フクシマ(小説)・浜通り取材ノート

海洋に流れ出た放射能はどうなるの(1)=いわき漁師の苦悩する叫び

 7月30日、福島県・いわき市の漁師を訪ねた。主たる目的は戊辰戦争・浜通り戦いで、数千人の官軍兵士の日々の食料はどう確保されたのか、その下調べだった。それら一連の話しが聞けた。その後、いわき市の漁師(近海漁)の口から出たのは、試験操業だった。私はくわしくなかった。
「試験操業とは何んですか」
 それは福島原発の沖合で、商業的な漁業の開始だという。東電の漁業補償だけで沖に出ないで無為に生活していては、漁師の勤労意欲はなくなるし、漁業が廃ってしまう。

 フクシマ原発沖は100種類以上の好漁場だ。全国的にも福島産の魚は好評だった。それが原発事故で、全面操業停止に追い込まれている。

 いわき漁協は2013年9月から試験操業を決めていた。これまでの放射能検査で最も数値の低い、対象17種をとって市場に出荷して売る。それ以外の魚種は、網にかかっても、海に戻す。それが試験漁業だ。
 いわき市漁協の漁船底引き網漁船が36隻、小名浜の5隻の計41隻出漁する。
「福島・いわきの魚が売れるか売れないか。やってみないとわからないけど。見通しはつかないけど、やってみようと団結したんです」
 漁師はそう語っていた。

 ところが、東電が6月~7月にかけて、高濃度の汚染水が1日に400トンの地下水として港湾に流れ出していると、発表した。いわきの漁師たちは、スタート直前のとんでもない事実に、怒り心頭だという。

「実は、築地魚市場に出向くと、高濃度の汚染水が海に流出したからには、福島・いわきの魚は持ち込まないでくれ、と言われたんですよ。セリで福島の魚を並べたら、他の魚が放射能汚染に影響する。そこまで言われたんですよ」
 内々の話をぶちまけるほど、漁師は怒っていた。

「高濃度の地下水は止まらないべ。漁師はおとなしく、東電の事情も理解して、耐えていたけど、もう我慢ならない」
 漁師はそう怒る。
 原子炉を溶融した核燃料はメルトアウトしている、可能性が大だ。2年半たった今、それが地下に沈み(成長)し、地下水に触れた、今後も続くだろうと、みなすことができる。
「薬剤注入による地盤改良工事や海側遮水壁設置などで遮断する」
 東電はそう発表する。
 水は常に流動する。、地下の一か所をを断ち切っても、地下水は横から回り道して、海に流れ込むだろう。抜本的な解決策と思えない。目先の取り繕いだろう、と見た方がノーマルだ。                                   【つづく】

原発安全神話のメッキは3・11前から剥がれていた②=浪江町

 郷土史家(男性・70歳前半)は、4日間も妻と娘とともに過ごし、1時間当たり55マイクロシーベルト)の高濃度の放射能に晒(さら)し続けてきたのだ。
「いま思い起こせば、3・11の事故前から、東電が強調してきた『原発安全神話』のメッキが微妙に剥がれかけていました」と史家は話す。
 史家は町の行政一筋の人物だけに、それらをリアルに語ってくれた。
 


 スリーマイル島の原発事故、チェルノブイリ原発事故が発生した。浪江町の住民は疑問を持ちはじめ、「東電の安全神話はどうなのかね」と口々に話題に出すようになった。東電と住民(町役場)との対話の場では、そんな内容の質問も出た。

『チェノブイリも、スリーマイル島も、事故を起こしたのは加圧式原子炉です。私たちの福島第一原発は沸騰水型軽水炉です。原子炉の本体は30~40センチの厚い鋼鉄製です。それを1メートルのコンクリートが取り囲み、さらに原子炉の建屋自体もコンクリートが1メートルの厚みがあります。加圧式は危ないが、大熊(原発の地名)は形式が違うし、大丈夫です』
 沸騰型は安全だと強調する。万が一のことがあっても、放射能が外部に流れ出すことは一切ない。
「原発の煙突から、放射能は出ないのか」
 史家がそう質問した。
『煙突と言わないでください。あれは排気塔です』

