A055-フクシマ(小説)・浜通り取材ノート

「災害文学」で、フクシマの何を描くべきか。原発問題か、人間の群像か

 311に関心を持つ作家の多くは、『脱原発』『原発に反対』の視線で作品を作り、シンポジウムを開催する活動を展開している。
 私にとっては、東電問題は大き過ぎるし、文学の領域を超えた、手におえない素材だと考えている。他方で、ジャーナリストの原発記事を下地にした小説は邪道だと考えている。
『自分の足で取材する。庶民の目で描く。記事の引用はしない』
 これが私の作家魂、というか理念だ。

 だから、原発反対を叫ぶ作家との同化を嫌った私は、あえて難易度の高いフクシマを取材を外してきた。2011年の秋から、岩手県と宮城県に絞り込み、延べ13か月、17回にわたり被災地の取材を行った。大津波がもたらした人間の生き方、心の傷、差別、ねたみ、希望などを本音で語ってもらい、「海は憎まず」を刊行した。
 この間、私は福島に一度も足を運んでいない。

 後世にも読まれる『災害文学』の提唱者になりたい。となると、3・11のフクシマ原発事故は外せないだろう。東電問題は書きたくない。テーマ『望郷』ならば、庶民の目で描けるだろう、と考えた。

 戊辰戦争(1868年)の浜通りの戦で、鹿児島、山口、鳥取、そして広島など遠くからきた兵士が数多く死んた。(原発事故前に)浜通りに眠る官軍側兵士の墓は、330体確認されている。
 遠路やって来た兵士が、身内に看取られることもなく、帰郷を果たせず、死す。線香を立て、花を飾ってくれる人もいない。死んでもさぞ無念だろう。

 現代において原発避難者たちは、故郷に帰れない、故郷で生活できない、しかし、故郷は大切なもの。ふたつの望郷が浜通りにある。150年を超えた、人間の望郷感はきっとがっちするだろう。
 1月から、歴史と現代と両面から、私は取材活動をはじめた。すでに、5回足を運んでいる。まだまだ満足な取材に及ばない。


 これを知った知人が、「広島出身作家は、原爆をとうぜん解っている。フクシマを描けば、他県の作家とちがった、真似できない作品ができると思う」と期待された。
 その実、その違いがすんなり飲み込みできていなかった。

 2011年3月12日、第一原発の建屋が水素爆発で吹き飛んだ。瞬時に、放射能が広域に飛散した。
3-5キロの地点には住民がいた。避難所はパニックに陥った。
 2年経った今も、「将来お嫁にいけない」と中学女子が脅えている。
「原爆っ子のように、血を吐いて死ぬの?」と小学二年生が泣く。
 子ども心から残留放射能への恐怖が消えていない、とある母親の取材を通して知った。

「広島県出身の私は、娘さんや息子さんが言った、放射能は怖いと、泣き崩れた気持はよくわかるんです。僕たちは子どもの頃、原爆でなく、「ピカドン」と言っていました。大勢が血を吐いて死んでいた。それを見聞していました」
 小学生の教壇に立つ先生の顔には白いケロイドがあった。先生たちは、『平和教育』だといい、手づくりの紙芝居に、被災直後の女学生や子供を描いていた。それを生徒の私たちに見せる。手や指先がとろけて服はボロボロで、水がほしい、と歩き廻っている。放射能はとても怖いものだった。

「戦争をしたら、次はお前らも、こうなるんだぞ、頭に叩き込んで、後世に伝えるんだぞ」
 被爆教師の熱意は、本物だった。つねに、戦争のない社会、安全な社会を訴えていた。先生は実体験で強烈で真剣な表情だけに、子どもの私はまた戦争がきっと起きる、頭の上にピカドンが破裂する日が来ると、本気で考えていた。
「なにしろ朝鮮戦争が勃発していましたから。小、中学生時代からの核兵器と残留放射能の恐怖はいまでも、私の心に沁みついています。「それが作家になった今も、心の原体験の一つです。だから、原発っ子の気持ちも理解できるのです」

 原爆文学がある。広島出身の井伏鱒二に『黒い雨』がある。原爆投下のアメリカが悪いだの、戦争を仕掛けた日本が悪いだの、という問題には筆を運んでいない。「原爆が落ちた」その事実から、嫁にいけない娘をもった父親を描いている。

 フクシマ原発の「災害文学」も、第一原発の建屋がバーンと水素爆発した、その事実から、人間の群像を描くべきものだと考える。東電に働いていた人は加害者だし、被害者でもある。死を覚悟した人もいれば、平気だという人もいる。将来の発症におびえる人もいる。楽観的な人もいる。
 原爆文学と原発文学が、ある意味で人間の姿をおなじ目線で描いていける、そんな下地があると思う。

 東京出身の作家がこれを書いたら、東電が悪いの、どこが悪いの、という責任追及型の作品になるだろう。
 ジャーナリストは現地で聞いた状況をより正確に文字化すればいい。

 小説は取材で聞いた話をいったん頭の中でろ過させる作業がある。そし、母親になりきり、小学生に代わって書く。お嫁にいけない、と泣く中学生にも、わが身をおいて書く。
 住民の罵声を受ける、地元採用の東電職員の悶々とした気持ちをも、庶民の目で書ける。


 失われていくふるさと。住民には先々の見えない生活不安、安全不安がある。原爆被災と、今回の原発被災と同一ではない。だが、被災人間の心をとらえるうえで、放射能恐怖を知った原風景の私とは、どこか根のつながりがあるはずだ。
 それは知人が言った、
「広島出身作家がフクシマを書く、そのこと自体に意義がある」
 という言葉につながるのだろう。

写真:『日本写真の1968』の「広島」より(東京都写真美術館・2013年5/11~7/15開催)

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