を聞いた時、私の背筋に寒気が走った。
 それは、レバーをベースに調味料と和えた「垂れ」だったのだ。


 レバーと言う言葉を聞いたとたん、私の頭の中を約六十年前のことが、閃光のように過ったのだった。
 それは、私が大学四年生の時のことだ。当時、生化学を専攻していた私は、教授から卒業論文研究に「カタラーゼの免疫学的研究」と言うテーマを頂いた。

 カタラーゼは、呼吸酵素の一種で人体には不可欠の物質である。
 しかし、当時、岡山大学の高原教授によって、カタラーゼを持たずに生存している人がいる事が、発表されたのだ。そこで、カタラーゼの人体での働きの研究が盛んになったのだった。はからずも、私もその研究の一端を担うことになったのだ。

 私とペアの友人は、先ず、カタラーゼの結晶をつくることにした。それには新鮮な肝臓が必要である。私達は、教授がコンタクトしてくださった県営のとさつ場へ向かった。
 勿論、私達はとさつ場に行くのは初めてだったが、門を入るなり、牛をたくさん乗せたトラックが目に入った。私達は、あの牛の一頭から肝臓をもらうのかと思ったら、何だかやるせない気持ちになった。
 それでも、私達は勇気をふるい、事務所で手続きをとると、案内された控え室で肝臓をいただくのを待った。


 外から時折聞こえる牛の鳴き声に、ブラインドの隙間から覗くと、遠くに見えたのは、トラックから降りようとしない牛の姿だった。
 彼らも、本能的に分かっているのだろう。断末魔のような鳴き声をよそに、無理矢理トラックから降ろされていく牛達の姿だった。
 なんとも落ち着かない風景に、実験に張り切っていた私達の気持ちは、だんだん萎えていくようだった。

 それからまもなく、ノックされた控え室のドアを開けると、厚手のビニール袋に入れられた、ほんの今、殺されたばかりの一頭分の大きな肝臓を渡されたのだった。

 受け取った私達は、新鮮とはいえ、生暖かい肝臓に顔を見合わせて、何ともいえない悲しい気持ちになった。一体、私達は今から何をしようとしているのだろうか、と考え込んだのだった。

 気を取り直して、肝臓を冷蔵のバックにいれ、事務所の方にお礼を言うと急いで大学の研究室に戻った。そして、さっそく肝臓を切り刻んで実験に取り掛かったのだ。
「牛さん、ごめんね。」
 と心の中で言っていたのを思い出す。


 それ以来、私はレバーを食べる事が出来なくなったのは勿論だが、「レバー」と言う言葉を聞いただけでも、あの日のとさつ場での出来事が、頭の中を過るのである。だから、今もって、レバーの料理を作った事もない。
 その日の「垂れ」にはレバーの形こそないが、レバーをベースにした事を聞いた以上は、私は、どうしてもその垂れに手をつけることは出来なかった。
 主人をはじめ弟や妹たちは、珍しいお味でとても美味しいと言っていたが。

 料理も進み、久しぶりの逢瀬に話に花も咲き、そろそろデザートが出る頃に近づいた時、ふと、窓の外に目を向けると、既に沢山のビルに灯がともり、眼下に見える東京の街は、星を散りばめたように輝いていて、その中で東京タワーとスカイツリーが、くっきりと浮かんでいた。

 その美しい幻想的な風景に、レバーのために少し萎えかかっていた私の気持ちも、華やいできた。
 そして、私達、兄弟姉妹が元気なうちに、また集まろうと約束をして夫々の帰途に着いた。
 私達にとって、思い出となる夏の一夜だった。


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使い分け 筒井 隆一

 パソコンの画面が、最近見づらくなってきた。また、葉書や手紙を読み書きするときも、今まではっきりしていた小さな文字にピントが合わず、違和感を覚える。老眼が進み、手持ちの眼鏡では対応できなくなってきたのだろうか。

