八月十五日に想う 武智 康子
八月十五日、この日が来ると、毎年思い出すことがある。
それは、太平洋戦争末期の一九四五年六月十九日に行われた「福岡大空襲」の事である。相手は、早く戦争を終わらせようと敢えて福岡市の西地区の住宅地を狙ったという。
私達家族は、その西地区に住んでいたが、偶然にもその一週間前の六月十二日に大分県との県境の浮羽郡吉井町に疎開していたのだった。
兄は、国民学校五年生、私は、二年生だった。妹は、三歳だった。
大学に奉職していた父は、戦時中の列車事情も悪い中、四時間以上かけて毎日通勤するわけにいかず、教授室の隣の応接室に寝泊まりして、週に一度帰宅していた。父の帰りが待ちどおしくて、私たち兄妹は、入れ替わり立ち代わり駅まで迎えに行ったものだ。
吉井町は、都会に比べれば田舎だが、浮羽郡の中心地だったので、教育は熱心だった。
教科書は、国定教科書なので同じだったが、福岡では師範学校の付属国民学校に通っていたので、私の方が進んでいたので、少し余裕だったことを覚えている。ただ、方言にはアクセントと共に苦労した記憶がある。だが、そこは子供である私は、毎日、友達と遊ぶうちに色々覚えて、母に教えていたこともあった。
ところで、ここまで書いた時、なぜ疎開先が縁もゆかりもない浮羽郡の吉井町だったのだろうか。私に疑問が湧いた。それを知っているとすれば兄だけだと思い、すぐに電話をかけてみた。兄は、やはり知っていた。それは、父が大学を通して警察に相談して、紹介されたのが吉井町の佐藤家だったのだ。
さっそく必要な家財をトラックで送り出した後、半身不随で床にあった祖母と父は、大型の乗用車で、母と私たち兄妹三人と女中さんの五人は、列車で途中で乗り換えながら、五時間近くかけて吉井駅に着いた。
駅には、女学校に通う娘さんと、兄より二つ上の息子さんが出迎えてくださった。二十分ほど歩いて大きな邸宅に着いた。
私は、家の大きさに驚いた。それもそのはず、元は、造り酒屋だったそうだ。私達は、渡り廊下でこそ繋がっているが、別棟に案内された。奥様もしっかりされていらっしゃるが、優しそうな方で、ホッとした。
それから間もなくして、祖母と父が車で着いた。
こうやって、私達家族が福岡大空襲の一週間前に、吉井町に疎開できたことは、神様が何かお力を授けてくださったのではないかと、子供心に感じたことを、今更ながら思い出す。
それから五年後、当時としては最新型のアパート形式の国家公務員宿舎が、福岡に出来たので私たち一家も、やっと福岡に戻ることが出来た。兄は、高校生に、私は中学生になっていた。でも、吉井町での暮らしは、学校の田んぼで田植をしたり、稲刈りをしたり、イナゴをとって佃煮を作ったりして、都会にはない自然との触れ合いを、私に教えてくれた良き思い出として、今も頭に焼き付いている。