A055-フクシマ(小説)・浜通り取材ノート

戊辰戦争の「浜通りの戦い」を歩く②=いわき市末次

 戊辰戦争の芸州(広島)藩が、福島県の浜通りのどこに陣を構えたのか。どんな戦いをしたのか。約150年経った今となると、生存者はいない。確たる目撃者はゼロだが、曾祖父母あたりからの伝承は、口承は残っているはずだ。
 
 学者と作家は史観が違ってくる。

 歴史学者は書簡や手紙など「紙に書かれた物」を史料だ、事実だ、とする傾向が強い。口承、伝承などは不確実なものとして認めたがらない。つまり、史料がないと事実の確定に及ばず、文献として出版しない。

 作家は、「人間なんて、自分に不都合なことは手紙に書かない。日記すら飾って、自分の都合よく書くもの」という人間心理の認識がある。フィクション小説などの書き手などは、それがよく解っているし、文字に書かれたものを金科玉条、鵜(う)呑みなどしない。
 伝承とか、言い伝えとか、わずかな手がかりから推察し、事実に迫っていく。そして、作品化する。

 作家は推量からでも描ける、わずかな手掛かりを求めて取材していく。あとは想像力で補う。歴史学者は想像では書かない。この点が大きく違う。

 いわき市小名浜で、101歳の高齢の老人が、戊辰戦争のことは祖父から聞いて知っている、という情報を得た。すぐさま連絡を取った。「99歳まで、爺ちゃんは畑仕事もしていたし、耳も、口も達者だったんですがね。フクシマ原発で、住まいを追われて、小名浜に避難してきて、家のなかに閉じこもった状態になったんです。途端に、寝たきりで、一気にボケがきてしまいました」と家人から聞かされた。

 その縁戚にあたる77歳の男性が、いわき市末次に健在だった。代々、庄屋で屋号は『仲(なか)』だった。そこを訪ねた。
「わが家には入母屋(いりもや)風の客殿があったのです。茅葺で、柱は朱塗りで豪華な建物でした。むかしは小名浜の代官が村に巡視にきたときの寝泊まり所で、家人も一般人も泊れない、格式ある、頑丈な造りのりっぱな客殿があったのです。私の代まで、その建物が残っていました。いまは取り壊しましたけれど」 
 その写真を入手できた。

 私の持参した芸州藩の『神機隊』の陣立ての絵図が、ちょうど末次だった。神機隊の幹部が泊ったのが、この『仲』の客殿だと推量できた。

 77歳の主から、可能な限り当時の情報を引きだしたい、と取材に踏み込んだ。

 戊辰戦争の豪農で庄屋だった『仲』の、当時の主の名を林内(りんない)という。かれは1820(文政3)年に生まれているから、43歳だった。
 村人は「今夜は戦争がある」と山奥に逃げた。村の留守居として、庄屋の気概から林内は、5-6歳の孫娘「イネ」とともに家屋に残った。そして、官軍には客殿を使わせた。

「その客殿で幼子が官軍にお茶を点てて、誉められた、と聞いています」
 その幼子が、77歳の主の曽祖母だという。

 建物の内部はどんな様子だったのか。八畳・書院造は金に糸目をつけず、殿様の寝所のように豪華だった。そして囲炉裏があった。もう一間は30畳ほどの大広間で、ここにも囲炉裏があった。突き当りには寝具を収納する納戸があった。
 建物の造りは釘を一本も使っておらず、建物は精巧にできていた。軒先の葦は一本ずつ糸を通して組む。その上に、茅が3尺(約一メートル)の厚さで葺かれていた。昭和26年には屋根の吹き替え工事をしている。この時は、3軒分の茅の量を必要とした。それだけに雨漏りしない、長持ちする構造だった。

 林内はどんな人物か。楢葉町に学問所があった。かれは若い頃、馬に乗って、『仲』から廣野を通り、楢葉へと、毎日、塾に通っていた。徒歩だと3-4時間はかかる距離だという。林内が何年通ったのか、定かではないらしいが、副塾長までになったという。いまなお『仲』の敷地内には馬小屋が2か所あった。

 お茶をたてた、イネはどんな人物だったのか。70歳代で亡くなるまで、懐剣を入れて胸を張って歩く、毅然とした老婆だった。孫がそそうをすれば、「これで腹を切りなさい、と短剣を目の前に突き出す、怖い婆さんだった」という印象が残っているようだ。
 イネから聞かされた、戊辰戦争は「門前には官軍の警備兵が立っていた。かがり火が焚かれていた」という記憶がある、と現在の主が語る。

 庄屋『仲』の家柄を示す家宝がある。
 林内(りんない)よりも、2世代前くらいだ。主が江戸に上がり、松平定信(老中・白河藩主)にお目通りを許されて、掛け軸を一本貰った。それは蠣崎 波響(かきざき はきょう)の絵だった。
 波響は松前藩第12代藩主・松前資広の五男に生まれた、後世に名を遺す絵師である。

「田舎だから、表具師の手を入れていないし、虫食いになって網の目になっています。市史編纂委員がそれをみて、『本物ですよ。大切にしなさい』と話してくれたんですけどね。私は、こんな田舎の農民が老中のお偉い、松平定信にお目通りできるのかと、半信半疑なんです」と語る。だから、絵はそのままだという。

 定信は白河藩の農政改革に熱心な人物だった。天保の飢饉でも、餓死者が出なかったことで有名だ。農民との会話も積極的な人物だと思える。だがら『仲』の先祖が定信から、庄屋の功績などで、蠣崎 波響の絵をもらった可能性が高い。そう信じてもいいのではないだろうか。

 戊辰戦争の芸州(広島)藩が、この末次の豪農の客殿に宿泊した。この程度の情報でも、「陣構え」の情景が、私の脳裏には拡がってくる。歴史小説の描写文なら、原稿用紙30枚くらいの展開を書けるものだ。

 この先、芸州藩は広野、浪江、南相馬へと侵攻していく。フクシマ原発で立ち入れない地域だ。取材の壁は高く立ちはだかるだろう。

                                   【このシリーズは続く】

 

 
 

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