 原発稼働から歳月が経つと、東電は廃炉の期間(耐用年数)を先延ばしにしてきた。完全無比の安全神話の姿勢が少しずつ変わってきた。
『微量の核物質は排気塔から出ますが、微粒子の核物質です。空気中に拡散し、希釈しており、人体には影響はありません』
 東電は微小の放射能流出の発言に変わったのだ。

 しかし、東電の力(支配力)は強い。住民には雇用、税、補助金の面でメリットを受けている。東電の支配力は強烈で、微粒子ていどで、原発の廃炉を叫ぶ者はいなかった。そういう空気でもなかった。

 むしろ、浪江町の町役場は、微粒子問題が内在していても、東電が強調する安全神話を信じ、住宅開発を推し進めた。「原発は安全です」と町自体がPRを行っていた。
 浪江町は他の地区に比べても、公共設備(上下水道、病院など)や、生活環境が優れている。税の優遇もあるし、住み心地の良い町だ、と宅地開発は完成に向けて突っ走っていた。町の景気は上昇中だった。その矢先に、原発大事故が起きたのだ。

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原発安全神話を信じ、最大線量の場所で4日間過ごす①=浪江町

 浪江町の住民の避難先は、福島県・二本松周辺である。郷土史家(男性・70歳前半)を訪ねた。交わした名刺を見ると、住所の下に書かれた赤字に、私の目が張り付いた。
『3.11原子力発電所 人災により 裏面の住所に避難中』
 なぜ人災なのか。フクシマ第一原発の事故は、大津波が直接の原因ではないか、と疑問を覚えた。それを訊いてみたいが、初対面の史家は避難後から体調を崩しており、すぐさま浪江町の幕末史の取材に入った。

 戊辰戦争・浪江の戦いは、小一時間ほどで聞き終えた。史家の夫人が奥のキッチンから居間にお茶を運んでくれた。夫人も避難後から体調が悪いらしく、どこか弱々しい。
 湯飲み茶わんを手にした私は、
「原発事故が人災。この理由は何ですか」
 と史家に素朴に訊いてみた。
「東電は、突然の天災に備えられなかったからです。だから、人災です」
そう言われても、私にはピンとこなかった。

 3・11は千年に一度の大津波だった。東電の原発設計者も運転関係者も予測は不可能だろう。私の顔には納得できていない表情が浮かんだのだろう、史家はかみ砕いて説明してくれた。

「東電はこれまで数十年間、地元住民に対して、『原発は三重、四重に安全の装備がなされている、だから、大地震でも大丈夫。少々のテロに遭っても壊れない。原子力発電所は安全なものだ』と言い切り、住民は納得させられてきました。しかし、3・11津波で原発の炉は壊れ、原発の建物も爆発して吹き飛んだへ。大地震に耐えられなかった、これまでの住民への説明が嘘だったから、人災ですよ」

 波江町の中心部に住む史家は、大地震=津波を警戒し、郊外の高台に逃げた。「巨大地震にも強い原発」という、約50年間にわたる東電説明を鵜吞みにしていた。史家の頭のなかには、3・11大地震が発生しても、大地震=原発事故の構図など微塵(みじん)もなかった、と話す。

 12日から16日まで、山奥の大柿ダムに近い、陶芸作業小屋には食糧も寝具もあったから、そこで4日間も過ごす。史家の家族・3人と他に2家族がいた。4日後に気が付いたら、集落にはだれも居なかった。浪江町の住民の2万908人(2010年の浪江町・人口)は、すべて避難していたのだ。

 大柿ダム周辺は、最も線量が高かった地域だ。一時間に55マイクロシーベルトである。原発の爆破も信じがたく(原発安全神話を信じていたから)、約4日間にわたり、大量の放射能を浴び続けたのだ。

「防護服を着るわけでもないし。せいぜい、つなぎの服を着て朝と晩、犬の散歩していました」
 史家は3・11大震災の発生から、大量の放射線を浴びつづけてしまった、一連の動きを赤裸々に話してくれた。                                     【つづく】