 親から貰った歯と目は、私の自慢だった。
 歯については、年二回のチェック、クリーニングをするだけで、何の手入れもいらない。歯科クリニックの女性院長は、「筒井さんは、とてもよい歯です。私からみても、本当にうらやましい」
「この歳で虫歯が一本もなく、永久歯三十二本が全部自前なんて、両親に感謝しなければなりませんね」
 一方目に関しては、高校時代の山岳部の後輩が、JR大塚駅前で、眼科クリニックを開業している。ここにも年に二回定期的に通い、彼から視力、視野、眼底などの検査を含めた、総合的な検診を受けている。
 これまでは、特に問題なく推移してきた。この後輩も、
「筒井先輩は、もともと乱視が若干入っていますが、今日の視力検査でも異常によく見えてますね。優等生ですよ」
「先日運転免許の更新があった。視力検査の結果では、眼鏡使用の条件が付かなかったよ。でも最近、特に近距離の視力が落ちてきているようで、今日は相談に来たんだ」
 歯は、まだ大丈夫そうだが、目は少々問題が出てきたようだ。

 同年代の人は、眼鏡を何個位持っているのか分からないが、私は現在、四種類を使い分けている。
 まず、車の運転時に使用する遠距離用。そして街歩きに遠・中用。次に中・近用、これは笛の演奏をするときに、楽譜を見るためのものだ。最後に近・近用は、パソコンの利用時や読書、筆記用に使っている。

 眼鏡の使い分けが、少々面倒くさい時もある。それぞれの性能に合わせ、その場の用途で使い分けるには、常時四種類の眼鏡を持ち歩き、都度かけ替えなければならない。それぞれの持てる機能を発揮させ、活かすためには、それもやむをえないのだろう。しかし、遠から近まで一つの眼鏡で全てカバーできるのであれば、四つを持ち歩く必要がない。それは可能なものだろうか。

 例えばゴルフのプレーを考えてみる。ドライバーで打ち出した球を目で追う。ナイスショットが出れば、二百ヤードを超える先まで、ボールの行方を追わねばならない。グリーンにオンしたら、ラインを読んでパッティングする。ボールと目の距離は一、五メートルほどだ。ホールアウトしたら、スコアをカードに書き込む。こちらは至近の三~四十センチメートル。

 一度スタートしたら、プレー中に眼鏡をかけ替える余裕など無いから、この一連の作業を一つの眼鏡にカバーしてもらわなければならない。
 一つの眼鏡で、何から何まではっきり見られるなら、結構な話だ。ただ、全ての対象が同じレベルでシャープに見えることはないだろう。例えば見える範囲が狭まるとか、若干ゆがみが生じるとか、完璧なものはなかなか手に入らないのではないか。
 守備範囲が拡がれば、どこかに手抜きが出るのは、よくあることだ。どちらを選ぶか。

 グズグズ思案していても仕方がない。
 近所の眼鏡店、「パリ・ミキ」に行ってみた。
「四つ使っている眼鏡を一つにまとめてみようと思うんだけど、近くから遠くまで同じようにはっきり見える眼鏡なんて作れるの?」
「新聞などで宣伝していますが、今の技術で全てを完璧にカバーするのは無理です。近くを主体にするか、遠くを主体にするか、どちらかに絞って頂かないと、目の方が参ってしまいますね」
 商売っ気がないのか、正直なのか、店員が分かりやすく説明してくれる。

「それなら、近くを見るのを主体に作ってみてください。葉書の文字が読みやすくなり、且つ数メートル離れたTVも、その眼鏡を掛けたまま見えるように調整してほしいな」
 検査用レンズを何度も入れかえ、細かい調整をしてレンズが決まった。


 数日たって受け取り、実際にかけてみると、守備範囲は確かに拡がっている。が、なぜかしっくりこない。かけ続けていると、慣れて馴染んでくる、という感じでもない。
 眼鏡に限らず、身近な道具の使い分けは難しい。しかし煩わしさがあっても、時と場合によって使い分けるしかないな、というのが結論だった。


