もう一つの戊辰戦争・福島浜通りの戦い③=2人の英雄ともに死す
私は、「小説・高間省三」を書くためには人脈取材を広げる必要があった。高間省三はどんな人脈とつながっていたのだろうか。
思いのほか、幕末史にかかわる、大きな事件にかかわった人物と結びついていた。
広島藩の幕末を代表する、各藩との折衝役の京都留守居役は船越洋之助(戊辰戦争では東北遊撃軍参謀として出兵・明治の元勲)だった。省三との接点も多い。船越洋之助と神機隊とのつながりも深い。船越の父親などは、神機隊に対する高額出費のスポンサーだった。
船越洋之助は鳥羽伏見の戦いの後、すぐ広島に戻ってきた。高間省三らに、
「鳥羽伏見戦いで、広島藩の隊長が命令を出さず、攻撃もせず、隊は動かなかった。京都で、広島は大笑い者になっている。『薩長芸』で討幕すると密約までなしているのに、鳥羽伏見の戦いでは、広島は見限られて、土佐に代わり『薩長土』で行く、と討幕が主力が替わってしまった」
と語って聞かせた。
芸州藩の藩士は、わが藩の恥だと涙を流して怒った。
「汚名挽回するぞ」
20歳の高間省三が突っ走ったのだ。そして、農兵の神機隊に飛び込んだ。
鳥取の伊藤さん・歴史家から因州藩の主力人物の近藤類蔵とか、山国隊(やまぐにたい)とか、中井範五郎とか、幕末史に影響を与えた鳥取の人を知りえた。
鳥取藩の京都留守居役だった、河田佐久馬(わかだ さくま)には、私は過去から関心を持っていたので、伊藤さんから詳しく話を聞くことができた。ちなみに、佐久馬は明治に入り元勲になっている、大物だ。
ともに戦った近藤類蔵は勝海舟と、共に学んだ船越洋之助には坂本龍馬や薩摩や長州の維新志士たちとも接点が次々に出てくる。
日本海側の鳥取からひも解いて、「勝海舟」をキーワードにしてみると、こうも幕末史が拡がるのか、とおどろきを覚えた。勝海舟と接点があるとなると、広島側の人物は多い。第二次長州征伐の和平交渉に、勝海舟が用心わずか1人を連れて、宮島に来ている。この1か月間でも、広島、長州の藩士たちとの接近度は高い。
船越洋之助と池田徳太郎と新谷道太郎(勝海舟の門下生)と結べば、戊辰戦争の2か月前に結ばれた、広島県・大崎下島の御手洗における4藩密約同盟(新政策要綱八策)へと結びつく。これは後世に船中八策の作り話に利用されたものだ。
司馬遼太郎が、龍馬を大きく見せるために、船中八策を中核においている。龍馬と後藤象二郎と作ったという「船中八策はまったく偽物」で、実物すらない。私が調べても、江戸、明治時代、大正初めまで、「船中八策」は一行も出てこない。
明治時代にF土佐新聞が龍馬を新聞連載しながらも、「船中八策」は1行も出てこない。
大正半ばになって、、土佐の文人が龍馬伝を書くときに、初めて顔を出す。それを司馬遼太郎が拡げたものなのだ。
ちなみに、高知県の「坂本龍馬記念館」の学芸員に電話で問い合わせてみると、「たしかに、幕末から大正初めまで、『船中八策と』いう用語は確認できていません」と話す。確認できず、という巧妙なことばで逃げているが、現在も本ものはないのだから、陳腐な言い回しである。
龍馬の活躍から船中八策を消すと、どうなるだろうか。幕末の各藩への武器密売「死の商人・龍馬」が色濃くなってくる。龍馬のロマンまで否定しないけれど、少なくとも、司馬遼太郎が創作した龍馬史観は変わってくるはずだ。
「ここに新たな幕末史の1ページが生まれるかな。否、歴史小説家が作った、ありえない史実は訂正できるかな」
私はそう自分にも期待するある。
鳥取から、次なる広島取材地へと向かった。
写真:広島護国神社、高間省三が筆頭で祀られている。
正月の三が日は、中国地方で一番多い初詣客で賑わう。