口は動かすだけ 伊藤 毅
妻と散歩がてら、近所のスーパーへ買い物に出かけた。その途中にある石神井川は桜の名所として地元の人に愛されている。散りはじめたサクラをながめていると、買い物帰りの「ヨシエさん」にばったり出会った。
『ヨシエさん』とは近所の居酒屋『奈々』のママである。この居酒屋は近所のおじさん、おばさん達の社交場でカラオケもあり、それなりに賑わっていた。と、過去形で書いたがコロナ禍になってからは、一度も顔を出していない。「コロナも収まりつつあるし、お客さんも大分、戻ってきたわよ。今度、二人で遊びに来てよ」とママから誘いを受けた。そういえば、『奈々』には3年以上も顔を出していない。「わかった。今夜、二人で遊びに行くよ」と、その場で約束した。
『奈々』の暖簾をくぐると、先客が五人いた。皆さん、顔見知りである。
「よっ、久しぶり」誰からともなく声が掛った。
我々夫婦もその輪に入り、他愛のない会話が始まった。暫らくすると、ママが私に目配せをして立ち上がり、カラオケを操作した。流れてきたイントロは私の持ち歌である。マイクを片手に気持ちよく歌い始めた。「ロイド眼鏡に燕尾服 泣いたら燕がわらうだろう...」この曲が世に出たのは、1953年(昭和28年)で、私が小学4年生の時である。
「それにしても、こんな古い歌がどうしてお前さんの持ち歌なの? と訝しがる読者の皆様にご説明いたします」。
話は50年ほどさかのぼる。
30歳を過ぎた頃の私は、営業職も板に付き、元気にとびまわっていた。そんなある日、親しくしていたお客と、仕事の帰りに、板橋区・大山のさびれた居酒屋に入った。すると、先客が1人いてカウンター席で歌っている。
「嘆きは誰でも知っている この世は悲哀の海だもの...」その歌を耳にした私は「おいっ、もっと元気が出る歌を歌わんか!」と心のなかで叫んだが、哀愁たっぷりのこの歌に聞き入ってしまった。
それから何日かが経ったある日、別の居酒屋でこれをうたったところ、気持ちよく歌えるではないか。「それからというもの、この『街のサンドイッチマン』が私の持ち歌になったのです。音楽に造詣が深い方はすでにお気づきと思いますが、この曲は音域が狭く、リズムも単調なので、音痴の私でも、それなりに歌えるのです」。
話は更にさかのぼる。私が小学6年生の時、クラス全員が講堂の壇上に上がり学芸会で歌う合唱曲を練習した。ピアノの伴奏は担任の女性教師、タクトを振るのは音楽担当の男性教師である。全員で大きな声を出して歌っていると、男性教師がタクトを振るのを止めて、しかめ面で私の前にきた。「伊藤、口は動かすだけにして声を出すな」「?????」周りから「クスッ、クスッ」と笑う声が聞こえた。
この時に味わった屈辱感は終生、忘れることはない。が、両親には「口パクで歌うように」と指導されたことは、一切話をしていない。学芸会の当日、私は大きく口をあけて気持ちよく歌っているふりをした。一生懸命歌っている私に両親は暖かい拍手を送ってくれた。という、涙の出そうな親思いの一幕である。