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ストレスは必要なり  青山貴文

 新橋のエッセイ教室に通って、10年近くになる。

 毎月1回、エッセイ教室の穂高健一先生と十数人の生徒仲間とお会いし、事前に配布されたお互いの作品について批評しあう。
 当初、教室で褒められることは少なく、どうしようもない作品が多かった。それでも、10年近くやっていると、それなりの評価を頂くようになってきた。それらすべてを、必要に応じて修正し、選ぶことなく無作為に毎月1回、私のブログに載せている。

 上手く書けるときも、下手なときもある。ただ、書いているときは最良の作品を書こうと懸命に苦心している。
 エッセイ教室の仲間内では、書くネタが無くなったと思い込んだり、あるいは新たな習い事に注力する人など、この教室をやめていく人もいる。

 私も、そろそろやめるかなと思い詰めたりしていると、
「エッセイは書くネタがなくなってから、本当に味のある、読者に感動を与えられる作品が書けます」
 と、先生は私の心を見透かすようにおっしゃる。そのノウハウを求めて通っているが、未だにどのように書けばよいのかよく解らない。

 その一方で、以前と同じことを教室で聞いたにも関わらず、「あそうか、そこが問題であったか」とか、「こんな光った表現になるのか」とか、一瞬ひらめくことがある。自分の作文力が、先生の言うことを理解できる段階になり、閃いたのかもしれない。そして、自分のノウハウの一つに加わってくる。

『継続は力なり』とはよく言ったものだ。自分の力が、ほんの僅かに上向いてきたり、あるときは下向いたり蛇行しながらもほんの僅かに上昇してゆくのだと思う。
 よって、先生の助言を聞き漏らせないよう、エッセイ教室は休むことなく、毎回出席を心がけている。

 エッセイの投稿納期が近づいてくると、推敲中のエッセイ数編の中から、
(今月は、これにするか)
 と、選べばよいのだから、余り心労にはならない。心労は、健康に良くないというから、作文力の乏しい私には適切なやりかただ。

 ところが、手持ちの推敲中のエッセイが少なくなると、しだいに不安となり、大きな精神的な苦痛が生じてくる。何とか拙作でも良いから数編を書き上げ、推敲するエッセイ群の仲間にしている。
 それらを、数日、時間をかけて推敲する内に、思わぬ優れものに化ける時がある。だから、推敲は面白くてやめられない。

 油絵で、絵の具を混ぜ、塗り加えている内に、思わぬ傑作ができてくるのに似ている。どうも、私のエッセイは、偶然性が大きく影響しているようだ。
 一方、緊張感が無いと、人間いい加減になり、怠惰になるともいわれている。すなわち、少しの刺激は必要であると感じる。


 NHKの早朝4時過ぎのラジオに、「明日への言葉」という番組がある。一分野で事をなしとげた90歳前後の多くの方が、大切なことは「挑戦」だと語る。挑戦は、多大な苦痛を伴う。この苦痛が大切らしい。
 先日、この番組に出演され、多くの患者の心の病を治されてきた高橋幸枝医師が、
「私の今日あるは、挑戦であった。100歳になったので、ほんのチョット無理をすることにする」
 と、仰っておられた。
 百歳になったので、無理をせず、ゆっくりしようと言わず、少し無理をしようと言っておられた。人間、何歳になっても、少々のストレスは必要ということらしい。

 さすれば、私はまだまだ挑戦しなければならない。あと、20年は、生ある限り、挑戦しよう。ただ、この挑戦は、事を成し遂げた方の生き方だ。私のように中途半端な者は、もう少し楽しい方法を考えることも大切であろうと、逃げの手も考えている。ここに、事を成し遂げられなかった凡人のしたたかさがある。