            写真説明:放射能被害で市街地に入れない・浪江町

苦闘する飯舘村・菅野村長にインタビュー(上)=郡山利行

 福島県・飯舘村(いいたてむら)の菅野典雄村長は7月4日、午後4時から1時間の単独インタビューに応じてくれた。私は小説家・穂高健一氏に同行取材した。菅野村長は、3・11フクシマ原発事故から2年半たった現状と、これまでの過程を語ってくれた。

 避難先を決めた時のこと、津波災害と放射能災害の違い、飯舘村が置かれた苦境、ゼロへの戦いに対する批判や誹謗中傷にもくじけず、挫折せず、突き進む姿勢と精神を熱く語った。
「全村避難の苦境と痛みとが、きちんと理解してもらえていない」という辛さが私たち村民にあります。嘆くだけではどうにもなりません。私たちは毎日、現行の国の規則の中で、最大限どうやって動くか、ゼロの水準(村にもどれる、生活の足がかりを得る)に向かって、進んでいます。

 穂高健一氏は質問とメモ筆記に集中したので、菅野村長は私に向かって語り続けていた。直視する村長の目は、穏やかさの中にも、気迫が満ちあふれていた。 


『美しい村に放射能が降った』
 2011年8月に、菅野典雄村長が出版した本のタイトルである。サブタイトルは、『飯舘村長・決断と覚悟の120日』である。
 飯舘村は合併しない≪自主独立の村づくり≫を進め、小規模自治体の良さを生かした子育て支援や環境保全活動、定住支援などユニークな政策を展開してきた。とくに畜産業の黒毛和牛≪飯舘牛≫は、ブランド牛として高い評価を得ていた。

 過疎化・高齢化が進む、ごく普通の農業の村だった。飯舘村で生まれ育った菅野さんは、1996年に村長に初当選して以来ずっと同村を牽引してきた。2010年には『日本で最も美しい村』連合に加盟した。村づくりの更なる発展へと弾みになるはずだった。 

 2011(平成23)年3月11日に発生した東日本大震災の地震と津波で、東京電力福島第1原子力発電所(以降、第1原発)の原子炉と建屋が次々と爆発炎上した。核施設の未曾有の大惨事から、飯舘村の輝かしい小規模農村づくりの努力と成果がすべて消えてしまったのだ。


 第1原発災害直後、低気圧による南東の風が吹き、原発災害現場から北西に30kmから50kmも離れた飯舘村までも、放射能を運んでまき散らしたのだ。しかも、爆発した時点でも、村にはなんら通報がなく、それだけに『うちの村は原発とはまったく無関係だから、絶対に安全だ』と、村人たちは信じ切っていた。
 
 菅野村長は、2011(平成23)年4月10日の夕方、福山官房副長官から、飯舘村が「計画的避難区域」に設定されたと聞かされた。1ケ月以内に全住民は村から避難せよ、という通告である。

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ひとつ家族が三者三様だった(下)=いわき市久ノ浜の大津波で

 夫人は町内の美容院で、髪を染めていた。大地震が発生した。大きな揺れが続いたけれど、頭髪を処してもらってから、軽自動車で自宅に向かった。
 道路には落下物が散乱していた。あれだけの大地震だから、当然だろう、と思った。それを避けながら、難なく家に着いたという。
「地震で、水道は断水したけど、電気も来ているし。私は地震も、火事も見ていないし、父ちゃん(夫)が出かけるときと違う服装で帰ってきて、横たわり、はー、はー、と息をついているけど、一言語らないし」
 死の淵から戻ってきた正次さんは、津波の恐怖で口が利けなかったのだ。だから、説明もできなかった。


「息子は沖に出たら、一晩や二晩、漁で帰ってこない。夜帰ってこなくても、なんにも気にならなかった。父ちゃんははー、はーとため息をついているだけだし」
 水道が断水しても、ペットボトルでご飯は炊けるし、不自由はなかった。買い物も終えていたし、出かける必要もなかった。

