元気100教室 エッセイ・オピニオン

鉛筆けずりと包丁研ぎ 三宅 祥子

 戦争が終わり二年して私は小学生になった。

 学校に行きランドセルから出した筆箱を開けると、きれいに削られた鉛筆が三本並んできちんと入っていた。きっと私が寝た後に父が削ってくれたのであろう。たしかコーリン鉛筆だったと思う。

 父の削り方は見事であった。
 昭和二十三年頃にはくるくる回して削る手軽な鉛筆削りなどはそう出回っていなかったのかもしれない。小刀で削り、その力の入れ方がふっくらとしてふくらみがあり、三百六十度平均して力が入っていた。削り方になんとも言えない品があるのだ。

 私はその刃先の手加減に憧れて、何度も自分でやってみるのだが、いつまでたっても上手にならない。意気込むと深く小刀の刃が入ってしまい、鉛筆はやせ過ぎた貧相な感じになってしまう。
 戦争直後のキズだらけの粗末な学校机の上で、父のふっくら削りの鉛筆は嬉しい贈り物であったし、充分な幸せを感じさせてもらえた。


 いまはもう鉛筆削りをする機会はないが、あの頃の世情の中で、やっと得た平和な一場面であったと思わせてもらえた。
 特に四歳で早世した姉にしてやれなかった思いも親としてはあったのかもしれない。

 今日、いつも通っている麻布十番の家族的なスーパーで、古くから顔見知りの店員にレジで
「今日はやる気ですね!」
 と声をかけられた。その店は季節の野菜が新鮮だから、どっさりとかごに入った野菜を見てサッと洗って刻んで煮ると読んだのだろう。
 にこっとして
「そうよ、今日はちゃんとやりますよ」
 と返す。

 そんな日、私は台所に立つ前に手順よく動き出す。そうだ、こんな日は少し切れ味の落ちてきた包丁を研いでおこうと決める。
 シンク下に置いてある砥石を出して、古新聞の上に置き、使い慣れた菜切包丁を充分に水を含ませた砥石に乗せ研ぎ出す。結婚祝いに頂いた木屋の菜切包丁をずっと使っているので、自分で研げるところが重宝である。

 我が家ではステンレス製の包丁やナイフは酸の強い物だけに使っている。愛用している鋼の菜切包丁は六十年になろうとしていて、研ぐたびに少しずつ刃が減ってきている。
 なるべく丁寧に扱って、私の命と長持ち競争をするつもりでいるが、年に一度くらいはプロの研ぎ屋に頼んでいる。研ぎ屋さんから戻ってきた時の切れ味は格別で、料理心を弾ませてくれ、楽しみでもある。 

八月十五日に想う  武智 康子

 八月十五日、この日が来ると、毎年思い出すことがある。

 それは、太平洋戦争末期の一九四五年六月十九日に行われた「福岡大空襲」の事である。相手は、早く戦争を終わらせようと敢えて福岡市の西地区の住宅地を狙ったという。

 私達家族は、その西地区に住んでいたが、偶然にもその一週間前の六月十二日に大分県との県境の浮羽郡吉井町に疎開していたのだった。
 兄は、国民学校五年生、私は、二年生だった。妹は、三歳だった。
 大学に奉職していた父は、戦時中の列車事情も悪い中、四時間以上かけて毎日通勤するわけにいかず、教授室の隣の応接室に寝泊まりして、週に一度帰宅していた。父の帰りが待ちどおしくて、私たち兄妹は、入れ替わり立ち代わり駅まで迎えに行ったものだ。

 吉井町は、都会に比べれば田舎だが、浮羽郡の中心地だったので、教育は熱心だった。

 教科書は、国定教科書なので同じだったが、福岡では師範学校の付属国民学校に通っていたので、私の方が進んでいたので、少し余裕だったことを覚えている。ただ、方言にはアクセントと共に苦労した記憶がある。だが、そこは子供である私は、毎日、友達と遊ぶうちに色々覚えて、母に教えていたこともあった。


 ところで、ここまで書いた時、なぜ疎開先が縁もゆかりもない浮羽郡の吉井町だったのだろうか。私に疑問が湧いた。それを知っているとすれば兄だけだと思い、すぐに電話をかけてみた。兄は、やはり知っていた。それは、父が大学を通して警察に相談して、紹介されたのが吉井町の佐藤家だったのだ。

 さっそく必要な家財をトラックで送り出した後、半身不随で床にあった祖母と父は、大型の乗用車で、母と私たち兄妹三人と女中さんの五人は、列車で途中で乗り換えながら、五時間近くかけて吉井駅に着いた。
 駅には、女学校に通う娘さんと、兄より二つ上の息子さんが出迎えてくださった。二十分ほど歩いて大きな邸宅に着いた。
 私は、家の大きさに驚いた。それもそのはず、元は、造り酒屋だったそうだ。私達は、渡り廊下でこそ繋がっているが、別棟に案内された。奥様もしっかりされていらっしゃるが、優しそうな方で、ホッとした。

 それから間もなくして、祖母と父が車で着いた。

 こうやって、私達家族が福岡大空襲の一週間前に、吉井町に疎開できたことは、神様が何かお力を授けてくださったのではないかと、子供心に感じたことを、今更ながら思い出す。