 エッセイ教室は、毎回新しい短文を提出しなければならない。よって、都度、適度な刺激を与えてくれる。いいものを趣味にしたものだ。
 趣味の一つになったエッセイを書けなくなったら、自分の成長代もなくなった時と、あきらめようと考えている。

 若い頃、嫌っていた作文に、こうまでのめり込んだのは、なぜだろう。
多分、私のブログを多くの読者が待ってくれているからであろう。その読者の中には、適切な批評をくれる方もいる。
 自分でも上手く書けたエッセイだと思う時は、それなりの意見をくれる。不毛・不作のときは、やんわりとその改善点を突いてくれる。中には、核心を突いて、厳しく批評してくれる方もいる。どちらの批評もうれしいものだ。
 読者のために、いや自分のためにも、適量のストレスを頂きながら引き続いてエッセイを書くことにしよう。            

7月のつぶやき 桑田 冨三子

 7月は、七夕に詩歌を短冊にかいてそなえる月だから文月、夜は月が明るく、すずやかだから涼月ともいうそうだ。

 昨日は、わたしの誕生日だった。傘寿のお祝いと書かれたカードがついた花束が届いた。息子家族からだった。孫の佳凜から電話が来た。
「お誕生日おめでとうございます。ねエ、オーミ(ドイツ語・お婆の意)。オーミは、ほんとに30なの?」
 声のトーンが、いかにも訝しげだ。
 電話の向こうは、さぞかしアンビリーバブルといいたげな顔付きだろうと想像し、思わず笑ってしまった。
「3年生じゃァ、未だ傘という漢字、習ってないよね」

 夕方からイル・デ―ヴの「魂のうた」リサイタルに出かけて行った。
 イル・デ―ヴは、4人の男性ヴォーカルで全員、主役級のトップオペラ歌手である。
 前半は一人づつのソロであったが、後半は、かもめ、サボテンの花とか懐かしい昭和ソングス、特攻隊員への鎮魂、復興、未来の子供たちへ、など、「魂のうた」と名付けただけあって、内面的メッセージがよく伝わってきた。
 輝かしい歌声や、極上の男声合も、大変、楽しめるものだった。

 特に最後がよかった。
 それはイル・デ―ヴ版アレンジ・本邦初演の「花は咲く」であった。歌の最後の歌詞、いつかは生まれる君のために・・・、私は何を残しただろう、は何度も繰り返された。
 山下浩二のバリトンの響きは素晴らしく、望月哲也の振るえる抒情的テノールは、心の琴線にふれた。会場の人々はみな心を奪われ、感動で魂を揺さぶられた。

 鳴りやまぬ喝采の中に、壇上の司会者は一人のうら若き女性を見つけて、皆に紹介した。それは、今歌った歌、あの3.11の「花は咲く」の作曲者・菅野ようこさんであった。日本だけでなく、世界の人々を感動に導いた歌の作曲者は、謙遜で美しい、しなやかな人だった。

 久しぶりに感動したコンサートが終わり、家へかえって一人に戻ると、なんだかあの歌が、あの歌詞が、いつまでも心に残っている。

 80年も生きてきたわたしは一体、何を残したのだろうか?これは、かなりきつい問いかけだ。


 自然界の生き物は皆、子孫を残すと死んでしまう。
 生まれた川に戻ってきて産卵を済ませた鮭が、すぐ死んでしまうのを見たことがある。子孫を残せば、それで生きる役目は終わるのだ。
 生殖を済ませた後でも長く生き残っているのは、人間だけらしい。特に女性は閉経後も、とても長く生きることが出来る。進化論学者が言ったのを聞いたことがある。
 人間という種が長生き出来るようになったのは、それが種にとって有利だからです。その種にとって有利なことだけが、進化するのを許されるのです。

 フウン、そうなのか。
 でも、長生きすることが人間という種にとって有利とは、一体どういうことなのだろうか?