 翌朝は火事はほぼ沈下していた。戸外に出ると、近所の人に出会った。大津波で国道6号線まで町は全滅になった、大勢が中学校の体育館に避難している、と聞かされた。
「半信半疑でしたよ。地震の揺れは強かったけど、だだ広い太平洋に面した久ノ浜が津波に襲われるなんて。覗きに行ってみようと、軽い気持ちでした」
 体育館では、大勢が床に坐り虚脱状態だった。どの顔も生気がなかった。炊き出しのおにぎりを食べている。
「何が起こったの」
 彼女はまだそんな気持ちだったという。
 その大津波に、夫が飲み込まれていたとは、この段階でもわかっていなかったという。

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ひとつ家族が三者三様だった(上)=いわき市久ノ浜の大津波で

 7月2日、私は戊辰戦争・浜通りの戦いの取材で、因州(鳥取)藩が駐留した久ノ浜に入った。5月に続いて2度目の訪問である。いわき市・久ノ浜は近海漁業が盛んで、水揚げされる魚種の多い港町である。漁師の芝田正次さん(60代)ご夫婦から、150年前の漁法などを取材していた。
 現在はフクシマ原発事故で、福島県沖の漁がすべて止まっている。


 久ノ浜は3・11のとき、大津波に襲われた。そのうえ、火災が発生した。民家が流されたり、焼かれたりして、数多くの命が失われた。(死者・行方不明者は63人)

 ひとたび巨大な大津波に巻き込まれると、人はまず助からないはず。この久ノ浜には九死に一生を得て助かった方が3人いるという。一人は取材中の正次さんだった。当時の話を聞くことができた。
家族は三者三様の動きで興味深かった。

 漁師の家といえば、一般的に海岸にある。芝田家は浜から800メートル奥まった場所である。
「震災の5年前でした、少し大きめの住まいを探していたら、常磐線よりも山側に希望にかなう家があったから、買い求めたんですよ」
「かつてのご自宅は海岸でしたら、大津波の被害に遭っているんですか」
「元の家屋の周辺は全部流されましたよ。」
「実に幸運な買い物でしたね」
「当時、浜から離れて、どうする。不便だべ。と言われましたけどね。住み心地を優先して、この家を買ったんです」
 漁具や漁網の運搬は、むかしの人力と違い、海辺の作業場まで小型トラックを使う。少々、海まで距離があっても、3~5分の違い。さして時間的なものは変わらない、とご夫婦は語っていた。


 3・11の2時46分に大地震が発生した。主の正次さんはとっさに
「沖出しをしてくれ。漁船を沖に出して守るのだ」
 と息子に指示をした。
 息子はそれに応じて自宅を飛び出した。津波といえば、50センチ程度で、今回もそう予測していたから、漁船に水も、食料も積み込んでいなかった。
 想像を絶する大津波は3日間くり返し襲ったという。陸には戻れない、食べる物も飲むものもない。精神的な恐怖感に耐える。そのストレスに対してタバコがほしかった。喫いつくすと、船内に吸い殻は落ちていないかと、なんども探し回ったという。(両親の談話)。


 主の正次さんは、沖出しさせた息子が気になり、小型トラックで海岸にむかった。道路沿いの川が、川底が見えるほど干上がっていた。港に着くと同時に、巨大な津波の第2波に襲われた。トラックの運転席から、正次さんは投げ出された。
「トラックがすごい音で、建物に押しつぶされた」
 正次さんは津波の渦に巻き込まれた。全身が洗濯機に投げ込またように回転し、なにがなんだかわからなかった。

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もう一つの戊辰戦争・福島浜通りの戦い③=2人の英雄ともに死す

 私は、「小説・高間省三」を書くためには人脈取材を広げる必要があった。高間省三はどんな人脈とつながっていたのだろうか。
 思いのほか、幕末史にかかわる、大きな事件にかかわった人物と結びついていた。

 広島藩の幕末を代表する、各藩との折衝役の京都留守居役は船越洋之助(戊辰戦争では東北遊撃軍参謀として出兵・明治の元勲)だった。省三との接点も多い。船越洋之助と神機隊とのつながりも深い。船越の父親などは、神機隊に対する高額出費のスポンサーだった。