 それから五年後、当時としては最新型のアパート形式の国家公務員宿舎が、福岡に出来たので私たち一家も、やっと福岡に戻ることが出来た。兄は、高校生に、私は中学生になっていた。でも、吉井町での暮らしは、学校の田んぼで田植をしたり、稲刈りをしたり、イナゴをとって佃煮を作ったりして、都会にはない自然との触れ合いを、私に教えてくれた良き思い出として、今も頭に焼き付いている。

南山賓館25号  桑田 冨三子

「史門(シモン)はキルギスに行くンだそうです。」息子のお嫁さんが、そう、わたしに教えてくれた
「へエ、キルギスとは、また、変わったところへ行くのね。」史門とは息子の長男で、大学3年のわたしの初孫である。

「誰と行くの、学校の団体旅行?」
「いいえキルギスへは、ロシア語のできる友人と二人で行き、あとは一人旅らしいです。」
「大連を通るなら、この絵の家がまだ残っているかどうか、見てきてほしいンだけど」 そう思った私は一枚の紙片を史門に送っておいた。

 それは10年ほど前に中国へ行った人が持ち帰ってくれた「南山賓館25号」の宣伝用チラシである。南山賓館とは、戦前、大連に居住していた外国人たちが、南山麓の一角に建てた住宅群の事である。その中でひときわ大きい一つの建物が南山賓館25号であり、チラシには家の絵が描いてあった。そして、その絵はなんと、忘れもしない祖父・河本大作の家だったのである。

 そこにわたしたち家族も長く住んで居た。その家は、わたしたちが日本へ引き揚げた後、ホテルになったり、レストランになったりして使われたようだ。また戦後の日本国領事館となって、玄関には菊のご紋章がついていたという話もある。話はここから始まる。


 息子の一家は、それぞれの居場所が瞬時に知れるアプリを使っている。便利極まりないものである。キルギス行きの話以来わたしは、しょっちゅう園枝さんにたずねることになった
「シモンは今何処にいるの?」
「空港です、羽田空港」
「シモンは今、何処ですか?」
「カザフスタンです。アルマトイ。今からキルギスに行くそうです。」」
アルマトイの名は、聞いたことがある。多分首都だ。調べてみる。キルギス共和国と中国との国境に近い南に、天山山脈を望む風光明媚な街。1991年、ソビエト連邦を解体し、独立国家共同体を始動した協定は、ここアルマトイで調印された、とある。

「今シモンは?」
「太原です」
「あ、そう。もう中国に入ったのね、戦前の太原では、家の河本大作お爺様が山西産業の社長として、焼け野原になった日本を助けるために沢山の物資を生産して、日本に送り続けた所よ。毛沢東軍と戦ったお爺様の終焉の地です。」


 昨日8月15日、
(シモンはいったい、どうしてるかな)と、スマホを開いた。
とたんに目に入って来たのは「河本大作旧居」と銘打った銅板の写真である。うっそうと垂れ下がる柳の後ろに、ひっそりと石造りの建物が見える。それだけではない。いっしょに長い動画がついているではないか。

 心地よいBGMと中国語のナレーションが流れる。漢字の説明文だが、ある程度は理解できる。
 祖父・河本大作は、張作霖爆破事件の責任を取り軍を退いた。南満州鉄道株式会社(満鉄)の理事を務めた後、その退職金で初めて終の棲家として自分の家を建てたと聞いている。1937年、私の生まれた年である。

 動画には、「歴史建築、3階建、600平方米」と書いてある。応接間の写真、シャンデリアも写っているし、分厚いカーテン、大きな出窓、食堂の写真もある。大勢が座れる長い食卓に、見覚えのある木彫りの椅子がずらりと並んでいる。大きな冷蔵庫もある。
何もかも私がおぼえている通りである。説明文は続く。

 皇姑屯、9・18、日本の関東軍高級参謀、白手袋を持つ礼服の祖父、日露戦で受勲、陸軍大学、参謀本部、続いて張作霖爆破現場の写真、1933年3月16日満鉄理事、満州炭鉱、その後の太原の山西産業会社の事、太原で大作が住んでいたという赤い屋根の館の写真。太原解放。、日本の戦犯として太原に拘束。1955年に病死。私の作った年表とほとんど同じである。つまり本当のことが書かれていると思う。驚きの連続だ。

 何よりも嬉しかったのは、太原で終焉を迎え、終の棲家として建てた家に2度とは戻れなかった大好きな大作爺様のこと、それを悪しざまに言わずに、そのまま動画に残してくれた中国に感謝。そして、幻の満州にあった家がそのまま87年も経て未だに、現代の中国に歴史的建造物として残っているという事実、これを確認できたことである。

シモンは無事に帰ってきたらしい。

 私は未だ彼に伝えてはいないが、難しい中国からこんな情報をとってきてくれたことに、本当に、感謝している。

わからない状態に耐える 青山 貴文

正月明けの朝日新聞で「わからない状態に耐える力」という社説を読んだ。

それによると、心に一定の負荷がかかると、誰もが多少の差はあるが精神疾患の病気にかかると言う。
うつ病、適応障害、認知症、統合失調症などの精神疾患の外来患者は、2020年時点で計586万人に上るという。