 進化論学者は、こうも言っていた。子どもを産んで良く育てる。
 これは人間という種にとって大事なこと。でも子どもの代だけでは心配だ。その子供がちゃんとまた子供を産んでよく育てられるかまで、見守る必要があるのです。
 だから、我々は、働く息子夫婦の孫の世話を引き受けるというのは、長生きするようになった進化の重要な要素なのです。 

                       完

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テル先生 遠矢 慶子

 ごっとん、ゴトゴト、ゴトゴト。飛行機は、深夜の羽田空港に着陸した。

  隣に座っているテル女史先生をそっと見る。ほっとした表情、やっと日本に戻って来られたという10年の疲れと安堵が顔にも表れている。 二人分の荷物をカートに載せ、車椅子のテル先生とタクシー乗り場へ急いだ。最終便で人影もまばらの空港待合室。テル先生が八十二歳で急にオーストラリアに移住して、ちょうど十年が経っていた。


 私は、学友たち4人でブリスベンの友人所有のコンドミニアムに長期滞在をしていた。毎日ゴルフにショッピングと遊びまわっていた。
 少々飽きてきて、やっとアデレードに住む先生に電話をかけてみた。
「とにかく1日でも2日でもいいから、アデレードに来てちょうだい」
 一人異国で住むテル先生に会わずに帰国するわけにもいかず、懇願されて、西オーストラリアのアデレードに飛んだ。

 7年ぶりに会う先生は、外国人のように体いっぱいに喜びを表し、両手を広げてハグされた。
 毎日、車椅子を押して一緒に街を歩き、いつも厳しい表情の凛とした先生が、信じられないほど優しい。
「お願いがあるの。私に日本に帰るチケットを買ってきてくれない?慶子さんと一緒に帰りたいから」
 弱音を吐いたことのない、いつもと違う表情で訴える眼差しに、私も
「分かりました」と、一人でダウンタウンのJALのオフィイスに行った。


 東京行きは満員で、大阪行きがやっと取れ、大阪から国内線で羽田へ飛ぶことにした。 帰国当日の朝、小さなバッグを持ったテル先生は、広いコンドミニアムに何もかも残して、急に帰ることに何の未練もない様子だった。

 私が45年前、葉山に越した時、母に「先輩が葉山に住んでるから、一度訪ねてごらんなさい」と言われた。
 一色海岸を見下ろす高台のテル先生の家を初めて訪問した。ちょうど先生は、主婦たちに英会話を教えていた。即、私も入会させられた。

 佐藤テル先生は1904年生まれ、英語学校を出て、その頃としては珍しい職業婦人で、日本進出のフォード社で働いた。
 戦後は磨きのかかった英語力で駐留軍の司法政治の顧問、教科書の翻訳とキャリアウーマンとして活躍した。


 その間、登山に目覚めニュージランドへ女性五人の遠征隊の隊長として最高峰クック山に登る。得意の語学力で、ヒラリー郷やノーマン・ハーデイと交流を深め、その頃、女性アルピニストとして一世を風靡した。

 世界的な登山家というと、がっちりした体格の真っ黒に日焼けした体育系の女性を想像する。テル先生は原節子そっくりの色白で、鼻が高く美人で外国人のようだ。そのうえおっしゃれで、白髪に紫色がトレードマークだ。

 葉山国際交流協会、湘南ウイメンズクラブとつぎつぎと国際的組織を作り、その行動力と企画力には感心する。

 そんなテル先生が急に思い立って、82歳でオーストラリアに移住するという。移住先は、何回も訪れたニュージランドでも、2年留学したアメリカでもなく、訪れたことのないオーストラリアで更に驚いた。世界の経済を考えてのことだった。

 その後、テル先生の住む町と葉山町は姉妹都市となり、賑々しく市長、議員らが大勢アデレードに集い、私も公費で、初めて参加させてもらった。
 その時が、テル先生の人生最後のハイライトで、その後、両市とも不景気で、学生の交換も途絶えている。

