A055-フクシマ(小説)・浜通り取材ノート

3・11岩手・宮城から福島「浜通り」へ

 広島県出身の作家がフクシマ・原発を書かないんですか。そう聞かれたことが何度かある。
 私には「フクシマ原発」は素材が大きすぎて、手におえない、と考えている。手元には作家が書いた「いまこそ私は原発に反対します」と、詩人が書いた「脱原発・自然エネルギー218人詩集」がある。多くの筆者の共著である。
 他人の作品を深読みする、精読すると、影響されるので、さらっと読んだだけで、本箱に並んでいる。多くの作家のように、フクシマ原発に飛びつかなかった。

 私は、東日本大震災の被災地だった岩手・宮城には一年半の取材を行ってきた、小説3・11「海は憎まず」を災害文学として、世に送り出すことができた。今後においても、「災害文学」を世に根づかせたいと考えてる。となると、被災地の福島県は外せない。

「原爆小説」は原爆投下後の庶民の姿を書いている。広島の上空で原爆をさく裂させたアメリカの責任とか、日本の戦争責任とか、そこに筆を運ぶと、文学としては大きすぎるし、庶民一人ひとりの姿を描ききれない。
「フクシマ原発」の東電責任問題は、昭和20年から30年から日本の軍国主義による戦争責任問題によく似ている、と思う。それ自体は文学としては大きすぎる。小説は論調ではなく、庶民をどう描くかだ。だから、私は避けてきた面がある。

 そうだ。「フクシマ原発」でなく、「福島・浜通り」の取材をしよう。そう考えた。
 それは戊辰戦争「浜通りの戦い」の兵士の望郷感と、原発事故で故郷・浜通りに帰れずにいる現代の庶民と重ね合わせるものだ。

 1月から、いわき市、浪江町(二本松に避難)、楢葉町(会津美里町)、双葉町(埼玉県・加須)と取材に入った。各教育委員会の歴史関係の方が中心だった。
 この間において、福島県浜通りの地形は知らないので、小説を書くには難があるな、壁が高いな、と考え続けてきた。どうしたら、現地を見ることができるのかな。

 3月14日(日)には広島に出向く。『歴史紀行・戊辰戦争と広島藩兵』を書かれた尾川健さんに会う。広島駅構内で待ち合わせをしている。私はかつて雑誌に「坂本龍馬と瀬戸内海」を連載していた。その時にも取材協力をしてくださった。龍馬は暗殺で、シリーズは終わるもの。
 尾川さんは「私は幕末史でも、戊辰戦争が専門です」といった。あまり、役立だたないかもね、という前置きが私の脳裏に残っていた。こんかいの取材は戊辰戦争だから、正面から向かい合える。

 広島に入った翌15日は、芸州藩の亡き兵士が祀られている広島護国神社に出向く予定でいた。取材を申し込んだ。年間でもっと大きな祭りが13-14日に行われるし、15日は神社としては多忙だという。
 5月ならば、というと、「取材をお受けます」と許諾してくれた。

 楢葉町から葛飾区に避難している鈴木會子さんから、
「楢葉には4月から入れるそうですよ」
 という話を聞いた。福島県・国道管理事務所に問い合わせると、楢葉町・富岡町の一部までは入れると、教えてくれた。
「善は急げ」だ。浜通りの地形を見なければ、執筆は進まない。

 15日は広島護国神社がダメだから、とんぼ返りしよう。そのまま羽田、東京駅、いわき市へと移動し、16日は福島・浜通りに入ろう、と決めた。すぐさま、ホテルなどを手配した。
 17日には日本ペンクラブの親しい作家仲間たちと恒例「歴史散策」で王子の史跡を歩く。これも浜通りからとんぼ返りだ。

 岩手・宮城には1年3か月間、延べ17回ほど足を運んだ。福島・浜通りには何回行くのだろうか。私は取材に裏付けられた小説しか書かない。それでなければ、読者は感情移入できない、と考えている。
 メディアの原発情報から、私は作品を書きたくない。だから、自分の足で取材していく。その労力を惜しんでいては、読者の心に響くものが書けない、という信条だ。

 私はかつて小説の文学賞を数多く受賞している。ふり返ってみると、それぞれ厚い取材で書いている。きっと選者の心に響いたのだろう。

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