1952年、私が小学校の6年生になったころ、父は失業し、半年後小さな町工場に品質責任者として再就職した。
合否の不明確な製品を出荷するべきか否かで苦しむ。父は、日々の仕事の心労で不眠になり、言動が怪しくなった。

病弱の母のかわりに私が父を伴って病院に行った。 医者は、青白い私を診察しようとした。父の病は神経衰弱と診断された。その頃は、神経疾患は統べて神経衰弱で済まされたようだ。彼の心労やストレスは大変なもので、酒に逃れていたのであろう。


ストレスや不安に対応する書として『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』という題名の本が2017年に出版され、異例のロングセラーになった。
著者は、精神科医として40年以上患者の診察に当たってきた、医師兼作家の帚木蓬生(ははきぎほうせい)氏である。

彼は、医者になって6年目、精神医学の限界を感じた頃、ネガティブ・ケイパビリティという言葉を知った。その意味は、辞典によれば「わからない状態や不確かさを受け入れる能力」という意味らしい。

彼の著書の中に、うつ病で休職する夫と不登校が続く息子を抱え、不眠と動悸を訴え受診しにきた女性の話がある。彼女を目の前にして、抱かえる問題をただちには解決できない。
話を聞くだけの宙ぶらりんの状態が続く。それでも何とか持ちこたえていけば、やがて信頼や共感がうまれ、事態が好転することがあると述べている。

わからない不安定な状態に置かれるのは、決して心地のいいものではない。そこで耐えるのはしんどくもある。

けれども、帚木医師は「内面で模索や葛藤を続けることにネガティブ・ケイパビリティの本質はある」と言う。それは、あきらめや思考停止、問題から目を背けるのではなく、むしろ熟慮のプロセスに通じるものではないかと。


今から11年前、私は動悸を訴えて夜寝られない40歳くらいの主婦を、神経クリニックの女医のところに、毎月1回連れて行った。
その女医は60歳くらいの大柄な温厚な女性で、まず患者に寄り添って悩みを丁寧に聴かれる。「心の悩みには特効薬などはありません。
あなたに最も適する処方を一緒に考えましょう。
今悩んでいることを包み隠さず何でも話してください」と患者にじっくり諭して質問をされる。最初は精神安定剤の一般薬を処方されたらしい。

患者と親しくなると細く聴かれ、その都度丁寧に診断書に書き込まれる。前回との相違点や家族のことなども含んで記述される。
その態度は慈母のような優しさに満ちている。やがて、豊富な体験と神経医としての緻密な知識で患者に適する処方箋を定めていく。私は黙して患者に寄り添い、受診後立ち去る時に、自作の拙作エッセイを女医に手渡して親交を重ねた。


その主婦は、通院を始めて何度も様態を急変したが、なんと9年間経ってやっと落ち着いて安眠できるようになった。
病名は躁鬱(そううつ)病と判明した。顔つきも温和になり、いまでは、自分一人で三ヶ月に1回通院している。事態が好転するまでに、気長に耐える力がいかに大切であるかを実感した。最近、この女医の評判は高まり、予約が容易に取れない状況にあると言う。

この本はまず医療や介護、教育の分野で支持が広がり、最近は経営者やリーダーが持つべき心得としてビジネス分野でも注目されているらしい。

昨今は、不確かな情報の中で生活せざる終えない状態が続いている。真偽の定かでない情報に接したときに、むろん問題の本質を見抜き解決策を見いだそうとする試み自体は大事なことだ。しかし、本質をみぬけないとき、すぐに反応せずやり過ごす忍耐力が大切であると言う。

世界に目を向ければ、先行きの見えない問題があちこちに横たわっている。いったん始まった戦争はなぜ止められないのか。なぜ対立や分断は深まり、格差は広がる一方なのか。自国第一を掲げ、協調や対話に背を向ける指導者にどう対峙すればよいのか。

いずれも処方箋を見いだすのは容易ではない。しかしながら、性急に答えを求めるあまり、わかったつもりになって、本質を見失うという「落とし穴」があることもまた忘れてはいけない。

何が本当に最善なのか、真偽を見極めて自問自答を繰り返す忍耐力を持ちたいものだ。  

オッペンハイマーの映画  桑田 冨三子

「オッペンハイマー? 聞いたことあるなア、だれ、その人」
 大きな声が耳に入った。
 わたしは、その時、大勢の人たちといろいろな話題でガヤガヤと歓談していたのだが、(ああ、やっぱり、日本人はこの名前がなんとなく気に懸かるんだ)と気が付いた。

 今年の春、終わりに近い頃になってやっと、日本ではこの「オッペンハイマー」の映画が見られるようになった。他の国では去年からとっくに公開され、結構話題になっていたのに。
「なぜ、日本では公開されないの。米国やフランスでは、みんな、もう見ているよ。」
「日本人は原爆を落とされて可哀そう」
「きっと日本人はこの映画をみたくないと思っているからよ」
「みせたくないのじゃないの?」
「だれが?」
「うーん、アメリカの政治家か」
「日本人は原爆のことを考えたくない。知りたくない。躊躇しているんだと思う」