 私に付いて帰国してから、テル先生は元気を取り戻し、ネイビーの婦人たちとの会、山岳協会の名誉会員としての会合に、私はよく運転手をしてあげた。


  時々おのせした車のシートがしめっていることがあり、誰からともなく会員に
「テル先生、時々おもらしすることがあるので、横須賀ベースの家に行くときは、当番が必ず先生のために座布団を持参するように」と、申し伝えが来た。
 ある時、東京の山岳クラブの会合に出かけるテル先生を、逗子駅に送った。
「お気を付けて、いってらっしゃい」と、車から降り改札口に向かうテル先生の後ろ姿に声をかけ、思わず
「あっ! 大変、どうしよう」
 スカートのお尻の辺りが丸く大きく、濡れているのがありありと分かる。
自分のことのように狼狽してもどうすることも出来なかった。

 歳をとることの残酷さを見て、何とも悲しく、おそろしくなった。

 92歳でオーストラリアから帰国して8年、先生は、100歳の時久里浜のホームに入られ、102歳で、波乱万丈の輝かしい生涯を終えた、
 私の最も尊敬する女性、佐藤テル先生、天は頭脳、行動力、語学力、健康とすべてのものを与えてくださったが、子供もなく、最後は一人だ。
 どんな人も、人知れない苦しみを背負って生きている。

                           【了】

                           
            イラスト:Googleイラスト・フリーより

 

変わらない坂道 吉田 年男

 中学校の正門まえの路を歩いた。そこは自転車に乗って走ってみないと判らないくらいのわずかな起伏がついている。

 我が家からその路までは、トウモロコシなどが植わっていた広い畑を通って行かれた。直線にすると500mにも満たない距離であった。その路に立っていると、始業ベルを聞いてから畑を突っ切って登校していた懐かしい中学生のころを思い出す。

 畑だったところは、今では全て宅地に変わってしまい、二階建てなどの高いたてもが立ち並び、路も、中学校の校舎も我が家からは見えなくなった。
 都内を歩いていると、目印にしていた家やビルなどが、いつの間にか取り壊されて、街並み、風景が変わってしまうことがある。ここはどこなのか? 一瞬迷ってしまう。

 そういう時に、私がたよりにしているのは、路の起伏であり、曲がり角などの形だ。建物は変わっても、わずかな路の起伏や曲がり角をチエックすることで、変わる前の街の風景が見えてくる。


 JR市ヶ谷駅をおりて、外堀通りを飯田橋方面に向かって歩いた。いつも定量の水を蓄えている堀は、どこからの水なのか? ふっと思った。
 都内でも比較的高台の城西地区に水源をもつ、何本かの河川からという話を聞いたことがあった。起伏のことを考えながら歩いているうちに詳しく知りたくなった。
 時間をつくって調べてみたいと思う。
 東京の坂を撮影した写真展を観た。大きいサイズのものから小作品まで50点の、魅力ある写真が並んでいた。リストには、なんと展示作品の十倍の501か所の坂の名前が記されていた。あらためて東京の起伏の多いことにビックリした。


 501か所のうちの神田明神坂や昌平坂など300以上の坂の名前は、江戸時代からのものとリストに書かれていた。起伏や土地の形状は、大火や震災、戦災などに遭っても、そう簡単には変わるものではないのだと改めて思った。
 中学校正門前の緩やかな坂道は、周りの景色は目まぐるしく変わっても、そのたたずまいは、中学生のころから半世紀以上も全く変わっていない。

 その坂道を見たくなれば、思い出した時に、いつでもすぐそこに行かれる。ながく地元に住んでいるからできるありがたさだ。

 些細なことであるが、中学校正門前の、緩やかで変わらない坂道をみると、落ち着いてきて幸せな気持ちになる。

【了】


           イラスト:Googleイラスト・フリーより

視点を変えよう 森田 多加子

 私には歩きなれた数通りの散歩道がある。夏場は陽が落ちるのを待って歩くことにしている。中でも第一コースは、一番のお気に入りだ。人通りの少ないことがいい。
 散歩中には、なるべく知人に会わないようにしたい。