 船越洋之助は鳥羽伏見の戦いの後、すぐ広島に戻ってきた。高間省三らに、
「鳥羽伏見戦いで、広島藩の隊長が命令を出さず、攻撃もせず、隊は動かなかった。京都で、広島は大笑い者になっている。『薩長芸』で討幕すると密約までなしているのに、鳥羽伏見の戦いでは、広島は見限られて、土佐に代わり『薩長土』で行く、と討幕が主力が替わってしまった」
 と語って聞かせた。

 芸州藩の藩士は、わが藩の恥だと涙を流して怒った。
「汚名挽回するぞ」
 20歳の高間省三が突っ走ったのだ。そして、農兵の神機隊に飛び込んだ。

 鳥取の伊藤さん・歴史家から因州藩の主力人物の近藤類蔵とか、山国隊(やまぐにたい)とか、中井範五郎とか、幕末史に影響を与えた鳥取の人を知りえた。

 鳥取藩の京都留守居役だった、河田佐久馬(わかだ さくま)には、私は過去から関心を持っていたので、伊藤さんから詳しく話を聞くことができた。ちなみに、佐久馬は明治に入り元勲になっている、大物だ。

 ともに戦った近藤類蔵は勝海舟と、共に学んだ船越洋之助には坂本龍馬や薩摩や長州の維新志士たちとも接点が次々に出てくる。
 日本海側の鳥取からひも解いて、「勝海舟」をキーワードにしてみると、こうも幕末史が拡がるのか、とおどろきを覚えた。勝海舟と接点があるとなると、広島側の人物は多い。第二次長州征伐の和平交渉に、勝海舟が用心わずか1人を連れて、宮島に来ている。この1か月間でも、広島、長州の藩士たちとの接近度は高い。

 船越洋之助と池田徳太郎と新谷道太郎(勝海舟の門下生)と結べば、戊辰戦争の2か月前に結ばれた、広島県・大崎下島の御手洗における4藩密約同盟(新政策要綱八策)へと結びつく。これは後世に船中八策の作り話に利用されたものだ。

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もう一つの戊辰戦争・福島浜通りの戦い②=2人の英雄ともに死す

 2013年1月から高間省三の取材を行っている。4月にはいわき市久ノ浜を訪ねた。同町の木村家には、なんと鳥取藩の近藤類蔵の位牌があるという。それは驚きだった。
「広島・鳥取の双方の亡くなった砲隊長にスポットがあてられる」
 それは作品に厚みがつくはずだ、と私なりに興奮を覚えた。

 久ノ浜は3・11大津波と大火災で、甚大な被害を受けている。木村さんとお会いした。自宅の床下まで大津波がきている。大切な遺跡・近藤類蔵の位牌が奇跡的に残ったのだ。木村さんから、伊藤康晴さん(元鳥取市歴史資料館・学芸委員)を紹介してもらい、鳥取に取材に出むいたのだ。

 22朝6時半には鳥取駅についた。喫茶店で、日本PENの憲法96条改変反対の記者会見を会報記事としてすこし取りまとめた。(PENは作家の集まり。読む人のレベルは最高級だから、一字一句に神経は使う)。
 朝8時に歴史学の伊藤康晴さんにお会いした。夕方16時まで、8時間のロング取材にご協力してくれた。資料をも提供してもらい、石碑や戊辰戦争で死んだ兵士たちの墓に案内してもらった。

 近藤類蔵の石碑は鳥取砂丘が眼下に見える、鳥取護国神社に筆頭で祀られていた。高間省三は広島護国神社の筆頭で祀られている。
 そこにも2藩の重要人物だったという共通点があった。

「万延元年(1860)3月には、類蔵は勝海舟の門下に入っています」
 伊藤さんが教えてくれた。
「えっ、芸州で農兵隊の神機隊を作った、木原適処(きはら てきしょ)も、安政5年(1858)から4年間にわたって勝海舟の門下生になっています。接点がありますね」
  木原適処は、武具奉行だった高間多須市(省三の父親)と親しく、広島藩の武器の支援を受けて神機隊を創立したのだ。