 外国人たちの話を聞いていたわたしはさっそく、この映画を見に出かけた。

オッペンハイマー.jpg 6月5日のことである。ゴールデンウイークのさなかの街は閑散としていた。いつもより人出は少ないように思われたが、六本木ヒルズの映画街で入場券を購入しようとして驚いた。
 なんと開始の2時間も前なのに全く席がない。満席である。交渉して、なんとか一番端っこの席を手に入れたが、入ってみると、これまたびっくり。座席にいたのは全員、若者だらけで、年寄の姿は見当たらない。でもわたしは、ほっとした。
(若者たちがこんなに、この映画に関心を持っている。)

 映画のストーリー。1926年、イギリスのケンブリッジ大学で実験物 理学を学んでいたロバート・オッペンハイマーは、教授に勧められて、ドイツへ渡り理論物理学を学ぶ。博士号を取得し、故国アメリカへ帰国し、カリフォルニア大学バークレー校で教鞭をとった。同じ大学の精神科医師で共産党員のジーン・タトロックと出逢い恋仲になる。この聡明で奔放なジーンとのロマンスは長続きしない。

(この短い期間がのちにただならぬ影響をおよぼすことになるのだが・・・)オッペンハイマーはその後、植物学者キティ(キャサリン)と気が合い結婚する。
 二人の間には子供も生まれて、幸せな家庭を築いていた。

 時は、ヒットラー率いるナチスがポーランドに侵攻、第2次世界大戦を起こし、その戦況を優位に進めていた。1941年、米国が世界大戦に参戦する。
 ルーズベルト大統領は英国との協力体制で核兵器開発プロジェクト「マンハッタン計画」の実施を承認する。プロジェクトの責任者になったレスリー・グローヴスは、1942年、ドイツの原子爆弾開発の成功が近いと危惧し、オッペンハイマーに原子爆弾開発に関する極秘プロジェクトへの参加を打診。オッペンハイマーは喜んでこの誘いに応じた。

 彼は、まずニューメキシコ州のロスアラモスに研究所を建設し、当時の最高峰頭脳科学者を集め、家族ぐるみで移住をさせた。彼は人々を激励し鼓舞し、あらゆる決定の場に同席し、知的アドバイスを与えた。その存在が「情熱と挑戦への独特な雰囲気」を作り、世界初の核兵器製造につながる科学的発見を連鎖反応のように次々と生み出していった。

 その一方では、競争相手であったナチスは劣勢を極め、1945年に降伏してしまう。

「あとは日本を降伏させるだけ」
 となる。なんと、そのための武器として、原子爆弾の研究は続けられた。1945年7月16日、オッペンハイマーと研究所の科学者たちは、ロスアラモスの南にあるトリニティ実験場に集まった。

 世界初の核実験が行われる。「ガジェット」と名付けられた原子爆弾が、人類の未来を形づくることを、その場にいた人々は理解していた。連鎖反応で地球の大気を発火させれば、地球全体を破壊する可能性はある。緊張の瞬間。この世ではない煌めきと凄まじく轟き渡る爆発音。(この映画の特殊撮影らしい)実験は成功した。オッペンハイマーは喜んだ。でもそれは、ほんの束の間のことであった。

 8月には広島、長崎に実際に原爆が投下され、その惨状を聞いたオッペンハイマーは、深く苦悩するようになる。世界戦争は終わった。
 戦争を終結させた立役者として賞賛されるオッペンハイマーだったが、時代はそのまま冷戦に突入し、アメリカ政府は更なる威力を持つ水爆の開発を推進して行った。そのため、1947年プリンストン高等研究所の所長に抜擢された彼は、さらに原子力委員会のアドバイザーになる。
 だが彼は、この核開発競争がますます加速していくことを懸念する。水爆開発反対の姿勢をとったことで、次第に追い詰められて行く。米のマッカーシ上院議員らが赤狩りを強行。昔の恋人ジーンとの事もあり、彼の人生は大きく変わって行くのだった。映画はここで終わる。

 1954年、オッピーはソ連のスパイ容疑をかけられFBIから「共産主義者」のレッテルを貼られる。アイゼンハワー大統領の時、政府公職追放を受け彼は危険人物と断定された。1961年ジョンF・ケネデが大統領に就任すると側近にはオッピー支持者が多く公的名誉回復の動きが出る。オッピー61歳、喉頭がん。62歳で死去。

 2022年、米エネルギー省のグランホルム長官が、オッペンハイマーを公職から追放した1954年の処分は、「偏見に基づく不公正な手続きだった」として取り消したと発表。彼にスパイ容疑の罪を着せて失格を剥奪したことを、公的に謝罪した。

 わたしがこの映画を見て考えたことを述べる。

➀映画は大きな問題を観客に投げかけるが、その解決を与えていない。

②原爆の破壊力がどれぐらい地球・人間・文明に及ぶのか、それが日本で試されたこと。

③映画は世界中の人々に共通する普遍的な問題を教示している。

 わたしは映画を見に来ている若者が大勢いたことに驚いたが、それは、とても嬉しいことである。日本の若者たちが、こんなに大勢、この未解決難題にどう向き合っていくのか、わたしは、希望を持って見守っていく。