 万が一出会ってもわからないようにと、帽子とサングラスは必須だ。冬場はこれにマスクが加わるので万全だ。どうしてここまで武装? するのか。

 最近の私は、デレデレと怠惰な毎日を送っている。顔にも身体にも緊張感というものがない。一日中スッピンで、だらしない風体だ。
 しかし、歩くことだけは、毎日律儀に続けている。
(今日は面倒だなあ)
 そう思っても、自身で決めたことなので頑張っているが、緊張感のない身体をなるべく人様に見せたくない。いや、見られたくないのだ。

 少し薄暗くなって、右側が高い崖になっている静かな道を歩く。計算通り、知人にはほとんど出会うことがない。
 人馴れした猫が寝そべっている。猫には、ネコナデ声で話しかける。
(私はなんて優しいのだろう)。
 猫は私を見送るために首を半周させた。軽く手を振る。
(う~ん、いい気持ちだ)
 幸福感の中でふと思う。もしも、この道が未知の場所だったら、この時間には怖くて歩けないだろう。
 人通りのない道なんて誰が襲ってくるかもわからない。特に外国だったら……。おおいやだ、思考停止。


 別の日、第二コース。門を出たところで、いつもの方向に誰か立ち話をしているのが見えた。犬を連れているのは……、急に思いついて逆方向に向かった。
(おや、なんだか新鮮)
 同じ道なのに全く違う景色になっている。逆方向から歩くと、景色がこんなに違うなんて、改めて驚いた。
 ある家は、なんだか塀ばかりだ、と思っていたのに、逆から行くと、横に立派な玄関が見えた。印象ががらりと変わった。

 十数年前、北海道の旭川動物園が、ただ檻の中にいる動物を見るだけではなく、上下から、外から、水中からといろんな角度から動物を見られるようにしたことで一躍有名になった。全国から旭川動物園に人が集まった。
(我々も旭川動物園に行くぞ!)
 友人たちと一緒にでかけた。

 上野動物園に比べると、なんと小さな動物園だ。しかし、上野では檻に入っている動物たちが、飼育員の発想の転換から、ここでは動物たちの生活が見られた。

 ゴリラが外で遊んでいる。アザラシは、水槽で全身を見せてくれた。ライオンは、すぐそばの草の上に寝そべっている。
 この方法を手本にして、今では多くの動物園が、どうやって動物の生態を見せるか、を真剣に考え始めている。


 今年、池袋の水族館が、地上40メートルの屋外に水槽を作り、ペンギンを住まわせるそうだ。私たちは、空を飛んでいるように泳ぐペンギンを、見られるという。
 今まで遠くにいたペンギンが、旭川動物園では、目の前をよちよち歩いていて感激したが、今度は泳いでいる全身を眺められるという。

 最近話題の、史上最年少棋士の藤井四段は、普段は対局側からしか見ない将棋盤を、相手の方にまわり、そこから盤を見ることがあるという。対座して相手の盤上を見ているので、いつもは相手の駒は逆さに見えるだろう。それを相手側にまわって違う視点から見ると、何かひらめくのかもしれない。

 天橋立の「股のぞき」もそうだが、ふと視線を変えると、まったく違うものが見える。思わぬアイデアも浮かぶようだ。
 さて、私はというと、視点が変わって驚いた景色から、何か生まれるのか? 残念ながら古い頭脳からは、今のところ何も浮かんでこない。しかし……、
(驚くことはいいことだ)
 少なくとも緊張感のなかった体中が、ピンとした。