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もう一つの戊辰戦争・福島浜通りの戦い①=2人の英雄ともに死す

 6月21日~24日まで、鳥取、広島、京都を取材に出むいた。フクシマの戊辰戦争・浜通りの戦い(1868年)の取材と、フクシマ・原発で故郷に帰れない人て(現在)の望郷感の取材である。

 6月21日午後は日本ペンクラブ(浅田次郎会長)の会議室で、「憲法第96条改変に反対する」声明と、記者会見に出席した。私は広報・会報委員として会員向け(約1900人)記事と写真の双方の担当をうけもっていた。
 記者会見場で写真撮り、ICレコーダーで録音してから、私は旅先で記事を書くことに決めて、鳥取市へと向かった。

 都内のある出版社から『もう一つの戊辰戦争』、(仮題)「高間省三」を来春に出版してくれる、と内諾を得ている。20歳の戦死した若き砲隊長・高間省三が主人公である。

 高間省三は広島藩の秀才の誉れ高かった。藩が正式な出兵をしない(藩船だけの提供)となると、エリート中のエリートだった高間は、義に燃え、みずから農兵隊(神機隊)に飛び込んだ。砲隊長として戦場に向かった。すさまじい戦いだった。
「このあたりは長州藩のエリート高杉晋作(20代後半で死す)に似ているな」
 高杉は長州藩の方針に反発し、農兵・奇兵隊を立ち上げてから行動を共にしている。農兵の力をまとめた点では高間省三もよく似ている。
 
 歴史では、白虎隊の悲劇を生んだ「会津城の戦い」が戊辰戦争のすべてのように語られている。しかも、奥州列藩同盟の雄・仙台を落城さずして、戊辰戦争の終了はあり得なかった。官軍が相馬・仙台藩と戦った、もう一つの戊辰戦争が歴然と事実としてあった。

 私の役目と使命は歴史の再発見で、浜通りの戦いの掘り起こしでもある。

 いわき市・平潟に上陸した広島藩は鳥取藩は2藩で約700人で、浜通りに沿って北上した。平将門の子孫である相馬藩と、東北の雄・仙台藩へと攻め入ったのである。
 敵対する兵は約10倍で、なおかつ相馬・仙台には地理勘がある。双葉郡特有の断崖や河川を利用し、狙い撃ちだった。

 鳥取藩はまず広野の戦いで、砲隊長の近藤類蔵(こんどう るいぞう)が戦死してしまった。指揮者を失い、戦力が落ちた。

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私にはわからないのです

 私はいま現在、フクシマに取材に入っているフィクション作家として、最多ではないかなと思います。むろん、地元作家を除いてですけど。

  福島第一原発事故の被災地を取材していても、東京で作家仲間と語っていても、私にはわからないのです。「反原発」は理解できても、何をもってしてエネルギーを作るべきか、と。

 人間が「火」「電気」の2つを使い始めたときから、地球環境の破壊がはじまっています。

 ・水力発電は山野を壊す。

 ・火力発電は、地球上になかったダイオキシンを生み、人間の遺伝子を壊し、温暖化、北極・南極の氷を溶かし、オゾン層を壊す。そのうえ、再生できない化石燃料を使い果たそうとしている。

 ・原発はご存じのとおり、使用済み燃料の処分方法がない。

 ・ソーラー発電は地球の人口規模で考えると、広範囲に野山を壊し、平面で地表を隠し、水蒸気の蒸発を阻害し、日照時間が長くなり、砂漠化への道につながっていく。

 ・風力発電も、低周波の人体被害がある。


 作家はいま生きている人間の姿を表現することができます。しかし、将来の指針・方向性をジャッジする職業ではありません。決めるのは政治家や行政、そして市民の人たちです。 

 エネルギーの選択は私にはわからないのです。常日頃から、原発問題を語る人には、上記のどのエネルギーを選ばれるのでしょうか、教えてほしいな、と思っています。

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