写真 J・ロバート・オッペンハイマー J. Robert Oppenheimer ウィキペディアより

奥の深いミツバチ  廣川 登志男

 昨年(令和五年)暮れに、岩手県の養蜂園からミツバチの巣箱120箱が千葉県館山市の養蜂園に、越冬のため運び込まれたとの記事があった。何気なく目についたのだが、ミツバチでも暖かい土地に引っ越すことに興味を覚え、好奇心に駆られた。

 冬場は、生物が活動するためのエネルギーが細る。落葉広葉樹は葉をおとすので光合成もできない。樹木でさえひっそりと佇む。冬をいかにやり過ごすかは、その種にとって大きな問題だ。
 昆虫のハチは今までどうして過ごしていたのだろう。以前、何気なく見つけた練馬区光が丘にある団地の記事「昆虫の冬越し」が面白くてメモに残してあった。

『バカたまご トカセ幼虫 チョウさなぎ ハチアリテントウ親で冬越し』。バッタ・カマキリは卵で冬眠。トンボ・カブトムシ・セミは幼虫で。チョウはさなぎで、ハチ・アリ・テントウムシは成虫(親)で冬越しとの説明が添えてある。
今回の記事では南の暖かい館山市まで、成虫が入った巣箱ごと遠路はるばる運ばれている。
 このやり方は、比較的近年に始まったようだ。従来の冬越しを調べてみると、河合養蜂園が提供しているインターネット上の「ミツバチ牧場」に載っていた。

ミツバチ.jpeg  一般的には『十二月の本格冬の到来期では、いよいよ巣内の温度が下がる。すると、ミツバチは全体が寒くならないように体を寄せ合い、峰球という球状のかたまりをつくり、体を温める。峰球の中心部は、自分たちの体内で発生させた熱で真冬でも暖かい。外側のハチは内側と交互に入れ替わりながら、中心部にいる大事な女王バチを寒さから守る』とあった。

 一匹の女王バチを守るために、全員で守り通すのだ。花も少ない寒い環境にあって、働き蜂は蜜を採取にいけない。春夏の期間に溜め込んだ密と花粉をエネルギー源にして生き延び熱を生むという。
 今年五月に、君津文化ホール近くにある、評判高い「はちみつ工房」を訪問した。『ハチミツとハチミツ酒ミードを「見て・聞いて・嗅いで・味わう」で、ハチミツとミードの美味しさを五感で楽しむ』を工房のコンセプトとしていた。無料参加できる工房見学ツアーもおこなっている。

 近くにいた、技術者らしき説明者に、「館山市には、東北の方から越冬のためにハチを運んでくると聞きましたが、どうなんですか?」と、尋ねた。すると、話は長かったが待ってましたとばかりに答えてくれる。
「東北の六十くらいの養蜂業者が、合わせて一万箱ほど千葉県に運んできてますね。この時期の巣箱ひとつには、だいたい二万匹は入っていますから、二億匹ほどが来ています。この辺りも含めた南総地域には半分の五千箱は来ていますよ」

「え、そうなんですか。そんなに来ていて食料なんかはどうしているんでしょうね?」
「結構、いろんな花が咲いていますから大丈夫ですし、温室栽培のイチゴなどの交配に、ハチを貸してほしいという要望も多いのですよ。この辺りはイチゴ狩りが有名で、その準備に入るんですね」
 なるほどと感じ入った。

 この工房ではいろいろな花の蜜を味見できる。当日は、ナノハナ、サクラ、アカシア、ソバなどのハチミツだった。そのなかでは『ソバ』の蜜が、アジも色も一番濃くて美味しかった。栄養価も高いという。

 疑問が浮かんだ。花の種類ごとの蜜が瓶詰めされている。ハチは、一定の花ばかりの蜜を吸い取ってくるのだろうか? 先ほどの説明者に聞いてみた。
「蜜がとれる種類の花が群生している場所を見つけたら、巣に戻ると8の字飛びをして、仲間にその場所を知らせるのですよ。こう見えても案外利口ですよ」
 なるほど、大昔からの経験がDNAに刷り込まれ、効率的な蜜の採集方法を会得してきたのだろう。


動物図鑑によると、ハチが出現したのは、恐竜と同じ2億年以上前。そして、地球上に花が広まり花粉を食料とするハチが登場。花の方も、これを受粉に利用すべく匂いのある蜜を花の中に造り出す。その蜜に誘われるハナバチが7千万年ほど前に出現した。これが、ミツバチの前身」とあった。

 ミツバチの越冬に興味を覚え、好奇心に駆られて色々調べると新たな事実に出会える。
 ローヤルゼリーの素となるプロポリスは日本人が発見した。ハチミツからできる酒・ミード。これは世界最古のお酒で、クレオパトラも愛飲したという。古代から中世ヨーロッパでは、新婚間もない頃にミードを飲む習慣があり、ハチミツの効能やハチの多産にあやかって、結婚後の一ヶ月間ミードを飲んだという。現在のハネムーン(蜜月)の語源だそうだ。
 
