A038-元気100教室 エッセイ・オピニオン

わからない状態に耐える 青山 貴文

正月明けの朝日新聞で「わからない状態に耐える力」という社説を読んだ。

それによると、心に一定の負荷がかかると、誰もが多少の差はあるが精神疾患の病気にかかると言う。
うつ病、適応障害、認知症、統合失調症などの精神疾患の外来患者は、2020年時点で計586万人に上るという。


1952年、私が小学校の6年生になったころ、父は失業し、半年後小さな町工場に品質責任者として再就職した。
合否の不明確な製品を出荷するべきか否かで苦しむ。父は、日々の仕事の心労で不眠になり、言動が怪しくなった。

病弱の母のかわりに私が父を伴って病院に行った。 医者は、青白い私を診察しようとした。父の病は神経衰弱と診断された。その頃は、神経疾患は統べて神経衰弱で済まされたようだ。彼の心労やストレスは大変なもので、酒に逃れていたのであろう。


ストレスや不安に対応する書として『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』という題名の本が2017年に出版され、異例のロングセラーになった。
著者は、精神科医として40年以上患者の診察に当たってきた、医師兼作家の帚木蓬生(ははきぎほうせい)氏である。

彼は、医者になって6年目、精神医学の限界を感じた頃、ネガティブ・ケイパビリティという言葉を知った。その意味は、辞典によれば「わからない状態や不確かさを受け入れる能力」という意味らしい。

彼の著書の中に、うつ病で休職する夫と不登校が続く息子を抱え、不眠と動悸を訴え受診しにきた女性の話がある。彼女を目の前にして、抱かえる問題をただちには解決できない。
話を聞くだけの宙ぶらりんの状態が続く。それでも何とか持ちこたえていけば、やがて信頼や共感がうまれ、事態が好転することがあると述べている。

わからない不安定な状態に置かれるのは、決して心地のいいものではない。そこで耐えるのはしんどくもある。

けれども、帚木医師は「内面で模索や葛藤を続けることにネガティブ・ケイパビリティの本質はある」と言う。それは、あきらめや思考停止、問題から目を背けるのではなく、むしろ熟慮のプロセスに通じるものではないかと。


今から11年前、私は動悸を訴えて夜寝られない40歳くらいの主婦を、神経クリニックの女医のところに、毎月1回連れて行った。
その女医は60歳くらいの大柄な温厚な女性で、まず患者に寄り添って悩みを丁寧に聴かれる。「心の悩みには特効薬などはありません。
あなたに最も適する処方を一緒に考えましょう。
今悩んでいることを包み隠さず何でも話してください」と患者にじっくり諭して質問をされる。最初は精神安定剤の一般薬を処方されたらしい。

患者と親しくなると細く聴かれ、その都度丁寧に診断書に書き込まれる。前回との相違点や家族のことなども含んで記述される。
その態度は慈母のような優しさに満ちている。やがて、豊富な体験と神経医としての緻密な知識で患者に適する処方箋を定めていく。私は黙して患者に寄り添い、受診後立ち去る時に、自作の拙作エッセイを女医に手渡して親交を重ねた。


その主婦は、通院を始めて何度も様態を急変したが、なんと9年間経ってやっと落ち着いて安眠できるようになった。
病名は躁鬱(そううつ)病と判明した。顔つきも温和になり、いまでは、自分一人で三ヶ月に1回通院している。事態が好転するまでに、気長に耐える力がいかに大切であるかを実感した。最近、この女医の評判は高まり、予約が容易に取れない状況にあると言う。

この本はまず医療や介護、教育の分野で支持が広がり、最近は経営者やリーダーが持つべき心得としてビジネス分野でも注目されているらしい。

昨今は、不確かな情報の中で生活せざる終えない状態が続いている。真偽の定かでない情報に接したときに、むろん問題の本質を見抜き解決策を見いだそうとする試み自体は大事なことだ。しかし、本質をみぬけないとき、すぐに反応せずやり過ごす忍耐力が大切であると言う。

世界に目を向ければ、先行きの見えない問題があちこちに横たわっている。いったん始まった戦争はなぜ止められないのか。なぜ対立や分断は深まり、格差は広がる一方なのか。自国第一を掲げ、協調や対話に背を向ける指導者にどう対峙すればよいのか。

いずれも処方箋を見いだすのは容易ではない。しかしながら、性急に答えを求めるあまり、わかったつもりになって、本質を見失うという「落とし穴」があることもまた忘れてはいけない。

何が本当に最善なのか、真偽を見極めて自問自答を繰り返す忍耐力を持ちたいものだ。  

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