A055-フクシマ(小説)・浜通り取材ノート

原発被災地・広野町=兵士は150年前に死す、故郷に戻れず

 2011年3月11日に、東日本大震災が発生した。2年1か月が経った今、警戒解除になった広野町に入った。
 町なかを流れる浅見川の堤桜は、すでに満開を過ぎた2分咲きで、見ばえが悪かった。町のシンボルである東電火力発電所の高い煙突が聳えている。原発が停止した現在は、火力発電所はフル活動で、電力を供給している。しかし、フクシマ第一原発が事故を起こしたから、何かしら精彩を欠いて見えてしまう。

 国道4号線の「二ッ沼」は、小さな沼で、4月の冷たい風でさざ波が立っていた。畔には苔むす万葉の碑があり、流麗な和歌が彫られていた。もう一つは、戊辰戦争(1868年)・浜通りの激戦地となった「二ッ沼古戦場」の碑が建つ。史実を記す銘盤もなく、味気ないものだった。

 相馬藩・伊達藩の連合が、いわき平城陥落の後、官軍の侵攻に備えて、砲台や胸壁(きょうへき、散兵壕)を作ったところだ。そして、北上してきた官軍を迎え撃った。双方に多くの兵士が銃弾で倒れた。戊辰戦争「広田の戦い」ともいう。

 官軍の主力部隊は芸州(広島)、因州(鳥取)だった。遠くから来た兵士は、撃たれて死に逝く。頭部貫通を除けば、からだに銃弾に当たっても、まず即死はない。肉をえぐられた激痛に苦しむ。止血の効果もなく、化膿し、苦しんだ果てに逝く。
 血染めの兵士たちの、「望郷の念」は如何ほどだっただろう。
『今いちど故郷に帰りたい。死ぬ前に海や山や見たい、親にも、兄弟にも会いたい』
 そう思い焦がれる。故郷の念は強くても、故郷を見ずして死にいく。そして、亡骸も、遺骨も、永遠に故郷に戻れない。

 現代はフクシマ原発事故で、故郷に戻れない、「ゲンパツ流民」が数万人いる。そのひとたちの「望郷の念」と、約150年前に死した兵士との望郷感が、この浜通りで重なり合うのだ。それが私の小説取材のテーマにもなっている。

「広田の戦」が行われた、浅見川の河口には修行院がある。境内には芸州(広島)藩の4人と長州藩の2名が眠っている。境内の墓地の墓はほとんどが元通りに復元している。
 芸州藩の4つの墓もしっかり立っていた。大地震で、四角柱の角が随分と欠けている。一つは半割れの墓だ。そこには接着剤の跡があった。誰が修復してくれたのか。

寺の住職から3・11の一連の話を聞いた。大津波は広田町にも襲いかかった。修行院の境内も津波が来た。本堂はかろうじて耐えた。しかし、生活の場である庫裏は海に流されてしまったという。
 本堂のなかは津波の渦でかき回されている。一体どこから手を付けるのだ。岡田住職はただ茫然と見ていた。
 翌朝、岡田住職はいわき市内に出向き、長靴や下着などを買った。(まだ物が買える状態だった)。町に戻ってくると、防災行政無線が「フクシマ第一原発が爆発します。南へ、とにかく南に逃げて」と放送していた。消防団員が消防車で巡回し、避難を呼びかける。そのうち、双葉郡(大熊、富岡、楢葉など)の数万人の住民たちも逃げてくる。
 大動脈の国道4号線は先を争う車で埋まってしまった。
「南のどこまで行けばいいんだ」
「原発が爆発するんよ。行けるところまで逃げて」
 消防団員にすら、解らなかった。
 皆がいわき市方面に逃げた。そして、住職の妻は京都出身だから、実家に帰った。

 住職は同年3月30日に警察の立入禁止をかいくぐり、ひとり寺に帰ってきた。周りでは、警察官や自衛隊員が大勢で行方不明者をさがす光景があった。住職は黙々とひとり本堂の復興に取り掛かる。
その後も、本山からは放射能の不安があるので、人手の派遣はなかった。

 「ご本尊が倒れなかった。これはありがたかった。津波でかき回された本堂ですが、畳を剥がしたり、仏具を一つずつ片づたり、使える物は泥をぬぐい、箱に納めていく。手を入れるほどに、妙に快感がわくんですよ。あれは不思議な心境でした」
 檀家で亡くなった人の葬儀は、いわき市の寺で、同年の夏に行われたという。

 境内の墓は6割がた倒れていた。新しい墓は強力ボンドが使用されているので、倒れなかった。それが4割だという。いわき市四倉の石材店が補修に入った。費用は個々人である。
「芸州藩や長州藩の墓の補修費は、だれが出されたのですか」
 そう訊いてみた。

「石材店の方が、『このままだと可哀そうだ。遠くから来て戦争で死んで、故郷に帰れず、亡くなった人だし』といい、直してくれました」
 兵士たちは、敵味方に分かれて戦ったのだが、厚いもてなしを受けている。

 芸州藩・神機隊の墓は明治元年7月26日だった。長州藩は慶応4年7月26日である。明治と慶応と、この表記の違いなんだろうか。ここにも小説的な興味を持った。

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