 ミツバチ一つとっても、奥深い新たな事実・情報に驚くとともに勉強になる。

                イラスト:Google フリーより  

口は動かすだけ   伊藤 毅

 妻と散歩がてら、近所のスーパーへ買い物に出かけた。その途中にある石神井川は桜の名所として地元の人に愛されている。散りはじめたサクラをながめていると、買い物帰りの「ヨシエさん」にばったり出会った。

『ヨシエさん』とは近所の居酒屋『奈々』のママである。この居酒屋は近所のおじさん、おばさん達の社交場でカラオケもあり、それなりに賑わっていた。と、過去形で書いたがコロナ禍になってからは、一度も顔を出していない。「コロナも収まりつつあるし、お客さんも大分、戻ってきたわよ。今度、二人で遊びに来てよ」とママから誘いを受けた。そういえば、『奈々』には3年以上も顔を出していない。「わかった。今夜、二人で遊びに行くよ」と、その場で約束した。

『奈々』の暖簾をくぐると、先客が五人いた。皆さん、顔見知りである。
「よっ、久しぶり」誰からともなく声が掛った。
カラオケ.jpg 我々夫婦もその輪に入り、他愛のない会話が始まった。暫らくすると、ママが私に目配せをして立ち上がり、カラオケを操作した。流れてきたイントロは私の持ち歌である。マイクを片手に気持ちよく歌い始めた。「ロイド眼鏡に燕尾服 泣いたら燕がわらうだろう...」この曲が世に出たのは、1953年(昭和28年)で、私が小学4年生の時である。
「それにしても、こんな古い歌がどうしてお前さんの持ち歌なの? と訝しがる読者の皆様にご説明いたします」。

 話は50年ほどさかのぼる。
 30歳を過ぎた頃の私は、営業職も板に付き、元気にとびまわっていた。そんなある日、親しくしていたお客と、仕事の帰りに、板橋区・大山のさびれた居酒屋に入った。すると、先客が1人いてカウンター席で歌っている。
「嘆きは誰でも知っている この世は悲哀の海だもの...」その歌を耳にした私は「おいっ、もっと元気が出る歌を歌わんか!」と心のなかで叫んだが、哀愁たっぷりのこの歌に聞き入ってしまった。
 それから何日かが経ったある日、別の居酒屋でこれをうたったところ、気持ちよく歌えるではないか。「それからというもの、この『街のサンドイッチマン』が私の持ち歌になったのです。音楽に造詣が深い方はすでにお気づきと思いますが、この曲は音域が狭く、リズムも単調なので、音痴の私でも、それなりに歌えるのです」。
 
 話は更にさかのぼる。私が小学6年生の時、クラス全員が講堂の壇上に上がり学芸会で歌う合唱曲を練習した。ピアノの伴奏は担任の女性教師、タクトを振るのは音楽担当の男性教師である。全員で大きな声を出して歌っていると、男性教師がタクトを振るのを止めて、しかめ面で私の前にきた。「伊藤、口は動かすだけにして声を出すな」「?????」周りから「クスッ、クスッ」と笑う声が聞こえた。
 
 この時に味わった屈辱感は終生、忘れることはない。が、両親には「口パクで歌うように」と指導されたことは、一切話をしていない。学芸会の当日、私は大きく口をあけて気持ちよく歌っているふりをした。一生懸命歌っている私に両親は暖かい拍手を送ってくれた。という、涙の出そうな親思いの一幕である。

苺「あまおう」   武智 康子

 先日、世田谷の友人の家を訪問した帰りに、駅前のスーパーで「苺まつり」をしていたので、ちょっと覗いてみた。
 すると、10粒入りの苺の「あまおう」1パックが、468円という。普通は、スーパーでも600から800円位だ。デパートでは、1500円位はしている。私は、前日の売れ残りかと思った。
 しかし、よく見ると艶も良く蔕の緑も新鮮だったので、夕食のデザートにしようと2パック求めた。

 帰宅後、夕食の準備の折に、その苺を洗った。洗いながら私は、ちょっと首を傾げた。いつもの「あまおう」と何だか少し手の感触が違うのだ。固く感じる。

あまおう.jpeg「あまおう」は、今世紀の初め、福岡県の農業試験場で五年がかりで開発された、固くもなく柔らかすぎず、酸味と甘味のバランスが取れた、赤くて大きな苺である。名前も「あかい、まるい、おおきい、うまい」の頭文字四つを組み合わせて「あまおう」と名付けられた由縁でもある。原産地は、福岡県の八女市が中心の苺なのだ。

 私は、苺の女王とも言われるこの「あまおう」の安さに、あることが脳裡に浮かんだ。
 実は、この「あまおう」が開発されて世に出た時、私達夫婦は、夫の第二の人生としての福岡に居住していた。だから、そのニュースが大々的に報道されたことを覚えている。
 それは、この「あまおう」の品種登録は「福岡S6号」として既に登録されていたが、商標登録が申請はされていたものの確定される前に、既に、あるアジアの国に苗木が持ち出されていて、小粒ではあるが「あまおう」として逆輸入されて安く売られていたのだ。だから私は、「またか」と思ったのだ。

