南山賓館25号 桑田 冨三子
「史門(シモン)はキルギスに行くンだそうです。」息子のお嫁さんが、そう、わたしに教えてくれた
「へエ、キルギスとは、また、変わったところへ行くのね。」史門とは息子の長男で、大学3年のわたしの初孫である。
「誰と行くの、学校の団体旅行?」
「いいえキルギスへは、ロシア語のできる友人と二人で行き、あとは一人旅らしいです。」
「大連を通るなら、この絵の家がまだ残っているかどうか、見てきてほしいンだけど」 そう思った私は一枚の紙片を史門に送っておいた。
それは10年ほど前に中国へ行った人が持ち帰ってくれた「南山賓館25号」の宣伝用チラシである。南山賓館とは、戦前、大連に居住していた外国人たちが、南山麓の一角に建てた住宅群の事である。その中でひときわ大きい一つの建物が南山賓館25号であり、チラシには家の絵が描いてあった。そして、その絵はなんと、忘れもしない祖父・河本大作の家だったのである。
そこにわたしたち家族も長く住んで居た。その家は、わたしたちが日本へ引き揚げた後、ホテルになったり、レストランになったりして使われたようだ。また戦後の日本国領事館となって、玄関には菊のご紋章がついていたという話もある。話はここから始まる。
息子の一家は、それぞれの居場所が瞬時に知れるアプリを使っている。便利極まりないものである。キルギス行きの話以来わたしは、しょっちゅう園枝さんにたずねることになった
「シモンは今何処にいるの?」
「空港です、羽田空港」
「シモンは今、何処ですか?」
「カザフスタンです。アルマトイ。今からキルギスに行くそうです。」」
アルマトイの名は、聞いたことがある。多分首都だ。調べてみる。キルギス共和国と中国との国境に近い南に、天山山脈を望む風光明媚な街。1991年、ソビエト連邦を解体し、独立国家共同体を始動した協定は、ここアルマトイで調印された、とある。
「今シモンは?」
「太原です」
「あ、そう。もう中国に入ったのね、戦前の太原では、家の河本大作お爺様が山西産業の社長として、焼け野原になった日本を助けるために沢山の物資を生産して、日本に送り続けた所よ。毛沢東軍と戦ったお爺様の終焉の地です。」
昨日8月15日、
(シモンはいったい、どうしてるかな)と、スマホを開いた。
とたんに目に入って来たのは「河本大作旧居」と銘打った銅板の写真である。うっそうと垂れ下がる柳の後ろに、ひっそりと石造りの建物が見える。それだけではない。いっしょに長い動画がついているではないか。
心地よいBGMと中国語のナレーションが流れる。漢字の説明文だが、ある程度は理解できる。
祖父・河本大作は、張作霖爆破事件の責任を取り軍を退いた。南満州鉄道株式会社(満鉄)の理事を務めた後、その退職金で初めて終の棲家として自分の家を建てたと聞いている。1937年、私の生まれた年である。
動画には、「歴史建築、3階建、600平方米」と書いてある。応接間の写真、シャンデリアも写っているし、分厚いカーテン、大きな出窓、食堂の写真もある。大勢が座れる長い食卓に、見覚えのある木彫りの椅子がずらりと並んでいる。大きな冷蔵庫もある。
何もかも私がおぼえている通りである。説明文は続く。
皇姑屯、9・18、日本の関東軍高級参謀、白手袋を持つ礼服の祖父、日露戦で受勲、陸軍大学、参謀本部、続いて張作霖爆破現場の写真、1933年3月16日満鉄理事、満州炭鉱、その後の太原の山西産業会社の事、太原で大作が住んでいたという赤い屋根の館の写真。太原解放。、日本の戦犯として太原に拘束。1955年に病死。私の作った年表とほとんど同じである。つまり本当のことが書かれていると思う。驚きの連続だ。
何よりも嬉しかったのは、太原で終焉を迎え、終の棲家として建てた家に2度とは戻れなかった大好きな大作爺様のこと、それを悪しざまに言わずに、そのまま動画に残してくれた中国に感謝。そして、幻の満州にあった家がそのまま87年も経て未だに、現代の中国に歴史的建造物として残っているという事実、これを確認できたことである。
シモンは無事に帰ってきたらしい。
私は未だ彼に伝えてはいないが、難しい中国からこんな情報をとってきてくれたことに、本当に、感謝している。