【了】

       イラスト:Googleイラスト・フリーより
               

若い奴たち 青山貴文

 真夏の深夜の静けさを破り、数人が奇声を張り上げて、我家の団地を通り過ぎていく。どうも、話し声からすると、3~4人の若者らしい。


 最近の若い奴の中には、他人の迷惑を考えない連中がいる。それ故に、彼らも仲間内で元気を出しあっているのだろうと、余りカッカとしない。
 私も、若い頃、もっと悪質な近所迷惑をやったものだ。


 思えば、40数年前の真夏の一夜がよみがえって来る。蒸し暑い夜であった。
 それは私を含めた3人の酔っ払いが、熊谷市美土里町の飲み屋街を2.3軒はしごして、半キロ先の我家の庭まで歩いてやってきた。


 美土里町は私が勤めていた鉄鋼会社の熊谷工場と我家との丁度まん中辺に所在している。その界隈には、航空自衛隊の基地や工業団地があり、隊員や工場員の飲み屋街になっていた、
暗い夜空に煌々と月が輝いていた。酒を飲み、無性に体がほてり、力がみなぎっていた。3人は、私の芝生の庭で、大声を張り上げて万歳三唱を繰り返す。

 隣家の明りが一つ、二つと点く。
「ウワ! 点いたぞ。点いたぞ」
 私たちは、小躍りして芝生を転げ回る。 
「ご近所の皆さん。本日、青山の長女が生まれました」
 と、私より10歳くらい年上の成沢さんが大声を発する。
 彼は、私に似て太っていて、酒が余り強くない。ただ、だれとでも付き合いがよく、話しをよく聞いてくれる。10人くらいの若手工員を統率し、普段は仕事熱心な本間製作所の営業を兼ねた工場員だ。本間製作所は、私の勤めていた鉄鋼会社の金型部門を担ってくれていた。

 すると、もう一人のがっちりした体躯の男が、おもむろに立ち上がり、直立不動で野太い声で、演説をはじめる。
「酔っ払いの青山は、今日やっと一児の親になりました」
 と、厳粛な口調で話す。
 彼は私とほぼ同じ32歳位で背格好も同じだ。本間製作所の跡取りで私よりはるかに貫禄がある。私と違って酒が強い。バーに行っても、私のように女性といちゃつかない。
 泰然として、酒を飲む。金があるから、他のところでうまくやっているのかと思っていたが、どうも仕事以外に余り興味がなかったようだ。
 また、二つ三つと数軒先の家の光が点灯する。
「青山も、挨拶をしろよ」
 と、本間がうながす。
「ええ、ただいまご紹介に預かりました青山でございます。日々、細君がいろいろお世話になっております。本日長女が生まれまして、・・・」
「元気がないぞ!」
 と、本間と成沢が大声を張り上げる。

 喋っているうちに、自分も人の親になったのだと、何か嬉しさがこみ上げてくる。飲み友達とはそんなお膳立てしてくれるものだ。今思えば、わたしたちは若くて、希望に燃えていた。

 翌朝、南隣の岩下さんが、
「昨夜は、御機嫌でしたわね」
 と、にこにこされる。
 内実は、「うるさかったわよ」と苦言であったと恐縮しているが、今は引っ越されて居られない。

 わたしは、そのころ昼間は青色の作業服を着て、振動粉砕機の騒音の中で、重油炉の灼熱職場を走り回っていた。
 その反動もあり、週末になると冷たいビールを求めて、飲み屋街に作業服で繰り出したものだ。よくぞ、体が持ったもんだと思う。

 その後、仕事一途な本間さんは、そのころの数十倍の収益を上げる中堅企業に育て上げ、今は会長に納まっている。温厚な成沢さんは平穏な老後を過ごされ、すでに鬼籍に入られた。
 酔っ払い3人に祝福された長女は、2人の子供の母になっている。
 先日は奇声を張り上げて、団地を通り抜けて行った若い奴らも、今日も元気でやっているだろう。

            イラスト:Googleイラスト・フリーより

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