 私は、翌朝、北九州に住む友人で、当時、苺の品種改良に携わっていた山添さんに電話してみた。
 彼女によると「あの時は、苗木が持ち出されたことが痛手だったが、あれから20年が経ち、福岡農協に所属する多くの苺農家が作って来たので、少しばらつきが出てきて、本来ならジャム用になるのを店頭に並べているのかもしれない」と話してくれた。
 私は、そんなことをしていると「あまおう」のブランド力が落ちるのではないかと、心配になった。
 
 ただ、彼女は、続けて話してくれた。今「あまおう」の偽物が存在することを教えてくれたのだった。
 それは 「おまうあ JAかおふく 八女 日本」 として香港で売られているとのことだった。日本産の 「あまおう JAふくおか 八女」と誤認させる表現が使われているとのことだった。 
 私は、このことを聞いてびっくりした。持ち出された苗木が使われているかどうかは、解らないが、平仮名の4文字を二か所並べ替えるという手法には、開いた口がふさがらなかった。

 彼女自身は、既にリタイアしているが、私は、今回彼女から多くのことを学んだ。
 更に調べてみると、「あまおう」は、昨年10月で販売開始されてから二十年を迎え、そのうち18年間、連続で苺の単価日本一を維持してきたそうだ。それだけブランド力があったのだ。だからこそ、香港で偽物が出てきたのだろう。最近では、「とちおとめ」の流れを組む「スカイベリー」等々、次々に新種の苺が出てきている。

 私は、子供のころ食べた、120年の歴史を誇る静岡の石垣苺が、懐かしく思われた。
 今回、私が買ったあの「あまおう」は、味はまあまあだったが、結局ジャムに変身してしまった。そして、翌日の朝食にパンと共にいただいた。手製のジャムは、今回「あまおう」のことをいろいろ学んだ私の心を、暖かくしてくれた。

花をつけない樹   廣川 登志男 

 昨年の秋に、久しぶりに和食の店で家内と食事をした。ここの和食膳は地域では有名で、美味しい食事をしながら日本酒で一杯やるのが私流だ。茶碗蒸しも、勿論出された。中には緑色のギンナンが入っている。美味しく頂いたが、そのとき、以前感じた疑問を思い出した。イチョウの花を見たことが無いがどうやって実を付けるのだろうか?

 どんな樹木でも、草花でも、実を付ける前に花が咲く。そして花粉を受精し、実となる。しかし、私自身、イチョウの樹を何度も見ているが、花らしいものは見たことがない。友人達に聞いても、「実がなるのだから、花は咲いているんだろうな。でも見たことないよ」とか、「イチョウに花なんてあるのか?」とも言われる。

 既に四月も半ばを迎える。桜の花吹雪も終わり、葉桜になりつつある。きっと、来年の桜の花を咲かせる準備に取りかかり始めるのだろう。数年前に、桜の蕾はいつ頃出てくるのかと、近くの公園で観察したことがある。それほど早い時期に出るはずはあるまいと思ったが、一応、葉桜となった頃から、1,2週間ごとに、同じ枝を詳細に観察した。七月初めだったと思うが、蕾と覚しきものが観察できた。まだ散ってから三ヶ月しかたっていない。桜が満開になる来年の3月ころまでの間、蕾として準備期間に入ることを知った。

 今回も、桜と同様に、イチョウがどのように花をつけ、受粉という命の継続を図るのか調べるため、定点観察を行うことにした。
銀杏.jpgイチョウには、ギンナンができる樹とできない樹がある。これは、イチョウに雄株と雌株があることを示している。そして、雄株には雄花、雌株には雌花がつくのだろう。地元の真舟中央公園にはイチョウの樹が多い。よく行くので、ギンナンのなる樹がどれか分かっている。そこで、ギンナンのなる雄株と、ならない雌株をそれぞれ2本ずつ選び、かつ、それぞれ枝を二つ決めて、散歩のたびに観察した。


 最初に見つけたのは1,2センチで直径5ミリほどの小さなネコヤナギの花のような、尾状でふっくらとしたものだ。雄株にあったので、これが雄花だろうと思い、家にある、厚さ3センチほどの樹木図鑑で調べた.

 雄花の写真が載っていた。今回見つけたものは、間違いなく写真の雄花だった。隣の写真には雌花が載っていた。添え書きによると、雌花は非常に小さく、萼や花弁などなく、1センチに満たない細い花柄の先に2ミリほどの胚珠を二個つけるとあった。しかし、そのような雌花は一度も見つけることはできなかった。咲く時期が違うのかと思ったが、図鑑には書いていない。そこで、インターネットで調べることにしたが、内容は図鑑と同じようなものだった。

 今回、いろいろと調べ、実際に雄花も観察できた。やはり実を付けるのだから花が咲くのは当然のことだ。そして、3億年ほど前に生まれたイチョウという樹木が、最古の現生樹種として現在まで生き残ったしぶとさは、それなりに環境に適合してきた証拠なのだろう。
そういえば、那須に旅行したときだ。楓の老木から面白いかたちの葉っぱが落ちてきた。正月に遊ぶ羽根つきの羽根を小さくしたような形だった。以前、知ったが、これは楓の種子だ。そろそろ枯れる頃になると、種子を作り世代交代の準備をするのだという。このときも、樹高が高いせいか、咲いている花を見ることはなかった。しかし、種子を作るのだから当然花も付けているのだろう。

 人間には見えない形で、樹木も生き残るために必死に頑張っている。生物というものは、どんなものでも、目に見えない隠れた努力をしている。人間は生き残るために何をどりょくしているだろうか。

桜吹雪   青山 貴文

 空に向かって、大木の欅やクヌギあるいはユリの木などが、十数メートル間隔で通路に沿って茂っている。多くの萌黄色の新芽をつけた細い枝が四方に生き生きと伸び広がる。それらの新緑の若芽と織りなすように桜花が咲き誇っている。一陣の風に、数枚の桜の花びらが、陽光に照らされて舞い降りる。

花吹雪.png ここ数日、私はこの自然の樹木が演じる新鮮な春の景観に目を奪われる。方々に顔面を上げ放して、さくら運動公園の弾力性のある歩行通路を踏みしめて歩く。一般道路と違って、自動車などが来ないので、前方を注意することもない。ただ、新緑と桜花の供宴に酔いしれる自分がいる。数日のうちにこのレンガ色の歩行通路は白色の桜の花で敷き詰められていくのであろう。

 いつものカップルが、陽光に輝いて舞い散る桜吹雪の中で、車椅子を伴って歩いている。車いすを動かしている人は、70歳くらいの頑健そうな男性だ。登山か何かスポーツで右脚を骨折し黒色ギブスで固定されているようだ。太い筋肉質の両腕で力強くハンドリムを動かしている。
奥さんらしい同年配の女性は、白い帽子をかぶりスニーカーを履いて、その車椅子を前後して歩く。手押しハンドを押すこともなく連れ添って桜吹雪を楽しんでいる。毎日、ご主人と車椅子を乗用車で公園に運んでおられるようだ。毎日欠かさず補佐する奥様も大変な忍耐力をされていると思う。

 この数か月前から、彼らは車いすで歩行通路にやってきて一周(1キロ)して帰って行く。私が彼らに遇う時は、後ろから追いつき、ゆっくり追い越していくので、どういう顔付きをしているか知らない。すれ違う時の横顔や雰囲気から察するに、静かにお互いを信頼しあっている感じが伝わってくる。多分、あと数か月もすれば、ご主人の右足も完治されるのであろう。この通路は、ハンデのある人たちの心を癒し躰の回復を促す場でもあるようだ。
 私は、7年前ころからほぼ毎日この歩行通路を、3から5周を歩いている。おかげで、そのころ発症した左大腿部の痺れを完治することができた。

 さらに、4年前、ダンス教室の練習で相手の女性の足を踏みそうになり、二人して一緒に床の上に転がってしまった。相手は無傷であったが、私は左脚の脹脛(ふくらはぎ)を捻り、内出血を起こし、黒く変色しパンパンに膨れた。  
 翌日から、その左脚を引きずりながら、超スローでこの通路を歩いた。日々、徐々に歩く距離を伸ばしていって、三週間くらいで完治した経緯がある。その時も、この樹木で囲まれた歩行通路が私の心身の鍛錬にすごく役立った。

 古い話になるが、今から20数年年前、私は60歳で定年退職をした。脳梗塞で半身不随になった当時80歳の母を看病するのが私の主な仕事であった。彼女は介護4で、ひとりで立つこともできなかった。だが動かない方の左手を持って支えてやると立つことができた。薬の適量投薬の効果もあり、歩行訓練で伝え歩きができるようになってきた。
 当時、私はさくら運動公園の存在を知らなかった。半身不随の母の運動のために、というよりも看護という日々の単調さを解消するために、母と折り畳み車いすを乗用車に載せて戸外に出かけた。

 自宅から車で十五分くらいに位置する深谷市の仙元山公園にもよく立ち寄った。この公園は、周囲にプールや遊技場があり、児童の遊ぶ姿が観覧できた。また、仙元山の頂上からは、近くに扇状に広がる田畑が見渡せ、新幹線が走るのが見えた。さらに、北北西遠方には赤城山や榛名山が望まれた。
 仙元山は、小高い二つの丘からなっていて、桜の木が所々に植わっていた。母は少し認知症気味で動作が緩慢であったが、小柄で軽量であった。私は母を車椅子に載せ、一方の小高い丘の頂上に連れて行った。

 春の午後の陽が一本の大きな桜の木に降り注ぎ、花吹雪が舞っていた。その桜吹雪の真下に、車椅子を止めた。
色白の母の顔が、さくら色にほんのり染まり、幼児のように右手を伸ばして桜の花びらを掴もうとしていた。そのころは、スマホもなかった。無心に桜吹雪と戯れる母の姿を写真に撮ることもなかった。
 彼女の半生は、苦労の連続であった。やっと息子のいる熊谷で平穏を得られ、これからという時になって風邪をひき入院する。そして、翌日脳梗塞を再発し、84歳の生涯を閉じた。
 記憶力の著しく乏しくなった私であるが、桜の花弁を右手でつかみ、嬉しそうにしている母の顔が、いまだに脳裏に鮮明に残っている。

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